懐かしい昭和 Apex product

渡瀬恒彦さん
(1944年7月28日-2017年3月14日)
俳優・歌手・タレント。
身長174cm。
空手弐段。
島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち。
兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。
三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。
早稲田大学抹籍。
サラリーマン生活を経て、
1970年1月31日(土曜日)、
石井輝男監督の映画「殺し屋人別帳」の主役としてデビュー。
2017年3月14日23時18分、
胆嚢がんによる多臓器不全の為、
東京都内の病院で永眠。
72歳没。
宇津井健さん
(1931年10月24日-2014年3月14日)
俳優。
身長173cm。
東京府東京市深川区(現在の江東区)出身。
特技は乗馬、ナイフ製作。
千葉県立千葉高等学校卒業。
早稲田大学第一文学部演劇専修中退。
俳優座養成所(第4期生、同期には佐藤慶・中谷一郎・仲代達矢・佐藤允ら)を経て、新東宝に入社。
新東宝倒産後は大映に移籍、
大映倒産後はフリー。
大映在籍時からテレビドラマにも進出し、
以来60年近くに渡り第一線で活躍。
代表作は
『スーパージャイアンツ』シリーズ、
『ザ・ガードマン』、
『新幹線大爆破』、
『赤いシリーズ』、
『さすらい刑事旅情編』、
『信長 KING OF ZIPANGU』、
『渡る世間は鬼ばかり』等。
宝田明さん
(1934年4月29日-2022年3月14日)
映画俳優、タレント、声優、司会者。
身長183cm。
日本統治下朝鮮・咸鏡北道清津出身。
元妻は、
1959年の日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いた児島明子。
長女は、児島未散。
1953年、
東京都立豊島高等学校卒業後に
東宝ニューフェイス第6期生(同期に、佐原健二、河内桃子、藤木悠、岡田眞澄)として俳優生活をスタート。
同年、
映画『かくて自由の鐘は鳴る』でデビュー。
翌年、特撮映画『ゴジラ』で初主演。
2022年3月14日0時31分、
誤嚥性肺炎のため東京都内の病院で死去。
87歳没。
萬屋錦之介さん
(1932年11月20日-1997年3月10日)
歌舞伎役者、日本の時代劇・俳優。
前名は中村錦之助。
歌舞伎界から映画界に転じ、
当時を代表するスターとなり、
その後はテレビや舞台でも活躍。
身長162cm。
中村錦之助時代の屋号は播磨屋、
定紋は揚羽蝶で、
萬屋錦之介と改名してからの屋号は萬屋、
定紋は桐蝶。
愛称は錦ちゃん。
中村プロダクション代表(1968年 - 1982年)。
東映俳優クラブ組合委員長(1965年の約3か月間)。
満4歳になる直前に、
歌舞伎の初舞台を踏み、
以降39歳迄中村錦之助を名乗り、
1971年10月に小川家一門が屋号を播磨屋から「萬屋」に代えた1年後の1972年11月、
40歳を迎えた時に芸名を萬屋錦之介に改めました。
父は三代目中村時蔵。
伯父に初代中村吉右衛門、
叔父に十七代目中村勘三郎。
俳優の中村嘉葎雄は弟で、
五代目中村歌六、三代目中村又五郎、五代目中村時蔵、二代目中村錦之助、二代目中村獅童はそれぞれ甥。
母・ひなは、売れっ子だった赤坂芸者。
妻はいずれも女優の有馬稲子(初婚)、
淡路恵子(再婚)、
甲にしき(再々婚)。
長男で俳優の島英津夫と、
芸能人ではない次男は淡路の連れ子。
実子は淡路との間に三男の小川晃廣と四男の小川哲史。
石田太郎さん
(1944年3月16日-2013年9月21日)
男性俳優、声優、僧侶。
身長181cm、体重84kg。
特技は京都弁、柔道。
京都府京都市出身。
上智大学外国語学部イスパニア語学科中退。
浄土真宗本願寺派の僧侶でもあり、
石川県金沢市乗敬寺の住職も務めました。
父は俳優の石田茂樹。妻は女優の立花房子。
劇団雲、劇団昴所属時代から舞台だけではなくテレビドラマ・映画出演もこなしていました。
『新刑事コロンボ』等、
洋画吹き替えを中心に声優としても活躍。
アニメでは悪役・権力者役が多数。
笠智衆さん
(1904年5月13日-1993年3月16日)
俳優。
身長171cm。
熊本県玉名郡玉水村立花(現在の同県玉名市)出身。
1925年(大正14年)に松竹に入社し、
10年間程大部屋俳優として過ごした後、
小津安二郎監督に見いだされ、
彼の『大学よいとこ』で助演。
以降『晩春』『東京物語』等、
小津作品には欠かせない俳優に。
小津作品以外にも、
木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、
貴重なバイプレーヤーとして活躍。
一貫して日本の父親像を演じてきた日本を代表する老け役の1人。
永井秀明さん
(1921年10月27日-2002年3月16日)
俳優。
東京府大森区(現・東京都大田区)出身。
麦の会代表。
明治大学予科中退。
1939年、松竹に入社、本名で俳優デビュー。
1964年、永井秀明に改名。
翌年、松竹を退社し、フリー。
時代劇では悪役を多く演じました。
2002年3月16日に肝臓癌のため死去。
80歳没。
鳳啓助さん
(1923年3月16日-1994年8月8日)
俳優・漫才師。
大阪府大阪市出身。
父は剣戟俳優の梅林良雄。
3歳の時に祖父の劇団で子役デビュー。
1956年に自ら座付き作家を務めた「瀬川信子一座」の一員だった京唄子と出逢い、
漫才コンビ「唄子・啓助」を結成。
お馴染みの挨拶である「エーッ、鳳啓助でございます」をはじめ、
「ポテチン」「あら、言いそこ間違いよ」「君のことは忘れようにも思いだせない」等のギャグで人気を博します。
その後、唄子と結婚するも、1964年に離婚。
コンビとしての活動は続けて「唄啓劇団」を旗揚げ。
2度の結婚を経て「志織慶太」の名で脚本家としても活動。
俳優としても多数の映画に出演。
『唄子・啓助のおもろい夫婦』の司会や『お笑いスター誕生!!』に審査員としても出演(特に『おもろい夫婦』では唄子との丁々発止の言葉のやり取りが番組の名物に)。
1994年8月8日、
上顎洞癌のリンパ節転移により死去。
71歳没。
1946年3月16日、
この日、 片岡仁左衛門一家殺害事件が発生。
『片岡仁左衛門一家殺害事件』
1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件。
歌舞伎役者一家5人が住み込みの男に殺されました。
1946年3月16日、
東京都渋谷区千駄ヶ谷で歌舞伎役者・十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害されているのが見つかりました。
殺されたのは、
片岡仁左衛門(当時65歳)、
その妻で元日活女優の小町とし子(当時26歳)、
四男(当時2歳)、
女中2人(当時12歳と当時69歳)。
5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていました。
特にとし子は頭部をめった打ちに。
捜査線上に浮かんだのは、
殺害された女中(当時12歳)の兄・I(当時22歳)で、
事件直後から行方不明。
捜査本部はIを指名手配し、
3月30日に逃亡先の宮城県川渡温泉で逮捕。
捜査によって、
Iは仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていましたが、
戦後間もない当時の食料事情の悪さ等から配給米を不当に搾取され、
1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかった事と、
とし子との諍いや、
事件直前に仁左衛門がIを「座付き作家としてセンスがない」等と罵倒した事が犯行の動機になったと伝えられています。
又、
Iは薪を使った炊き出しをさせられていたのに対し、
夫妻は電気コンロを使って蓄えた米をたくさん食べていました。
更に事件前日にはこれ迄渡していた配給米をメリケン粉に変えるととし子から告げられた上、
夫妻と口論になって仁左衛門から「今夜原稿を書いたら出て行け!」と怒鳴られました。
そしてせっかく出した原稿も「これでも作家か!」と罵倒され、憤激を抱えたままIは床に就き、
その翌日の早朝便所に行った後、
薪割り用の斧につまずいた後で5人を殺害したといいます。
そしてIは台所にあった米とザラメを食べ、
国民服に着替えた上で家にあった現金580円を盗んで現場から逃走。
同じ様に冷遇を受けていた自身の妹まで殺害。
1947年10月22日、Iは無期懲役の判決を受けました。
求刑は死刑であり、
5人を残虐な手段で殺害しており、
責任能力が認められれば死刑相当の事件でした。
Iは1960年代に恩赦で釈放されたとされていますが、
詳細については不明。
(十二代目片岡仁左衛門)
栗原小巻さん
(1945年3月14日-)
女優。
身長163cm。
特技は、クラシック・バレエ。
父は劇作家の栗原一登、弟は演出家の加来英治。
東京都出身。
1963年、東京バレエ学校卒業。
俳優座養成所第15期、
(同期に、
赤座美代子、秋野太作、小野武彦、片岡五郎、
高橋長英、浜畑賢吉、前田吟、村井國夫、
河原崎次郎、太地喜和子、地井武男、夏八木勲、
林隆三、原田芳雄、竜崎勝 等)。
俳優、タレントの鈴木ヒロミツさん😁
ザ・モップスのボーカルとして芸能界入りされました。
夜明けの刑事や、明日の刑事などが印象に残っています☺️
1946年6月21日ー2007年3月14日(享年60)💨
今日は命日です😭合掌🛐

3月15日は歌手・女優 #安西マリア さんのご命日。1973年 エミー・ジャクソンのカバー曲「#涙の太陽」で歌手デビュー。女優としても『バーディー大作戦』『大江戸捜査網』などで活躍するも急逝。享年60。ご存命なら今年71歳でした。合掌。

🎤💑硝子坂💑✩🎤☆❤高田みづえ❤🎤
🎶🎤💕🎤🎶➤ https://youtu.be/Yi7-rEoR1-A
「硝子坂」は、島武実の作詞、宇崎竜童の作曲による歌である。1977年2月25日発売の木之内みどりのアルバム『硝子坂』のタイトル曲として発表された。また、1か月後の3月25日に高田みづえのデビューシングルとしても発表された。木之内バージョン(編曲:ラスト・ショウ、瀬尾一三)と高田バージョン(編曲:馬飼野康二)とはアレンジが大幅に異なる。高田みづえ版は、1977年3月25日にテイチクレコード(ユニオンレコードレーベル)からデビューシングルとして発売された。発売1か月半でオリコンTOP10入りを果たし、シングル売上は31万枚を突破した。
🎶🎤💞🎤🎶➤ https://youtu.be/OzYgGWTPdXk
🎤🌃グッド・ナイト・ベイビー🌃☆🎤☆🔱ザ・キングトーンズ🔱🎤
🎶🎤👶🎤🎶➤ https://youtu.be/0zHehjrYXLI
日本人のR&Bシンガーというと、その元祖として名前が登ってくるのは和田アキ子、柳ジョージ、上田正樹、シャネルズ (ラッツ&スター) などというミュージシャンかもしれない。しかし、自分の知る限り、その元祖はザ・キングトーンズである。年をとった人なら分かるだろうが、彼らが1968年に放った 「グッド・ナイト・ベイビー」 こそ、おそらくラジオ・テレビなどの公共の電波を通じて、日本人がいちばん早くキャッチした和製R&Bではなかったろうか。ザ・キングトーンズのグッド・ナイト・ベイビー。今までに耳にしたことがない曲調とリズム。でもパンチの効いた歌声大好きだった。今思えば、日本人にR&Bの良さをねじ込んだ、素晴らしい名曲。これ、今、がんがん流したら、洋楽に慣れた今の日本人の感覚にはぴったりかもね!
🎶🎤👶🎤🎶➤ https://youtu.be/W2Yeiyaipz4
3月14日は劇場版「#月光仮面」公開43周年。
桑原大輔・志穂美悦子・地井武男・原田大二郎各氏のほか『太陽戦隊サンバルカン』五代高之、『宇宙刑事シャリバン』降矢由美子両氏など。
残念ながらヒット作とはなりませんでした。
女優の竹井みどりさん😁
数多くの映画やドラマに出演されていますが、
熱中時代刑事編などが印象に残っています☺️
1959年3月14日生まれ😋
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
元外交官、タレントのオスマン・サンコンさん💨
 
笑っていいとも!のレギュラーを務めました😄
 
「1コン2コン・サンコン」がお決まりのフレーズでした😒
 
1949年3月11日生まれ💨
 
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
🎸🔥🌄青空のある限り🌅🔥★🎤★✝ザ・ワイルドワンズ✝🎸
🎵🎸🎤💖🎤🥁🎵➤ https://youtu.be/wAkxHlN3VzM
『青空のある限り』は、1967年9月5日に発売されたザ・ワイルドワンズの楽曲である。作詞は安井かずみ、作曲は加瀬邦彦である。ドラム担当の植田芳暁がソロで歌い、オリコンチャート72位のヒットとなった。12弦ギターにファズをかけるという斬新かつハードな曲調で、ロックの名アレンジとしても高く評価されている。1981年の再結成後は島のベース・リフから始まるアレンジにリニューアルされた。B面は「あの人」(岩谷時子 作詞、加瀬邦彦 作曲)。
🎵🎸🎤💘🎤🥁🎵➤ https://youtu.be/8_rygHpYFDk
俳優の船越英二さん😄
数多くの映画やドラマに出演されましたが、
熱中時代がとても記憶に残っています☺️
1923年3月17日ー2007年3月17日(享年84)💨
きょうはお誕生日&命日です😒
お疲れさまです
岡崎友紀さん✨✨
『ドゥー・ユー・リメンバー・ミー』
平成に『キタキマユ』さんの曲から
知ることになりました🎶
動画で岡崎さんの映像も見ました
いい曲ですね😊
懐かしき 昭和の
タバコ.ポスター
黄金時代!
トップスター女優は
タバコ宣伝ポスターに
登場してました❗
今では考えられない…びっくり😲⤴️
🎸❄💧悲しみは雪のように💧❄☆🎤☆👖🕶浜田省吾🕶👖🎸
🎵🎸❄🎤💧🎸🎵➤ https://youtu.be/Oy7fhdAWvpk
「悲しみは雪のように」は、浜田省吾のシングル曲。1981年に発表されたオリジナル・ヴァージョンと、1992年にドラマ主題歌としてリリースされたリメイクヴァージョンがある。1981年9月21日発売のアルバム『愛の世代の前に』に収録された後、翌1982年1月初の日本武道館公演に向けて、1981年11月21日にシングルカットされた。この当時はほとんどヒットしなかった。
🎵🎸❄🎤💧🎸🎵➤ https://youtu.be/JhJZON8LyVo
松尾嘉代さん
(1943年3月17日-)
女優。
東京市(現東京都)目黒区下目黒出身。
1970年代末から1990年代前半において、
サスペンス(2時間)ドラマに多数出演し、
「サスペンスの女王」と呼ばれて人気を獲得(得意とした演技は濃厚な官能シーンや悪女役等)。
初期は色気あるシーンを回避せず、
主演も務めた為、
「元祖2時間ドラマの女王」とも呼ばれていました。
大映が制作した、所謂「大映ドラマ」へも常連出演。
1991年から1992年にかけて、
50歳を目前にして3冊のヘアヌード写真集を出しています。
1998年以降は女優としての活動は途絶えており、
メディアへの露出もほとんど行っていない状態。
やり投げ日本記録保持者の溝口和洋さん。
1989年サンノゼ(米)、87m68cmで世界記録を2cm上回りましたが。
直後巻き尺を使って再計測が行われ、計測員が巻き尺をグイグイ引っ張ったことにより、記録は87m60cmに訂正されました。
まさかの計測員による不正により幻の世界記録となってしまいました😡
小池朝雄さん
(1931年3月18日-1985年3月23日)
俳優・声優・ナレーター。
代表作の一つである『刑事コロンボ』等、
洋画・海外ドラマの吹き替えを担当。
アニメ『あしたのジョー』のエンディングテーマ「ジョーの子守唄」では歌手を務めました。
東京府出身。
東京都立青山高等学校を経て、
1950年(昭和25年)に文学座付属演劇研究所に入所。
『崑崙山の人々』にて初舞台。
1963年(昭和38年)の文学座分裂の際には、
芥川比呂志、神山繁らと行動を共にし、
福田恆存が創立した現代演劇協会附属・劇団雲の創設に参画。
1975年(昭和50年)の雲の分裂時には芥川らと離れ、
福田が新たに結成した劇団昴に参加、
中心俳優の一人として活躍。
東映、日活等各社の映画やテレビドラマに数多く出演。
東映では、
石井輝男監督作の映画や『仁義なき戦い』シリーズの常連。
石井演出の『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969年)では悪の刺青師・辰蔵に扮し、
狂気や内面の屈折が描かれるような重い悪役だけではなく、
ひたすら冷酷に主人公サイドを迫害するだけの純粋な悪役も多数。
その一方で、
同年の千葉真一主演映画『日本暗殺秘録』では理不尽な融資打ち切りに遭う温厚な経営者や、
『仁義なき戦い 頂上作戦』で同窓会の最中に暗殺される中立派の組長、
テレビドラマ『野性の証明』では沈着冷静に捜査する刑事等、
善人・悪人と分け隔てなく演じています。
その名と演技について日本人の大多数が知る存在となったのは
『刑事コロンボ』の吹き替え以降。
声優としては、
洋画でピーター・フォーク、ジーン・ハックマン等を持ち役とし、
特に『刑事コロンボ』のコロンボ役は小池の当たり役に。
アニメでは『長靴をはいた猫』の魔王ルシファ、
『どうぶつ宝島』のシルバー船長等。
1985年(昭和60年)3月23日(土曜日)午前3時34分、
肺不全の為東京都中央区築地の国立がんセンターで死去。
54歳没。
山田康雄さん
(1932年9月10日-1995年3月19日)
俳優、声優、司会者。
身長167cm。
東京府東京市大森区(現:東京都大田区)南雪谷出身。
長男は演芸作家の山田浩康。
東京都立日比谷高等学校卒業、
早稲田大学第一文学部英文科中退。
劇団民藝、フリーを経て、テアトル・エコーに所属。
代表作に、
ルパン三世の声(初代)や、
クリント・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替え。
1995年3月19日午前6時35分死去。
62歳没。
月形龍之介さん
(1902年3月18日-1970年8月30日)
俳優。
剣道三段。
俳優の月形哲之介は息子。
戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、
阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれました。
戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、
伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』等の名作に主演。
戦後は渋みと風格のある脇役となり、
悪役も演じました。
戦後の当たり役は水戸光圀で、
14本のシリーズ作品が。
晩年はテレビドラマにも出演。
生涯に出演した映画は約500本以上。
服部正さん
(1908年3月17日-2008年8月2日)
作曲家。
日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めました。
同姓の服部良一やその息子の服部克久などとの縁戚関係は無し。
東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。
青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、
三井生命保険に入社したが40日で退社。
学生時代にはマンドリンクラブに所属。
1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。
その後、菅原明朗に師事。
1932年、帝国音楽学校講師。
1933年、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
1935年には初のオペラ『雁の渡る日』をNHKより発表。
1936年、
時事新報主催の音楽コンクールで三部作『旗』の一曲『西風に飜える旗』が二等入賞。
同年末に青年日本交響楽団を創設し、1946年迄指揮。
1939年、
東邦音楽学校(現在の東邦音楽大学)校歌『東邦の歌』制定時、在職教員であった植村敏夫が作詞を、服部が作曲を担当。
戦中から戦後にかけては
『次郎物語』や黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』等の映画音楽や放送音楽を担当。
1953年、国立音楽大学教授に就任。
1955年に作曲した青少年のための国民オペラ『手古奈』が人気を博し、
公式記録だけでも200回の上演記録を誇ります。
ラジオ体操第1の作曲者でもあり、
弟子には小林亜星ら。
1978年、紫綬褒章を受章。
1984年には勲四等旭日小綬章を受章。
2008年8月2日午前6時頃、
老衰の為、東京都渋谷区の自宅にて死去。
100歳没。
雪村いづみさん
(1937年3月20日-)
歌手、女優、画家。
一般社団法人日本歌手協会相談役。
愛称は本名から「トン子」「トンちゃん」。
東京府東京市目黒区大岡山(現在の東京都目黒区大岡山)に
商社員の朝比奈愛三とその妻千恵子の長女として誕生。
幼少期は戦時下においてもモダンな音楽に日常的に接して育ち、
1946年(昭和21年)、
9歳の時、当時通信社に勤務していた父・愛三が自殺。
1952年(昭和27年)には母・千恵子が経営していた東興映画が倒産し、生活が困窮。
高校に合格していましたが、
学費等が支払えなかったため入学を断念。
家計を助けるために中学卒業後まもなくして歌手を志し、
新橋のダンスホール「フロリダ」で無給ながら歌手活動を開始。
日劇の地下で進駐軍相手に歌うアルバイトもしていました。
同年5月には日劇ミュージックホールのレビュー『サンマー・スキャンダル』の煙草売りの少女役に合格、
7月には初舞台を踏みプロ歌手としてデビュー。
同年秋には日劇『秋のおどり』に出演。
1953年(昭和28年)4月、
テレサ・ブリュワーのカバー曲『想い出のワルツ』(原題:Till I Waltz Again with You)でビクターからレコードデビュー。
発売直後から話題となり、20万枚の大ヒットを記録。
戦後最短でスターとなったことから「世紀に一人のシンデレラ」とも呼ばれ、
その後も
『青いカナリヤ』(作詞・作曲:V.C. Fiorino、訳詞:井田誠一)、
『オウ・マイ・パパ』、
『はるかなる山の呼び声』、
『マンボ・イタリアノ』、
『チャチャチャは素晴らしい』などの曲をヒットさせて不動の人気を確立。
同年代の人気少女歌手である江利チエミ・美空ひばりと共に「三人娘」の一人として称されるように。
この3人が主演した1955年(昭和30年)公開の東宝映画『ジャンケン娘』は空前の大ヒットを記録。
以後、『ロマンス娘』、『大当り三色娘』、
少し期間を置いて『三人よれば』が製作。
映画初出演作は1953年12月公開の松竹系映画『青春三羽烏』。
1954年(昭和29年)には新東宝と専属契約し、
井上梅次監督の歌謡映画4作品に立て続けに主演。
同年12月には東宝へ移籍し、
1964年(昭和39年)迄に約60本の映画に出演。
いわゆる歌手の顔見せ出演に留まらず、
石坂洋次郎原作の『山と川のある町』や『青い山脈』などのドラマ性の高い作品で主演を務める一方、
当時の人気喜劇映画シリーズだった「社長シリーズ」や「三等重役シリーズ」には準レギュラーとして出演した他、
『嵐』『四十八歳の抵抗』といった文芸大作でも重要な役どころを演じており、女優としても高く評価されます。
可憐な容姿や初々しさ、
ポージングの的確さなどをイラストレーターの中原淳一に見出され、
ファッションモデルとしても活躍。
中原や森英恵デザインのファッションショーにも出演。
数多くの雑誌の表紙やグラビアを飾り、
1959年(昭和34年)頃には
「ロカビリー3人男」の一人として一世を風靡したミッキー・カーチスとの熱愛が話題を呼び、
婚約にまで至りましたが後に解消。
またこの年にはいづみの母親が作った借財が8500万円に及ぶことが発覚し、
以後約20年に渡って借金返済に苦しむ事に。
1959年に初渡米。
ダイナ・ショアの人気番組『The Dinah Shore Chevy Show』(NBCテレビ)に出演してシャーリー・マクレーンなどと共演、
芸能各紙から絶賛。 
1960年(昭和35年)には全米縦断公演「ホリデイ・イン・ジャパン」出演のため再渡米し、
ニューヨークのラテンクオーター劇場を皮切りに全米12都市を1年に渡り公演。
初演直後から評判を呼び、
翌1961年4月には『LIFE』誌にも紹介され、
日本人の芸能人として初めて表紙を飾りました。
1961年(昭和36年)、
アメリカ公演時に知り合ったテンプル大学の学生を日本へ連れ帰り電撃結婚。
長女・朝比奈マリアをもうけるも、
1966年(昭和41年)に離婚。
この年、三度目の渡米。
翌1967年(昭和42年)にはアメリカでバリトンサックス奏者の原田忠幸と再婚するも、後に離婚。
1970年代には劇団四季所属の飯野おさみとの同棲も話題を呼びましたが、
これも後に破局し、以後は独身。
1970年(昭和45年)に帰国し、
同年、『涙』で合歓ポピュラーフェスティバル(日本歌謡祭)'70でグランプリと第1回東京国際歌謡音楽祭(世界歌謡祭)で歌唱グランプリを受賞。
1972年(昭和47年)には『私は泣かない』で第1回東京音楽祭でグランプリを受賞。
1998年(平成10年)に紫綬褒章、
2004年にはレコード大賞「功労賞」を受賞。
2007年(平成19年)には旭日小綬章を受章。
デビューから60年以上を経てもなお意欲的に芸能活動を行っており、
2006年(平成18年)には映画『そうかも知れない』で32年ぶりに映画に主演し、
認知症の女性を演じました。
2010年(平成22年)7月1日付けで一般社団法人日本歌手協会の相談役に就任。
宮城まり子さん
(1927年3月21日-2020年3月21日)
歌手、女優、慈善活動家(福祉事業家)、映画監督。
勲等は瑞宝小綬章(旧勲四等)。
位階は従五位。
人気女優であり、
NHKの紅白歌合戦に8回も出場した人気歌手でありながら、
芸能活動を事実上やめ、
日本初の民間社会福祉施設である社会福祉法人ねむの木福祉会の理事長、
静岡県掛川市にある学校法人ねむの木学園の理事長、ねむの木養護学校の校長、特別支援学校ねむの木の校長等を歴任。
上皇明仁・上皇后美智子とは
皇太子・皇太子妃時代から40年の親交があり、
両者は度々ねむの木学園やねむの木学園の美術展を訪問して宮城まり子と対面し、非常に懇意でした。
横山エンタツさん
(1896年4月22日-1971年3月21日)
大正・昭和期の漫才師・俳優。
兵庫県有馬郡三田町横山出身。
次男は、花紀京。
花菱アチャコとのコンビ(横山エンタツ・花菱アチャコ)によって、
それまでの「萬歳」に代わる現在の(全国的に流布)「しゃべくり漫才」のスタイルを発明し、
今につながる漫才の形式の基礎を作りました。
漫才作家秋田實のよき相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献。
「横山」の亭号を名乗る漫才師一門はエンタツを始祖とし、
横山ノックらは弟子。
吉本新喜劇初期の出演者。
犬塚弘さん
(1929年3月23日-2023年10月26日)
俳優、ベーシスト。
身長179cm。
コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」で最後迄存命だった人物で、
昭和・平成・令和時代と3代に渡って存命した唯一のメンバー。
東京府荏原郡大森町(現・東京都大田区大森)生まれ。
生家は代々の裁判官の家系であり、
江戸っ子の16代目にあたるといいます。
又、
元は徳川家康と共に三河から江戸へ出てきた直参の旗本の家柄で、
祖父の代まで十数代にわたり現在の第一ホテル東京本館の一帯に居を構えていた大地主だったとも。
父・登(1894〜1983)が貿易商で海外勤務が多かった事から
ジャズやハワイアンのレコードに親しみ、
音楽への興味を育まれます。
暁星中学校、陸軍飛行学校を経て、
1949年、文化学院社会学部を卒業。
貿易業をしていた父親の友人であるアメリカ人の紹介で、
当時進駐軍の統計調査をしていたIBMに入社するも、
その紹介者が帰国した直後、2年で退社。
IBM退社後、
1951年、 
兄が作ったハワイアンバンドグリーン・グラス・キャップ・ボーイズに参加。
この時、ベースを受け持ち、
真面目な性格故、
日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に基礎から個人レッスンを受けました。
1952年、
シックス・レモンズの与田輝雄の誘いで萩原哲晶とデューク・オクテットに参加。
モダンジャズを演奏するように。
しかし当時のジャズのしかつめらしさになじめないものを感じ、
その頃楽屋にたびたび遊びに来ていたハナ肇の誘いで
クレージーキャッツの前身である「ハナ肇とキューバン・キャッツ」の結成に参加(1955年4月1日)。
ウッドベースを担当。
その後、
クレージーの一員としてテレビや映画などに出演する一方、
植木等、ハナ肇、谷啓に次ぐ『第4の男』として大映などで主演作も撮られました。
しかし、
「基本的にドタバタが好きじゃない」と話し、
1970年以降、喜劇以外への出演が多くなり、
宇野重吉、木村光一等から演劇を教わっていくにつれ演劇に没頭。
当時の事務所である渡辺プロダクションから移籍。1986年に渡辺プロを退社。
渡辺プロ創立50周年の記念パーティーには、
植木等の強い誘いもあって出席。
『シャボン玉ホリデー』のエンディングで
『スターダスト』のギターを弾く男のシルエットは本人。
メソッド演技で挑んだ『馬鹿が戦車でやって来る』の兵六が火の見櫓に登る場面や兵六のセルフパロディである高い場所が好きな『クレージー大作戦』の陣十郎(ジンベス)がロープ一本で宙吊りされる場面、
『クレージーのぶちゃむくれ大発見』の私立探偵=犬丸が遊園地観覧車の梯子に登るスタント等を自ら演じています。
2012年11月、
ピアニストの桜井センリが他界した事により、
クレージーキャッツのメンバーで最後の存命者に。
ミュージシャンとしてだけでなく、俳優としても地位を確立して大ベテランと言われる年齢を超えても活動していましたが、
2015年頃に妻が亡くなり、
自身も90歳を迎えて脊柱管狭窄症等を患った影響で体が思うように動かなくなったとして
2020年公開の映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(大林宣彦監督)を最後に俳優を引退する意思を明らかに。
なお、
2019年当時は静岡県熱海市のシニアマンションにて隠居生活を送っていました。
2023年10月27日、
静岡県熱海市内の病院で亡くなった事が報道されました。
これにより、
クレージーキャッツのメンバー全員がこの世を去りました。
同年、第65回日本レコード大賞特別功労賞を受賞。

若いね~

黒澤明さん
(1910年3月23日-1998年9月6日)
映画監督・脚本家・映画プロデューサー。
身長182cm。
東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区東大井)出身。
位階は従三位。
第二次世界大戦後の日本映画を代表する監督であり、
国際的にも有名で影響力のある監督の一人とみなされています。
ダイナミックな映像表現、
劇的な物語構成、
ヒューマニズムを基調とした主題で知られ、
生涯で30本の監督作品を発表。
その内16本で俳優の三船敏郎とコンビを組みました。
青年時代は画家を志望していましたが、
1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、
山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めた後、
1943年に『姿三四郎』で監督デビュー。
『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目された後、
『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、
日本映画が国際的に認知されるきっかけを作りました。
その後
『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)等が高い評価を受け、
海外では黒澤作品のリメイクが作られました。
1960年代後半に日本映画産業が斜陽化する中、
ハリウッドに進出するも失敗し、
その後は日本国内で製作資金を調達するのが難しくなり、
海外資本で
『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、
国内外で多くの映画賞を受けました。
1985年に映画人初の文化勲章を受章し、
1990年にはアカデミー名誉賞を受賞。
没後に、
映画監督として初の国民栄誉賞が贈られました。
[監督作品]
※印はプロデューサーを兼任した作品。
・姿三四郎(1943年)
・一番美しく(1944年)
・續姿三四郎(1945年)
・虎の尾を踏む男達(1945年製作、1952年公開)
・わが青春に悔なし(1946年)
・素晴らしき日曜日(1947年)
・醉いどれ天使(1948年)
・静かなる決闘(1949年)
・野良犬(1949年)
・醜聞(1950年)
・羅生門(1950年)
・白痴(1951年)
・生きる(1952年)
・七人の侍(1954年)
・生きものの記録(1955年)
・蜘蛛巣城(1957年)※
・どん底(1957年)※
・隠し砦の三悪人(1958年)※
・悪い奴ほどよく眠る(1960年)※
・用心棒(1961年)
・椿三十郎(1962年)
・天国と地獄(1963年)
・赤ひげ(1965年)
・どですかでん(1970年)※
・デルス・ウザーラ(1975年)
・影武者(1980年)※
・乱(1985年)
・夢(1990年)
・八月の狂詩曲(1991年)
・まあだだよ(1993年)
女優の梶芽衣子さん😁
野良猫ロックシリーズなどが代表作ですが、自分は
ポニーテールはふり向かないなどの大映テレビのドラマが
印象に残っています☺️
1947年3月24日生まれ😄
お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
国際救助隊サンダーバード(NHK1966~67年)
マリオット人形劇と火薬を使ったリアルな救助メカの模型が当時未来への憧れを掻き立てられて大人気でした❗
1966年のテレビ放映の第1話は「SOS原子力旅客機」2号のコンテナから高速エレベーターカーが走り出し救助活動がスタートしました。
(画像は自作イラストです)
三ツ矢歌子さん
(1936年8月1日−2004年3月24日)
大阪府堺市東区出身の女優。
夫は小野田嘉幹。
平田昭彦は義弟(夫の実弟)、
音羽美子は義妹(夫の妹)、
久我美子は義妹(義弟の妻)。
プール学院高等学校卒業。
学生時代の同級生には坂本スミ子。
1955年、
学生時代の女友達が内緒で新東宝の新人募集に応募書類を送ったところ、合格。
第4期スターレットとして入社(同期は北沢典子、原知佐子、万里昌代、朝倉彩子等)。
1956年の『君ひとすじに』で銀幕デビューを果たし、
池内淳子、久保菜穂子と「新東宝現代劇の女優三羽烏」と呼ばれ、
1961年の倒産まで出演を続けました。
1960年に小野田と結婚。
二男をもうけます。
テレビドラマへと活動の場を移すと、
出演した昼ドラマが必ず2桁の視聴率を獲得した事から「昼メロの女王」と呼ばれました。
2004年3月24日、
間質性肺炎のため都内の病院で死去。
67歳没。
復刻版だけど懐かしいから買いました。
デカいのは、まんだらけで9万もしたかな
本物はウン十万もしますね

1969年と2024年の世界初のスーパーバイクバージョン。 (ホンダ・CB750)

京マチ子さん
(1924年3月25日-2019年5月12日)
女優。
大阪府大阪市出身。
1936年(昭和11年)に大阪松竹少女歌劇団(OSSK)に入団、
娘役スターとして戦時中に活躍。
1949年(昭和24年)に大映に入社、女優デビュー。
後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として活躍。
160cmと当時としては大柄であり、
官能的な肉体美を武器に数々の名作に出演。
溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年)、
黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、
衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)等、
海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれます。
1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台を中心に移し、活躍の幅を広げました。
大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もありましたが、
生涯独身。
1965年(昭和40年)には、
日本で初めての「億ション」、コープオリンピア(東京・表参道)を購入して話題に。
月丘夢路とは映画『華麗なる一族』、
ドラマ『犬神家の一族』等で共演し、
共に家庭内の壮絶な抗争に執念を燃やす中年女性の狂気を熱演。
1976年12月公開の『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』でマドンナ柳生綾を演じ、
マドンナの中では唯一渥美清より年上。
2000年(平成12年)に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の3位、
同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第7位。
80歳を過ぎた2006年(平成18年)の舞台まで活動を続けましたが、その後は引退状態でした。
2019年(令和元年)5月12日午後0時18分、
心不全のため東京都内の病院で死去。
95歳。
女優の坂口良子さん💨
サインはVや前略おふくろ様、池中玄太80キロなどが印象に残っています☺️
1955年10月23日ー2013年3月27日(享年57)💨
今日は命日です😭合掌🛐
安部徹さん
(1917年3月28日-1993年7月18日)
俳優。
日活アクション映画や東映仁侠・ヤクザ映画等数多くの作品で悪役を演じ、
戦後日本映画史に残る悪玉役者として知られます。
戦前に新興キネマでデビューしており、
若手時代は二枚目俳優として活躍。
妻は女優・声優の北原文枝だが入籍はしておらず。
福岡県宗像郡東郷町(現在の宗像市)に、
教師で糟屋郡志免町の青年学校長を務めていた父・大作と母・千代の4人兄弟の四男として誕生。
3人の兄はいずれも戦死。
上京して府立四中(現在の都立戸山高校、浜口庫之助と同級生)を修了後、
東京商科大学予科に進むも、
酔っ払って西武線を止めて退学処分に。
その後、
東京水産講習所(現在の東京海洋大学)漁撈科に入るも、
サラリーマンになるのが嫌で、
中退して映画俳優を志します。
1939年(昭和14年)、
新興キネマ東京撮影所に入社、
山路ふみ子主演の『結婚問答』で映画デビュー。
1944年(昭和19年)には松竹大船撮影所に転じ、安部徹と改名。
吉村公三郎監督の『決戦』に主演し堅実な演技を見せます。
戦後も木暮実千代の復帰第1回作『許された一夜』に木暮の相手役で主演したのを始め、
木下惠介監督の『肖像』などに脇役で出演。
1951年(昭和26年)からフリー。
1954年(昭和29年)からは同年に映画製作を再開した日活映画に多数出演。
初期の文芸映画でも助演として出演、
後の石原裕次郎や小林旭ら主演によるアクション映画で悪役を演じ、
欠かせない存在に。
1960年代からは東映任侠映画でも活躍し、
『網走番外地』シリーズや『明治侠客伝 三代目襲名』等で悪役を演じ続け、
悪役は凶暴な野獣性、陰湿な策謀性の両面にわたって多彩であり、
その風貌と体格を活かして、
任侠映画やアクション映画以外に戦争映画、時代劇、ギャング映画等様々なジャンルの作品に凄味のある役柄で出演。
1993年(平成5年)7月18日午前1時58分、
胆嚢癌のため東京都港区の病院で死去、76歳没。
藤巻潤さん
(1936年3月28日-)
俳優・歌手。
身長177cm。
東京府東京市日本橋(現・東京都中央区日本橋)出身。
極真カラテ弐段。
息子は俳優の藤巻裕己。
姉は大山智弥子。
明治学院大学文学部英文科中退。
劇団俳優座の養成所を経て、
第11期ニューフェイスとして大映に入社。
川口浩や本郷功次郎に続くスターと期待され、
端整な顔立ちと日本人離れした肉体美をセールスポイントに活躍。
大映テレビ室が制作したテレビドラマ『ザ・ガードマン』で人気を獲得。
1975年の映画『けんか空手 極真無頼拳』では極真カラテを修行した経験を活かし、
同じく極真カラテの黒帯である千葉真一が扮する大山倍達と戦う空手家を演じています。
アクションができたことから殺陣の代役も多く務めました。
テレビ時代劇の『鬼平犯科帳』には、
萬屋錦之介版と中村吉右衛門版の両方にレギュラー出演。
1982年、「鬼平犯科帳」第3シーズン撮影中に、
番組制作を担っていた中村プロダクション(社長は萬屋錦之介)が倒産し、
出演俳優への総額1億円を超える出演料が未払いとなる事態に。
多数の俳優が債権者として名を連ね、
番組を途中降板する出演者もありましたが、
「『鬼平犯科帳』を3シリーズもやらせていただいて、
ある意味で芝居の勉強をさせていただきました。
それがギャラの代わりになるとは思えないけど、
教わったことも多いので」
と述べ、債権者には加わらず、出演を続けました。
沖田浩之さん
(1963年1月7日-1999年3月27日)
元アイドル、俳優。
愛称はヒロくん。
身長175cm。
神奈川県川崎市出身。
神奈川県立川崎北高等学校卒業、
青山学院大学経済学部経済学科中退。
ティーン少女向け雑誌「プチセブン」が
沖田の特集記事を掲載したのがきっかけで、
購読層である女子ファンが急増。
1980年、高校3年生の5月で竹の子族をやめ、
大学進学のため受験勉強を始める一方、
多くの芸能プロダクションからスカウトを受け、
スターダストプロモーションに所属。
TBS系列のテレビドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズのオーディションに合格し、
ツッパリの松浦悟役で出演。
1981年、
シングル「E気持(イーきもち)」で歌手デビュー、
オリコンチャート最高位8位、実売40万枚のヒット。
1999年3月27日に自宅で首吊り自殺を図り死去、36歳没。
その理由は不明。
宮本信子さん
(1945年3月27日-)
女優、歌手。
身長157cm。
北海道小樽市生まれ、愛知県名古屋市育ち。
愛知淑徳高等学校卒業。
夫は伊丹十三。
長男は池内万作。
俳優の佐々木勝彦は再従兄(父が佐々木の父である俳優の千秋実と従兄弟)。
1963年、
高校卒業後、文学座附属演劇研究所に入所]。
1964年、
木村功が中心メンバーの劇団青俳に入団後にフリー。
NHKドラマ「あしたの家族」(1965年 - 1967年)で共演した俳優・伊丹十三と交際に発展、
1969年1月に結婚。
子どもが3歳頃よりおおよそ2年間、
毎日自作の物語を作って聞かせていました。
子育てが一段落した1984年に夫の伊丹が監督した映画『お葬式』に主演してブレイク。
以降の伊丹十三監督映画に全て出演、作品ごとに多彩で多様なキャラクターを演じ、
国内の映画賞を多数受賞。
伊丹は
「妻はいい女優なのに、なかなか主役の話が来ない。
ならば彼女を主役にした映画を自分で撮ってしまえば良い」と、
「お葬式」に起用したと述べています。
1997年の伊丹との死別を機にジャズシンガーとしての活動を開始。
2005年2月にライヴ・アルバム『Jazz in Tokyo Live@Toranomon Nobuko Miyamoto』をリリース。
伊丹の自殺以降は映画への出演を控えていましたが(「映画館に入るのも恐くなった」といいます)、
2007年に『眉山-びざん-』で実に10年ぶりの映画再出演。
2011年、
『阪急電車 片道15分の奇跡』で第36回報知映画賞助演女優賞を受賞。
2014年紫綬褒章受章。
2022年、秋の叙勲により旭日小綬章を受章。
片岡千恵蔵さん
(1903年3月30日-1983年3月31日)
俳優。
群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市)出身。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、
同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに
「時代劇六大スタア」と呼ばれました(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合も)。
出演作品は300本を超えます。
戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、
稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出し、
戦後は東映の重役スターとなり、
亡くなるまで第一線のスターで在り続けました。
終戦直後のGHQ占領時代には、
金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、
両シリーズはその後も長く続き、
当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎等。
長男の植木基晴(「千恵蔵二世」と呼ばれました)、
娘の植木千恵は子役で、
東映時代の千恵蔵と共演しましたが、その後引退。
三男の植木義晴は日本航空の元操縦士で、
同社の専務執行役員を経て、代表取締役社長に就任。
四男国晴ともに一般人。
笠置シヅ子さん
(1914年8月25日-1985年3月30日)
歌手、女優。
香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)出身。
戦前から戦後にかけて活躍し、
特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡。
躍動感に乏しい楽曲と、
直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、
黒人音楽の影響を受けた躍動感のあるリズムの楽曲と、
派手なダンスパフォーマンスを導入した事で革命的な存在に。
日本の戦後歌謡曲の原点でありながら、
時代に左右されない明るい魅力を持つ笠置の楽曲は、
今日に至る迄たびたびカバーされ、
日本のポップスやJ-POPに多大な影響を与え続けています。
「東京ブギウギ」(1947年)、
「買物ブギー」(1950年)等、
数多くのヒット曲を持ちます。
今井健二さん
(1932年3月31日-)
俳優。
身長170cm。
神奈川県鎌倉市出身。
明治大学卒業。

1955年、
知人の勧めで、
東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。
同期には高倉健、五味龍太郎、丘さとみ等。
『野郎ども表へ出ろ』に出演して俳優デビュー。
大部屋俳優としての役柄を経て、
『吠えろ岸壁』への出演後、
『皮ジャン・ブルース』ではより大きな役を与えられました。
1962年に東映を退社して以降はフリーランス。
もともとは二枚目のスター候補であり、
温厚な青年なども演じていましたが、
『続・女番外地』出演して以降は悪役をメインに演じるように。
その後は
『現代任侠史』、『仁義なき戦い 頂上作戦』や
『冬の華』等のヤクザ映画、
『必殺シリーズ』などのテレビ時代劇、
『大都会シリーズ』、『西部警察シリーズ』、『太陽にほえろ!』等の刑事ドラマ、
特撮等様々なジャンルの作品で悪役としての個性を発揮。
1990年代後半以降は主に時代劇の舞台公演等で活躍。
趣味は釣りで、
1983年に釣りの入門書『魚が勝手に食いつく本』(祥伝社ノン・ブック)を著。
金田龍之介さん
(1928年6月15日-2009年3月31日)
俳優。
愛称は「金龍」。
三男は俳優の金田拓三。

東京府東京市本所区本所松坂町(現在の東京都墨田区両国二丁目、三丁目辺り)出生。
幼少の頃に大阪市都島区に移住。
1933年、
大阪天満八千代座にて子役として初舞台。
1946年大阪市立都島工業学校機械科卒業。
1949年、
旧制大阪市立都島工業専門学校卒業。
卒業後は会社に勤めながら劇団青猫座にて演劇活動を行い、
関西演劇界を担う若手俳優の一人で、
子役時代からのキャリアを持ち、
20代で既にベテラン俳優として、
開局間もない在阪各局のテレビドラマにも活躍の場を拡げて出演し、
帰阪の度に、各界の旧友たちとの交流を続けました。
谷崎潤一郎原作の『法成寺物語』が好評であった事から松竹の重役に声をかけられ、
1956年に上京し、
新派に入団して伊志井寛に師事。
1972年4月明治座の舞台では、
体調不良の為休演気味の師匠伊志井寛の代役も務めました。
東芝日曜劇場への出演をきっかけに、
勝新太郎に重用され、映画やテレビドラマに出演。
身長170cmながら体重98kgという巨漢。
おもに時代劇での悪役で名を馳せましたが、
現代劇での気のいい父親役も自在にこなしました。
中でも『子連れ狼』での阿部頼母は「時代劇史上傑出した悪役キャラ」として、
今なお評価が高いです。
1970年に第10回日本放送作家協会男性演技者賞、
2001年に文化庁長官賞、
2004年に第25回松尾芸能賞優秀賞を受賞。
スーパー歌舞伎の常連であり、
2008年の3月から6月まで『ヤマトタケル』に出演。
最後に出演した舞台は8月の『新水滸伝』。
足の爪を切った時に深づめした事で雑菌が入り化膿(蜂窩織炎)。
歩行も困難になった為3月26日に入院。
27日の段階では元気でしたが容態が急変し(敗血症)、
その4日後の2009年3月31日午前2時13分、
腎不全の為、埼玉県草加市の病院で死去。
80歳没。
中丸忠雄さん
(1933年3月31日-2009年4月23日)
俳優。

1955年、東宝ニューフェイスに合格して入社。
同年、『ゴジラの逆襲』などに端役で出演し、
1957年の『別れの茶摘歌姉妹編 お姉さんと呼んだ人』(本多猪四郎監督)で本格デビュー。
1959年、
岡本喜八監督の『独立愚連隊』で注目を浴び、
以降岡本作品には多くキャスティング。
渋く響く低音の声と精悍な容貌を活かし、
敵役・軍人役で持ち味を発揮。
渋く響く低音の声と精悍な容貌を活かし、
その後はテレビドラマと舞台に主軸を置きました。
『キイハンター』等の人気作品にも出演を果たし、
時代劇では家老役、
刑事ドラマでは高圧的ながらも人間味のある上官役を多く演じました。
2006年放映のテレビ東京系『ザ・決断!あの一瞬』に出演以降、芸能活動から遠ざかります。
2009年4月23日、
胸部動脈瘤破裂のため順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。
76歳没。
横井庄一さん
(1915年3月31日-1997年9月22日)
陸軍軍人、評論家。
愛知県海部郡佐織村(現在の愛西市)出身。

最終階級は陸軍軍曹(歩兵第38連隊)、栄典は勲七等青色桐葉章。
大東亜戦争終結から28年目、
アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られます。
浅茅陽子さん
(1951年4月2日-)
女優。
静岡県清水市(現静岡市清水区)生まれ。
身長160cm。
趣味はビーズアクセサリー作り。
桐朋学園短期大学部欧米文化コース卒業。

大学を卒業して文化服装学院に通っていた時、
大学の先輩だった山本亘にスカウトされ、
1974年に『かあさんの明日』(CX)でデビュー。

1976年、
『雲のじゅうたん』 のヒロイン・飛行家を目指す小野間真琴役で
伸びやかな女性像を演じて全国的な人気を獲得(劇中では東北弁を使う役だったため、「ヘバちゃん」の愛称で親しまれました)。

1977年、エランドール新人賞受賞。

1988年からは『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)にて、
め組の辰五郎の妻・おさい役(2代目)でレギュラー出演。

1986年から「黄金の味」のCMキャラクターに起用され、
生活感溢れる主婦役が好評を博し、
翌年の続編が全日本CMフェスティバルテレビCM部門優秀賞を受賞。
エバラ食品工業のCMの顔となり、
1991年には『エバラ家の人々』として映画化されるほどの代表作となりましたが、
1992年春頃から雑誌などで動物愛護を理由とするベジタリアンであることを公表し始め、
同時期に出演したテレビ番組でも同様の発言をした影響影響から、全てのCMを降板。
三船敏郎さん
(1920年4月1日-1997年12月24日)
俳優・映画監督・映画プロデューサー。
身長175cm。
膠州湾租借地(現・中国山東省青島市)出身。
旧陸軍上等兵。

第二次世界大戦後の日本映画を代表する名優の一人で、
黒澤明監督作品への出演で知られます。
国際的にも知名度が高く、
1960年代以降は日本国外の映画にも出演。
1961年と1965年にはヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞。

妻は、
吉峰幸子(昭和21年東宝ニューフェイス第1期としてデビューした女優)。
長男は、
三船史郎(俳優、三船プロダクション社長)。
孫は、
三船力也(三船プロダクション所属俳優)。
毒蝮三太夫さん
(1936年3月31日- )
俳優、タレント、ラジオパーソナリティ。
身長170cm。
東京都立大森高等学校卒業、
日本大学芸術学部映画学科卒業。

大阪市住吉区出身。
生後3カ月で東京市荏原区中延(現在の東京都品川区中延)に転居。
第二次世界大戦中は、
神奈川県横浜市戸塚区の親戚宅に縁故疎開。
1945年から1950年迄東京の浅草竜泉寺で育ち、
1948年、
台東区立下谷中学校1年の時、
友人と共に『鐘の鳴る丘』の舞台のオーディションに行ったところ、
台詞の読みの闊達さを買われて自分だけが採用され、
本名で子役デビュー、戦災孤児を演じました。

1966年には『ウルトラマン』に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演、子どもたちの人気者に。
引き続き翌年の1967年に制作、放送された『ウルトラセブン』でもほぼ同様の役柄であるウルトラ警備隊のフルハシ隊員として出演。

江戸弁の要素がみられる話し方が特徴的で、
1969年から開始した『ミュージックプレゼント』(TBSラジオ)の中継先レポーターとして長年活躍し、
聴衆一人一人に語りかける際の愛のある悪口が人気を呼び、長寿番組に。
関東地方では高い知名度を誇るラジオスターの一人。
聖徳大学短期大学部客員教授も務めます。

2021年4月21日からYouTuberとしても活動を開始。
舘ひろしさん
(1950年3月31日-)
俳優、シンガーソングライター、タレント。
身長180 cm・体重68 kg。
愛知県名古屋市中区老松町出身。

名古屋市立新栄小学校、
名古屋市立白山中学校、
愛知県立千種高等学校、
千葉工業大学工学部建築学科卒業(中退、入学から51年を経て卒業証書を授与)。

上京し、
東京・原宿でオートバイチーム「COOLS」を結成。

1975年、
バイクチーム「クールス」からの選抜メンバーで結成されたロックバンド「クールス」のボーカルとして
『紫のハイウェイ』(矢沢永吉(五大洋光)作曲)でデビュー。

又、
当時の東映社長・岡田茂に誘われ東映に籍を置き、
『東映俳優センター』に所属、
俳優としてのキャリアもスタート。
1976年、
映画『暴力教室』で銀幕デビューを果たし、
バイクを乗り回す不良生徒役で、
主演で教師役の松田優作と殴り合う姿は鮮烈な印象を残しました。
同年『男組 少年刑務所』で映画初主演。
1978年には『皮ジャン反抗族』(長谷部安春監督)、
1980年『薔薇の標的』(村川透監督)と東映で計3本の主演映画が製作。
又、『新・女囚さそり 特殊房X』では、
後年を通じても珍しい、完全な悪役(刑務所に新任のエリート課長。全く内面や心情の描写がなく残虐に徹する)も経験。
1978年10月7日公開の角川映画、
『野生の証明』には、
大場一成(演、三國連太郎)の息子、大場成明役として、参加。

テレビドラマに初出演した『西部警察』(テレビ朝日)シリーズでの登場をきっかけに渡哲也と出会い、
最初は、
ハーレーダビッドソンを駆使する無頼漢的キャラクターの巽総太郎刑事(愛称「タツ」)役で登場、
番組初回から半年間の出演契約となっていた為に、
半年後の第30話で西部署で最初の殉職刑事となり一旦降板。

そして1981年、
第109話「西部最前線の攻防(前編)」から、
先に殉職した巽刑事役とは別人の鳩村英次刑事役(愛称「ハト」)で再登場。
この間の1983年、
自ら志願して石原プロモーションへ入社し、
『西部警察 PART-III』の最終回迄出演。

『西部警察』シリーズ終了後のテレビドラマでは
『あぶない刑事』(日本テレビ)シリーズでは、
クライマックスシーンでハーレーなど大型バイクに乗りショットガンを構える姿が「十八番」となっており、
相棒役の柴田恭兵とともに還暦以降も激しいアクションを披露。
ドラマでの役柄は刑事役が圧倒的に多かったですが、
近年は時代劇やコミカルな現代劇にも多数出演する様になり、役柄の幅を拡げています。

1995年から1997年には、
全日本F3000とフォーミュラ・ニッポンに参戦していた「NAVI CONNECTION Racing Team」の監督を務め、
2007年放送の『パパとムスメの7日間』(TBSテレビ)で、
新垣結衣扮する娘と体が入れ替わる父親役を演じました。
2011年3月28日、
石原プロモーション取締役を辞任。
マネジメント契約はその後も継続。
2018年、
古巣である東映の黒澤満プロデューサーに薦められ主演した『終わった人』で
第42回モントリオール世界映画祭ワールド・コンペティション部門最優秀男優賞を受賞。
2018年9月20日、
ラグビーワールドカップ2019 日本大会の”PRキャプテン”に任命(同Twitterアカウント開設)。
2019年ワールドカップ本大会前に、
情報番組『アナザースカイⅡ『(日本テレビ)のロケで、ニュージーランドを訪門。

2020年、旭日小綬章受章。

2021年1月16日、石原プロモーションが解散。
3月17日、新たに芸能事務所を設立。
ザ・ピーナッツ (The Peanuts) 
日本の双子の元女性歌手(デュオ)、女優。
愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ、
同県名古屋市育ち。
略称「ピーナッツ」。

発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上。

姉:伊藤エミ(1941年4月1日-2012年6月15日、享年71)。
妹:伊藤ユミ(1941年4月1日-2016年5月18日、享年75)。
坂上二郎さん
(1934年4月16日-2011年3月10日)
コメディアン、俳優、歌手。
身長160cm。
鹿児島県鹿児島市出身。
通称「二郎さん」。

2歳のとき家族で満州国に渡り、
同国の首都の新京と当時は中華民国の支配下にあった北京で育ち、
小学校1年生のとき鹿児島に戻ります。

鹿児島市立清水中学校を卒業後、
鹿児島市内の百貨店・丸屋呉服店に勤務。
1953年、
『のど自慢素人演芸会』で鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。
様々な職業を経て青木光一の付き人や島倉千代子の専属司会者を経て、
獅子てんや・瀬戸わんや門下となり、
漫才コンビ「内藤ロック・安藤ロール」を結成。
解散後、
「安藤ロール」の名のままストリップ劇場・「浅草フランス座」のコメディアンとなり、
阿部昇二に師事。
幕間コントで萩本欽一と共演。

お笑いコンビ「コント55号」を結成し、
ボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売りました。
「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集めます。

1972年頃より役者としても活動し、
1976年にコンビとしての活動中断以降は本格的に出演(相方の萩本は舞台やバラエティーを中心に出演)。
『夜明けの刑事』で連続テレビドラマ初主演。

歌手としても活動し、
1974年に『学校の先生』が約30万枚を売り上げてヒット。

2011年3月10日午前9時40分、
脳梗塞のため栃木県那須塩原市の病院で死去。
76歳没。
有馬稲子さん
(1932年4月3日-)
女優。
大阪府豊能郡池田町(現:池田市)出身。
愛称は「ネコちゃん」「おイネ」。

4歳の時、釜山にいる父の姉の養女に。
養母(伯母)の中西かねは
1916年から1926年にかけて「有馬稻子」の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり、
退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていて、養母から踊りを習います。
釜山公立高等女学校に入学するも、
間もなく終戦を迎え、
伯母の手配で引き揚げ船に乗り、下関に帰国。
当初は引き揚げ船で知り合った人物の世話になり、
小倉で1か月滞在するも、
大阪に実の両親が彼女の生存を知り、
再会を果たしますが、
実父に虐待を受けたり弟妹たちとの関係が上手くいかなかった為、
自殺を考える時期もあり、
1945年秋、大阪府立夕陽丘高等女学校に編入。

1948年、
仲の良い友人が声をかけてくれた事がきっかけとなり、宝塚音楽学校に入学。
養母が宝塚歌劇団にいた事は、
入学後に当人から知らされたといいます。
1949年、
宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に入団、
二代目有馬稲子を襲名。
この芸名は百人一首の大弐三位の
「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来。
宝塚入団時の成績は63人中9位。
在団期間は短かったですが、主演娘役として活躍。
在団中の1951年、
東宝『寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビュー。
同年7月、映画『せきれいの曲』で初主演。
宝塚歌劇団の最終出演公演の演目は花組公演『巴里の騎士/かぐや姫』。
1953年、
自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、
3月25日付で宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属女優に。
1954年4月16日、
岸惠子・久我美子らと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
1955年に松竹へ移籍。
同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子と共に二枚看板として活躍。
1960年、
3月30日から5月15日まで約1か月半、
ヨーロッパを旅行。
当時はまだ海外渡航自由化の前で、
貴重なヨーロッパ旅行に。

1961年11月27日、
俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げました。
1958年に有馬が持っていた雑誌の対談ページのゲストとして中村が訪れたのが、2人の出会い。

1965年7月23日、結婚から約3年7か月後、
東映の大川博社長が2人の離婚を発表。
1969年には実業家の河村三郎と再婚するも、
1983年に離婚。
中村(萬屋)と河村のいずれとの間にも子は無し。

1965年、
負債による「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の解散後は、
宇野重吉に私淑して劇団民藝に所属。
演技を基礎から学び直しましたが、
再婚と同時に退団。
その後は主に舞台とテレビドラマを中心に活躍。

2013年7月17日、
宝塚大劇場で開催された「宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年(ももとせ)の道〜いま新しき未来へ〜」に、八千草薫、天海祐希、檀れい(司会を担当)達と共に出席。
2014年、
宝塚歌劇団創立100周年記念で創設された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人の一人として殿堂入り。
田園調布の自宅を引き払い、
2007年より横浜市の中高年向けの高級分譲マンションでひとり暮らし。
俳優の田村正和さん👍

父親や兄など芸能一家で有名でした。

眠狂四郎やうちの子に限って、パパはニュースキャスターなどが印象に残っています☺️

1943年8月1日ー2021年4月3日(享年77)💨

今日は命日です😭合掌🛐
野呂圭介さん
(1933年4月3日-)
俳優・タレント・ローカルタレント・陶芸家。
鹿児島県鹿児島市出身。

鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校卒業。
俳優を志して上京し、
1958年に『踏みはずした春』(日活)でデビュー以後、
脇役として日活のスクリーンで活躍。
邦画産業が斜陽化した1969年以降、
僚友の宍戸錠と共に、
テレビ番組『元祖どっきりカメラ』(NTV系)に転出。
長髪にGパン、デニムベストのヒッピー風スタイルで赤ヘルを被り、
ストーリーの最後に「どっきりカメラ NTV」と書かれたプラカードを掲げて現れては、
騙された相手が怒って逆襲し殴られる役(赤ヘルはこの目的)で、
19年間にわたって人気を博します。
1978年に持病(メニエール病)の療養で帰郷。
鹿児島テレビ、テレビ熊本、テレビ宮崎のローカル番組に時折出演する傍ら、
鹿児島市天文館で「スナック どっきりカメラ」を経営し、
同番組で使用した赤ヘルとプラカードの実物を店内に展示。
趣味だった陶芸に専心する為に
1995年3月に芸能界を一旦引退し、
間もなく店も畳みました。
宮崎県西諸県郡野尻町で修行の後、
1999年に日置市伊集院町に「陶呂庵 野呂窯工房」を構え、
悠々自適な活動を行っていたしたが、
2003年に肝臓ガンを患い、闘病を余儀なくされ、
2006年より由布院温泉に移住。
2009年に映画『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』に出演し、14年ぶりに芸能界に復帰。
髪型は『どっきりカメラ』時代から長髪でしたが、
現在は白髪混じりの長髪と共にヒゲも伸ばしています。
ランプシェード専門ギャラリー「灯芸 野呂窯」を日置市に開業した後、
現在は薩摩川内市に住居兼工房を移して陶芸を中心に活動。

2020年1月に宍戸が亡くなった際には、
1月22日放送の『スッキリ』(日本テレビ)に電話出演して宍戸の想い出話を語ると共に、
自身も健在である事を世間に知らしめました。
83年「歌舞伎町はコワくない」より
怖いよ…
滅多にないマドンナ姐さんの御写真。(全てGoogleから) 恐らくブロンド・アンビション時代のワールド・ツアーかな?
65歳になった今もセレブレーションのツアーの真っ最中で頑張ってくれているからこっちも勇気を貰っている。
高校生時代の大林素子さん!

良い笑顔でのショット❗
『プロレスの星 アステカイザー』(’76-’77年,円谷プロ他,NET)
新日本プロレスが全面協力でした。
A.猪木さん、山本小鉄さん、藤原組長ほか新日のレスラーが本人役で登場してましたね。

このアステカイザーの愛車「マッハビート号」は、ヒーローの乗るマシンでは、かなり異色でとても印象的でした。
名前通り音速で走る驚異の三輪バイクは…全然早そうじゃなかったな〜。
でも、玩具を買って貰いお気に入りでした。😄
もっと歌聞きたかったね。

トラック乗ってる亜紀ちゃん、カッコイイ‼️
チャールトン・ヘストンさん
(Charlton Heston, 1923年10月4日-2008年4月5日)
アメリカ合衆国・イリノイ州エヴァンストン出身の俳優、社会運動家。
身長191cm。
妻は女優のリディア・クラーク、
長男は映画監督のフレイザー・ヘストン。

イリノイ州の中心部シカゴの北に隣接するエヴァンストンに誕生。
12歳の時に両親が離婚。
母が再婚し、
義父の姓のヘストンを貰ってチャールトン・ヘストンと名乗るように。
高校時代に学生劇に出演して演劇に興味を抱き、
奨学金を得て、
ノースウェスタン大学に進学し演劇部で活躍。
1944年には大学で知り合った演劇仲間の女学生リディア・クラークと結婚。

第二次世界大戦中に卒業後、
アメリカ陸軍に入隊し、
B-25の無線士としてアリューシャン列島地域で3年間勤務。
退役後、俳優の道を目指し、
1947年、ブロードウェイ・デビュー。
1950年に最初の映画『虐殺の街』に出演、
セシル・B・デミル監督に『ミケランジェロの彫刻のように美しい』と称された肉体美と精悍なマスク、格調高い演技力でいくつもの名作に出演し、
2年後に『地上最大のショウ』に出演、
1956年「十戒(モーゼ役)」、
1959年には映画『ベン・ハー』でアカデミー主演男優賞を獲得。
ハリウッド黄金期後期を支え、
日本人にも馴染み深い大作やSF映画の主演も務め、
1966年から1971年迄は、俳優組合の会長。
演じる役柄、出演作も幅広かった事で知られ、
特に当たり役となった歴史劇『十戒』や『ベン・ハー』、『エル・シド』、『華麗なる激情』等では歴史上の英雄を、
『大地震』、『ハイジャック』等に代表されるパニック・アクションのタフガイな主人公をそれぞれ演じ分けた他、
更には『猿の惑星』や『ソイレント・グリーン』『地球最後の男オメガマン』等の娯楽作、異色作にも登場しイメージを一新。
1971年『アントニーとクレオパトラ』では、
脚本と監督も手掛けてその多彩な才能を披露。
1977年にはその功績からジーン・ハーショルト友愛賞を授与。
1990年代も個性的な名脇役として親しまれ晩年まで出演を続けました。
『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001年)ではゼイウス(猿側の将軍セードの父)役でカメオ出演。
『MY FATHER』(2003年)ではアルツハイマーに苦しみながらも、
「死の天使」と恐れられたヨーゼフ・メンゲレを圧倒的な存在感で演じました。
私生活は大変堅実で、
ハリウッドスターとしては大変珍しく離婚歴は無く、
20歳の時に結婚したリディア夫人と自身が亡くなる迄64年間連れ添いました。
2008年4月5日夜半過ぎ、
ビバリーヒルズの自宅にて夫人に看取られ84歳で死去。
これを覗いてる所を、
人に見られたら恥ずかしい(^-^;
1969年第一回中津川ホークジャンボリー😀
岡林信康も高田渡も五輪真弓もカルメン・マキも皆んな出演していた。
高校生だった私も、岐阜県中津川此花湖に三日分の食料と寝袋持参で三日三晩フォークジャンボリーに酔いしれた。
長谷川一夫さん
(1908年2月27日-1984年4月6日)
俳優。
身長162cm。
旧芸名に林長丸、林長二郎。
愛称は長さん。

戦前から戦後の長きにかけて、
日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、
同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
歌舞伎界から松竹に入り、
松竹時代劇の看板俳優となり、
その後東宝、大映と移り、
300本以上の作品に出演。
舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、
晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行いました。
没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。
最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。
後に離婚し、
新橋の名妓・飯島繁と再婚。
俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子と長谷川稀世は長女・次女、
又、稀世の娘に女優の長谷川かずき。
原田大二郎さん
(1944年4月5日-)
俳優。
身長179cm。
神奈川県横浜市生まれ、山口県育ち。
明治大学法学部卒業。
文学座出身。

妻は英文学者で第5代東洋学園大学元学長の原田規梭子。
女優で元AKB48の岩田華怜は大姪(姉の孫)。

1970年、『エロス+虐殺』で映画デビュー、
『橋のない川 第二部の後、
新藤兼人監督が1968年に起きた連続射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)の犯人である永山則夫を描いた映画『裸の十九才』で初主演を果たし、
エランドール新人賞を同時に獲得。

1975年にテレビドラマ『Gメン'75』の関屋一郎警部補役で、全国に名前を知られるように。

映画『蒲田行進曲』(橘役)、『敦煌』(敦煌市等でロケ)に出演。
舞台は『アンナ・カレーニナ』に始まり
『幻に心もそぞろ狂おしの我ら将門』『ジュリアス・シーザー』『十二夜』『喜劇おためし遊ばせ』『喜劇耳かきお蝶』等。
又、
『にごり江』『王女メディア』『マクベス』『夏の夜の夢』等、
演出家蜷川幸雄のもとで行うことも多数。
宮崎駿監督『ハウルの動く城』の犬・ヒン役でも話題に。

1978年10月公開の角川映画、
『野性の証明』に味沢岳史(演:高倉健)の監視役・渡会登役で、参加。

1985年に公開された邦画『哀しい気分でジョーク』に出演し、
共演したビートたけしから、
その演技力や個性を評価され、
その後のバラエティの道へ開眼したことをラジオ番組にて告白。
その映画共演の関係から、
1980年代後半に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に幸福配達人として出演し、
気さくでひょうきんなキャラクターが受け、
バラエティ番組やレポーターなどで活躍の機会が増加。

2001年から2010年迄は明治大学特別招聘教授として朗読を指導。
橋田壽賀子さん
(1925年5月10日-2021年4月4日)
脚本家、劇作家、タレント。
日本統治下朝鮮・京城府出身。
位階は従三位。
静岡県熱海市名誉市民。

大阪府立堺高等女學校卒業後、
日本女子大学文学部国文学科入学(空襲で大学が閉鎖)。
早稲田大学第二文学部国文科に入学、
その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退。

1949年(昭和24年)、
松竹に入社し、脚本部に配属。
1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー。
同年、
東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、
テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出しました。
代表作は
『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。』シリーズ、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』等。
4月5日は特撮テレビドラマ『#電撃ストラダ5』放送開始50周年!
日活製作の本作は、宍戸錠・地井武男・岡崎徹・剛たつひと・小野進也5氏など豪華キャスト。第4話 沼津ロケでは、沼津御用邸、牛臥海岸、沼津マリーナなどが使用されました。
4月6日は『#マイティジャック』放送開始55周年!
国産初1時間尺の本作は、二谷英明氏ら銀幕スターをレギュラーに配し、郡司模型製作所による5.4メートルに及ぶ巨大な模型が用いられるなど 破格の予算が投入された。引き続き 30分構成で『#戦えマイティジャック』製作された。
4月6日はアニメ『#どろろ(#どろろと百鬼丸) 』放送55周年! 原典は手塚治虫先生漫画。1969年4月~9月 フジテレビ系で全26話放送。意図的に白黒作品として制作され百鬼丸を軸としたハードストーリーは子ども達に敬遠され視聴率が低迷、第14話以降は「どろろ」が主役のやや明るいストーリーに変更。
4月5日はアニメ『#サイボーグ009(第1作)』放送開始56周年です!(画像は原作レコード・劇場版)
4月5日は特撮テレビドラマ『#ロボット刑事』放送開始51周年。
マザーに造られたロボット刑事のKは、芝・新條両刑事と共に捜査に当たります。敵は犯罪ロボットを使い暗躍するシンジケート「バドー」。テレビマガジンの懸賞で敵ロボ着ぐるみがプレゼントされました。
💒本日は竹内まりやさんと山下達郎さんの結婚記念日です💒
4月6日は特撮テレビドラマ『#ウルトラマンタロウ』放送開始51周年!
前作『A』のウルトラ兄弟設定に更に「タロウはウルトラの父・母の実子」というファミリー設定を付加。明朗でコミカルなストーリーが多く、主人公・東光太郎役 篠田三郎氏の魅力と相まって、シリーズ第2期中でも特に高い人気を誇っているようです。
女優・漫才師の京唄子さん💨

元旦那さん、鳳啓助さんとの「唄子・啓助のおもろい夫婦」がとても印象に残っています☺️

1927年7月12日ー2017年4月6日(享年89)💨

今日は命日です😭合掌🛐