【懐かしい昭和・芸能他】Apex product

4月6日はテレビアニメ『#UFO戦士ダイアポロン』放送開始48周年!
スポンサーは森永乳業、ブルマァク、アサヒ靴、昭和ノートなど。アポロン星人の末裔タケシと仲間たちが、悪のダザーン星人軍団に挑みます!
4月6日は『#電人ザボーガー』放送開始50周年!
「ダイモニウム」を狙う犯罪組織Σ団に、父・大門博士の生命を奪われた大門豊。形見のマシーン・ザボーガーは、バイク形態からロボット形態に変形し電人ザボーガーに! 豊は悪之宮博士率いるΣ団の殲滅を決意する。
4月5日は特撮テレビドラマ『#秘密戦隊ゴレンジャー』放送開始49周年!  今日まで連綿と続く戦隊シリーズの祖。圧倒的存在感のリーダー・赤、頼りになるクールガイ・青、怪力無双のムードメイカー・黄、爆発する健康美の才女・桃。若さで突き進む美青年・緑。歴史は彼らから始まりました♪
4月5日は特撮テレビドラマ『#仮面ライダーストロンガー』放送開始49周年です!
#荒木茂(#荒木しげる)#岡田京子
4月5日は特撮テレビドラマ『#仮面の忍者赤影』放送開始57周年!
原典は横山光輝先生の漫画。邪教「金目教」で人々を洗脳、武田信玄を騙し 権力を握ろうとする甲賀幻妖斉の野望を打ち砕くため、正義の忍者 赤影(赤垣源之助)・青影・白影は、幻妖斉の刺客たちと戦います!
4月4日は特撮テレビドラマ『#白獅子仮面』放送開始50周年!
本作は日本テレビ系で全13話に亘り放送。主演は #三ツ木清隆 氏。ジャケットのイラストは #古城武司 氏。主題歌「白獅子仮面のうた」は故 水木一郎氏のお気に入り。
4月2日は『#超人バロム1』放送開始52周年!
主人公は 知力の白鳥健太郎と勇気の木戸猛。「二人が不仲のシチュエーションでは変身不能」という設定の妙。グロテスクの極致 ドルゲ魔人デザインは悪夢を誘うほどに秀逸でした。(;゚д゚)
4月4日はテレビアニメ『#ゴワッパー5ゴーダム』放送開始48周年!
熱血漢の津波豪がサブリーダーで、冷静で紅一点の岬洋子がリーダーという、捻ったキャラ設定がユニークでした。
4月4日は映画監督 #長谷部安春 さんのご生誕日です。テレビ実写版『#ワイルド7』について生前 監督にお訊きしたところ「(第1・2話を)10日位で撮らなければならないのに、天気は悪いし凝り過ぎちゃって2カ月近くもかかってしまった」との由。ご存命なら今年92歳でした。合掌。
4月4日はアニメ『#勇者ライディーン』放送開始49周年。
テレビマガジン誌上では放送前に「ヒーロー命名懸賞」が実施され「エメランダー」などの候補を抑え「ライディーン」に決定!  美形悪役キャラ(プリンス・シャーキン)が主人公 ひびき洸の人気を凌駕する現象が起きました。
露口茂さん
(1932年4月8日-)
俳優。
東京府東京市生まれ(愛媛県育ち)。

太平洋戦争の影響で両親の故郷である愛媛県松山市に疎開し、同所で育ちました。
愛媛県立松山東高等学校卒業。
一学年下には俳優・映画監督の伊丹十三や作家の大江健三郎。
愛媛大学文理学部人文学科甲(文学課程英語・英文学専攻)に通いながら、
NHK松山放送劇団の劇団員として主にラジオドラマ(オーディオドラマ)等で活動。

先輩に誘われて愛媛大学を2年で中退し、
1955年に劇団俳優座演劇研究所付属俳優養成所に第7期生として入所、
井川比佐志、田中邦衛、藤岡重慶、山本學らと同期。

1958年俳優座養成所を卒業、「劇団新人会」に入団。

1959年、
古川卓巳監督の日活映画『逃亡者』で映画デビュー。

舞台を中心に活動する一方、
山田洋次監督の『霧の旗』、
今村昌平監督作品、
日活映画等やテレビドラマで、
悪役、犯人役、好青年まで幅広く演じる、
個性派の性格俳優として売れっ子に。

1972年7月から1986年4月迄の13年9ヶ月間、
691話にわたって、
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で露口の代表作ともなった山村精一警部補(落としの山さん)を演じ、
以降暫く『太陽にほえろ!』のスケジュールのため約10年間映画から遠ざかり、
テレビのみの活躍に。

1980年:今村昌平監督『ええじゃないか』で約10年ぶりとなる映画出演。

1981年:TBSドラマ『父母の誤算』では自身初の連続ドラマでの主役。

1986年4月:放映開始から約14年間ずっと山さん役で出演した『太陽にほえろ!』を、
同年4月11日放送の第691話(スペシャル放送)「さらば! 山村刑事」の回を持って殉職という形で遂に降板。

『太陽にほえろ!』以降はかなりの2時間ドラマの主演やスペシャルドラマなどに出演。

1994年:『土曜ワイド劇場』「森村誠一の終着駅シリーズ」第4作となる「碧の十字架」に主演、
現在迄に俳優として、最後の主演作で出演作。
1995年:スタジオジブリの映画『耳をすませば』公開。
バロンの声の吹き替えを務め、
これが俳優/声優として、現在まで最後の仕事。
1990年代中期以降は終着駅シリーズを降板したり、
2001年の今村昌平監督の映画『赤い橋の下のぬるい水』で北村和夫の演じた役などのオファーを受けるも断る等表舞台からは遠ざかります。

現在は俳優業から引退状態。
野村芳太郎さん
(1919年4月23日-2005年4月8日)
映画監督。
父は野村芳亭。

父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、
松竹蒲田撮影所の所長も務めた人物。
その関係で、京都と東京を行き来して育ちました。
京都市生まれで、
生後まもなく東京市浅草区に移住。
蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。
大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。
1946年に復員。
黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、
「日本一の助監督」と評価されました。
1952年の『鳩』で監督デビュー。
初期は会社の意向に従って喜劇から時代劇迄あらゆるジャンルの作品を手掛ける職人監督に徹していました。
野村の名を広めたのは1958年の『張込み』(主演は大木実)。
以降ショッキングな描写を伴う社会派的色彩の強いサスペンスを数多く撮るようになり、
名作を世に送り出しました。
1974年に監督した松本清張原作の『砂の器』ではモスクワ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。
1978年、
松本と共に「霧プロダクション(霧プロ)」を設立。
松本清張作品の映画化を多く手掛けるも、
1983年の『迷走地図』で確執が生じ、
1984年に解散。
製作者としても『八甲田山』等を手掛けました。
1985年、紫綬褒章受章。
1995年、勲四等旭日小綬章受章。
2005年4月8日午前0時15分、
肺炎の為東京都内の病院で死去。
享年85。
藤山一郎さん
(1911年4月8日-1993年8月21日)
歌手、声楽家、作曲家、編曲家、指揮者。
位階は従四位。
本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍。

東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。
東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。
東京音楽学校で培った正統な声楽技術、歌唱法、音楽理論と、
ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。
1930年代から1940年代にかけて
『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』・『東京ラプソディ』、『青い山脈』、『長崎の鐘』等、
数多くのヒット曲を世に送りました。
理論や楽典に忠実に歌った事から正格歌手と呼ばれ、
その格調高い歌声は「楷書の歌」と評されました。
1992年(平成4年)、
スポーツ選手以外では初めて国民栄誉賞を生前に受賞。
芦屋雁之助さん
(1931年5月29日-2004年4月7日)
俳優、歌手。
愛称は、雁ちゃん。
京都府京都市出身。
京都市立朱雀中学校卒業。

実家の家業は京都で友禅染の染物屋。
芸事、道楽事が好きであった父は戦後、
「若松家」の亭号を名乗り、
芸人として活動し始めるばかりか、
一座を組んで巡業の日々に。
父について芸をこなしながら、
一時、漫才師・五條家弁慶の弟子となり、
前座として中国の服を着て手品をしたり師匠と漫才や芝居の舞台に立ちました。
その後、
18歳の時に弟・秀郎と当時人気の漫才師、芦の家雁玉・林田十郎に弟子入りし、
「雁之助(清)・小雁(秀郎)」の名をもらうも、
弟子入りしてまもなく亭号「芦の家」を勝手に「芦屋」に変えたため破門(後に活躍が認められ破門を解かれます)。
その後京都の京都新京極の富貴、大阪の戎橋松竹中心に活躍、
「若手漫才の有望株」といわれ将来を嘱望されるも、
3、4年間コンビで活動したところで、
演劇評論家の武智鉄二の勧めで突然漫才をやめ、
1954年、
開場した「OSミュージックホール」に入り、
座付作者の花登筐のコントを演じるように。
以来、兄弟で喜劇役者に転身。
1959年、
花登が東宝から独立して結成した『劇団・笑いの王国』に大村崑らと参加。
劇団の主軸を支えました。
同年3月にスタートした毎日放送の公開コメディー番組『番頭はんと丁稚どん』で、
薬屋の番頭を演じ、
「強面で下の者には厳しい半面、裏に回ると『女性(今で言うところの「大阪のおばちゃん」、ただし当時はこの言い方はありませんでした)口調』を使い、
女性的な仕草を見せるキャラクター」で人気を集めます。
主なギャグに
「いやいやっ、もの凄いこと言わはる」、
「いやっ!えらいとこ見つかってしもうた」、
「わてが雁之助だんねん」等。
1960年3月1日、
大村、小雁とともに、
当時としては極めて珍しい3組合同による『テレビ結婚式』を挙げました。
最初の結婚相手は元・OSミュージックのダンサー・夏丘梨枝でしたが、その後離別。
1964年、
花登は劇団解散を決め、兄弟らは花登の下を離れます。
同年、小雁らとともに劇団「喜劇座」を旗揚げ。
座付き作家であった藤本義一から、
風貌が画家の山下清に似ている事を指摘され、
それをヒントに藤本が舞台劇『裸の大将放浪記』を書き上げ、初演。
評判に。
1969年、劇団解散。
その後は活動拠点を東京に移し、喜劇だけでなく、本格的な演技派俳優として、活動の幅を広げます。
1976年、
人気時代劇「必殺シリーズ」の『必殺からくり人』で山田五十鈴と共演。
1977年には同じく関西喜劇出身で、
必殺シリーズレギュラーだった藤田まことが旗揚げした「新演技座」に発起人として名を連ね、
一時在籍。
1979年、
森光子と共演した舞台『おもろい女』で芸術祭大賞を受賞、
代表作の1つとなり舞台での活動も精力的に行いました。
その一方で関西での喜劇舞台も継続、兄弟共演やミヤコ蝶々、かしまし娘らと共演。
1980年『裸の大将放浪記』(関西テレビ・フジテレビ系『花王名人劇場』→『花王ファミリースペシャル』)で、
かつて評判だった山下清役をテレビで再び演じる事となり、これ以降の当たり役に。
1984年2月1日に発売した、
演歌歌手としてのシングル『娘よ』が150万枚を超える(オリコンでは約80万枚)大ヒットとなり、
同年末の『第35回NHK紅白歌合戦』に初出場。
大阪制作・全国ネットのドラマにも多く出演。
この年『佐渡島他吉の生涯』と『裸の大将放浪記』で第10回菊田一夫演劇賞を受賞。
1994年頃から持病の糖尿病が悪化、
静養しながらテレビや舞台出演を継続。
2004年4月7日午後2時、
鬱血性心不全の為京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去。
72歳没。
ペギー葉山さん
(1933年11月9日-2017年4月12日)
女性歌手、タレント。
社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。

東京都新宿区出身。
青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)卒業。

学校卒業後の翌1952年11月にキングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し、
レコードデビュー。
1954年には「第5回NHK紅白歌合戦」に紅白歌合戦初出場。
1955年2月には初渡米。
各地で歌い、盛況を博します。
1958年、
ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞受賞。
翌1959年には「南国土佐を後にして」の空前の大ヒットで、
ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものに。
1960年、
オーストラリア/ゼネラルテレビの招きで、
テレビ番組『今宵のメルボルン』に1か月間レギュラー出演。
同年の8月には
ロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれ、
この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。
帰国後、
自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌「ドレミの歌」をペギー自身の訳詞で紹介。
ペギーの訳詞・歌唱による「ドレミの歌」はNHK「みんなのうた」でも使用され、
音楽の教科書にも掲載される等、国民に広く知られています。
しかし、
生来病弱であったことに加え、
その人気による過密スケジュールから、
1963年の春に気胸を患い半年間の療養を余儀なくされましたが、
病気療養中に「ラ・ノビア」「爪」もヒットした事も幸いし、
ブランクをものともせず無事復帰。
又、
復帰翌年の1964年には「学生時代」がロングセラーとなり、
人気の健在ぶりを示しました。
1965年に俳優の根上淳と結婚、
1968年には長男を出産。
甥はROUTE 66とTHE CHAPPYSでボーカルを務めた森雅裕。
根上とは、芸能界きってのおしどり夫婦で知られ、
1998年に根上が糖尿病の合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなる迄歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」では、紅組司会。

タレントとしての活動も多くこなし、
知られているものでは
NHK紅白歌合戦の紅組司会(1966年の「第17回NHK紅白歌合戦」)や
「歌はともだち」(NHK)の司会に、
「ひらけ!ポンキッキ」(フジテレビ)のしつけコーナー、
「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母の人間体である緑のおばさんとしても知られます。
1974年には司馬遼太郎に続き、
2人目となる高知県名誉県人の称号を贈られました。
又、ペギーが歌手生活60周年を迎えた2012年には
高知市のはりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置され、除幕式に出席。
よさこい祭りの全国コンクール(毎年8月12日)においては、
葉山の名前を冠したペギー葉山賞が優秀チームに贈賞されています。

1991年、
『It's Been A Long Long Time』(キングレコード)の録音でハンク・ジョーンズ、ケン・ペプロウスキーと共演。

1995年に紫綬褒章、
2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章。

2007年6月からは、青木光一の後を継ぎ、
社団法人日本歌手協会7代目初の女性会長に就任し、2010年6月末日迄務めました。
一般社団法人移行後は理事職。
2014年6月には、
田端義夫・青木光一に次ぎ3人目となる名誉会長に就任。

2010年に発売した「夜明けのメロディー」(ラジオ深夜便のうた)は、
『ラジオ深夜便』で初オンエアされて以来リスナーを中心に高く評価され、
1971年発売の「雲よ風よ空よ」以来約40年ぶりのオリコンチャートインを果たす快挙を成し遂げ、
登場回数も30回にせまりロングランも記録。
その他、
NHK「みんなのうた」等でも歌声を聴かせています。
歌手としての活動の他、
日本歌手協会役員としての業務、
亡夫の介護体験をもとにした講演など多方面で活動。
デビューから60年を迎えてもなお、第一線で活躍し続けました。
2017年4月12日、
肺炎により東京都内の病院で死去。
83歳没。
大平透さん
(1929年9月24日-2016年4月12日)
声優、俳優、アナウンサー。
身長180cm。
日本俳優連合副理事長。

東京府荏原郡蒲田町(後の東京市蒲田区、現・東京都大田区)出身。
父が、タイヤ修理工場、雑貨商を営む事になった関係から生後8か月でインドネシアに移住し、
5歳まで姉と共にジャワ島のバンドンで過ごします。
帰国後は蒲田区で過ごしましたが、
住んでいた家屋が防火帯工事に伴う立ち退き対象にされた為、
これを契機に疎開を兼ねて父親の故郷である観音寺市に移住。
東京府立第二十二中學校(後の東京都立城南高等学校、現:東京都立六本木高等学校)に進学。
終戦直後の中学4年生の時に東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)洋画科を受験するも落ち、
終戦後は東京に一家で戻り、同高校を経て、
露天商、闇屋の手先のようなバイトをしながら、
明治大学政治経済学部に進学。
肺結核に罹患した為、3年間休学。
1952年に「ルーテル・アワー(日本ルーテル・アワー)」専属アナウンサーでデビュー。
大学は夜学に転籍して、
仕事と並行しながら1954年に卒業。
その後、フリーアナウンサーを経て、
ニッポン放送開局と同時にフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターとして、
週2本のドキュメンタリーを制作。

1955年、
ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)開局と同時にTBS放送劇団へ入団、
フライシャー・スタジオ制作短編アニメシリーズ『スーパーマン』を再編集した『まんが・スーパーマン』で日本のテレビ史上初の日本語吹き替えを行い、
翌年には実写版テレビシリーズ『スーパーマン』で主演のジョージ・リーヴスの吹き替えを担当。
好評を博すも、
リーヴスがスーパーマン以降のキャリアが伸び悩み自殺に至った事から、
1960年に小林清志に引き継がせて降板。

1958年、TBS劇団解散に伴いフリーとなり、
1963年に大平プロダクションを設立。

1982年からは大平透声優ゼミナールを開校し、後進の指導にあたっていました。
この間には、
『スーパーマン』等のシリアス路線から
『恐妻天国』のフレッド・フリントストーン役や
『ハクション大魔王』のハクション大魔王役等の主役に抜擢され、
コメディ路線の新境地を開拓。

1989年には
『笑ゥせぇるすまん』の主役・喪黒福造役やディズニーキャラクターのピート役に抜擢され演じており、
最晩年に病気療養で降板するまで専属で担当。

2000年8月26日、妻と死別。

2005年頃には体力の衰えを感じ引退を考えるも、仕事をしていたスタッフの後押しを受けて病気療養するまで現役で活動し続けました。

2007年3月3日、
第1回声優アワード功労賞を受賞。

2013年には、
第7回声優アワードで森功至、小原乃梨子、岡本茉利と共に「シナジー賞(タツノコプロ50周年)」を受賞。
3月23日、24日に開催された「東京国際アニメフェア2013」では第9回功労賞を受賞。

2015年頃から体調を崩しがちになり、
同年12月からは病院でリハビリに入った為、
持ち役には代役が立てられ、
同年12月14日、ディズニー主催の謝恩会に出席。
これが公の前に現した最後の姿となりました。
2016年4月12日、肺炎で死去。
86歳没。
学生時代、中野の銭湯に通いました。夜9時ころがピークで洗い場には行列ができていたことを思い出しました。
シンガーソングライターの高原兄さん😁

アラジンの元ボーカルで、完全無欠のロックンローラーが大ヒットしました。

解散後はラジオのパーソナリティなどを勤めたりしました。

1959年4月10日生まれ😁

お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
加山雄三さん
(1937年4月11日-)
歌手・俳優。
身長175cm。
神奈川県横浜市生まれ、茅ヶ崎市出身。
ニックネームは若大将。
作曲家として弾厚作のペンネームを用い、
公益財団法人日本セーリング連盟応援団長、
文化功労者。

茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、
茅ヶ崎市立第一中学校、慶應義塾高、
慶應義塾大学法学部政治学科卒業。

職業はタレント業の他、
音楽家としてはギタリスト、ピアニスト、ウクレレ演奏者として、この他画家としても活動。
勲等は旭日小綬章。

父は俳優の上原謙(池端清亮)、
母は女優の小桜葉子(池端具子)。
妹は池端亮子。
母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視。
妻は元女優の松本めぐみ。
長男は、池端信宏(映像作家)。
次男は、加山徹(俳優)。
長女は、梓真悠子(タレント・料理研究家)。
次女は、池端えみ(女優)。
野村芳太郎監督作品…

寅さん以前の…
渥美清が…観れる😀
個人的に…
喜劇映画の歴史に残る
傑作だと思います😀🇯🇵
元歌手の桜田淳子さん😁

スター誕生出身です。

天使も夢みるでデビューされました🎵

その後もわたしの青い鳥などのヒット曲をリリースされています🎵

森昌子さん、山口百恵さんと花の中三トリオと呼ばれました。

1958年4月14日生まれ💨

お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
三波春夫さん
(1923年7月19日-2001年4月14日)
新潟県三島郡塚山村(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。
紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。
自身の長編歌謡浪曲等の作詞・構成時のペンネームとして、
「北村桃児」を用いました。
俳号は「北桃子」。

戦後昭和の歌謡界黄金期を代表する歌手の一人。
元浪曲師・南篠文若としての経歴を活かし、
浪曲を題材に自ら創作した歌謡浪曲を得意としました。
特に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、
三波ならではの至芸とも評されます。
いつも絶やさぬ朗らかな笑顔と浪曲で鍛えた美声で知られ、
歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手。
自らの芸と観客に対する真摯な姿勢は、
あまりに有名な「お客様は神様です」のフレーズを生む基盤ともなりました。
デビューの翌年、
1958年のデビューで同じ浪曲師出身の村田英雄とは長年ライバル同士とも位置付けられ、
両者の間には様々なエピソードが生まれました。
1994年に前立腺がんの診断・病名告知を受け、
死去迄の7年間、
家族や近しい関係者以外にはその事実を隠し通し、
闘病を続けながら最晩年迄精力的に音楽活動を継続。
タレント・俳優・歌手の三波豊和は長男。
死後に解散した所属事務所「株式会社三波プロダクション」の継承会社、「株式会社三波クリエイツ」代表取締役・八島美夕紀は長女。
神田隆さん
(1918年4月14日-1986年7月13日)
俳優・声優。
東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。

東京帝国大学文学部仏文科を卒業。
1942年に日本出版文化協会に入り、
映画評論家に豪快なマスクと雄弁を注目されて、
1943年(昭和18年)、松竹大船撮影所に入社。
映画『暖き風』でデビューし、
戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得ました。
新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』等で主要な役を演じますが、代表作には恵まれず。 
1950年(昭和25年)に連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、
神田も追放者としてリストアップされ、
結果的に同年で松竹を退社。
1951年、キヌタプロの創立に参加。
その後は独立プロの映画に出演し、
東京俳優協会を経て、1955年に東映へ移籍。
『警視庁物語』シリーズをはじめ、
多くの作品で渋みのあるベテラン刑事や会社の部長などを演じました。
1970年代に入るとテレビドラマの時代劇や刑事ドラマで悪役や黒幕・犯人役の仕事が増え、
次第にそのイメージが定着。
一方で、
『マイティジャック』『怪奇大作戦』『ミラーマン』『仮面ライダーシリーズ』『ロボット8ちゃん』等の特撮にもゲストや準レギュラーとして出演。
『ウルトラマンレオ』では3回のみの登場ではありますが、
誠実で見識も高い、
防衛隊MACの最高責任者の高倉司令官を演じています。
政治家の佐藤栄作に顔立ちがよく似ている事から、
映画『金環蝕』、『不毛地帯』では、
佐藤がモデルとなっている政府高官を演じています。
1985年ごろから狭心症を患いその影響でエスカレーターで発作を起こすように。
そして1986年7月13日午前7時5分、
『必殺仕事人V・激闘編』最終回の撮影後、
東京へ帰宅途中に京都駅のエスカレーターで転倒し、
京都市内の病院に搬送されましたが、
そのまま帰らぬ人に。
68歳没。
#4月16日

#チャップリンデー
喜劇俳優・チャールズ・チャップリンの誕生日。

『#犬の生活』(いぬのせいかつ、A Dog's Life)は、1918年公開のサイレント映画。ファースト・ナショナル(英語版)による製作で、主演・脚本・製作および監督はチャールズ・チャップリン。チャップリンの映画出演64作目にあたる。

犬の重要性を理解していたチャップリンは、1916年12月の時点で「喜劇センスの優れた犬を求む」と題された記事の中で喜劇向けの犬を探すことに苦労していることを語っている。チャップリンによれば雑種犬が大本命であり、ダックスフントやパーヴァイアンスが連れてきたポメラニアン、ポメラニアンと入れ替えで持ち込まれたプードル、さらにやってきたボストン・テリアやブルドッグといった一流の品種はまったく気に入らなかった。ついにはロサンゼルスの野犬場から21匹も持ち出すこととなったが、近隣住民から苦情が出てその数を半減せざるを得なかった。試行錯誤の末に起用されたのは、「マット」と命名された雑種の小型犬であった。

Wikipediaより
子供の頃に連れてってもらった場所。
[谷津遊園]。
以前に投稿した[船橋ヘルスセンター]と同じく千葉にあった娯楽施設でした。
始まりは1925年(大正14年)に[京成遊園地]として開園しました。
1982年(昭和57年)に閉園するまで57年も続いた場所でした。
千葉に住んでる自分としては子供の頃に[船橋ヘルスセンター]と一緒で連れてってもらって楽しんでました。
今は[谷津バラ園]になってしまいました。
やはり昭和を感じさせる遊園地でした。
ちなみに第30作の[男はつらいよ花も嵐も寅次郎]では谷津遊園でロケをしてるので懐かしく見れました。
桑田二郎さん
(1935年4月17日-2020年7月2日)
漫画家。
大阪府吹田市出身で、
晩年は茨城県鉾田市(旧鹿島郡大洋村)に居住。
絵のシャープな美しさで知られます。
代表作は『まぼろし探偵』『月光仮面』『8マン』等。

子供の頃は
『のらくろ』(田河水泡)や『タンクタンクロー』(阪本牙城)、『長靴の三銃士』(井元水明)等、
「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」の漫画を愛読。
1948年、
13歳の時に『奇怪星團』(青雅社)で貸本漫画デビュー(最年少記録)。
病気で職を失った父の代わりに家計を助けるも苦しい生活状況で高校進学がかなわず、
中学3年生で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるように。
1957年に『まぼろし探偵』(「少年画報」連載)、
1958年、
『月光仮面』(「少年倶楽部」連載)がヒット、売れっ子漫画家に。
1963年より「週刊少年マガジン」(講談社)で平井和正原作の『8マン』の連載が開始され、
テレビアニメ化もされるなど大きくヒット。
しかし1965年に自殺用に所持していた拳銃による銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反で逮捕されたため連載は打ち切り。
1年後には川内康範原作の『黄色い手袋X』(「月刊ぼくら」講談社)のコミカライズで復帰、
その後も『ウルトラセブン』(「少年マガジン」)や『豹マン』のコミカライズ、平井和正原作の『デスハンター』などの作品を発表。
1977年、
42歳の厄年を境に少年漫画界から身を引き、
精神世界の漫画化を始めました。
般若心経に興味を持っていた事を知った出版コンサルタントのアドバイスで、
これをテーマにした本を出したところ、ヒット。
2020年7月2日、老衰のため死去。
85歳没。
武内つなよしさん
(1922年2月26日-1987年4月17日)
漫画家、小説家。
神奈川県横浜市出身。
代表作に『赤胴鈴之助』、『少年ジェット』。

太平洋美術学校で絵を学び、
終戦後は紙芝居作家として活動した後、
1952年『燃えない紙』(「探偵王」8月号)で漫画家デビュー。
1954年、
『イガグリくん』等の作品で知られた福井英一が「少年画報」に『赤胴鈴之助』の連載を開始、
第一回が掲載された直後に急死した為、
これを描き継ぎ、大ヒット作品に育て上げました。
1957年にはラジオドラマ化を皮切りに、
映画化、そしてテレビドラマ化と立て続けに他メディアに進出。
更に1972年にはアニメ化。
又、
1959年から「ぼくら」に連載された『少年ジェット』はテレビドラマ化され大人気となり、
連載も3年間継続。
1970年、
日本文華社「特集漫画トピックス」では、
青年になった鈴之助が性に目覚めて悶々とする続編『青年赤胴鈴之助』が描かれています。
又1972年、『鈴之助』がアニメ化され武内自身の手でリメイクの上、
小学館の学年別学習雑誌に1年間連載された際も、
アニメ版と全く異なる展開と迫力ある絵が人気に。
晩年には『小説 赤胴鈴之助』等の小説にも挑戦。
又、古典落語の漫画化や『まんがでわかる新道交法』などのハウツーもの等、
最後迄創作意欲に衰えを見せず。
1987年4月17日、肺癌のため死去。
65歳没。
横山光輝さん
(1934年6月18日-2004年4月15日)
漫画家。
兵庫県神戸市須磨区出身。
代表作に
『鉄人28号』『伊賀の影丸』『仮面の忍者 赤影』『魔法使いサリー』『コメットさん』『バビル2世』『三国志』等々多数。
長年にわたり幅広いジャンルで活躍し、 手塚治虫、石ノ森章太郎などと並び称された漫画界の巨匠の一人。
辰巳柳太郎さん
(1905年4月20日-1989年7月29日)
俳優。
兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。

島田正吾と共に、新国劇の屋台骨を支えた1人。
弟子には大友柳太朗、緒形拳ら。

少年時代に養子に出されるも、
養家を13件も転々としながら関西甲種商業学校(現・関西大学第一中学校・高等学校)を経て、
商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退。
1919年、
小林一三が国民劇創設の為作った「男子養成会」の創設メンバー(男子専科生第一期生)として宝塚入り。
1926年に旅回りの一座に入り、
長野県で初舞台を経験。
半年後、
小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団して東伍作の名で舞台に立ち、
その後、澤田正二郎の魅力に惹かれ、
1927年、
道頓堀の浪花座で公演中の澤田を楽屋に訪ねて弟子入りを直談判し、
新国劇への入団を許されます。
又、芸名を辰巳柳太郎に(由来は師匠の澤田が辰年、柳太郎が巳年生まれだった為)。
暫く端役が続き、
1929年、
澤田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田とともに澤田の後継者に大抜擢。
又、その気質は島田と合わせて「動の辰巳、静の島田」とも呼ばれました。
豪放磊落に主人公を演じきり、
島田と共に二本柱として新国劇を支え、
1947年に、
辰巳自らが坂田三吉を主人公で描くように依頼をして北条秀司が脚本を執筆し、
北条が演出も担当した『王将』に主演して大ヒット作に。
国定忠治、宮本武蔵、「大菩薩峠」の机龍之介、「王将」の坂田三吉、「無法松の一生」の松五郎、どぶろくの辰等が当たり役。
戦後になると映画界に進出。
1949年に『どぶろくの辰』で初出演して以降、
映画でも島田とたびたび共演。
1954年からは日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約していましたが、
大衆演劇の衰退とともに観客数も減少。
1987年の70周年記念公演終了をもって劇団は解散。
1988年の夏頃から体調を崩し寝たきり状態になり、
1989年2月に肺炎を起こして1ヶ月間入院するも、
4月12日に肺炎を再発し山王病院に入院し危篤状態に。
同年7月29日午後9時45分に入院先で心不全の為死去(享年84)。
中江真司さん
(1935年4月20日-2007年6月28日)
男性俳優、声優、ナレーター。

東京都出身を
鎌倉学園中学校・高等学校卒業。
友人の影響もあって芝居の道を目指す事になり、
1958年5月、
中部日本放送劇団(劇団CBC)に4期生として入団(8月に団員契約)、
生放送時代のテレビ・ラジオドラマの仕事を開始。
1963年、上京して劇団現代劇場に入団。
1967年、テアトル・エコーへ移籍。
舞台、テレビを中心に活躍。
1988年、青二プロダクション所属。
昼ドラマ『ライオン奥様劇場』をはじめとして、
特撮『仮面ライダー』やドラマ『特捜最前線』等のオープニングナレーション、
時代劇等は「ドラマの中江」と言われるほど有名でありわ
以降も、
『仮面ライダー』から『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』迄の『仮面ライダーシリーズ』や、
同作のパロディである『仮面ノリダー』や藤岡弘が演じたCMシリーズ『せがた三四郎』等のナレーションを多く務めていました。

先妻は声優の平井道子。
1984年に死別し、
友人の納谷六朗からの紹介で1988年に再婚。

2002年以降、
フジテレビ『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』のナレーションを機に新境地を拓き、
この路線で数多くのCMに起用されるように。
2006年頃からは任天堂のゲーム機及び関連ソフトのCMを担当することが多数。
2004年肝臓癌を公表、
2007年に体調を崩して静養。

2007年6月28日午後0時30分、
肝細胞癌の為、
東京都小金井市の聖ヨハネホスピスにて、
72歳で死去。
80年代ロックシーンのギタリスト集合写真
BOØWYの布袋さん
スライダーズの蘭丸さん
ARB(当時)の斉藤光浩さん
ルースターズの花田さん、下山さん
アナーキーの藤沼さん、マリさん

#昭和
橋本忍さん
(1918年4月18日-2018年7月19日)
脚本家、映画監督。
兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居)出身。
脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。

家業は小料理屋で、
芝居好きの父親から影響を受けました。
大鉄教習所卒業後、国鉄に勤務。
1938年に応召、
鳥取歩兵四十連隊に入隊(階級は一等兵)するも
粟粒性結核に罹り、
永久服役免除され療養生活に入り、
1939年に岡山県の療養所にて、
隣にいた兵士の読んでいた『日本映画』という映画の本を読み、
シナリオに興味を持ち、
隣の兵士に「日本で一番偉い脚本家は誰か」と訊ねたところ「伊丹万作」と返ってきた為、
脚本家を志します。
1942年、
療養所を退所して郷里に帰った後に執筆したシナリオ『山の兵隊』を伊丹本人に送ったところ、
思いがけず返信があり、
以降、姫路市の軍需会社に勤務しながら、
伊丹の「唯一の脚本家としての弟子」としてシナリオの指導を受けました。
1946年の伊丹死去の、
翌年(1947年)の一周忌の折りに、
伊丹夫人より佐伯清監督を紹介されます。
1949年、サラリーマン生活の傍ら、
芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書き、
社用で上京した際に佐伯に渡していた脚本が、
黒澤明の手に渡り映画化を打診。
黒澤から長編化するよう依頼され、
芥川の短編小説『羅生門』も加えて加筆。
最終的に黒澤が修正して完成させた脚本を基に、 翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、脚本家としてデビュー。
同作品はヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞する等高い評価を受けました。
1951年に退社して上京し専業脚本家に。
以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、
小国英雄とともに『生きる』、『七人の侍』等の脚本を共同で執筆。
しかし、
黒澤映画への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、
後はその10年後に『どですかでん』で1度だけ復帰。
その後、日本を代表する脚本家の一人として名声を高める事に。
代表作に挙げられる
『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『白い巨塔』、『上意討ち 拝領妻始末』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』等の大作の脚本を次々と手がけ、
論理的で確固とした構成力が高い評価を得ます。

1958年、
KRT(現・TBS)の芸術祭参加ドラマ『私は貝になりたい』の脚本を手がけます。
上官の命令で、
米兵捕虜を刺殺しそこなった二等兵が、
戦犯として死刑に処せられる悲劇を描いたこのドラマは大好評となり、芸術祭賞を受賞。
翌1959年自身が監督して映画化し、監督デビュー。

1973年、
それまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦する為、
「橋本プロダクション」を設立、
松竹の野村芳太郎、東宝の森谷司郎、TBSの大山勝美等が参加し、
映画界に新風を吹き込みます。
1974年に第1作として山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作、
原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、
興行的にも大成功をおさめ、
その年の映画賞を総なめに。

続いて1977年に、
森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山』を発表し、 
当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒット。
僅か3ヵ月後に松竹で公開された『八つ墓村』(脚本担当)もこれに迫る数字をはじき出し、
この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示します。
数年前の『日本沈没』をあわせて、
日本映画史上高額配収ランキング上位に橋本作品がずらりと並ぶという壮観を呈する事に(因みに、その殆どが田中友幸プロデュース作品)。
以後、
1980年代迄脚本執筆、映画制作と精力的に活動。

しかし1982年、
脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』が、
僅か2週間で興行打ち切りという憂き目に。
その後も2本の脚本を書きましたが、
体調不良もあり、
以後は事実上引退した状態が続きました。
しかし体調回復に伴い、
2006年に黒澤明との関係を語った著書『複眼の映像 私と黒澤明』を発表。
そして、
2008年に中居正広主演でリメイクされる事になった劇場版『私は貝になりたい』で、
自らの脚本をリライト。
2000年、
故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープン。
2018年7月19日9時26分、
肺炎の為東京都世田谷区の自宅で死去。
100歳没。

村野武範さん
(1945年4月19日-)
俳優、タレント。
身長176cm。
劇団文学座出身。

東京都清瀬市出身。
東京都立板橋高等学校、早稲田大学商学部卒業。
1969年、
NHKで放送されたテレビドラマ『走れ玩具』(文化庁芸術祭優秀賞受賞)の主演でデビュー。
1971年、
映画『八月の濡れた砂』に出演し脚光を浴び、
1972年2月から1年間日本テレビ系で放映された学園ドラマ『飛び出せ!青春』の熱血教師役で人気を不動のものに。
以後、
多くの映画、テレビドラマ、バラエティ番組、CMに出演。
又、
料理番組『くいしん坊!万才』(フジテレビ)の七代目くいしん坊(レポーター)を1988年1月から1990年12月にわたって務めました。
赤坂・溜池山王にある割烹《ぐるめダイニング むらの》のオーナー。

フジテレビの『ゴールデン洋画劇場』(後に『ゴールデンシアター』に改名)では
ブルース・ウィリスの吹き替えを専属で担当。
この事から、
90年代のウィリスの出演作品の地上波初放送時の吹き替えを務めるケースが多数。

安泉純二郎首相役を演じた映画『日本以外全部沈没』のDVD版特典のオーディオコメンタリーでは、
監督の河崎実とともに饒舌トークを繰り広げています。
『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)3時間スペシャル内の「痛快!永田町時代劇」コーナーに、“菅隼人”将軍役で出演。
2000年に放送された連続ドラマ『レッツ・ゴー!永田町』(日本テレビ)では、
官房長官役を演じています。
稲葉義男さん
(1920年7月15日-1998年4月20日)
俳優。
千葉県成田市宗吾出身。
日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒業。

芸術小劇場在籍中に応召。
1950年俳優座に入り、
『三文オペラ』『桜の園』等の舞台に立ちました。
映画では『七人の侍』で副将格として勘兵衛を補佐する五郎兵衛役を演じた他、
多くの作品に出演し名脇役として活躍。
又、『ダイヤル110番』や『ザ・ガードマン』での刑事役や警備員役等テレビドラマにも多く出演。
時代劇では善人役での出演が多く、
悪役として出演する事も。
1998年4月20日、
心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。
77歳没。
サンヨー食品
アラビヤン焼きそば

子供の頃はまだマルちゃんの
3食生麺焼きそばなど無い時代。
焼きそばといえばアラビヤンでした!
全国的にはあまり知られておらず、
都内ではなかなか売っている
お店も少ないですが、
1967年の発売から
今では5パック入りで
発売されています。
先日テレビで紹介されてから
都内では売り切れする店が
続出しているようです。
サンヨー食品はあのサッポロ一番を
作っている会社で、その姉妹品と
してアラビヤン焼きそばは
千葉県旭市の工場で作られており
旭市市民のソウルフードに
なっています。
具を入れずに素で作ったヤツが
一番ウマイです!
写真は2人前です😋
歌手・女優の畑中葉子さん😁

故平尾昌晃さんとのデュエット、カナダからの手紙で歌手デビューされました🎵

そのごはソロとしてもデビューされ、またにっかつロマンポルノにも出演されました✨

1959年4月21日生まれ😄

お誕生日おめでとうございます🎂🍰🎉
おひかえあそばせ。石立鉄男主演ドラマで雑居時代の元になった作品。
裸の大将放浪記
1980~1983
岡江久美子さん
(1956年8月23日-2020年4月23日)
女優、タレント、司会者。
身長157cm。
東京都世田谷区出身。
東京学芸大学附属世田谷中学校、
鷗友学園女子高校卒業。
夫は大和田獏、娘は大和田美帆。
義兄は大和田伸也。

1975年、
TBSドラマ『お美津』での主演で芸能界デビュー。
1978年からは『連想ゲーム』に紅組レギュラー解答者として5年間出演。
1983年、
当時同番組の白組レギュラー解答者だった大和田獏と結婚。
長女美帆を出産。
同時期には人気ジャズシンガー・阿川泰子の影響でジャズを歌い始め、
ジャズシンガーを目指して何度かテレビ番組でも歌っていました。
1991年から1999年迄は、
『天までとどけ』で大家族の母親・定子役を演じ、親しまれました。
1996年から2014年までの17年半もの間、
『はなまるマーケット』の総合司会を薬丸裕英と共に務めた事で全国区で朝の顔に(当初は数ヶ月間のつなぎ番組の予定でしたが、総合司会の2人の軽妙なやり取りが予想外に好評だった為、急遽番組継続が決定。その活躍によって2006年度の放送ウーマン賞を受賞)。
『探偵レミントン・スティール』でのヒロイン役(ステファニー・ジンバリスト)の吹き替えを担当(初期シーズン)。
その他、2時間ドラマに多数主演。
全薬工業のCMには1975年から約45年間出演。

2020年4月23日、
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去。
63歳没。
風間杜夫さん
(1949年4月26日-)
俳優。
身長171cm。
東京都世田谷区三軒茶屋出身。

1957年、
8歳の時に児童劇団『東童』に入団し、
翌年に東映児童演劇研修所の一期生。
すぐに子役としての頭角をあらわすと、
マキノ雅弘や加藤泰などの日本映画監督による東映作品に多数出演し、
少年雑誌の表紙を飾るほどの売れっ子に。

しかし世田谷区立旭小学校を卒業する頃、
「俳優を一生の仕事にするなら、子役の仕事をやめた方がいい」との米倉斉加年の言葉に従い、
1962年の13歳時に劇団を退団した後、
子役としての仕事は減少。
四代目江戸屋猫八とは中高の6年間玉川学園の同窓生(クラスが同じになった事も)で、
共に演劇部に在籍。

早稲田大学第二文学部演劇専修入学(後に中退)し、演劇活動を開始。
1971年秋、
早野寿郎が所長を務める劇団「俳優小劇場」の養成所に通っていましたが、
幹部間に内紛が発生したために費用を返金してもらい、
それを元手として22歳で劇団「表現劇場」を結成。
当時の仲間には後にシティボーイズを結成する事となる斉木しげる、きたろう、大竹まことがおり、
共に特撮テレビドラマ『仮面ライダーV3』のアトラクションショーで日本全国を回りました(その壇上で風間はV3のスーツアクター、斉木はボス役、きたろうは怪人役、大竹は影の声を担当した他、ショーの終了後に風間は1千人規模のサイン会もこなしていました)。
1972年、
日活ロマンポルノの映画『艶説女侠伝 お万乱れ肌』の脇役として、
「風間杜夫」の芸名での銀幕デビュー。
芸名を決めるにあたり、
同作の役名が「風間良吉」で、
北杜夫のファンだった日活の事務スタッフから「芸名は“風間杜夫”でどう?」と提案された事で決定。
1974年、『勝海舟』でテレビドラマに初出演し、
1976年、
『娘たちの四季』(フジテレビ)で初のドラマレギュラー。
1977年2月、
劇団「つかこうへい事務所」の『戦争で死ねなかったお父さんのために』に出演し、
以降、つかこうへいの演劇作品の主要キャストに。
映画では『蒲田行進曲』に出演した事を契機に顔が知られ、
テレビドラマでは『スチュワーデス物語』の村沢浩教官役で人気を獲得。
声優としても幅広く活躍しており、
12歳よりアニメ『安寿と厨子王丸』で声優を務め、
近年ではドラマ『X-Files』(テレビ朝日放送分)のモルダー役などが知られています。
日本テレビの深夜アニメ『闘牌伝説アカギ 〜闇に舞い降りた天才〜』では、
関西弁を話すヤクザの代打ち・浦部の声を演じました。
2002年11月、
一人芝居『カラオケマン』の北京公演。
2003年には、舞台での演技が評価され、
文化庁芸術祭で大賞を受賞。

2018年4月には、
大竹しのぶ主演の『リトル・ナイト・ミュージック』(東京・日生劇場)でミュージカルに初出演。
柴俊夫さん
(1947年4月27日-)
俳優・歌手・司会者・タレント。
身長180cm。

東京都台東区鳥越出身。
東京都立白鷗高等学校卒業、獨協大学中退。

学生時代はカメラが好きだった事から写真部に在籍し、
そこで知り合った友人の兄がモデルエージェンシーのカメラマンだった事から、
誘われてモデルとして芸能界入り。
1970年、
テレビドラマ『ゴールドアイ』で俳優デビュー。
1971年、『ゴジラ対ヘドラ』で映画初出演し、
円谷プロ制作の特撮ドラマ『ミラーマン』のパイロットフィルムで主人公を演じます。
同年、テレビドラマ『シルバー仮面』で主演。
役者の仕事が面白いと思い始めた時、
「NHKに出なきゃだめだ」と考えたものの、
自身も事務所もどうすればいいか分からず、
直接NHKに売り込みをかけ、
プロデューサーに話を聞いてもらい、
演出家の岡崎栄を紹介され、
時代劇『天下堂々』(1973年)に出演する事に。
NHKからは演技の特訓の場を用意され、
劇団俳小の早野寿郎が先生につき、
型、動き、喋り方、踊り、発想の仕方、全てを教わり、
これをきっかけに、
個人的に演技を学ばないといけないと思い立ち、
劇団「ぶどうの会」でレッスンを受けました。
1976年、
映画『金閣寺』において主人公・溝口が心を許す唯一の友人・鶴川役を演じ、
次いで『愛と誠 完結篇』では、
非行少年のボスという対照的な役柄に。
『さわやかな男』(1977年)、『いのち燃ゆ』(1981年)等のテレビドラマで主演を務め、
鋭い眼光とは裏腹に実直な好青年という役どころで注目を集めます。
1983年には『西部警察 PART-III』に「大将」こと山県新之助役でレギュラー出演。
1985年、
必殺シリーズ『必殺仕事人V・激闘編』では「はぐれ仕事人」壱役を演じ、
映画『必殺! III 裏か表か』でも同役で出演。
1988年に音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』、
2003年には情報番組『レディス4』などで司会を担い、
バラエティ番組等でも親しまれています。
2012年より、オーストラリアPR大使を務め、
2014年にはオーストラリア勲章(名誉勲章メンバー)を受章。
おこれ!男だ

大ヒットした青春学園ドラマおれは男だ!の続編的青春ドラマ(実質的には、続編ではない)…大ヒットしたおれは男だ!が、終了し、後番組のこちらも大ヒットした飛び出せ!青春の後番組として、満を持して?制作された、おこれ!男だ。
当時、絶大な人気を誇った青春スター森田健作前千葉県知事と石橋正次のW主演で、訳ありの学生達が生活を共にする私塾望洋塾を舞台に繰り広げられる青春ドラマ…おれは男だ!が、とにかく、面白かったのと、前番組の飛び出せ!青春も面白かったので、期待して、見てましたが、名作と詠われた前二作に比べ、ストーリー的にややダークで、当時の二大青春スターのW主演が、どっちつかずで、裏目に出たのか、視聴率は奮わず、2クール足らずで、打ち切りに。
単に、青春ドラマとして見れば、それなりの面白さはあったのだが、どうしても、おれは男だ!と比較してしまい、各エピソードの印象が極めて薄いドラマだったように思います。
主演二人以外にも脇を固める俳優陣は、良かったと思うが、設定とストーリーに無理があったのと、両雄並び立たずの典型のようなドラマでした。
森田健作前千葉県知事主演の青春学園ドラマは、おれは男だ!があまりに名作過ぎて、その後の青春をつっ走れ!、明日に駆けろ、そして、おこれ!男だとおれは男だ!以外、全部コケたように思います。
主題歌の青春に悔いはないかは、良い曲でした。

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コメント: 1
  • #1

    名無し (土曜日, 20 4月 2024 16:40)

    アラビア焼きそば 懐かしい!