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源氏物語の作者「紫式部」謎に包まれた家庭環境 式部の父親や母親はどんな人だったのか?

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部の家族について解説します。
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2024年度のNHK大河ドラマは「光る君へ」。主人公は、平安時代中期の女性・紫式部です。

紫式部の名は、現代に至るまで読み継がれている小説『源氏物語』の作者として、多くの人が聞いたことはあるでしょう。しかし、その生涯はどのようなものだったのかというと「知らない」という方も多いのではないでしょうか。

紫式部の生涯を解明するための史料は豊富に残されているというわけではありません。ですから、その生涯は謎に包まれている面も多いのです。

20カ国以上で翻訳される「源氏物語」

多くの人が紫式部の生涯を知らないとしても、それはある意味、不思議なことでも何でもありません。式部の生涯を研究する歴史家であっても、生涯の解明に苦労するところがあるのです。

とは言え、「光る君へ」の放送を契機にして、日本中の人々が式部の生涯を知り『源氏物語』についての理解を深めることは無意味ではないでしょう。

何しろ『源氏物語』は、20カ国を超える翻訳を通じて、世界中で読まれているのです。今から1000年も前に、現代に生きる人々をも魅了する小説を書いた女性の生涯。断片的であったとしても、追ってみたくはありませんか? 今からその旅へと、微力ながら、ご招待致しましょう。

 

まず、紫式部は、どのような家に生まれたのでしょうか。式部のお父さんは、藤原為時。お母さんは、藤原為信の娘でした。

為時は「藤原北家」と言われる、藤原不比等(藤原鎌足の子)の次男・房前(奈良時代前期の貴族。681〜737)を先祖に持つ名門の出身です。

藤原北家は、大河ドラマ「光る君へ」にも重要な役で登場する藤原道長の時代に全盛を極めました。そのことは、式部の生涯を考えるうえでも重要なことでしょう。

さて為時は、15歳頃に大学に入ったと言われています。大学に入り、菅原文時(菅原道真の孫)を師匠として学んだようです。為時は、968年11月に播磨権少掾に任命されました。

播磨(国)というのは、今の兵庫県南西部のことを指します。

「掾」というのは、国司(諸国の政務を管掌した地方官)の第三等官のこと。国司は4階級に分かれ、上から守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)となっていました。

当時、諸国は経済力や土地の面積、人口などによって「大国」「上国」「中国」「下国」にランキングされていました。

このうち、高い位置付けにある大国には「大掾」「少掾」が置かれたのです。

最上位の大国はどこかというと、大和国(奈良県)・河内国(大阪府東部)・伊勢国(三重県北中部)・播磨国などの国々でした。

上国は、山城国(京都府)・備前国(岡山県東南部)そして越後国(新潟県)といった国々。中国や下国については、もしかしたら、差し障りがあるかもしれませんので、省略しましょう。

 

紫式部の母と父の出会い

余談となりましたが、式部の父・為時は、22歳頃に、「大国」播磨国の地方官に任命されたのでした。

為時が播磨権少掾に任命されたとき(968年)に、彼が22歳だったとすると、為時の生年は946年ということになります。

地方官任命の前後に、為時は、藤原為信の娘と結婚したとされます。為信の娘というのが、前述したように、紫式部の母となる女性です。

為信の家は、藤原長良(平安前期の公卿。802〜856)の末流とされます。

長良は、藤原北家の藤原冬嗣(平安前期の公卿。右大臣や左大臣を歴任。藤原北家が栄える基礎を作ったと言われる)の長男でした。

その長良を祖先に持つ為信は、933年頃の生まれと推測されています。式部の父・為時よりも、13歳も年上ということになるでしょう。

為信は、969年には越後守、それ以降は、常陸介や右近少将に任命されました。紫式部の少女時代に、母方の祖父(為信)は常陸介だったのです。そして、987年1月に為信は出家しました。

では、式部のお母さんはどのような人だったのでしょう。これについては、残念ながら、よくわかりません。

式部のお母さんの兄・理明の生母は「宮道忠用の娘」でした。兄・理明と同じ母ならば、式部のお母さんの生母は「宮道忠用の娘」ということになります。

宮道氏はそれほど上級の氏族ではなく、中級・下級クラスでした。為時と結ばれた藤原為信の娘は、969年には長女を、970年に次女を産んだとされます(その2年後には、長男・惟規を産む)。

この次女こそ、「光る君へ」の主人公・紫式部なのです。今でも3人の子を産むというのは、なかなか大変だと思いますが、1000年前というとなおさらです。

出産環境も現代に比べたら、当然ですがよくありません(乳幼児の死亡率も高かったと推測される)。元々、身体が弱かったということもあったかもしれませんし、3人の子を産んだことが身体に響いたのかもしれませんが、式部の母は、長男の惟規を産むとしばらくして亡くなってしまうのです。

式部の日記に母の思い出は書かれていない

これは、式部が3歳か4歳頃のことと推測できます。紫式部は日記を書いていますが、そこに、幼少期の頃の父(為時)の思い出は記されていますが、母のことは書かれていません。

それは、式部が幼い頃に母を亡くしたことを表しているのでしょう。

式部の母亡き後、為時は一生独身を貫いたわけではありません。他の女性と結婚し、子供をもうけています。藤原惟通(後に安芸守に就任)・定暹などが、式部の母以外の女性から産まれているのです。

しかし、式部の継母というべき女性については具体的なことは何一つわかっていません。式部らがその継母と同居していた様子はありません。為時は新しい妻を自分の邸に迎え入れることはなかったようです。

式部やその姉弟は、母のいない家庭に育ったのでした。とは言え、女手がまったくなかったかというとそうではなく、乳母や女房(侍女)は邸にいたでしょうから、式部らは、父・為時と彼女らの手によって育てられたはずです。そのことは、式部の生涯や性格に何か影響を与えたのでしょうか。

(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波新書、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)