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「あのときヒメがいなかったら…」 天才霊感少女「藤田小女姫」はいかにして岸信介、松下幸之助に愛されたのか

松下幸之助氏に寵愛された藤田小女姫さん(他の写真を見る

 眉唾ものの“天才霊感少女”が絶大な支持を集めた時代があった。小学六年生だった藤田小女姫さんは、新聞で取り上げられたことがきっかけで、その予知能力が世間に知られることに。以降、彼女のもとには多くの相談者が集い、そこには日本の政界・経済界の大物たちの姿も……。しかし、狐の憑依によって得たというその能力は、とある事件をきっかけに疑いの目を向けられるようになる。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

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ハワイから来た狐

 ある小学六年生の少女が、数奇な運命のレールを走り出したのは、朝鮮戦争が勃発し、日本中が特需景気にわいた昭和二十五年のことだった。

「奇蹟の少女現る 科学時代にこんな話題が」

 この年の産経新聞、五月一日付紙面に掲げられたヨコ見出しだ。記事は、予知能力を持つ十二歳の少女のもとに、捜査への協力を要請する地元警察が足を運び、事業の相談などを持ちかける人が後を絶たないと伝えていた。

 母ひとり子ひとりの家庭でつましく暮らしていた少女は、その不思議な能力が、体に宿った瞬間を自覚していたらしい。取材記者には、こう話した。

 ハワイから来た狐が耳元で、「コトドヒメ」と囁いた四年前の夜を境に、「ものを聞かれると頭の中でタイプを打つような音がして無意識のうちに言葉がヒョイヒョイと口から出て来る」ようになったというのである。

最後の最後まで不可思議な人

 すっとんきょうな調子で予言を口走る、一風変わったおかっぱ頭の美少女は、たちまちときの人となる。

 だがこのときは、やがては首相の岸信介や政商と呼ばれた小佐野賢治、また松下幸之助といった財界の重鎮までもが、彼女の無垢な声に耳を傾けるようになるとは、誰も予想しなかっただろう。

 この記事をきっかけに、突如拓けた彼女の華やかな人生はまた、悲惨な結末をもって、あまりにも唐突に幕を引いた。

 平成六年、藤田小女姫は養子に迎えたひとり息子の吾郎とともに、ハワイで他殺体となって発見された。息子の友人だった容疑者福迫雷太が、間もなく逮捕される。しかし、彼が有罪判決を受けたいまでも、事件の真相が究明されたとは言い難い。冤罪説、複数犯行説は依然根強く、犯行の背後関係はぼやけたままだ。加えて、事件後ふたりの遺骨が行方知れずになるという混沌とした末路が重なり、その死は一層謎めいた。

 藤田小女姫は、最後の最後まで不可思議な人だった。

政財界を股にかけて

 色白で細面、切れ長の瞳を持った魅惑的な容姿も受け、若き日の小女姫はタレント並にラジオやテレビ、雑誌にひっぱり回された。相談の仕事も繁盛を極める。政治評論家の細川隆元も、彼女の能力を大いに買ったひとりだ。

『隆元のはだか交友録』(山手書房)には、政財界の友人に、小女姫を紹介したくだりがいくつか紹介されていた。

 日米安全保障条約の改定案成立に、日本中が騒然となった昭和三十五年、ときの首相・岸信介が、

「細川くん、藤田小女姫に会わせてくれ。そっと会いたい」(『隆元のはだか交友録』)

 と頼み込んだという。このとき彼女は二十二歳だ。以下は前掲書からの抜粋である。

「会って、藤田小女姫に『安保条約は通るか通らんか』と岸さんが訊いた。彼女は目をつぶるわけでもないし、いろんな道具を使うわけでもない。(中略)その間、約五分。『断固としておやんなさい。通ります。そのかわりに、通ったあと、あなたの内閣は長く持ちませんよ』と彼女は言った」

 学生らデモ隊三十三万人が異様な熱気を迸らせ国会を包囲するなか、六月十九日午前零時に、衆院通過後一カ月を経て安保条約は自然成立した。約三週間後に岸内閣は、総辞職した。

 細川は、アメリカ進出を見据え、社名変更を考える野田醤油の社長(当時)茂木啓三郎が、細川の紹介状を持ってサンケイ会館に出かけた経緯も記している。彼女はひとこと、「キッコーマン」への改名を勧め、三年後には必ず事業の目は出ると短く補足した。結果は、予言の通りであったという。

松下幸之助氏と藤田小女姫さん(1983年12月)(他の写真を見る

「ヒメがいなかったら、いまの俺はなかったよ」

 岸も茂木も、以来、長らく彼女と親交を続けた。ある実業家は、上機嫌の岸が新安保条約成立後に車のなかで、

「あのとき、ヒメがいなかったら、いまの俺はなかったよ」

 と話したのを覚えていた。

 

 小女姫の死まで、十年来のつき合いがあった、年輩の元実業家は、彼女の“信者”が、右翼から政財界、芸能スポーツ界にまでも広がったいきさつを、こう見ていた。

「いくら雑誌やテレビでもてはやされても、子どもの霊感に、政財界のお歴々が、いきなり注目したわけではないでしょう。最初に彼女を認めたのは、前田久吉さんでしょうね」

 大阪生まれの前田は、戦時中に大阪界隈にひしめく産業関連の業界紙を統合し、産経新聞を創刊した名物経営者だった。戦後の公職追放を経たのち、昭和二十五年に社長に復帰し、東京進出という大事業を一気に押し進めた。小女姫が、産経紙上に登場した年だ。

 好奇心旺盛な前田が、その記事をおもしろがり、試しにいくつかの相談を持ちかけてみたのが、はじまりらしかった。

 先見の明があった前田は、放送事業の成長を見込み、東京進出の七年後には東京タワーを建設、さらに翌年、関西にふたつのテレビ局をつくった。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのメディア王だった。

「前田さんは晩年ですが、重要な事業のことごとくを、小女姫さんに相談していたと言っていましたね。それが見事に的中するものだからびっくりしたと。逆に相談せずに手がけた事業は、はじから失敗したそうです。ですから、あの再建事業も……、そうだったんでしょうか」と元実業家は首をひねった。

松下幸之助氏と藤田小女姫さん(1983年12月)(他の写真を見る

「松下幸之助さんが、子どもみたいに扱われていました」

 前田は昭和三十三年、経営不振の時事新報社の再建に躓き、産経新聞社長のイスを水野成夫に譲ることになる。前田に引導を渡した水野を危険視する警告を、小女姫が早くから前田に伝えていたとも、彼は周囲に漏らしたという。

 余談だが、前田を追い落とした水野にも、小女姫はずいぶんと贔屓にされた。

 現役時代の前田は、彼女の能力を買っていることを、だれかれ構わずに語って聞かせたわけではなかったようだ。元実業家は、続ける。

「親交の深かった小川さんには、早くに彼女を紹介しています。小川さんこそが、彼女を大々的に売った張本人です」

 

 小川とは、安田信託銀行の辣腕行員で、戦後、旧藤田財閥の解体を陣頭指揮し、藤田興業の社長になった小川栄一のことだ。さらに藤田観光を創設し、観光産業の草分け的な経営者となった。

「小川さんは忙しい人ですから、日本中を飛び回っていた。それで一時期、彼女も一緒に連れ回して歩いたらしいんです。厚く信奉していたというより、ペットのように可愛がっていた感じかな。だから、小川さんの周りに集まる著名人の間に、一気に顔が売れたんです。彼女に人気が出たのは、小川さんの信用半分、天真爛漫な彼女のキャラクター半分であったと思いますよ」(前出・元実業家)

 

 そういう彼は往時の小女姫を、

「常識はゼロ。世のなかのことをなにも知らない。なんせ彼女にかかれば、岸さんだって松下幸之助さんだって、子どもみたいに扱われていましたよ。死ぬまで、あの人は小学生のままだったな」

 と懐かしそうに思い起こした。

松下幸之助氏と藤田小女姫さん(1983年12月)(他の写真を見る

母と子

 取材をするうち、藤田母子に関するおもしろい噂にぶつかった。古参の産経新聞OBらの間には、実は霊感があったのは小女姫の母であり、娘は母のプロデュースによってつくられたただのタレントだという話が、密かに残っていた。

 昭和二十八年三月号の『オール讀物』誌上に、記者と担当編集者が相談者を装い、彼女の相談部屋に密かに取材に入った記事が掲載されていた。

 その当日、相談者が並ぶ一室に、「派手な緋色のワンピース、キラキラピカビカ光るネックレス、イヤリング、腕環、南京虫という時計」を身にまとった十五歳の小女姫が、「厚化粧」の母親にせき立てられて現れた。だが、ファンらしき少女とおしゃべりに興じる彼女は、相談などまるで上の空だ。

「『こんど菓子屋をはじめるのですが、この場所であたりましょうか。』
『いいですって…….』
『いつごろからはじめたらいいでしょうか。』
『早いほうがいいですって。』
『早くと申しても、いつがいいでしょうか。』
『夏まえがいいです。』
『最中を売るのですが……』

 

 彼女は人形に気をとられていてなかなか返事をしない。商売上手らしい母親がサイソクする。

『トクイをとれば繁昌します。』

 そこで男は喜んでひきさがる。全くバカなことを言ったものだ。どんな商売だってトクイをとれば繁昌するにきまっている。お姫さまは男のほうを見もしないで、人形をいじり、ゆで卵をたべている。これで六百圓!」(オール讀物)

松下幸之助氏と藤田小女姫さん(1983年12月)(他の写真を見る

まったく世間離れしていた母子

 万事がこんな調子らしかった。母久枝は、ときに相談者もそっちのけに、娘にブロマイドへのサインをはじめさせたり、あるいは、つたなすぎるとたえに納得しない客を、「霊感だから、その通りにやってごらんなさい」とあしらい、一切を傍らで仕切っていたようだった。

 もの怖じせず、ときに開き直りともとれる態度で堂々と相談者を煙に巻く母の強烈な個性が、「霊能者は母である」という噂の源らしかった。

 ハワイでの事件後に、小女姫の遺骨を引き取った従兄弟のひとりは、冗談交じりに母久枝の印象を「とにかく、ぶっとんだばあさん」であったと、笑った。

「箱根の家には、よく遊びにいったんですが、有名人が頻繁に出入りしていましたね。それだけじゃなくて、誰かわからない居候までいる。で、彼女と母親は、驚くような高額な金の貸し借りをめぐって、言い争っている。彼女は、金銭感覚がなくて、欲しい物は借金をしてでも、なんでも買ってしまうようでした。まあ、ふたりともタイプは違うけど、まったく世間離れしていたのは一緒でした」

 一本の道を併走する母子の両輪は、独特なバランス関係にあったようだ。予言を売りに、相談業務を切り盛りする母に手をひかれ、小女姫はただ無邪気に、足下の不確かな娑婆の花道を、ふわふわと走っていたようにも見える。

自分のことはわからない

 私生活では離婚も経験した小女姫だが、仕事は、好調そのものだった。が、三十歳のとき、思わぬ事故に躓いた。

 昭和四十三年、小女姫が名目上オーナとなっていた有楽町にあったサウナが火災を起こし、三人の客が一酸化炭素中毒で死亡したのだ。経営者の過失責任を認めた東京地裁は、のちに禁固十カ月、執行猶予二年の有罪判決を彼女に下している。

 このとき週刊誌が、記事であざとく爪を立てたのは、火災発生時にサンケイ会館で相談者の悩みを聞いていた、彼女の予知能力に対する疑念だった。

 友人らが覚えている彼女の口癖は、「私、自分のことだけは、なにもわからないのよ」だった。四年前の離婚のときには愛嬌として受け取られたこの言葉も、今回は辛辣な響きを伴って、誌面に取り上げられた。

 信望の失墜は、予言者には致命傷となった。サウナは即閉鎖、サンケイ会館の相談室も、間もなく看板をおろした。このころから、政財界の名士や、文化人らが静かに、彼女と距離を置くようになったという。政治家の派閥パーティーに顔を出すことも、すっかりなくなった。

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「藤田小女姫」の名が今日までミステリアスな雰囲気をまとっているのは、その晩年によるところも大きい。つづく後編では、ハワイでの不可解な死、そして「実の弟」を主張する人物も現れた血縁関係に迫る。

後編【ハワイで遺体発見、胸には銃弾の痕…“天才霊感少女”と言われた藤田小女姫、謎に包まれた56年の生涯】へつづく

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部

ハワイで遺体発見、胸には銃弾の痕…“天才霊感少女”と言われた藤田小女姫、謎に包まれた56年の生涯

松下幸之助氏と藤田小女姫さん(他の写真を見る

前編【「あのときヒメがいなかったら…」 天才霊感少女「藤田小女姫」はいかにして岸信介、松下幸之助に愛されたのか】からのつづき

 ハワイから来た狐が耳元で「コトドヒメ」と囁いた――。その夜を境に予知能力に目覚めたという藤田小女姫さんは、政財界の大物たちまでもが頼るほどの人気占い師として名を馳せた。母子家庭で育ち、相談業務を仕切っていたのは母。ところが名目上のオーナーを務めたサウナの火災死亡事故によって、その能力にはケチがつけられ、支持者は掌を返した。一線を退いた彼女は、その後、養子の吾郎とともに、ハワイで他殺体となって発見される。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

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胸を銃弾で撃ち抜かれた遺体

 彼女が、逃げるように日本を離れ、母親とハワイに移住したのは、事件から五年後の昭和四十八年の夏である。この年、彼女は生後間もない吾郎を、養子に迎えている。

 出国から九年の歳月を経て帰国した小女姫は、経営コンサルタントとして、本格的に活動を再開している。昭和五十七年のことだ。彼女と人生をともにしてきた母久枝を病気でなくした直後の帰国だった。

 その後、日本とハワイを行き来していた藤田小女姫は、ハワイのワイキキ海岸近くに所有していたコンドミニアムで、五十六年の生涯を閉じた。平成六年二月二十四日(現地時間二十三日)、建物三十二階の部屋から突然発生した火災が消し止められたあと、クローゼットのなかから、胸を銃弾で撃ち抜かれた彼女の遺体が出てきたのである。

 少し遅れて、近くのホテルの駐車場にとめてあった車が火を吹いた。車の助手席からは、二十一歳になる息子吾郎の遺体が発見された。母同様、胸には弾痕があった。

不鮮明な生い立ち

 真相の見えにくい事件の謎と一緒に、彼女と息子吾郎の血縁に関する数々の推論が噴き出すことになる。遺骨の引き取りや遺産相続、保険金の受け取りが、一筋縄では片づかなかったのだ。

 藤田小女姫の生い立ちについては、不鮮明なことが多い。母のほかに家族はなく、親戚づきあいも薄く、さらに戸籍の縁戚関係は複雑に入り組んでいる。

 藤田小女姫こと東亞子は、福岡県福岡市にあった鉱山会社に勤める父常吉と母久枝の長女として、昭和十三年に生まれている。彼女が四歳のときに両親は離婚し、母子は各地を転々とした。この間の足取りはまったく不明で、いまわかっているのはその八年後、産経新聞に登場した当時、ふたりが横浜市鶴見区に暮らしていたということぐらいだ。

 古い雑誌記事をめくってみた。

 昭和三十六年、銀座で貸金業を営む男性との結婚を控え、二十三歳の小女姫は『婦人公論』三月号に寄せた手記で、めったに語ることがなかった母久枝と自身の少女期について、簡単に触れている。ついでながら、この結婚はわずか三年で破綻した。

「母が離婚されて、横浜の祖父の家に帰って来ていたとはいえ、その苦労は並大抵のものではなかったと思います。

 母は、わたしを立派に育てたいため、弱い体をむちうちながら、寮の舎監をしたり、ある会社の秘書をしたり、また終戦後には、ひょっとしたゆきがかりで、横浜に進駐したばかりの兵隊さんのために、ランドリーをひきうけたりして、ママさんランドリーなどと呼ばれました」

異母弟は語る

『東亞子と洋三』(出版研)という書籍が、昨年出版されていた。著者の藤田洋三は、東亜子の死後に縁者の名乗りを上げた腹違いの弟で、彼女より五歳年下だ。著書にある東亜子の素性は、にわかに信じがたいほどに奇怪である。

 単刀直入に、洋三に聞いてみた。

「つまり戸籍上では、あなたと東亞子さんは母違いの姉弟ですが、記載はすべてでたらめで、本当は、あなたと東亞子さんが実の姉弟ということですね」

「そういうことです」

 書籍によれば、東亞子と洋三は、さる大物右翼活動家と、のちに著名な政治評論家の妻となる女性との間に生まれている。洋三は生後間もなく、東亞子は五歳のころ、誘拐同然に戸籍上の父常吉の手で、それぞれの母のもとに連れてこられた。つまり、年端もいかない霊感少女が、政財界の顧客をこうも取り込めたのは、のちに雑誌などで小女姫の姿を発見した、実の父母たちの後ろ盾あってのこと、というのだ。

 洋三は、実家にあった数々の東亞子の写真と親族の断片的な伝聞、戸籍に記載された地を自分で訪ね歩き、この本を書いたと、持論の根拠を語った。

 たしかに、実の父母だと推測する両名と、小女姫との間に、近しいつき合いはあったようだが、なぜそれが親子関係に結びつくのかは、どうも納得しかねた。

 小女姫の母方の従兄弟のひとりは、「彼女は、父親(常吉)のことをひどく嫌っていました。父親とは、生前一度だけ会ったことがある、とは聞いています」と語った。ある知人は、「別れた父親が、彼女に金をせびりに来ていると聞いたことがある。そのとき、あの人は、本当のお父さんじゃないのと言っていたな」という古い記憶を口にした。

 その言葉が、戸籍の問題を指したものか、彼女の素直な心情だったのかは、いまとなっては誰にもわからなかった。

負債額は約二億三千万円

 ハワイに出かけて遺骨を引き取ることになったのは、母久枝の実弟の息子である尾崎宜明、同じく妹の息子である浅田直也であった。彼ら母方の親族は、早々に小女姫の遺産相続を放棄している。

 浅田は、「彼女の交友関係は、政治家から芸能人までさまざまです。各方面から、偲ぶ会をしたいから、遺骨を持参してほしいという要望が寄せられて対応に苦慮しました。マスコミの取材も激しく、遺産目当てという報道まで出る始末です。さらには、彼女にお金を貸しているというところから、次々と有象無象の催促がきて、本当によわりました」と、当惑した顔で当時を振り返った。

 結局、小女姫の負債も含めた遺産を相続したのは、異母弟の藤田洋三だった。洋三は、その結末をこう説明した。

「私が、限定承認という手続きをとって相続しました。これは、資産額を負償が上回る場合、資産を処分して得た額だけを、負債に充てればいいという制度です。たしか負債額が二億三千万円ぐらいで、成城や箱根のマンションを処分した額が九千万円ほどでした。保険金? こちらは最高裁まで争ったのですが、裁判所の判断は、東亞子より吾郎が後に死んだということで、吾郎の親(戸籍上)を支払先と認めるというものでした」

 債権明細の一部で知る限りでは、小女姫と吾郎には、互いが受取人になり合う形で、少なくとも総額五千三百万円になる五タイプの保険がかけられていた。

「吾郎は間違いなく実子」との証言

 最も奇怪なのは、母方の親族も、洋三も誰も肝心な遺骨の行方、彼女の墓の在処を知らなかったことだった。

 遺骨を一時保管していた尾崎は、

「骨は、親戚づきあいのあった母方の親族二十人ほどが集まって神式の祭り(葬式)を営んだ後、成城の自宅で小女姫の会社の残務処理をしていた秘書に、私がたしかに手渡しています。ただその後、どうなったかはまったく聞いていません。その秘書の方も、もう亡くなられたと聞いていますが」と話す。

 唯一考えられるのは、吾郎方の縁者に引き取られたということだ。吾郎は、戸籍上は名古屋に住む元国鉄職員の三男である。が、事実は、元国鉄職員は戸籍を貸しただけで、吾郎は間違いなく小女姫の実子であり、父は別にいるのだという声にぶつかった。

 前出の元実業家は、小女姫が成城の自宅で開いたくだけた酒席で、自分を捨てた吾郎の実父に対して、激しく感情をむき出した場面に遭遇したことがあったという。

 そこにいた面子は、小女姫が世に出るきっかけとなった新聞記事を書いた産経新聞の内川源司と、藤田観光社長だった田中雄平、そして彼だけだった。田中は、小女姫の能力を政財界に売り出した、あの小川栄一の後継者である。面倒見のよかった田中と内川は生涯、彼女の気の置けない特別な友人であった。

事件後、忽然と消えた三体の遺骨

「話の経緯は覚えていませんが、急に膝を突き合わせるような深刻な話題になってしまって。実は、吾郎さんは、小女姫さんと名古屋に住む歯科医の間に生まれたお子さんなんです。一時は結婚の話まで出て、お母さんの久枝さんが熱心に準備を進めていたのですが、なぜだか彼が一方的に断ってきたようです。

 せめて子どもだけでも認知してほしいと願ったようでしたが、それもかなわず、彼女はずっと、騙されたと言って相手を恨んでいたんです。そのことで、内川さんや田中さんは、随分相談に乗ったらしいですね。これは彼女の親しい友人の間では、周知の事実です」

 事件当時、成城の自宅には、小女姫の母久枝の遺骨があったはずだった。母と別れるのが辛いという小女姫は、その生前ずっと母の遺骨を埋葬できずに手許に置き続けた。

 つまり事件後、三体の遺骨が、忽然と消えてしまったことになる。

 それとも、吾郎の実父であるという男の手により、ふつうの人藤田東亞子として遺骨はどこかにひっそり葬られているのだろうか。

 そういえば十二歳の少女は、こんなことを言っていた。

「私は人の運命などを見るのあまり好きじゃないの、でも人がどんどん来ちゃうの」(産経新聞)

 彼女はその死によって、やっと予言者小女姫を、辞めることができたのかもしれなかった。運命的な新聞記事から四十四年、メディアの寵児とも言われた少女は、まるで劇画のような人生の痕跡をどこにも残さずに、ふらりと天にのぼってしまった。

前編【「あのときヒメがいなかったら…」 天才霊感少女「藤田小女姫」はいかにして岸信介、松下幸之助に愛されたのか】からのつづき

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部