光秀の直感は当たってました。
祝言の席に姿を現わしたのは、煕子本人ではなかったのです。
ことの真相はこうでした。
嫁入りの数日前、煕子は疱瘡にかかりました。
一命は取りとめましたが、顔に醜い痘痕が残ってしまいました。
このため、煕子の家(妻木家)では、破談にならぬよう、 顔も仕草もよく似た妹を、煕子として祝言に送りこんだのです。
結婚当日、光秀はこれを知るとこう言いました。 「たとえ見かけが醜くなっても、 私の相手は妹でなく、姉の煕子である」
そして煕子を迎えに行き、二人は結ばれたといいます。 それから後、光秀が仕える土岐氏が、 斉藤道三によってのっとられました。
そのため、光秀は浪人となり、 やがて越前の朝倉義景に仕えるのですが、 その間、光秀はひどい貧乏の中にありました。
その頃、朝倉氏の仲間同士では、持ち回りで会を準備し、 飲んだり、食べたりする習慣がありました。
しかし光秀は、日々の食事も満足にはできない暮らし。
そこで、煕子は、当時、女の命といわれる自分の黒髪を、 こっそり売って、他の仲間に恥じないもてなしをしたといいます。
それを知らない光秀は、贅沢なもてなしに驚きました。
光秀は自分の催す会を終え、無事面目を保つことができました。
今でいう面目と当時のそれとは比較にならないものがあります。 当時の武士にとっての面目は、命と同じ重さがあったのです。
光秀は、後で贅沢なもてなしの理由を知り、 厳しく妻を叱りつけました。
が、同時に心中は、いたく感激し、 「一生、側室は持たない」と心に刻み込み、 それをその通り実行したのです。
これもまた武家の頭首としては、子孫づくりの必要性から、 複数妾の存在が当然のところ、光秀の煕子に対する情愛が偲ばれます。
煕子は光秀より先に病没しますが、 病の床で、主人の身の回りの世話を妹に依頼しました。
妹も、夫婦の契りは交わさずとも、 姉に代わり光秀の世話に専念したとのことです。
やがて、光秀は信長に仕えます。 近江坂本城主にまでどんどん出世し、 そして、本能寺へと突入していくことになります。
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