上原選手は浪人することにしました。
そして後に、この一年間の浪人生活をこう語っています。
私は本当に死に物狂いで参考書と首っ引きになり、問題集と格闘した。
それこそ過去の十八年分を一気に取り戻すつもりで、机にかじり付いていた。 間違いなく、あの一年間が人生で最も真剣に勉強したと断言できる。
そう、これまでちっとも勉強しなかった上原選手が、 受験失敗して、初めて勉強へのやる気を燃え上がらせたのです。
この一年間、上原選手は野球も封印しました。
硬式ボールを触ることもせず、ただ週三回スポーツジムに通って 体作りに心がけました。
さらに、それほど裕福な家庭でもないから、 悠々と浪人生活を無収入で送るわけにはいきません。
工事現場などでのアルバイトにも精を出しました。
上原選手が浪人生活を送っている間に、 同学年の高橋由伸選手や川上憲伸選手たちが、 進学先の大学で頭角を現しています。
しかし、このあせりにも似た感情を、 上原選手は大きな力へと変えていきます。
「自分もいつか必ず追いつくぞ」 というモチベーションにつなげたのです。
上原選手はこう語ります。
受験に失敗することなく、すんなり大学へ進んでいたら、 上原浩治の人生は全く違っていたことだろう。 同い年で活躍する選手へ、対抗心も燃え上がらなかっただろう。
雌伏している1年の間に、上原選手は 死ぬほど勉強し、身体をいじめ、そして心を燃やしていたのです。
そして、翌春、上原選手は再チャレンジした大阪体育大学に合格します。
大学に入ってからの上原選手は、今までのうっ憤を晴らすかのように大活躍。
全日本にも選ばれ、国際大会でも活躍し、 1998年に読売ジャイアンツから ドラフト一位指名されるまでの投手と成長しました。
ところで、上原選手の背番号は巨人での19番に始まり、 どこのチーム行っても、この19番で変わりません。
「たまたま空いてる。行くところ行くところが」と照れながら言いますが、 どのチームからも同じ番号で歓迎されていた証拠でもあります。
上原選手の19番には、こんなこだわりがあります。
「浪人していた19歳、その年を忘れないように。 その1年を考えれば、ちょっとくらい打たれたところで何も思わない。 やっぱり野球できない19歳の時が一番苦しかった。 そういう意味で背番号を見れば、すぐに開き直れる、前向きになれる」
と背番号への想いを明かしました。
「何、くそ」という心の大切さを学んだのが、 この19歳の浪人時代にであるというのです。
上原選手はこう結んでいます。
浪人時代の一年間こそ、上原浩治の礎であり、人生の要である。 私は十九歳のこの年を生涯胸に刻みつけるために、 プロ野球選手になって背番号「19」を背負った。
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