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本当の「鬼」は家康ではなく秀忠だった…千姫による「秀頼の助命嘆願」を父・秀忠がはねつけたワケ 2代目将軍秀忠の子・千姫がたどった壮絶な人生

徳川秀忠の娘・千姫はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「生後1年で秀頼と婚約させられ、秀頼の死亡後は家康の重臣に嫁がされた。権力に振り回され、幸せとはいいがたい人生だった」という――。

家康の孫で秀頼の夫だった千姫の苦しみ

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康(松本潤)の孫、すなわち嫡男の秀忠(森崎ウィン)の長女で、豊臣秀頼(作間龍斗)に嫁いだ千姫(原菜乃華)の境遇に同情が集まっている。とくに第46回「大坂の陣」(12月3日放送)は、彼女が気の毒な場面が目白押しだった。

ずっと不安な面持ちの千に、夫の秀頼は「余は徳川から天下を取り戻さねばならぬ」と意志を伝える。千は「あなた様は本当に戦をしたいのですか? 本当のお気持ちですか?」と問いかけるが、「余は、豊臣秀頼なのじゃ」というのが夫の回答だった。そのことを理解しながらも、同時に実家の徳川を案じる千。

大坂城に集まった、関ヶ原合戦における西軍の敗将ら歴戦のつわものを前にしては、義母(血縁上の叔母でもある)の茶々(北川景子)から、「お千や、そなたも豊臣の家妻としてみなを鼓舞せよ」とうながされ、複雑な気持ちのまま「豊臣のために、励んでおくれ!」と声を張り上げたが、一同が気勢を上げるなか、千だけは苦しみは悲しみを押し殺した表情をしている。

視聴者の同情を買うのも当然という場面の連続だった。実際、史実の千もきわめて気の毒な立場におり、凄惨せいさんな場面も経験した。それを具体的に記したいが、その前に、千をめぐる状況に関する「どうする家康」の描写について、史実と異なる点を指摘しておきたい。

大坂城攻めで最も効果的だった武器

大坂冬の陣において、大坂城の周囲で繰り広げられた攻防戦では、徳川方に甚大な被害が出た。広壮かつ堅固で、さらには城下町を囲む壮大な総構(外郭)を備えた大坂城がいかに難攻不落であるか、実地で見せつけられる格好になったのだ。

そこで家康がもちいたのが大筒だった。家康は大坂城を攻めるのが困難であることを予想して、多数の大筒を用意していた。

当時の大筒は鉄の弾丸を飛ばすだけだったので、野戦ではあまり効果が発揮されなかったが、大きくて動かない標的をねらう攻城戦では効果が期待できた。大坂城は広大だが、北西方向は外堀(淀川が外堀に見立てられていた)から本丸までの距離が短かったため、家康は淀川の中州の備前島に大筒を配備させた。この合戦のために300挺が準備されたというが、射程距離が長くて威力があるいわゆる「石火矢」は5門だったという。

そして昼夜問わず、連日砲撃を加えて威嚇することで和議に持ち込んだ。このとき砲弾が天守の柱に命中して天守が傾き、茶々の居間も破壊され、茶々の侍女数人が即死したとされる。

史実と異なる「お涙ちょうだい」

ドラマでは家康が大筒で本丸の砲撃を命じると、城内にいる千の身を案じる秀忠は、泣きながら家康に「やめてくだされ、父上!」と懇願。ついには「やめろーっ! こんなのは戦ではない! 父上‼」と叫び、嗚咽しながら家康にすがりついた。家康は「これが戦じゃ。この世でもっとも愚かで醜い……、人の所業じゃ」と答えたが、いかがなものか。

後述するが、千姫の身を案じていたのは、むしろ家康であって、秀忠は意外にも冷酷だったと伝えられる。史実を無視して父娘愛を強調し、お涙をちょうだいするドラマづくりには違和感を覚える。

また家康の言葉にも、太平洋戦争の惨禍を経験した戦後の日本で醸成された、戦争とは問答無用で否定されるべき「愚かな所業」であるという感情論が反映されている。戦争が「愚かな所業」だという価値観を今日もつのはいいが、当時の人がもっていたように描けば、歴史の歪曲につながってしまう。

2歳で婚約が取り決められた

さて、秀忠と6歳年長の妻、浅井江(茶々の妹)とのあいだに長女の千が、伏見において生を受けたのは慶長2年(1597)5月10日のことだった。豊臣秀吉は翌年8月17日に死去する前に遺言で、まだ数え6歳の秀頼と数え2歳の千との婚約を取り決めている。秀吉は臨終間際に「秀頼のこと頼みまいらせ候」と哀願し、その一環であるこの婚約を、家康は受け入れた。千の運命は生後わずか1年にして、すでに決められたのである。

そして秀吉の遺言にしたがい、慶長8年(1603)7月、11歳の秀頼と7歳の千の婚礼が執り行われた。家康はこの年の2月、征夷大将軍に任ぜられていたが、この時点では徳川と豊臣の併存を考えていたのだ(それしか方途がなかった)。この婚礼の際、秀忠は江戸に残ったままだったが、母の江は身重なのを押して千に同行し、5月半ばには伏見に着いて家康と対面している(江は7月に伏見で初を生んでいる)。

ところで、江は嫉妬心が強く、秀忠の子女は長男で早世した長丸を除き、二男五女が江とのあいだに生まれた、と一般に考えられてきた。しかし、福田千鶴氏は「江から出生したのは千・初・国松の二女一男のみであり、子々・勝・和・長丸・家光は庶出子と考えられるので、秀忠には長丸の生母以外にも侍妾が置かれていたとみなされる」と述べる(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。

いずれにせよ、千は秀忠と江の子であることがまちがいなく、長女であり、二人のあいだのはじめての子女だった。それだけに二人が愛情を注いだことは想像に難くない。

大坂城から命懸けの脱出

時計を慶長15年(1610)5月7日、大坂夏の陣による大坂城落城まで進めよう。城外戦で豊臣方は奮戦したが、何分にも多勢に無勢。大野治長は負傷して戻り、天王寺や岡山での敗戦も告げられた。それを受けて秀頼らが本丸に引き上げると、徳川への内通者が城に火をかけた。それを機に徳川方の軍勢が進撃し、二の丸が陥落する。

 

ここまできて豊臣系の将兵らは自害する者が続出し、一方、城から落ち延びる者もいた。そんな光景を千はつぶさに見ていたに違いない。秀頼も千を連れて天守に登り、そこで自害しようとしたが、家臣の速水守久に止められ、本丸北側の山里曲輪に移動して櫓に身を隠した。二十数名がしたがっていたとされる。

そのとき、午後5時ごろだったと伝わるが、大野治長は千と侍女たちを、護衛をつけたうえで城外に脱出させた。それは千を家康らの陣所に送り届け、治長が一切の責任を負うという前提で、秀頼と茶々の助命を嘆願するためだった。

しかし、すでに城内には火の手が回っており、千らの一行は本丸を出たところで立ち往生したが、徳川方の坂崎直盛に遭遇。修羅場をくぐり抜けた末になんとか無事に脱出に成功した千らは、本多正信に引きとられた。

鬼は家康ではなく、秀忠

千による秀頼と茶々の助命嘆願を受け、徳川方の陣営ではどうすべきか話し合われた。このとき、家康は千の無事をよろこび、秀頼親子の命を奪うことに躊躇する姿勢も見せたという。これに対し、助命を厳しく謝絶したのは秀忠だった。

「どうする家康」の最終回(12月17日放送)では、「秀頼さまと義母上の命だけはお助けください」と必死に哀願する千を、家康は「それはできぬ。戦いの種を残しておくことはできぬのだ」といってはねつける。千は家康に「おじいさまは鬼じゃ!」という言葉を吐くようだが、それは史実と異なる。

秀忠は、秀頼とともに自害しなかった千に対する怒りをあらわにし、「女なれども、秀頼とともに焼死すべきところに、(城を)出てきたのは見苦しい」とまでいい放ち、しばらく千と対面すらしなかったという(『大坂記』など)。

「戦いの種を残しておくことはできぬ」との強い思いを抱いていた「鬼」は、むしろ秀忠であって、それがパフォーマンスでないことは、しばらく千と会わなかったことからもわかる。大河ドラマで描かれるような感情論、すなわち父娘の涙の物語は、この冷徹な判断が求められた戦の場面では、けっして成立しない。

事件と不幸が連続した壮絶人生

その後も、千姫の周囲は穏やかとはいえなかった。大坂夏の陣の翌年、徳川四天王の本多忠勝の嫡男で桑名城主、忠政の嫡男の忠刻に再嫁したが、その年、「千姫事件」が起きている。千が大坂城から脱出する際、救出の手助けをした津和野藩主の坂崎直盛が、千を奪おうとしたのである。

救出した者に千を再嫁させるという約束を反故にされたため、といわれるが諸説あって定かではない。ともあれ計画は事前に露見し、屋敷を幕府に包囲された直盛は家臣に殺されたという。結果、坂崎家は断絶している。

翌元和3年(1617)、本多家は姫路(兵庫県姫路市)へ移封となり、翌年に忠刻の長女の勝、元和5年(1619)には長男の幸千代を生んだ。これでやっと幸せが訪れるかと思いきや、元和7年(1621)、幸千代は数え3歳で没し、寛永3年(1626)には夫の忠刻も、そして母の江も死没。勝とともに本多家を離れて江戸城に入り、出家して天樹院と名乗った。そのときまだ、数え30歳にすぎなかった。

その後、40年を生きて寛文6年(1666)2月に江戸で死去したが、30年の前半生の不幸は、たしかにドラマの千の悲しげな表情が象徴している。


千姫は夫の秀頼を殺した家康を恨んでいたわけではない…再婚後も「徳川の姫」として生きた波乱万丈の70年 祖父が家康で義母は淀君という戦国のラストプリンセスの生涯

淀君の子・豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣で夫や淀君と死別することになる千姫。作家の濱田浩一郎さんは「千姫は夫を祖父の家康に殺されたことになるが、それで家康を恨んでいたという記録はない。家康は死んだ年にも千姫に『会いたい』という手紙を出しており、関係は良好だったのではないか」という――。

家康の孫娘として生まれ、1歳で豊臣秀頼と婚約

千姫は、徳川家康の孫娘です。大河ドラマ「どうする家康」では、原菜乃華さんが千姫を演じており、松本潤さん演じる家康にかわいがられる様が描かれていました。では、千姫の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。千姫は、家康の三男で後継者の徳川秀忠の長女として生まれます。慶長2年(1597)のことでした。

千姫の母は、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」(上野樹里主演)の主人公にもなったごう。北近江の戦国大名・浅井長政と、お市(織田信長の妹)の間に生を受けたのが、江(三女)です。千姫の運命は、豊臣秀吉によって定められます。慶長3年(1598)7月、天下人・秀吉は病床にありましたが、自らの死を悟り、有力大名に遺言を残しています。遺言は、家康や秀忠にも残されました。家康への遺言には「秀頼を孫婿にして、秀頼を取り立ててほしい」とありました。

そして、秀忠への遺言には「秀頼の舅(配偶者の父)として、内府(家康)が老齢となり、病となったとしても、家康と同じように、秀頼を盛り立ててほしい」との内容が記されました。つまり、このとき、家康の孫娘であり、秀忠の長女である千姫が、秀吉の子・豊臣秀頼(5歳)に将来嫁ぐことが決定されたのでした。

【図表】千姫をめぐる家系図

夫の母は血のつながった伯母でもある淀君

ちなみに、秀頼の母は、淀殿。淀殿もまた江と同じく、浅井長政とお市の娘(長女)です。それにしても、千姫は慶長3年当時、1歳になるかならぬかの幼子。そうした幼子の運命(結婚相手)が既に決定されたということは、現代から見たら、悲劇と言えましょう。秀吉の胸中には「家康の孫娘とわが子・秀頼を結婚させれば、豊臣と徳川は縁戚。そうなれば、自分が死んだ後も、家康は秀頼を邪険には扱うまい」との思い、願望があったのでしょう。千姫は生まれて間もなく、自らの知らぬところで、政略結婚を運命づけられたのです。

慶長8年(1603)7月、7歳となった千姫は、大坂の豊臣秀頼のもとに嫁ぐことになります。伏見より、船で大坂に入った千姫。御供の船は「数千艘」(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)あったというから、すごいものです。途上では、諸大名が警固をしていました。厳戒体制と言うべきでしょう。

大坂夏の陣の時も大坂城内にいた千姫はどうしたか

徳川家と豊臣家が対立せず、戦に発展しなければ、千姫は、政略結婚の犠牲になったとはいえ、幸せな生涯を送れたと思います。しかし、方広寺鐘銘事件や大坂城の浪人問題などが重なり、ついに、両者(徳川と豊臣)は戦端を開きます。慶長19年(1614)、大坂冬の陣です。いったん、和議が結ばれますが、翌年には再び戦(大坂夏の陣)が勃発。豊臣方は追い詰められて、豊臣秀頼と淀殿にも最期のときが迫っていました。

『徳川実紀』によると、千姫は「秀頼母子助命」を徳川方に請うため、大坂城を出たとあります。その途上に千姫一行が出会ったのが、徳川方の坂崎出羽守直盛(成政)でした。直盛は、石見国津和野藩主です。直盛は、千姫を無事に、家康の本陣がある茶臼山に送り届けました。豊臣家の家臣・大野治長も家来を派遣して、秀頼の助命を請いますが、家康は「将軍家(秀忠)の意向に任そう」と返答したとのこと。

現在の大阪城天守閣
撮影=プレジデントオ

「秀頼と淀君の助命嘆願はいったん聞き入れられた」という説も

一説によると、方々からの助命嘆願は聞き入れられ「秀頼母子出城」が一時は定まったとされます。徳川方の近藤秀用と豊臣方の速水守之が出城の件について交渉。速水は「御母子の乗り物(輿のこと)を頂きたい」と提案しますが、近藤は「急遽のことで、乗り物など用意できるはずはない。馬にて出城されよ」と一蹴いっしゅう

すると速水は「御運の末となったといえども、右大臣殿母子(秀頼と淀殿)を馬にて、出城させるわけにはいかぬ」と憤然として、交渉を打ち切ってしまうのでした。そして、秀頼や淀殿らは自害してしまうのです。夫の助命を願っていた千姫としては、こうした結末になってしまったのは、断腸の思いだったでしょう。

秀頼と正室である千姫との間には子はありませんでした。が、秀頼には側室がおり、側室との間には子がいたのです。それが、国松(男子)と天秀尼てんしゅうに(女子)です。国松は男子ということもあり、大坂城落城後程なくして捕えられ、六条河原で処刑されてしまいます。8歳でした。一方、天秀尼は、千姫の養女となり、仏門に入ることによって、助命されました。

夫を亡くし、傷心の千姫に転機が訪れたのが、元和2年(1616)9月のこと。この年、千姫は本多忠刻(徳川家臣・本多忠政の長男)に再嫁することになるのです。ちなみに忠政の妻は、松平信康(家康とその正室・築山殿の子)の娘でした。

千姫を救出した老武将は、姫の再婚を妨害しようとした

忠刻のもとに嫁ぐ千姫。その千姫が乗る輿を狙う1人の武将がいました。坂崎直盛です。そう、千姫が大坂城から脱出した際、家康の本陣まで彼女を送り届けた武将です。一説によると、直盛はその功績を誇り、千姫を自らの妻にしたいと懇願したとのこと。だが、千姫は20代で、直盛は50過ぎの老年。また、譜代大名でもない直盛ごときに千姫を嫁がせるのはいかがなものかという見解もあり、結局は本多忠刻に嫁ぐことになるのです。

直盛は、そのことを深く恨み、千姫の輿入れのとき、彼女が乗る輿を奪い、刺し違えて死ぬ覚悟であったといいます。剣術家の柳生宗矩やぎゅう・むねのりらが直盛をなだめようとしたとのことですが、直盛は引きこもって面会せず。そんな直盛の「狂気」は既に徳川幕府に露見していましたので、幕府は直盛の家人に次のような命令を下したといいます。「お前たちの主人の挙動は狂気である。直盛が自殺して果てたならば、一族の者に家督を継がせよう」と。この命令を聞いた直盛の家臣は、主人である直盛を自殺させて、その首を進上したと言われます。

また、一説によると、直盛を泥酔させて寝ているところを、家臣らが薙刀なぎなたで襲い、首を取ったとされます。いずれにしても、直盛は千姫を奪うことかなわず、死んだのです。坂崎家の所領は没収され、同家は断絶します。

徳川四天王・本多忠勝の孫と再婚し2児に恵まれる

さて、千姫は無事に本多忠刻のもとに嫁ぎます。そして、長女の勝姫、長男の幸千代を産むことになるのです。しかし、元和7年(1621)、幸千代は3歳で亡くなってしまいます。寛永3年(1626)には、夫の忠刻も31歳で病死します。千姫は忠刻と共に姫路城に居住していましたが、夫の死により、娘と共に江戸城に戻ることになります。そして、出家し、天樹院と号するのです。

寛文6年(1666)、最期まで秀忠の長女として徳川将軍家や大奥にも発言権を持っていた千姫は70歳で病死。波瀾万丈の生涯を閉じます。既に4代将軍・徳川家綱(3代・家光の子、千姫にとっては甥)の治世となっていました。一方、無事に成人した娘、勝姫は姫路藩主・池田光政の正室となり、その子孫は最後の将軍、徳川慶喜まで千姫の血をつなげていくのです。

家康は千姫をかわいがり、死去直前にも「会いたい」と連絡した

思えば千姫の母である江も、落城による悲劇を経験しています。一度目は、父の浅井長政が織田信長と対立し、居城の小谷城を攻め落されたとき(1573年)。長政は自刃します。二度目は、義父の柴田勝家が羽柴秀吉により越前北ノ庄城を攻められたとき(1583年)。このとき、江は義父の勝家と、実母のお市を亡くしています。そして、江の子の千姫も、大坂の陣において、夫の秀頼を失う。親子2代にわたる悲劇。千姫はどのような思いで日々を過ごしていたのでしょうか。

大坂の陣の後、家康は千姫の侍女「ちょぼ」に宛てて、手紙を書いています(実質的に、千姫に宛てた書状)。病となった千姫を気遣う内容です。元和2年(1616)1月にも、家康は千姫の侍女に手紙を書いていますが、そこには、千姫の病が癒えたことを喜ぶ言葉が記されています。駿府にいる家康は、秋になり、江戸に下向して、千姫に是非とも面会したいとも書いています。

 

しかし、同年4月、家康は75歳で病没するので、孫娘との対面を果たすことはできませんでした。千姫は夫・秀頼を失い、傷心の日々だったでしょうが、祖父・家康のことを恨みに思っていたようにも思えません(複雑な感情はあったかもしれませんが)。自分の体調を気遣ってくれる祖父をありがたいと感じていたのではないでしょうか。家康が亡くならなければ、秋に対面していたでしょう。2人は何を話したでしょうか。