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入れ墨を背負っていても。入れ墨を背負っているからこそ。 行き過ぎた排除が生んだ “行き場のないヤクザ” と “ルールなき半グレ” という負の遺産 : 元ヤクザ法律家対談 司法書士・甲村柳市×弁護士・諸橋仁智

ともに元ヤクザという経歴を持ちながら法曹界入りを果たした司法書士の甲村柳市さんと、弁護士の諸橋仁智さん。弁護士になるための司法試験の難しさは多くの人が知るところだが、司法書士試験も合格率わずか3~5%という狭き門だ。120分以上にわたった異色対談の後編では、長い勉強生活に耐え抜いて難関試験を突破できた理由や、近年の暴力団員を取り巻く状況などについて語り合ってもらった。

諸橋 仁智 MOROHASHI Yoshitomo

1976年福島県生まれ。高校卒業後、2浪を経て成蹊大学経済学部に合格するが、退学して暴力団の構成員に。2005年、覚醒剤中毒で約半年間、強制入院。覚醒剤取締法違反容疑で逮捕され、懲役1年6カ月執行猶予3年の判決を受け、組からも破門となる。この頃から資格取得の勉強を始め、宅建、司法書士試験に合格後、13年、司法試験に合格。著書に「元ヤクザ弁護士 ヤクザのバッジを外して、弁護士バッジをつけました」(彩図社)。

甲村 柳市 KŌMURA Ryūichi

1972年岡山県生まれ。高校中退後、人材派遣会社を設立。21歳頃に山口組系暴力団「義竜会」を率いる竹垣悟会長(現在は特定非営利活動法人「五仁會」代表)の盃を受ける。2003年には右翼団体を設立。05年、義竜会解散に伴いヤクザを引退した。38歳の時に警官への公務執行妨害罪で逮捕され、約3年間の収監中に試験勉強を開始。宅建、行政書士試験に合格後、18年に司法書士試験に合格する。著書に「元ヤクザ、司法書士への道」(集英社インターナショナル)。


独居房で民法暗記「それしかなかった」

前編ではお二人のヤクザ時代などの過去についてうかがいましたが、そこから資格の勉強を始めたきっかけは?

諸橋 僕は2005年に覚醒剤中毒のせいで組を破門になりました。精神科病院に入院させられ、その後、逮捕もされたのですが、勾留中に母に差し入れしてもらったのが大平光代弁護士の著書『だから、あなたも生きぬいて』でした。大平弁護士はヤクザの組長の妻だった過去を持ちながら司法試験に合格して弁護士になった。自分も大平弁護士のようになりたい、と思いました。当時、宅建(宅地建物取引主任者)の合格を目指して勉強を始めていましたが、はるかに難しい司法試験に合格するという目標を定めたことで、勉強にも力が入るようになりました。

甲村 私は、38歳のときに近所のスナックで警察官とトラブルになって、公務執行妨害の罪で懲役となり広島刑務所に入りました。もともと40歳が人生の節目だと思っていたんですが、今までやってきたことで何も芽が出なかったから、ちょっと早いけど生き方を考え直そうと。刑務所の中で何ができるか考えたら、勉強くらいしかなかった。最初は司法試験を目指そうとしたんです。でも、禁固以上の刑を受けたことがあると「欠格事由」に引っかかって弁護士にはなれない。だから司法書士を目指すことにしました。

甲村 自分にはもう、それしかなかった。そうしないと刑務所の中で何もできず、無駄に時間を過ごすだけになりますからね。

諸橋 甲村さんは長期的な戦略を持って行動してきているところがすごいと思います。たいていのヤクザは、「損得を考えるな」と教えられますから。

甲村 損得はものすごく考えていました。もともと法律とかは好きだったんでしょうね。20代の頃からいろいろ調べて人に内容証明を送ったり、差し押さえの手続きをしたりとか、全部自分でやっていましたから。刑務所に入るときも、六法全書と刑事収容施設法の本を持ち込んでいました。

自分が落ちて喜ぶ人たちの顔を思い浮かべ奮起

─それでも、甲村さんは合格まで8年、諸橋さんも7年かかっています。周囲からは否定的な反応も多かったそうですが、諦めたくなったことはないんですか。

甲村 まあ、根拠のない自信があったんです。私は中学しか出ていませんが、高校、大学でいくら良い成績だった人も、その時から法律の勉強をしていたわけではない。同じ人間がやることなんだから、やればできるだろうと。

周囲は「難しいし絶対やめといたほうがいいですよ」って遠慮がちに言ってきましたけど、内心は「こいつ何言ってるんだ、バカか」と思われていたに違いない。でもそれで実際に諦めてしまったら、「ほら、言うたやろ」ってなる。それが嫌で、あえてみんなに勉強していることを公言していました。「何が無理やねん。泡吹かしたろう」って。結局は、自分のプライドなんですよ。

諸橋 僕も似たような気持ちがありました。自分が落ちて喜ぶような人たちの顔を思い浮かべて奮起した。そこはヤクザだったかどうかは関係なく闘争心というか。

―資格をとって、人生は変わりましたか。

甲村 消費者金融からの過払金の返還訴訟とか、過去には「闇」でやっていたことが堂々と出来るようになったのはやはり大きい。それに、この仕事を生涯の仕事に選んだんだから、もう寄り道することもないし、ストイックにやっていけるという気持ちはあります。定年とかもないですから、あとは体力との勝負。

諸橋 周りを見ていても、ヤクザや不良をやめても完全に犯罪と手を切るのはなかなか難しい。過去の経歴が邪魔をして収入が良い仕事に就くのが難しいので、犯罪との境目がグレーな領域に手を出してしまいがちになるんです。その点、資格があることはとても強い武器。僕の場合、弁護士登録をする過程でいろいろな人が手助けしてくれたことも大きくて、その人たちを裏切らないためにも、もう絶対に覚醒剤に手を出して資格を失ってはいけないという抑えになっています。

映画のヤクザはファンタジー? 現実は「高齢化と貧困」

―過去の経歴が邪魔をする、という話でいうと、元ヤクザという経歴がハンデになることはありますか。

甲村 あまりないですけど、去年、都内の輸入車ディーラーを通して車を買おうとして、見積もりなども済んでいたのに、車の確認のために店に行ったらいきなり「残念ですが、お客様にはお売りできなくなりました」と告げられました。私の過去の経歴をインターネットで調べたようです。ヤクザは15年以上も前にやめているのに、いまだにこういう目に遭う。

多くの自治体などが定める暴排条例(暴力団排除条例)では、「反社の5年ルール」というのがあって、暴力団員でなくなってから5年を経過しない者が対象となるのですが、実際には5年を過ぎても銀行口座を開設できなかったり、車を買えなかったりする。

諸橋 20年ほど前から暴排条例が定められるようになって、社会からヤクザを徹底的に排除する流れが急速に進みました。それまでの暴対法(暴力団対策法)はヤクザそのものを取り締まったけれど、暴排条例はヤクザと付き合った人を取り締まるようにした。これは、あまりにも強力でした。

甲村 社長がヤクザと食事をしていたことが「密接交際」だとされて銀行に口座を凍結され、会社がつぶれて数十人いた社員や家族が露頭に迷うことになった、というような事例もありますからね。

諸橋 親がヤクザだったために家族までもが差別されることも今後、起きていくと思います。「親がヤクザだったら結婚するな」とか。ヤクザをやめた元ヤクザであってもその子どもが「元ヤクザの子ども」とレッテル貼りをされかねない。

甲村 過剰な暴力団排除は誰も幸せにしない。みんなヤクザを排除するのにやっきになっているけれど、排除した後の受け皿をまったく考えていない。ヤクザが生きにくい時代になって、やめる人間も増えてきていますが、やめても行くところも帰る場所もどこにもない。5年経っても10年経っても銀行口座もつくれないのでは、生きていくすべがない。そんな状況でメシ食おうと思ったら、悪さをしないとしょうがないでしょう。

その結果、半グレのような、ヤクザよりもっと悪い集団が出来てくる。彼らには、組織のルールも美学も何もない。ネットで集めたその場限りのグループで、強盗に入って人を殺したりしてしまう。素人が集団になると怖いですよ。

諸橋 ヤクザは曲がりなりにも公然と事務所を構え、看板を掲げていましたが、半グレは地下に潜伏した犯罪チームみたいになっていて、海外のマフィアと何も変わらない。

ただ、私は暴力団離脱支援の活動をしているのですが、ヤクザと半グレどっちがいいかと聞かれたら、半グレでもいいからとにかくヤクザを離脱しなよ、と言っています。社会にとっては、ヤクザより半グレのほうがタチが悪いですが、その当事者の人生を考えると、ヤクザでいることの不利益が大きすぎる。

暴力団の排除という目的は、すでに達成されていると思います。今の暴力団は、特に大都市では若手が入ってこなくなっていて、50代以上がほとんど。今後はさらに高齢化して、貧困に陥る人たちも続出するでしょう。外国の映画に出てくるような格好良いヤクザなんて、もはやただのファンタジーです。

これからは次のステップに進んで、ヤクザをやめた人やその家族のための受け皿をつくって、救済していく段階に入っていくべきです。政治もメディアも、そうした少数者の権利にはなかなか関心を向けてくれません。やはり、司法の役割が大きいと思っています。

 

水滸伝の武者絵(左、諸橋さん)と般若(甲村さん)の競演

バナー写真 : 弁護士・諸橋仁智さん(左)と司法書士・甲村柳市さん

取材・文:森一雄、小泉耕平、POWER NEWS編集部
写真:伊ケ崎忍

 

入れ墨を背負っていても。入れ墨を背負っているからこそ。

入れ墨は “見世物”ではなく精神的支え。今でも完成させたいと思っている : 元ヤクザ法律家対談 司法書士・甲村柳市×弁護士・諸橋仁智(前編)

震える手で額にピストルを当てられて…

─お二人がお互いのことを知ったのはいつだったのでしょうか。

諸橋 元ヤクザで司法書士試験に受かった人がいる、というニュースを2019年くらいに目にしたのが最初でした。僕は弁護士になっていたのですが、その時まだ過去の経歴を隠していたので、甲村さんが公表していることに驚きました。ああ、過去を明かしてもいいのか、って。僕が2022年4月にYouTubeの番組に出て元ヤクザだとカミングアウトしたのも、甲村さんの存在を知ったことが大きかった。

甲村 私は、その番組を見て諸橋さんの存在を知りました。こういう経歴で資格をとって法曹界に入ったのは自分だけだと思っていたので、驚きましたね。

諸橋 覚醒剤取締法違反で起訴されたけれど執行猶予になった僕から見ると、甲村さんは実際に刑務所を経験されている。僕は懲役刑に行ってから法曹関係の仕事に就くのはハードルが高すぎて無理だと思っていたから、そこを乗り越えた経験について聞いてみたいと思っていたんです。今年5月に僕の本が、6月には甲村さんの本が立て続けに出版されたことをきっかけに人を介して連絡を取って、お話するようになったんですよ。

甲村 同じ元ヤクザといっても、覚醒剤の販売を主なシノギ(資金源)にしていた諸橋さんと、ヤミ金融や債権回収が中心だった私では、やってきたことも違いますからね。どういう経歴で、どうやってここまで過ごしてきたのか、とても興味がありました。

―これまでの裏社会での経験で、最も強烈に印象に残っていることは?

甲村 これは2003年に立ち上げた右翼団体を活動の中心にしていた時代の出来事なんですが、現役の組員に貸していたカネを回収しようとしてガンガン追い込んだところ、ちょっと追い込み過ぎたのか、そいつが突然、私の額にピストルを突き付けてきたことがありました。銃口が当たった感触で、おもちゃではなく本物だと分かった。

相手はだいぶ興奮していたから、ピストルを持つ手が小刻みに震えていて、言葉にならないようなことを口走っていた。「もしかしてこいつ、弾(はじ)くんちゃうかな…」と。「分かった、分かった。もう降ろせ、降ろせ」と必死になだめて、なんとかその場は収まりましたが、この時ばかりは怖かった。手の平にネチャっとした、嫌な汗をかいたのを覚えています。

―やはり、常に死と隣り合わせ、という感覚はあったんですか。

甲村 殺されそうになるような場面はそんなに頻繁になかったですが、まあ、懲役に行くことが多かった。全部、暴力事件です。相手にケンカ売られたら、やったら懲役と分かっていても、やらなしゃあない。それで通算10年、4回のムショ暮らし。それはもう宿命ですよね。

大学時代に入れ墨決断「もう戻れない」

諸橋 僕は拳銃まで突き付けられたことはありませんが、ヤクザには「掛け合い」というのがあって、この時のことが非常に印象に残っています。「掛け合い」というのは、他の組ともめ事が起きたときに、例えば5人対5人とかで同じ席に集まって、言い合いをするんですね。

僕はもめ事を起こした当事者だったから、「お前もその場にいろ」という感じで同席したことが何度かありました。「掛け合い」自体はあくまで言葉のやり取りなんですが、下の階にはお互いの戦闘員が待機していて、拳銃を隠し持っているかもしれないし、展開次第では、さらわれるかもしれない。実際、「掛け合い」の席で撃ち合いになったり、殺されたりしたヤクザもいますからね。緊張感がありました。ただ、こういう時はアドレナリンが出ているのか、恐怖は感じませんでした。

むしろ、僕は覚醒剤中毒になっていたので、自分の部屋の中にいるときに幻覚で感じた死の恐怖の方が強かった。誰かに襲われるかもしれない、という妄想にずっととらわれていたんです。悪魔に狙われているような……。

―お二人とも背中に入れ墨を彫っていますが、どんな経緯で入れることになったんですか。

諸橋 入れ墨を入れたのは22歳の頃。不良の仲間はみんな入れていたし、銭湯に行っても「入れ墨が入ってない身体を見られると恥ずかしい」くらいの気持ちになっていた。もちろん、一度入れたらもう戻れない、ということも考えました。当時はヤクザになるかならないかという境目で、まだ大学生でしたから、入れ墨を彫れば本格的にヤクザの道に入る、という意味合いもありました。

入れた後も、大学の友達などには隠していました。一度、たまたま僕の入れ墨を見てしまった友達がとてもびっくりしていて、すごく気まずかったのを覚えています。入れ墨を入れてからは自然な流れで、カタギの友達と会う頻度が減っていって、ヤクザ生活のウエートが高くなっていきました。

甲村 私の場合、理由も意味も何にもないんですが、ちょうど20代で、そういうものに憧れる年頃じゃないですか。ただの憧れですよ、うん。それに、刑務所に入ると、現役の組員はほとんど入れてますから。現役だと言っていながら体がきれいだと、違和感がある感じでした。ヤクザ同士でお互いの入れ墨を見て、ちょっとした「品評会」みたいになったりもしますからね。

入れ墨の絵柄はどう決めるのか

―諸橋さんの入れ墨は水滸伝の場面を描いた武者絵「水門破り」、甲村さんは「般若」ですね。絵柄はどうやって決めるんですか。

諸橋 彫師の先生にもよると思いますが、僕の場合は先生の部屋に絵柄の見本がまとめて置いてあって、自分の番を待っている時にその見本の中から選びました。見本を見てたのは30分くらいで、「一番カッコいいからこれにしてください」って。美容室でカタログを見て髪型を決めるみたいな感覚でした(笑)。

僕はだらしないヤクザだったので、本当は2週間に1度は彫師の先生のところに通わなければいけなかったのに予約をすっとばしたりして、先生がとても怖いこともあって、そのうち気まずくなって行けなくなってしまいました。それで、「スジ彫り」という色のない状態で終わってしまっているんです。ヤクザの道に戻ることは決してありませんが、このスジ彫りだけは今でも完成させたいという思いがあります。

甲村 私は、あまり他の人が入れていない絵柄ということで般若を選びました。当時は龍とか鯉を入れる人が多かったから。見本の中から選ぶのはそうですし、ここの部分はもうちょっとこうしてほしい、とかも個別に注文できる。やはり、人と同じは嫌ですからね。

最終的には腕や胸まで全身に入れるつもりだったのですが、中途半端に始めてしまうと、完成するまで止められなくなるし、刑務所を出たり入ったりする中で、必要以上に入れることはないと思った。それで、背中だけにしました。私は極端な暑がりなので、半袖が着たかった、というのもあります(笑)。

入れ墨を入れていると銭湯やプールは入場禁止だったりしますが、別に後悔はしていないですね。入れたものを消す必要もないと思います。

―入れ墨を見せて人を脅すようなことはないんですか?

諸橋 「遠山の金さん」みたいに入れ墨を見せつけて、一般人を脅して、なんていうのは映画や漫画の世界で、そんなことしたらむしろ、みっともないですよ。

甲村 そこはまあ、人によりますけどね。わざと詰めた(切断した)小指をちらつかせたり、居酒屋やスナックで大声で兄貴がどうの、親分がどうのと言ったりする奴もいます。静かにしゃべれよ、と思いますけどね(笑)。

諸橋 僕にとって入れ墨は人に見せるために入れるのではなく、自分自身の分身であり、精神的な支えという感覚です。勝負事の時も、背中の入れ墨が僕を後押ししてくれているように感じましたから。

最近は腕や胸に和彫りの入れ墨を入れてTシャツ姿で見せつけているのに、背中はきれいなまま、という若者がいる。僕らの時代の感覚からいうと、まず背中に入れて、そこから拡げていくのが普通でした。これは海外のタトゥー文化が入ってきて、入れ墨は「人に見せるもの」という感覚の方が増えてきたからだと思います。背中よりも、腕や胸のほうが見せやすいですから。要は、ファッション感覚になった。もはや、「入れ墨=ヤクザ」という時代ではなくなったと感じています。

(後編)に続く
行き過ぎた排除が生んだ “行き場のないヤクザ” と “ルールなき半グレ” という負の遺産
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c13003/

バナー写真 : ヤクザ時代の入れ墨を背負ったまま、法律家として活動する弁護士・諸橋仁智さん(左)と司法書士・甲村柳市さん

取材・文:森一雄、小泉耕平、POWER NEWS編集部
写真:伊ケ崎忍


薬物中毒のヤクザから転身 異色弁護士が過去を明かした理由 :「自分なら罪を犯した依頼者と向き合える」―諸橋仁智さん

優等生を転落させた「クスリ」との出会い

福島県いわき市の出身。実家は製麺業を営んでいる。ひとりっ子。中学生の頃、父親を亡くしたが、不自由なく育った。「自分でいうのもなんですが勉強もできた。いつも成績はトップクラスでした。伊丹十三監督の映画『マルサの女』に憧れ、将来は東京大学に行って国税庁査察部で働くんだと決めていました」

「正義」に憧れた少年が、なぜ悪の世界に転落したのか。きっかけはささいなことだった。高校は県内有数の進学校の福島県立磐城高校に入学したが、母親との二人暮らしがさびしくて、夜遊びを始める。生活が乱れて大学受験に失敗、上京して予備校に入った。

そこで出会ったのが覚醒剤だった。「当時から若者たちの間で大麻や薬物が広まっていました。名前を聞けば誰もが知っている有名予備校でしたけど、そこでも薬物をやっている学生はいたんです」。仲間に勧められるままに手を出す。加熱して煙を吸う「あぶり」と呼ばれる方法だった。

勉強に興味を失い、不良仲間とつるんだ。2浪して成蹊大学に入学したころには、すっかり生活が乱れていた。毎日雀荘に入りびたって、暴力団の構成員とも仲間になった。大学は中退し、自然の流れで暴力団組織に入ることに。「アニキ」と呼んだ人物は物腰が柔らかく、おしゃれな人だった。「死んだ父親と同じ年齢でした。あとから振り返ると、どこかで父とダブらせていたのかもしれません。一緒にいるのが楽しくてついて回りました」

突然、渋谷スクランブル交差点「交通整理」で強制入院

持ち前の行動力を発揮し、アニキの右腕となって組織を支えていく。組織のシノギ(資金源)は覚醒剤の密売とヤミ金融だった。「10日で3割というとんでもない高い利息でしたが、借りる人はたくさんいました。その人たちはすぐに多重債務者になってしまいましたが…。一方で、ヤミ金で働くチンピラたちに覚醒剤を売ってこちらでも稼ぐ。めちゃくちゃなことをやっていました」

だが、彼自身も次第に覚醒剤にむしばまれていく。仕入れた覚醒剤を自分で打って効き目を確かめる、いわゆる「味見」を繰り返すうちに重度の中毒になってしまったのだ。

幻覚・幻聴におびえ、苦しむ日々が続く。そのせいで2005年、渋谷駅前のスクランブル交差点で突然、交通整理を始め、警察に「保護」された。精神科病院に措置入院させられ、その後、覚醒剤取締法違反容疑で逮捕。懲役1年6カ月執行猶予3年の判決を受けた。

事件が原因で、所属する組織も破門になった。暴力団の世界も建前と本音がある。表向き覚醒剤は、密売も使用も禁止されていた。組織の掟(おきて)を破ったというのが処分の理由だった。この世界で生きていくと決めて彫った入れ墨もまだ完成していなかった。「中毒の後遺症も残っていた。ヤクザでもなくなり、この先どうなるのか、絶望的な気持ちでした」

しかし、この転落が再び運命を変えた。勾留中、母親は息子を思って1冊の本を差し入れする。異色の弁護士・大平光代さんが書いた『だから、あなたも生きぬいて』(2000年、講談社)。大平さんは壮絶ないじめを受けたのが原因で非行に走る。10代で暴力団の組長夫人になった後、一念発起して司法試験を目指した。「こういう生き方もあるのか、と驚いた。それからは彼女がたどった道をひたすら忠実に追いかけました」

「壊れた頭」で机に向かった7年

いわき市の実家に戻り、勉強を始めた。「長い間、ヤクザな生活を続けていたので、最初は勉強どころか机に座ることすら満足にできなかった」というが、もともとは優等生。勉強すること自体は、不得意ではなかった。「ただ、自分の場合、覚醒剤中毒だった影響もあるのか、つい過集中になってやり過ぎてしまうので、30分勉強したら30分休憩して散歩に行く、というふうに自分をコントロールしながらコツコツ続けることを考えていました」

猛勉強をして、大平さんと同じように、まず宅地建物取引士の資格を取得した。続いて難関の司法書士の試験にも合格した。それから大阪に引っ越し、関西大学法科大学院に入学。そしてついに2013年、司法試験に受かった。日本の法律系資格の最高峰で、合格までに要する勉強時間は5千時間とも8千時間とも言われる高い壁。覚醒剤事件で執行猶予の判決を受けてから司法試験に合格するまでに約7年がたっていた。

その間、覚醒剤中毒の後遺症との壮絶な戦いもあった。「猛烈に覚醒剤が打ちたくなる時もありました。それに1回壊れた頭は好不調の波があって、以前のように機能はしない。いまも頭痛があり安定剤が手放せません」。合格発表の日は大学院の仲間たちと夜通しで飲んだという。「みんなと別れて明け方の空を見たら涙が出てきました」

司法修習を終えると、大阪と東京で、それぞれ主に刑事事件を扱う弁護士事務所に勤めた。自分の特異な経験を生かすことを考えての選択だった。「恩人」と慕った弁護士の大平光代さんをはじめ、周囲の人からは「誤解や偏見もあるから、過去のことはしばらく明らかにしないほうがいい」とアドバイスを受けていたという。

子どもも「排除」されるヤクザの苦境

弁護士になって8年が過ぎた2022年、裏社会に詳しい丸山ゴンザレスさんのユーチューブ番組に出演し、ヤクザだった過去を明らかにした。自ら出演させてほしいと交渉したのだという。なぜか。

「罪を犯した依頼者たちの中には、どうせ本当のことを話しても弁護士にも裁判官にも理解してもらえないと心を閉じている人がいる。弁護活動の際に、自分の過去を明かしたら、きちんと話をしてくれるんじゃないかと思うことがよくあったんです」

大平さんを知って、自分が社会復帰できたように、今度は自分の存在を明かすことで誰かの更生の励みになることが責務であるようにも感じていた。

依頼者の中には暴力団の関係者もいる。現役の構成員には組織を離脱し、更生の道を進むように説得してきた。実際には構成員のほとんどがヤクザをやめたがっているという。ヤクザをしていても生きづらいし、何のメリットもないからだ。

ただし、実際には元構成員が社会復帰することは困難を伴う。各自治体で制定している「暴力団排除条例(暴排条例)によって、構成員をやめても最低5年間は「反社勢力」と見なされて、銀行口座すらつくれない。銀行口座がなければ、家を借りたり就職したりするのも難しい。一度は更生しようとしたものの、生活が成り立たず、組織に戻る元構成員も少なくない。「どういう理由なのか、組織を抜けて5年間たっても口座がつくれない人もいる。僕の場合、なんとか口座はつくれましたが、住宅を買ったときのローンの審査が突然、ストップしたことがありました」

親が構成員だという理由で、その子どもが地域の活動に参加できないケースもある。「子どもは親を選べません。親の属性を理由に子どもが不利益を被ることはとても悲しいですね」

「元ヤクザが何を言っているんだ!」。SNS上では時に、諸橋さんに向けてそんな誹謗(ひぼう)中傷の声も発信されるが、あまり気にしていない。それよりも「行き過ぎた排除」の動きが新たな悲劇を生まないように心配している。

「本来、社会が目指しているところは排除ではなく更生にあるはず。『更生したい』と思う人たちまで排除していないでしょうか」

最近は著書を読んだ読者から依頼を受けることも増えてきたという。「中には名だたる大手事務所に代理人を依頼していた人が、『あなたのような信頼できる先生にお願いしたい』と相談に来るケースもありました」。照れくさそうに笑った。

取材・文:森一雄、POWER NEWS編集部
写真:伊ケ崎忍

【ヤクザから足を洗い法曹界に転じた諸橋さんと司法書士・甲村柳市さんの対談】

入れ墨は “見世物”ではなく精神的支え。今でも完成させたいと思っている : 元ヤクザ法律家対談 司法書士・甲村柳市×弁護士・諸橋仁智(前編)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c13002/