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イギリス人が「横浜のドヤ街」で見た"日本の断面" 寿町、インテリ日雇い労働者もいた30年前から現在まで

日雇い労働者たちが集まるドヤ街。横浜・寿町は日本の3大ドヤ街の1つに数えられ、120軒以上の簡易宿泊所(ドヤ)が立ち並んでいる。

イギリス人の文化人類学者トム・ギルさんは、約40年間にわたって、国内外で日雇い労働者やホームレスの研究を行ってきた。そんな彼が、フィールドワークで最も足しげく通ったのが寿町だ。この街で出会った人々や遭遇した事件などについて、寿町を案内してもらいながら取材した。

 

日本の3大ドヤ街、横浜・寿町

「お前ら、そこで何やってんだ! 誰が入っていいって許可した!」

突然、怒声が飛んできた。寿町を一望できる場所があるとトムさんに連れられ、とあるビルの屋上から街を眺めていたときだった。ビルの関係者と思われる男性が、目を吊り上げて立っていたのだ。

「待ってろ、〇×(聞き取れず)を呼んでくるから」と彼が建物内に戻った瞬間、「逃げましょう」とトムさん。非常階段を駆け下りて何とかビルの外に出た。捕まっていたらどうなっていたのだろう……と肝を冷やす筆者と対照的に、トムさんは涼しい顔だ。

「先日、学生たちを連れて寿町をフィールドワークしたんです。そのときにもあのビルの屋上に行って、見つかって怒られたんですね。ルールは大事だけど、ときには破らないと、真実に近づけませんから」

実はこの1時間ほど前にも、筆者は寿町の洗礼を受けていた。トムさんと合流する前、カメラマンと街並みの撮影をしていたところ、労働者風の男性から「何撮ってんだよ!」と怒鳴られたのだ。この街で堂々とカメラを構えるのが、適切でないことは重々理解していた。

そのため、できるだけ目立たぬよう気をつけていたのだが、よそ者への過敏さと拒否反応の強さを思い知った。また明らかに労働者ではない男性から、監視するかのような鋭い目線を向けられ、われわれは足早に去ったのだった。

当時の経済大国、日本のドヤ街に関心を持った

昼間から営業している居酒屋に場所を移し、老人たちが酒を飲み、強面の男性が大声で会話をするそばで、トムさんにインタビューをした。

トムさんは母国で大学院を卒業後、1983年に日本に渡り、通信社で働くように。ドヤ街に関心を持ったのは翌年、東京のドヤ街・山谷で暴動が起きたというニュースを見たのがきっかけだった。

当時、社会学者のエズラ・F・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版するなど、経済大国としての日本の評価は揺らがないものだった。また、日本は億万長者が少ない反面、貧困層もあまりいない、一億総中流社会だと認識していたトムさん。

そんななかでニュースを見て、「日本でもこんなことが起こるんだ」と驚き、現地へ飛んだ。そして早朝4時過ぎに、数百人の日雇い労働者や過激派が、同じく数百人の機動隊と衝突している光景を目の当たりに。「東京が寝静まっているなか、山谷では熱い戦いが繰り広げられていたのが非常に驚きでした」と回想する。

「最近は変化していますが、日本の男性のステレオタイプはサラリーマンですよね。定年まで仕事があって安定性は100。一方、転勤や単身赴任など、会社から言われる通りにしなければならず、自由度が0。日雇い労働者は、安定性は0だけど自由度は100。この劇的なコントラストが面白いと思って、研究を始めたんです」

以来、このテーマでは約40年、寿町では30年近くにわたってフィールドワークを続けている。そのなかで知り合った、最も印象的な労働者が故・西川紀光(きみつ)さんだ。

日雇い労働者たちが仕事を求めて集まった、通称センター(寿町総合労働福祉会館・2016年に閉館)」の前でのこと。紀光さんから国籍を聞かれたトムさんが、イギリスだと答えると、彼は「エドワード・ヒース」「ハロルド・ウィルソン」「ジェームズ・キャラハン」など、同国の歴代の首相の名前を挙げていった。英語も堪能であった。

後日、トムさんがオックスフォード大学の教授を寿町に連れていき、紀光さんと3人で居酒屋に入ると、ここでも彼は博識ぶりを発揮した。教授に鋭い質問をぶつけるその様子は、紀光さんとの思い出をつづったトムさんの著書『毎日あほうだんす』でこう書かれている。

西川紀光さんの博識ぶり

トムさんは、紀光さんがイギリスの政治に詳しかったとしつつ、「もし私がフランス人だったら、彼はフランスの政治の話をしていたと思う」と、その知識はさらに広かったと振り返る。政治のほか歴史、哲学、量子力学など幅広い分野にも精通しており、文化人類学もトムさんより詳しかったという。

熊本で生まれた紀光さんは、高校卒業後、家庭の経済事情で大学に進めず、陸上自衛隊に入隊。その後、工場や建設会社での勤務を経て、日雇い労働者になった。

酒と学問を愛し、定宿にしていた2畳半のドヤには、学術書が山積みになっていたとトムさんは回想する。彼の1日の賃金は1万2000円で、出費はドヤ代、酒代、食費など5000円。7000円が残る計算だが、次の朝には1000円札が1~2枚しかないことも多く、「この不思議は今まで解けていない」とよくこぼしていたそうだ。

とくに印象的なやり取りは、2人で「なぜ私は存在するのか?」と、実存主義について語っていたときのこと。

トム「自分の人生の意味、分かりましたか?」
紀光「罰、だね」
トム「何への罰? 紀光は何をしたの?」
紀光「オレの人生のすべては罰なんだ」
トム「何への?」
紀光「オレの人生への罰だよ!」
(『毎日あほうだんす(著トム・ギル)』より)

そう言って紀光さんは大笑いをしたのだった。「インテリっぽい暗い話をした後に、人生が罰則なんて面白おかしいから笑おうと。それが非常に印象的でした」とトムさんは目を細めた。

ちなみに、著書名の一部「あほうだんす」は、本来は「アフォーダンス」という認知心理学の概念。紀光さんが口にしたその言葉を、トムさんが「アホな踊り」と勘違いしたエピソードが採用され、タイトルになったのだった。

横浜の中で評判が良くない街にしては、安全な寿町

そのほかにも、寿町で出会った忘れられない人がいるとトムさん。その人は、行きつけだった居酒屋の店員。無口な角刈りの大男で、いつもカウンターの内側にどっしりと立っていた。酔っ払いが迷惑な振る舞いをすると、その巨体で抱え上げて店の外に運び、道路の溝に投げ捨てていたという。

あるとき、泥酔した老人がやって来て、一文無しなのに「酒くれよ!」と騒ぎ始めた。すると店員は老人の前に立ち、胸を手で突いた。ゆっくりと椅子が倒れ、老人の頭は背後にあった金属製の冷凍庫に激突。

「鉄砲を撃ったかと思うような、100メートル先まで聞こえるくらいの大きな音がしました」とトムさん。そのまま老人は動かなくなった。死んでしまったのでは……とトムさんやほかの客が青くなるなか、店員はいつものように老人を抱え上げ、路上に投げ捨てた。だが1~2分すると老人は立ち上がり、見守っていたトムさんたちに笑顔で手を振り、去っていったという。「寿町の老人はものすごくタフだと思いました」とトムさんは苦笑する。

ではトムさん自身は、危険な目に遭遇したことはなかったのか? 尋ねると、「ありません。寿町はとても安全です、横浜の中で評判が良くない街にしては」と返ってきた。

「海外のスラムと違って鉄砲を見たことも、刃物を振りかざしている人も見たことはありません。殴り合いは何回か見たことがあるけれど。酔っ払った男が私にパンチをしようとしたことは、2~3回あったかな」

殴られそうになったとき、「文化人類学者の特別な技」を使って事なきを得た。その技とは「逃げる」こと。酔っぱらいは速く走れないですから、とおかしそうに笑った。

時代と共に街は変化しており、寿町も例外ではない。トムさんによると、最も大きな変化の1つは、「日雇いの仕事が激減したこと」。

人材派遣会社の台頭や、デジタル化に伴いスマホ上で雇用者・労働者のマッチングが可能になったことなどで、かつてのようにセンターに並んだり、手配師と呼ばれる斡旋業者を介して仕事にありついたりすることがなくなった。スマホや携帯電話を持たない、あるいは金銭的に持てない寿町の労働者は、蚊帳の外に置かれてしまったのだ。

仕事の激減、住人の高齢化

センターのような役割を担う「ハローワーク横浜港労働出張所」では2019年、日雇いの求人は484件と、1日1件強にとどまった。神奈川県と横浜市の外郭団体である「寿労働センター無料職業紹介所」は、同年の紹介件数がわずか5件だったという(『毎日あほうだんす』より)。

「今も日雇い労働の仕事は、寿町ではほとんど見当たりません。有期(2~30日)の仕事は少しあるけど、何日も働くのは大変だから、やりたがる人がいないので余っている。昔からすると、これはとても珍しい状況です」

かつては朝6時にセンターのシャッターが開き、その日の仕事が提示されると、待ち構えていた100人以上の労働者が押し寄せ、数分ですべてなくなったという。仕事が余ることなど考えられなかったのだ。

2つめの大きな変化は、「寿町で暮らす人々が高齢化していること」。確かに寿町を歩くと、杖を突いた人、車いすや歩行器を使っている人が目立った。それは一部だけでなく、町全体に広がっているという。

「1960~1970年代は、がっちりした若者や中年の労働者が多く、難しい仕事ができる大工や鳶もいました。そういう人たちは1日に3~5万円を稼ぐこともあり、日雇い労働者として働くのは悪くない話だったんですね。けれど、私が初めて寿町に来た1993年には、そういった人たちはもう少なかった。今はほぼいません」

日雇い仕事がなく、高齢化も進む。その結果、現在はドヤで暮らす人の8~9割が、生活保護の受給者となっているという。ドヤとデイケアセンターが併設し、住人の生活介助を行う施設も増えている。「みんなが言う決まり文句だけど、寿町は労働者の街から福祉の街になりました」とトムさん。

「昔のドヤには、技術があって独立心が強い、労働者の誇りを持っている男たちがたくさんいたんですね。いろいろなスローガンもあって、『黙ってのたれ死ぬな』『やられたらやり返せ』、年末の越冬のときは『死者は1人も出さない』『みんなは1人のため、1人はみんなのため』など。ある学者は『もし日本で革命が起こるなら、ドヤ街から始まる』と言っていました。現在の寿町で暮らす人々は、年を取り過ぎていて、残念ながら革命を起こすエネルギーはないように思います」

町全体もきれいで静かになっているという。1990年代は立小便をする人や路上で寝る人などがたくさんいたが、現在はいない。これは健全になったというより、やはり人々のエネルギーが少なくなったことの表れだという。

ドヤ街は、日本全国の問題がいち早く発生する場所

「労働者たちがプライドを置き、かつて批判していた政府や国家から生活保護を受給している現状がある。町の魅力も薄くなってしまって、複雑な気持ちです」とトムさんは遠くを見つめる。

そして、今後はさらに高齢化が進み、福祉の助けを必要とする人も増えていくのではないか、と続ける。すると直面するのが、横浜市の財源の問題。数年後にはどうなってしまうのか……と憂う彼の話を聞きながら、寿町という小さな一角の現状が、日本全体の問題に重なった。そう伝えると、トムさんは大きくうなずいた。

「ドヤ街は炭鉱のカナリヤ。日本全国の問題がいち早く発生します。寿町で起きていることは、近いうちに日本全体でも起きるのではないでしょうか」

取材を終えて、寿町を後にする。最寄りの石川町駅のすぐ裏手には中華街があり、せっかく来たのだからと散策してみた。派手な街並み、にぎわう人々、あふれる活気、美味しそうな匂いの店……僅かしか離れていないのに、全く違う世界が現れた。それでも寿町で見た景色やにおいや音は、しばらく頭や身体から離れなかった。