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大坂冬の陣で真田丸がド派手に勝利~幸村が用いた真田戦術の極意

慶長19年(1615年)12月4日は【真田丸の戦い】があった日。

大坂冬の陣で起きた戦闘の一つであり、大河ドラマのタイトルにもなった『真田丸』に真田信繁が籠り、徳川方に痛打を与えた戦いとして知られますね。

一応、最初に確認しておきますと、大坂の陣は冬と夏に2度行われ、真田丸が築かれたのは最初だけとなります。

1614年冬の陣では砦(真田丸)に入って徳川軍をぶっ潰し。

1615年夏の陣では特攻をかけて家康を死の寸前まで追い詰む。

そんな流れですね。

今回は【真田丸】を含めた【大坂冬の陣】を城郭検定保持者のお城野郎!に解説してもらいます。

信長も秀吉も超苦労した拠点に弱点って?

砦としての真田丸とは一体なんぞや?

一般的にはこんな風に解説されます。

大坂城の弱点と言われ、唯一の陸続きである南側の“平野口”を強化するために築かれた馬出(うまだし)もしくは出丸(でまる)

大坂城を補強するため真田丸が築かれたのは、確かにその通りです。

しかし「馬出」というのは、ちょっと違和感。

そもそも攻城戦で最も狙われやすい城門補強のために造られるもので、真田丸が設置された台地や尾根伝いの陸続きの場所を強化する防御設備は通常「堀切」と呼ばれます。

ともかく私にはこの時点で非常に不思議なことがあります。

戦国時代のお城は全国に何万(細かい拠点も含めて一説には4万)と築かれていて、その中でも数多の修羅場を切り抜けてきた猛者どもの集大成が「大坂城」です。

そんな大坂城が、ですよ。

台地の陸続き部分が弱点になるって、なんだかおかしいと思いませんか。

別に、真田信繁に指摘されなくても、築城時の縄張り段階でそのことは十分に把握していたはず。

天下の豊臣秀吉がそんなわかりやすい弱点を見逃すことはないでしょう。

実際、大坂城が築城される少し前、このエリアにあった「石山本願寺」は難攻不落の要塞でした。

ここを攻めていた織田信長は、やはり陸続きの台地に本陣を構え、何年にも渡って包囲しなければならなかったほどです。

おまけにこの「石山合戦」には秀吉自身も参加して数多の苦汁を飲まされており、自身が大坂城を築城するとき「台地の陸続き部分」の防御を放置していたというのはちょっと考えられません。

少し遠回りになって申し訳ありませんが、真田丸の真実を解明するのに「堀切」は非常に大切なことですので、こうした疑問にも触れつつ先へ進めて参りたいと思います。

 

江戸城や金沢城にも同じ構造が見える!?

城郭、特に山城を築城するのに理想の適地は、独立峰の「男山」だと言われています。

連峰の「女山」では、尾根伝いの攻撃が城の弱点となって防御に向きませんが、男山ならば360度視界が開け、かつ城郭部分が唯一の高所になります。

戦国時代初期にはすでに、全国各地で尾根続きが城の弱点として指摘されており、実際、このルートからの攻城は定石でした。

しかし、当時の実情を考えると、戦略要地にそうそう都合よく男山がそびえているとは限りません。

在地領主たちは女山での築城にも取り組まなければならないワケで、そこで発明された防御施設が「堀切」でした。

尾根筋を分断するよう深い切り込みを入れ、敵の攻城兵が簡単に平行移動できないようにしたのです。

以下の画像をご覧ください。

 

この2枚の写真は、山城の典型的な堀切です

山に急角度で切り込みが入っているのが一目瞭然ですよね。

かように堀切は、山城でよく見られる仕掛けでした。

それがいつしか近世城郭の平山城や平城にも用いられるようになり、最高峰たる江戸城でも備えられました。

東京の都市化に呑み込まれてあまり意識されませんが、江戸城は、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の突端に築かれた城で、北西に向かって緩やかに上っていく台地になっています。

この陸続きの江戸城北西部の千鳥ヶ淵や半蔵門辺りの三宅坂には、これでも都心か?というほどの深い堀が掘られ、武蔵野台地から江戸城を分断しています。

以下の写真が江戸城の堀切です。

半蔵門付近の堀。両岸でほぼ同じ高さなのが分かります。江戸城側は土塁の上にさらに石垣を築いて高さで勝ろうとしています

江戸城の「尾根伝い」に対する防御戦略はそれだけじゃありません。

広大な西の丸を築いて十分な縦深を取り、本丸を標高の高い台地から守るように作られております。

江戸城では四ッ谷辺り(上智大学など)にも外堀が通っていて、さらに西側の高地に対して防備強化されており、二重の防御で外部からの攻撃に備えています。

もしも幕末の江戸城が無血開城されていなかったら、西側からの攻略も決して簡単ではなかったでしょう。

もう一つ大きな城で例を見てみましょう。

江戸城と、構造的にはよく似た地形に建てられた金沢城です。

同城も台地(小立野台地)の突端に築かれた城であり、小立野台地から金沢城を分断する巨大な堀切は石川門と兼六園の間にあります。

現代では交通量の多い道路になっていますが、昔は水堀でした。

金沢城も台地を堀切で分断し、城の対岸に兼六園を造成することにより十分な縦深を取り、本丸を防衛しているのです。

城マニアにとっての兼六園とは、加賀百万石を代表する庭園ではなく、金沢城の防御力を強化する重要な防衛施設なのです。

堀切と広大な兼六園で、台地伝いから金沢城本丸への直接攻撃を阻止している

このように、近世城郭のような平城や平山城でも「尾根伝い」を「堀切」で分断し、更に「縦深のある郭」を構築して本丸の防御力を高め、弱点を強みに転換しているのです。

では大坂城はどうでしょう?

 

大坂城の空堀を前に伊達政宗も松平忠直も撃沈す

大坂城は「上町台地」の突端に本丸が築かれました。

台地の陸続き部分である城の南側以外はすべて川と水堀、そして天然の湿地帯で遮断されています。

すぐそこは海という河口と湿地帯に囲まれ、城外とは十分な高低差がある高台に築城されたのです。

織田vs本願寺の『石山合戦図』をご覧いただくと、周囲が水だらけなのがよくわかります。

石山合戦図/wikipediaより引用

大坂城の周囲は、南側にのみ地面が繋がっております。

ここには一辺が約2キロといわれる「総構」の土塁と空堀が東西に渡って構築されており、さらに南にある台地と大坂城を分断しておりました。

一般論を反映していると思しきWikipediaでは、この総構の空堀を軽んじる記述が大変残念でして。

空堀を決して甘く見てはいけません。

大坂城の南側総構の空堀は幅約20m、堀底までの高さは約11mあり、かなりの防御力を保持しておりました。

土塁についても、石垣を張り巡らせた方がパッと見は堅強そうに見えますが、きれいに削りこんだ土塁は攻め手にとって足場がなく非常に登りにくいのです。

その上に大きな重量のある櫓、たとえば多聞櫓のように幅があり瓦葺きのを設置するならば頑丈な石垣が必要です。

しかし、大坂城・総構の塀は銃眼を穿った(銃を撃つための)穴だけなので、土塁で十分な防御力を発揮できます。

実際、冬の陣(1614年)での豊臣方は、この総構の堀と土塁で、先鋒・藤堂高虎の軍勢を退却させていますし、越前・松平忠直の軍勢も退けて、南側総構のすべての攻撃ポイントで完璧に守備。

塀の内側には一兵も侵入させませんでした。

なるほど、突出した真田丸からの横矢があったから、総構がより強化された――そんなツッコミもあるかもしれません。

しかし、真田丸からの横矢による敵側面への攻撃は、せいぜい松平忠直勢の右翼を脅かした程度でしょう。

最も西に位置する伊達政宗の陣まで横矢の射程に入られるほど大坂城の総構は小さくありませんし、そのコンセプトであれば真田丸規模の構造物を総構のど真ん中にもう一つ築いてもよかったハズです。

このように豊臣時代の大坂城も「尾根伝い」に対して十分な防衛措置は取られており、現代人に指摘されるまでもなく弱点の補強は万全。

むしろ強みにしていて、Wikipediaの書き込みのように空堀と土塁を甘く見た徳川方兵士たちがアリ地獄に呑み込まれていたのです。

 

大野治長たちの籠城策は弱腰でもなかった!?

なぜ、完璧な防御を誇る大坂城の外に、真田丸という砦を設置する必要があったのか?

それを考えるには、大坂城内での豊臣方首脳部や真田信繁たち浪人衆などの立場なども考察しておくのが肝要です。

大坂冬の陣が始まる前、大河ドラマでもありましたように後藤又兵衛基次や真田信繁などの浪人衆が、城から出陣して近江の瀬田などに陣を取り、先制攻撃を仕掛ける戦略を主張しました。

畿内の要衝で徳川方の大軍を迎え撃つには最適なポイントだったからです。

しかし、この計画は豊臣方首脳部によって却下されます。

彼らにとっては浪人衆がいまいち信用できなかったというのもあるのと同時に、大坂城の守りに絶対的な自信を持っていたのでしょう。

大野治長などの豊臣家直臣たちは、信繁などの浪人衆と比較され、小説などではなんとな~く弱腰に語られがちです。

そのため「大坂城で迎え討つプラン」はイマイチなんじゃないか? と、思う向きもありますが、実は彼らも浪人衆と同じく主戦派です。

ただ、大野たちの目的は「豊臣家の存続」であり、戦で徳川家を徹底的に叩きのめすことではありません。

合戦はあくまで豊臣家存続に有利な条件を引き出すための手段でない。

と、そういう意味では長期戦に持ち込める籠城は決して悪くはありません。

特に大坂冬の陣ではその成功が豊臣方に有利になる理由がいくつか考えられました。

まず大きいのは、家康の寿命です。

もし戦いが何年もダラダラ続けば高齢の家康はいずれ死に、2代目・徳川秀忠の時代になるでしょう(といっても既に将軍職は譲られていますが)。

秀忠の娘・千姫は大坂城の主・豊臣秀頼の妻として同城におります。

そればかりか秀頼の母である淀の方と秀忠の妻・江の方は浅井三姉妹という血の濃い親戚関係でもあります。

ゆえに豊臣家の存続は固いと踏んでいました。

後詰も期待できない豊臣が、この期に及んで徳川幕府をひっくり返して政権を奪取するなんて馬鹿げた考えは毛頭なかったでしょう。

城外に置いていた兵は真田丸だけじゃない

大野治長たちが馬鹿ではないことはわかった。

が、問題はある。そもそも大坂城は籠城戦に耐えられたのか?

これは少し時代を遡れば十分に結果が出ております。

大坂城の前身である石山本願寺がこの地で織田信長の攻撃に約10年も耐えたように、十分な蓄えと海からの補給があれば籠城できる実績があります。

大坂城にはさらに外側に一辺2キロの総構も構築されており、石山本願寺時代よりも籠城戦に対応できる能力を保持しておりました。

また、朝鮮出兵時の苦しい籠城戦を耐えた加藤清正など、豊臣方諸将の経験が大坂城の増築時に活かされておりますため、城内で自給自足ができ、大軍を待ち構える拠点として十分な資格も兼ね備えておりました。

よって大坂城の防御力を頼りとして長期戦に持ち込み、和睦と破談をダラダラ繰り返しながら家康の死を待つというのは極めて現実的な選択の一つでもありました。

こうした条件を踏まえながら、いざ籠城戦となった時点で、豊臣方は大阪城外の要衝に配置していた砦群にも兵を置きました。

真田丸だけではないのです。

中でも最重要の拠点だったのが「木津川口の砦」で、ここは本願寺vs織田信長の石山合戦時代にも海からの補給路として毛利家の村上水軍と織田水軍が制海権を争った場所でもあります。

大坂城になってからも同様に、海からの補給路として大型船が城のキワまで入ることができる場所でもあり、最重要の地となっておりました。

しかし、守将の明石全登(あかし たけのり)が大坂城での会議中に、徳川方の蜂須賀至鎮(よししげ)の軍勢によってあっさりと奪われてしまいます。

豊臣方の無能さや戦下手を印象付けるような結果――と言われればそれまでですが、そもそも他に後詰が期待できない豊臣方にとっては、仮に木津川口の砦を保ったとしても、外からの補給は期待できません。

そんな理由からイマイチ防御に気合いが入らなかったのは仕方のないことだったかもしれません。

ただ、残念なのは、木津川口の砦を単なる補給拠点としての位置付けでしか見ておらず、城外で敵をひきつける戦略上重要な拠点という見方までできなかったことでしょうか。

木津川口を奪われた後、同様に博労淵や福島、鴫野など城外の砦を次々と徳川方に奪われ、そして最後に残された城外の拠点が「真田丸」でした。

真田丸は幅180m 甲子園球場で118m

いよいよ本丸、いや真田丸へと参りましょう。

真田丸の構造についてはいろいろと云われていますが、実はハッキリとは分かっていません。

おい! いきなりお手上げかよ!

と思われるかもしれませんが、冬の陣後に埋められてしまったので、遺構もほとんど残っていないのです。

しかし最近の発掘調査で単なる城門を守る構造物でもなかったことが分かってきました。

一般的に真田丸は「馬出」のように云われます。

馬出といえば、甲州流築城術に代表され、武田信玄家臣の山本勘助によって考案されたといわれる「丸馬出」が有名です。

城の中心であり弱点でもある城門を囲むように半円形の曲輪を城外で形成し、半円部分で寄せ手を撃退しつつ、両翼の出入り口から馬を出し、寄せ手の側面に打撃を与えるものです。

攻守に優れた防御施設だっため、真田丸と聞いて多くの人が最初に思うのは、この甲州流の丸馬出だと思います。

写真は新府城の「丸馬出」と三日月堀。武田家最後の城で、縄張りは信繁の父・真田昌幸によるものと云われています。規模的には最大級の丸馬出ですが、さすがに真田丸には遠く及びません

しかし、甲州流の丸馬出のイメージでいると、真田丸を見誤ります。

逆に真田丸を甲州流の丸馬出のイメージでいると、甲州流築城術の「馬出」を見誤ります。

というのも真田丸は甲州流の馬出にしては、ありえないほど巨大、というかもはや馬出の規模を超えた構造物で「城」そのものなのです。

なんせそのサイズは従来の説でも東西180mで南北220mとされているほど。

※奈良大学・千田教授の研究によりますと、東西180→220m、南北220m→280mという試算

たとえば甲子園球場ですとキャッチャーの位置からセンターのフェンスまでの距離が118m。東京ドームや福岡のヤフオクドームでも122mしかありません。

サッカーのピッチは国際大会の規定で、広くても一方のゴールマウスから反対のゴールマウスまでの長さは110mです。

真田丸の長辺180mがどれだけの大きさは想像できたでしょうか。

巨大な馬出というよりもはやスタジアム。おっと間違えた。小規模な城なのです。

一方、甲州流築城術における馬出は、攻め手より少ない兵力でいかに効率的に守り、反撃するかに重点が置かれていますので、基本的にコンパクトな造りになっています。

真田丸のような馬出を造ってしまうと、兵力不足で隙だらけの馬出になってしまうのです。

ではなぜ、真田信繁は真田丸のような巨大な施設を作る必要があったのでしょう?

まず防衛の観点からいうと、一辺2キロの総構を守ると考えた時に、限られた兵力をいかに配置するかが問題です。

大坂城の南側の城門は4箇所ありますが、徳川方の攻撃ポイントが一辺2キロのどの辺りに重点が置かれるのか、また2キロに渡って全面で攻撃を受けるのかが分からない限り、兵の配置は流動的で定まりません。

この時点で攻撃側に主導権を握られてしまいます。

イラスト・富永商太

戦ではいかに主導権を握るかが重要です。

戦略・戦術とは、戦の主導権を握り、握り続けるための計画です。

一般的に籠城戦では攻城側に主導権が握られていますが、守備側にしても主導権をいかに取り戻すか?を考えます。

その方法の一つが「後詰め」です。

背後に援軍を送り込むことができて初めて、攻撃側から守備側に主導権が移るのです。

では大坂の陣ではどうでしょうか。

主導権を握るため目立つ必要があった

大坂冬の陣では、残念ながら孤立している豊臣方に後詰めは期待できませんでした。

後藤又兵衛真田信繁など豊臣方浪人衆の「城を出て隘路で待ち伏せて決戦!」という戦術は、後詰めのない中いかに主導権を握るかを考えた末、大軍の運用が難しい要地での先制攻撃という内容でした。

しかしこれが却下された今、総構まで迫られることは必然です。

ゆえに次なる作戦を考えねばなりません。

それが真田丸という超巨大な出丸の構築でした。

総構よりも突出した位置に、傍目にも目立つ構造物がある――こんな状況で攻撃側は当然無視など出来ません。

城門を守る程度の馬出であれば、徳川の大軍を惹きつけられませんが、突出した場所でしかも巨大な構造物で

『なんや、こいつ、何かヤバいで!』

と思わせれば、攻城側は必ず排除に向かいます。そもそも要衝に城を構築するのと同じ理由です。

無視すれば背後や側面をやられるなと思うようないやらしい場所に城を構築することによって、敵を引き付けることができるのです。

また、戦国時代は敵兵の人数を把握するために、城の出丸の大きさや構の長さ、枡形虎口の大きさなどで、おおよその兵力を把握していました。

真田丸の兵数が実際どれぐらいの人数なのか?

徳川方から見れば推測でしか分かりませんが、実際の数より多く見えた可能性は高いです。

そういう目的も持った出丸なら巨大な方が都合がよいワケです。

このように攻撃側は必ず真田丸の排除に来ると分かれば守備側は戦術が立てやすくなります。まずは真田丸に兵力を集中すればよいからです。

相手の出方が分かった時点で主導権は守備側に移動。

これが真田丸の役割の一つで、拠点陣地は相手を引き付けるものではなくてなりません。誰にも相手にされない魅力のないものではダメなのです。

そういった意味でも真田丸は敵の目を引く巨大な構造物である必要がありました。

いかがでしょうか。

真田丸が単なる大阪城の付属品ではなく、最前線の城の役割を持っていたことがお分かりいただけたでしょうか。

真田信繁の必勝戦術は徳川の黒歴史

では真田信繁にとって理想的な展開・戦術とは?

徳川方の先鋒を真田丸に引きつけて攻城戦に持ち込み、撃退したところで、退却する敵を追撃し、さらに本陣へと切り込む手順が考えられます。

これは信繁の父・真田昌幸が第一次(1585年)と第二次(1600年)の上田城攻防戦で徳川方を手玉に取った手法です。

上田城の城外で徳川方を迎え討つふりをしながらあっさりと後退。

上田城三の丸から二の丸までを徳川方に簡単に通過させ、存分に油断させつつ、自らの軍勢は狭い本丸の大手門に集中し、別働隊に側背を突かせて大混乱を引き起こし、一気に反撃に出るという流れです。

ただし、言うは易く行うは難し――。

敵に、城の本丸まで攻めさせるため、相当な忍耐と訓練が必要です。

真田昌幸はでずっと碁を打っていたという逸話がありますが、総大将もこれぐらいの心の余裕と肝が据わっていないとできません。

大坂冬の陣では、どうだったのでしょう?

真田丸の城兵は、まず城外の真田丸付近にある「篠山(ささやま)」という小高い丘に陣取り、徳川方の先鋒到着を待ちます。

篠山の具体的な場所は判明しておりませんが、戦場全体を見渡せて、真田丸に迫る位置にあった小高い丘を豊臣方が無防備で放置していたとはちょっと考えられません。

おそらく真田丸の外郭のような位置付けだったのでしょう。

血気盛んな若い兵士を罠にハメ、本陣を狙う!?

徳川方の先鋒は前田利常率いる加賀兵でした。

このとき関ヶ原の戦いから15年も経ち、戦国時代を暴れ回った武将たちも代替わりして、大坂の陣が初めての実戦で血気にはやる若い将兵だらけです。

心配した家康の指示で前田の軍勢には鉄砲玉避けの竹束を用意させたり、塹壕や土塁を構築したりしておりました。

そんな中、篠山に陣取った真田の兵士が前田方に鉄砲を撃ち込んで挑発します。

真田家にとっては使い古された挑発戦術ですが、前田家の将兵はこれに見事に引っかかります。

前田家・家臣の本多政重(本多正信の次男)は篠山まで陣を進めましたが、真田家の兵士は既にもぬけの殻。

戦の定石として小高い丘を占拠しておくことは、視界が開けて戦場の主導権を握れますので、通常、攻める側も守る側も丘の占拠に全力を注ぎます。

しかし真田家はあっさり放棄して真田丸まで後退します。

なんだか聞いたことのある“後退”ですね。

そうです。真田丸にとっての篠山は、上田城にとっての三の丸や二の丸なのです。

このようにあえて戦略要地を敵方に渡して、油断を与え、本丸に誘い込んで全力で叩くという戦術が真田丸でも見事にはまります。

城の造りに違いはありますが、さすが親子、コンセプトは同じですね。

すべては上田城の戦いを参考にした戦術展開だったことを考えると、この後、追撃戦に移り、敵本陣に迫って大混乱を与えるというのが真田ファミリーの必勝パターン。

前田家の本陣のみならず、秀忠や家康の本陣を襲う計画も練られていたとしてもおかしくはありませんし、実際、はやる徳川軍の先鋒たちに壊滅的な打撃を与えました。

その数、千を超えて相当数な死者が出たと目されています。

信繁の目論見は大いに当たったのです。

実際、彼はこの段階で大いに武名を上げたと言われています。

しかし!

ここで信繁にとっては最悪の展開が待ち構えておりました。

豊臣方の首脳部が家康の和睦を受け入れてしまったのです。

真田丸は敵を引きつけ、多大な犠牲を払わせたという点では、拠点防御の役割を十分に果たしました。

しかし巨大な大坂城では所詮、局地戦の勝利でしかなく、豊臣方に圧倒的優位な条件をもたらすほどの戦果にはなりませんでした。

一方、徳川方は真田丸とは全く違う場所で大きな戦果を挙げていました。

それが徳川方の大砲による、大坂城北側からの攻撃です。

現代でも大坂城の弱点は陸続きの南方だと信じて疑わない記述にあふれていますが、大坂城の本当の攻略ポイントを知っていたのは古今東西、徳川家康だけだったのではないか?と思うほど鮮やかな狙いでした。

大坂城、本当の弱点はここだ!

基本的に最高指揮所である本丸は、最後の砦であり、ここをいかに守るかが縄張りの肝となります。

本丸を守るために十重二十重に郭や堀を巡らせます。

大坂城は黒田官兵衛、長政父子によって縄張りが施され、加藤清正などによって補強されたといわれています。

官兵衛が設計をミスったか、はたまた自らの天下取りのために弱点を造っていたのか、いや、長政が余計な追加をしてしまったのか?

勝手にそんな妄想をしてしまいますが、黒田官兵衛・長政の時代では間違いなく最高水準の築城です。

石山合戦時、最高の動員兵力と戦術、そして最新技術を導入していた織田信長ですら、結局は退去を条件に盛り込んだ「和睦」で決着をつけ、落城させてはいません。

まさに難攻不落。

当時、最新鋭の兵器(火縄銃鉄甲船)や戦術(火力の集中運用や水軍による制水権)をもってしてもかなわないのが大坂城の前身、石山本願寺でした。

そんな地の利に恵まれたこの地に、総石垣の巨大な城を築けばさらに防御能力は圧倒的になります。

それが黒田官兵衛の設計による大坂城だったのですが、時代は移り、大坂冬の陣では官兵衛の時代に存在は知っていてもほとんど実戦で使用されなかった最新兵器が投入されました。

大砲(大筒・石火矢)です。

戦国期の大砲については、精度も飛距離も悪いので、さほどの威力はなかったといわれています。

確かにその通りで、狙った場所を狙えなかったり、野戦においても敵を威嚇する程度の兵器でした。

なんせ大砲は砲身が壊れやすく、何より運搬がとてつもなく面倒でした。

しかし、いかに精度は悪いとはいえ、視認できる位置に巨大な「的」があればどうでしょう?

三角関数を使って目視できない位置に撃ち込むことに比べれば遥かに容易いですよね。

この的にされたのが大坂城の巨大な天守だったのです。

天守が見えれば「本丸はココです」と言っているようなもの。多少精度は悪くともその方角に向かって撃ち込めばいいわけです。

日本の戦国期と同じ頃、16世紀後半の欧州で大砲はすでに攻城戦に必須の兵器でした。

これに対抗するため、欧州の城は城壁がどんどん厚くなり、城の天守も的にならないよう低くなり、終いには無くなっていきます。

イングランド南東部のディール城。築城時期は日本の室町時代です

 

ディール城は海を渡って攻めてくるフランスの砲撃に備えて築城されました。結局、実戦では使われませんでしたが

日本では、火縄銃が普及し、それに対して城も石垣や水堀で縦深を作るなどの対抗措置はできていました。

ただし、大砲の運用が遅かったため、これに対抗する防衛戦略が皆無。

よって天守から1キロも離れていない備前島からの砲撃によって、直接天守が破壊されるという戦術に対抗できなかったのです。

北側にも十分な縦深を取れる曲輪や総構を延長していれば対応できましたが、築城当時は大砲による攻撃という発想がなく、河川と高石垣で十分に防御可能という判断のまま築かれました。

むろん、これは結果論に過ぎません。

当時、想定できなかったものに備えよというのは酷な話でしょう。

家康が一枚も二枚も上手だったのは最新兵器の投入に躊躇わなかったことに尽きます。

ただ、そもそも大砲を最初に活用したのは、関ヶ原の戦い直前に西軍として大津城を砲撃した立花宗茂や西軍の総大将・石田三成です。

豊臣方にその気があれば、最新兵器の研究はできたはず。

つまりは備前島まで徳川方に侵入された時点で勝負は半ば決していたのでしょう。

補給線としての役割はなくても河川から城のキワまで徳川方に侵入させないためにも木津川口の砦は死守するべきだったのです。

もちろん豊臣方も軽視はしてなかったのかもしれません。

しかし、軍事拠点は、単に要衝に設置するだけではダメで、運用者の能力に依るところが大きい。

真田丸では勝利し、木津川口砦があっさり奪われるというのは、防御力というよりも守将の能力でしょう。

本丸を砲撃され「もう和睦したい」と淀の方に詰め寄られた豊臣家臣団は、不利な条件での和睦を受け入れてしまいました。

豊臣家の中枢には「淀の方」という弱点があったのです。

戦に出たこともなければ、初陣もしたことのない人間が、また外交交渉の経験もない人間が総大将(秀頼)の母だからという理由だけで口を出すのを認めてはいけません。

女が戦に口を出すなと言っているのではありません。

戦は戦のプロに任せるべきであり、外交もまた外交のプロに任せるべきなのです。

結局、優位を保った南側総構は冬の陣終了後に破壊され、続けざまに三の丸や二の丸の堀も埋められます。

当然ながら真田丸も破却されたので、真田家得意の防御戦術も役に立たなくなります。

これが真田丸の全貌です。

最後にポイントだけまとめておきましょう。

①大坂城の南側は別に弱点じゃない

→空堀・堀切舐めると倍返しだ!

②真田丸はとにかく巨大なことに意味がある

→血気盛んな若い兵士を倍返しだ!

③大坂城の弱点はむしろ北側だった

→築城当時にはなかった大砲が普及し「技術はうそをつかない!」

ラストは「下町ロケット」になってしまいましたが、ともかく大坂城の弱点は「北側からの砲撃」というオチでした。

真田丸の記述も、元々は「通常、城の弱点と言われる城門の強化のために~」という馬出をイメージしたものだったのが、何度も引用されているうちに伝言ゲームの要領で「大坂城の弱点である南側の陸続きの補強のために~」という解釈になってしまったのではないでしょうか。

かわいそうなのは大坂城の総構と空堀の扱いです。Wikipediaが編集されることを切に願います。

え? 自分でしろって?

筆者:R.Fujise(お城野郎)

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。