· 

「バラエティ番組で胸をさわられて…」あのアイドルレスラーの告白…府川唯未(47歳)が今明かす“芸能活動の苦悩”「昔の映像を観ると…」

“アイドルレスラー”としてリング、そして芸能界で活躍した女子プロレスラー・府川唯未。現在47歳になった府川が、厳しい全女での新人時代、バラエティ番組出演時に起きた“事件”、芽生えたプロ意識などについて明かした。《NumberWebインタビュー初回/全3回》

 今年、プロレスメディアで「府川唯未」の名が躍った。現役プロレスラーの夫・田中稔(GLEAT所属)とのあいだで育った長女の田中希沙が、「田中きずな」のリングネームで女子プロレスラーとしてデビューしたからだ。

 最近のファンにはなじみが薄い府川唯未。これは、彼女の短いプロレス人生で後期にあたる。前期は全日本女子プロレス興業。通称・全女。掛け値なしの業界No.1女子プロ団体だった全女で、府川由美は1993年11月にデビューした。ところが、そのわずか5日後に右鎖骨を骨折して長期欠場。以降のおよそ1年5カ月、彼女の居場所はリングではなくグッズ売店だった。「売店にかわいい子がいる」。ファンやマスコミのあいだで有名になり、身長152cmの府川の人気は思わぬ場所から火がついた。

 

府川 「売店部長」って呼ばれてたんですけど、すっごいそれが悔しくて。クラッシュ・ギャルズ(ライオネス飛鳥&長与千種)のように強くてかっこいい選手にあこがれて、クラッシュがいた全日本女子プロレスに入ってきたので。

――“売店人気”が高まっていたことは、本人の耳に届いていましたか。

「あなたは全女を汚す」「もう実家に帰れば?」

府川 毎日がサバイバルだったので、そんな余裕はなかったです。全女って逆ピラミッドで、上に先輩方がガ~ンといらして、新人たちは入ってきても辞めてしまうので、常に尻つぼみ。年間300試合ぐらいあった時代なので、雑用をこなすことで精いっぱい。いかに毎日を生き抜くか、仕事を失敗しないでやり遂げるかしか考えられなかったので、自分への評価を考える余裕なんてなかったです。試合数でいうと後輩たちのほうがこなしていたし、私なんて名前だけの先輩。それでいて、体も小さい。ファンの方も、「なんでいるの?」と思っていたと思うんですよ。実際に、そういう手紙をもらったし。

――どんなことが書かれていたんですか。

府川 「あなたは全女を汚す」。それはほんとに突き刺さって。胸が痛かったけど、それが現実。それがみんなの目だろうなっていうのがありました。「もう(辞めて)実家に帰れば?」とか言われていたし、新人って事務所のなかでも仕事があるので事務所に行ったら、スタッフさんから「まだいるの?」って言われました。復帰のメドがたっていないとき、北斗(晶)さんが事務所にいらっしゃったんですね。ちょうどそのころ、年に数回の大場所しか試合に出ないという時期で。

――セミリタイアしていた94年ですね。

府川 ですかね。私は、居場所がない毎日。そんななか北斗さんが声をかけてくださって、事務所のみなさんに聞こえる大きな声で、「北斗晶は年に3回試合してプロレスラーやってるけど、府川は1年に1回も試合しないでもプロレスラーなんだから、私よりすげぇよな」って言ってくださったんですね。からかうような口調ではなくて、すごく愛がある言い方だったので、すっごく覚えてる。

芸能活動が増えていった時の心境

――「戻ってこいよ」という、北斗さんなりのエールだったのかもしれないですね。さて、復帰した翌96年は怒涛の芸能活動をすることになりました。どんな心境でしたか。

府川 先輩の目がすごく気になっていたので、怖かったです。試合に出れば、負ける。実力がともなっていない。実際に、「そんなこと(芸能の仕事)をするんなら練習すれば?」っていう声も聞いていたから、行き先がわからない特急電車に乗せられてしまった感じ。飛び降りることもできない。進むしかない。けど、そこに自分の意思はなくて。しばらく経ってからですね、(試合の出順が)後半戦になって、先輩と当たらせていただくことが増えたころに、プロレスをやれている実感が湧いてきたのは。先輩から、試合の評価をしていただけるようになったんです。

――どんな評価でしたか。

府川 「打たれ強い」「すぐに壊れちゃいそうなのに、壊れないんだよね」とか。そう言っていただけて、自信につながっていって、このころも芸能活動を並行してやらせていただいていたんですけど、役割がわかったんですね。自分には自分の役割があるということが。

――具体的にいうと?

府川 全日本女子プロレスには自分があこがれた選手がたくさんいて、自分が外で活動することで注目されて、会場に来てもらえたら、「これが全女だ!」っていうのを見せられる。お客さんを呼ぶことはできるんじゃないかと思いはじめて、それが自分の役割として、会社がそういう仕事を与えてくれるのであれば、それもがんばろうと思いました。それ「を」じゃなくて、それ「も」ですね。

プロ意識が芽生えた“サルの着ぐるみ”事件

――復帰後のたった1年間でいろんなジャンルの仕事をしていて、初のビデオ「蕾 ~TSUBOMI~」では、ブルマ姿になっているんですよね。

府川 ブルマは、あんまり抵抗がなかったんですよ。なんでかっていうと、(プロレスの試合では)いつも水着なんで。気になったのはそこではなくて、一度サルの着ぐるみを持ってこられたことがあったんですよ。その瞬間、思わず「えっ、ヤだ~」って言っちゃった。わかります?

――どういう意味の「ヤ」なんだろう。

府川 「何、これーっ!? 恥ずかしいっ!!」の嫌です。やりたくないという意味ではなくて、会話のひとつに過ぎなかったんですけど、マネージャーさんにすごく怒られて。「あなた1人のために、どれぐらいの大人が動いてるかわかってる?」って。深く考えた言葉ではなかったし、嫌じゃないから、用意されていたものを普通に着ましたけど、あのときの感情は、これはお仕事で、19歳の私に対してこれだけたくさんの大人が動いているんだと。たとえば写真集でも、自分の写真集だけれども、そこには何人もかかわっていて、どれだけの動きがあってと考えるようになっていきましたね。最初にそれを叩きこまれたのは、よかったですよね。

――早い段階でプロ意識がめばえたわけですね。

府川 最初にガツンと教えてもらえたので、勘違いすることなく進めたというか。ただ、そのあとも自分のなかでは、「嫌だと言ったわけじゃなかったのにな」っていうのは残ってましたけど。

「バラエティ番組で胸をさわられて…」

――じゃあ、芸能の仕事における許容範囲はわりと広かったのかな。

府川 あっ、でも、バラエティ番組で胸をさわられたことがあって。それは私がどうこうじゃなくて、マネージャーさんや(共演者の)久本(雅美)さんが、さわったお笑い芸人さんを怒ってくださった。

――胸へのタッチは台本に書かれていたんですか。

府川 なかったですね。

――であれば、なぜここまで身を削らないといけないんだろうと、悲しくなりませんでした?

府川 (自分で番組の)流れを止められないから。全女って、自分の感情を出せないんですよ。特に新人は、虫のような扱いをされるのがあのころの全女じゃないですか。先輩に名前を覚えてもらえるだけで、光栄なこと。新人は「はい」と「すいません」しか言えない。これは、有名な話ですよね。理由を聞かれたから理由を言うと、すべて言い訳になってしまう、とか。

――悪しき全女の風潮が体に叩きこまれていたから、芸能の仕事でも主張してはいけないと思ってしまったと。

府川 そうですね。嫌なことは嫌なんですけど、仕事だからっていう。でも、あのときはマネージャーさんや久本さんに救われたことで、当たり前のことではないんだってわかった。

「写真集として作品で残せるのはすごくうれしかった」

――振り返って、芸能活動はいかがでしたか。

府川 普通なら経験できないことをできているっていう、そういう興味はすごくありましたね。写真はそもそも好きだったから、写真集として作品で残せるのはすごくうれしかった。ただ、最初のほうはバラエティで、「笑っちゃダメ」って言われたんですね、先輩から。「新人なんだから、新人らしく。テレビで笑うな」と。だから、“いじめられてますオーラ”がすごく出てるんですよね、昔の映像を観ると。コメントしていても、常に先輩のことが頭から離れないから、今は「それってプロとしてどうなの?」ってすごく思いますね。つらくなかったかといえば、つらい時期もあったけど、プロなんだからもっと堂々とすればいいのにって、今は思います。

――自分を押し殺すことが全女イズムだったから。

府川 そうですね。初めて知った社会で、プロレスの社会=全女だったので、それが正解だと思っていて。自分を出せない。存在を消す。そんな5年近くでしたね。巡業に行くのも、戦場に向かうような気持ちでした。生きて帰ってこれるか、ほんとにそんな気持ち。先輩との試合が組まれて、普段口をきいていただけていない先輩、私のことを嫌っているであろう先輩と当たるときは、ほんとに怖いんですよ。けど、ほんとに殺されることはないだろうから、生きては帰れるだろうみたいな。毎日、そんな気持ちでした。

「救急車!救急車!」元アイドルレスラー府川唯未が急性硬膜下血腫で倒れた日の真実…涙で語る、亡くなった門恵美子さん(享年23)への思い

“アイドルレスラー”としてリング、そして芸能界で活躍した女子プロレスラー・府川唯未。2000年7月、リングで試合中の府川を病が襲った。病名は、急性硬膜下血腫およびくも膜下出血。23年後の今明かされる、“あの日の真実”とは――。《NumberWebインタビュー第2回/全3回》

 1997年に全女を退団した府川は、翌98年に旗揚げされた新団体・アルシオンで生まれ変わった。美しさに強さも兼ね備えたアルシオンが掲げた御旗に、全日本女子プロレス興業、LLPW(現・LLPW-Ⅹ)、JWP(現・PURE-J)の中堅選手たちが賛同、移籍した。「府川唯未」に改名した府川は、パンクラスと格闘探偵団バトラーツに出稽古。さらに空き時間には、格闘家の田村潔司(現・GLEATのエグゼクティブディレクター)に師事して関節技に磨きをかけ、サンボを習得するために大学の道場にも通った。

「強さを求められる環境が整っていた」。そんな矢先、頭痛に襲われた。2000年夏の出来事だった。

府川 2000年の6月に、北海道のツアーがあったんですね。そのあたりから、受け身を取るのもきついほど、体調不良になったんです。頭痛が治らない。私、あまり薬を飲まない人なんですけど、7月に入って「バファリン」(頭痛薬)を飲んで、それも効かない。徐々に、ずっと(こめかみあたりを)押さえてないと耐えられないぐらい痛くなっていって、常に「いったーい……」という状態。のちに先生から、「もうそのころに出血してたんだろうね」って言われましたけど。

「救急車!救急車!」試合後に途切れた記憶

――全女の慣習が肌に沁みこんでいるから、耐えることに慣れてしまっていたんでしょうね。

府川 そうですね。「大丈夫か?」と聞かれれば「大丈夫です!」って答えるし、「できるか?」と言われたら「できます!」と言ってしまう。選手って、そういうものなんです。私ももっと早く会社に言えばよかったんですけど、「すいません。実は……」ってようやく打ち明けたのが、ケガをする後楽園大会(00年7月16日)の前日。「じゃあ、明日の試合が終わったら病院に行こう」っていうことになったんですけど、結果的にはその試合で……ですね。

――その6人タッグマッチは、どの程度の記憶があるんですか。

府川 試合中に動いているところは覚えてます。試合が終わって、新人の(前田)美幸におんぶしてもらって、控室に戻ったあたりから、記憶がブチッて切れてる。控室でアジャ(コング)さんが手を握ってくださってて、それはぼんやりと。そのあと、遠くのほうから「救急車! 救急車!」という声が聞こえてきて、そこでまた記憶がなくなってる。担架に乗せられて、ちょっとした段差で「ガタンッ!」となったとき、痛さのあまり一瞬目が覚めたっていうのはありました。横にいた人に、「手術ですか?」って聞いたんです。

――えっ、府川さんが?

府川 そうです。「まだわかりません」って返されて、そっからまた忘れちゃってる。自分なりに、「マズい!」って思ったんでしょうね。次に目が覚めたのは、ベッドの上。ICU(集中治療室)ですね。足が動かなくて、下半身に力が入らなかったんですよ。もう自分のものじゃないような。脳からの指令が行かないんですね。それもね、冷静にわかっているわけじゃない。常に、ものすっごい痛みが頭にあったから。

泣き崩れた父、コスチュームで駆けつけた仲間

――ICUには誰がいましたか。

府川 ぼんやりとしか覚えてないんですけど、(ロッシー)小川社長(現・スターダムのエグゼクティブプロデューサー)が母に連絡をして、母から父に伝えたとき、これはあとから聞いた話ですけど、父は泣き崩れちゃったらしく。実家から都内の病院に向かうとき、だと思います。母はきっと気丈に振るまっていたと思いますよ、母の性格上。両親が病院に着いてからは、お医者さんから「今夜が山です」と言われたと。「6時間で急変する可能性がある」って言われたと。大向(美智子)なんかは、コスチュームのまんま駆けつけてくれてましたよね。その光景も、なんとなくですけど覚えてますね。

――のちに、「もしも1ミリずれていたら……」と主治医から告げられたそうですが。

府川 よく映画なんかで、「1ミリずれてたら……」なんていうシーンがありますよね。私、ああいうのって映画の世界だと思ってたんですけど、ほんとにあるんですね。入院中に主治医からMRI(磁気共鳴画像)を見せていただいたときに、説明してもらったんですね。「これ、わかる? あと1ミリだよ。1ミリずれたここに傷が入ってたら、ダメだったよ」って言われて、サーッと血の気が引いた。「えっ……!?」って、青ざめたというか。脳って、右脳と左脳がXのような形で位置してるんですけど、私の場合はそれが血液で押されて、端っこにある状態だったんですね。開頭手術をしてないんですけど、それでも血が引いてくれていったので、徐々に戻っていったんでしょうね。

涙の告白…前年に逝去した門恵美子さんへの思い

――前年の99年には、デビューしたばかりの門恵美子さん(享年23)が逝去しました。その病名が急性硬膜下血腫およびくも膜下出血で、府川さんと同じでした。血の気が引いたのは、そのせいだったと思いますが。

府川 同じ病状で、なんで私は助かったんだろうって。プロレスが怖いとか、そういう気持ちになったわけではなくて、もうプロレスをやっちゃいけないんだって思ったんですね。もちろん、団体は絶対にやらせないでしょう。けど、自分の心情的な問題で、門のことがあって、同じ病名だってわかったときに、「もうやっちゃダメだな」って。自分は同じケガで助かった。それをこの先は、人に伝えていかなきゃいけないんだなって。これは、整理がついて時間が経ってから思ったことですけど。門は……。(声を震わせて)すごく苦しかった気持ちを……。伝えられずに……。ちょっ……。ごめんなさい……(大粒の涙を流す)。

府川 門は……。伝えられずに……。伝えられなくなっちゃったんで……。その状況とか、細かいことを私は伝えられるんだって。だから……。うーん……。自分はそういう、伝える役割だって思いました。門のことは、なかったことになってはいけないし。……そうですね。……ほんといえばね。ほんとのことをいえば……。自分もプロレスを続けたかった。

――……。

「府川唯未のプロレスはもうできないなと思ったから」

府川 プロレスっていろんなスタイルがあるから、いろんな関わり方ができたと思うけど、技を正面から、顔面から受けれるっていう自信が私にはあって。体は小さいけど、逃げも隠れもせず、受けれるっていう自信があったんですね。それは、全女のときに豊田(真奈美)さんから、「ほんとに壊れないね」って言っていただいたのが、ずっーと残っていて。小さいぶん、人より豪快に技を受けたいと思ってたんですね。でも……。でも……。府川唯未のプロレスはもうできないなと思ったから……。もう残る理由はないと思いました。……すいません。嫌だー。私、こんなにボロ泣きすると思わなかった……。

――泣いている写真は、絶対に使われますよ(笑)。

府川 そうですよねっ(笑)。やっばーい!

――「門恵美子」さんの名前をメディアに載せられてよかったです。

府川 門のことがあってからはもう、悪夢でしかなくて。そんななかでも、次の日も、また次の日も試合は組まれていて。選手たちは変わらず闘っていかないといけなかった。幸いにも私は開頭手術をしていないので、治れば、もっと待っていれば、もしかしたら数年経ったらプロレスの世界に戻れたかもしれないけど、そういう考えはなかったです。

「記憶に残れているなら、こんなにうれしいことはない」

――志なかばの引退だから、「やりきった!」と胸を張って言えないかもしれないけど。

府川 言えないですよね。当時、三田(英津子)さんと下田(美馬)さんがアルシオンに上がってこられて、「VIP」っていうユニットがはじまったばかりだったので、ここからというときだった。でも、そのときの自分ができる100%は常に出してきたから、結果は残せてないかもしれないけど、後悔はまったくなくって。ただ、自分のすべてをプロレスが占めていたので、それがなくなったときはペラッペラな人間になっちゃったような、そういう喪失感はありましたけどね。でも、言っていただけたんです、「記録は残せてないけど、記憶に残っている」って。7年ぐらいしかやってないのに、みなさんの記憶に残れているなら、こんなにうれしいことはないなって。

――アルシオンで締めくくることができたのは、最高のフィナーレじゃないですか。

府川 ほんとにそうで、ちょっとお客さんが減りだした時代ではあったけど、選手層は厚くて、いろんな選手に見送っていただいて、あったかい引退式をやっていただけた。そこで卒業できたっていうのは、すごい幸せだったなと思いますね。

《インタビュー第3回では、プロレスラーになった娘・きずなへの思いについて聞いた。つづく》

※03年6月に活動を停止したアルシオンは24年1月12日、東京・新宿FACEで「卒業イベント」を開催する。

18歳の長女が女子プロレスラーに…人気選手だった母・府川唯未(47歳)が娘の決断を受け入れるまで「すぐに応援するね、とは言えなかった」

“アイドルレスラー”としてリング、そして芸能界で活躍した女子プロレスラー・府川唯未。引退後の2002年にプロレスラーの田中稔と結婚、2児の母となった府川に、今年女子プロレスラーデビューを果たした長女・田中きずなへの思いを聞いた。レスラー一家の「家族のカタチ」とは――?《NumberWebインタビュー最終回/全3回》

 現在は、家族4人で神奈川県逗子市に在住。長女でプロレスリングwave所属の女子プロレスラー・田中きずなは、12月の誕生日で19歳になる。プロレスラー同士が夫婦になることは珍しくなくなったが、愛娘が母の先輩が興した団体に入団する例はまれだ。元レスラーと現レスラー。母と娘。その想いとは――。

◆◆◆

府川 引退してからもレスラー時代のお友達とはすごく会っていて、きずなは最初の子どもだったので、みんなから「きーたん」って呼ばれて、ほんっとにかわいがってもらっていたんですね。生まれたときは(ロッシー)小川さんから冗談っぽく、「将来はプロレスラーだね」なんて言われてたんですけど、「絶対にやらせないから!」って言って、まさか「やりたい」と言われる未来がくるなんて、想像もしてなかった。

――でも、幼いころから家庭のなかにはプロレスが転がっていたわけで。

娘がリングに立つイメージを、必死でかき消していた

府川 たしかに、ダンナは自分の試合をチェックしているし、ほかの試合も観てますからね。そのせいか、赤ちゃんのとき、泣いてどうにもならないときにプロレスをつけると、泣きやむ子だったんですよ。「もう勘弁してよ!」と思っていて(笑)。お腹のなかにいたときに、リングの音やテレビから流れるプロレス中継の音を聴いていたから、安心したのかなぁ。

――であれば、物心がついたころから実は、プロレスラーになりたかったのではないですか。

府川 小さいときは、ピアノとダンスをやってたんですよ。しゃべりだすのがすごく早い子で、2歳のときにはもうペラペラ。歌でも、耳で覚えたそのままを正確に歌えていました。「おかあさんといっしょ」(Eテレ)が大好きでね、(はいだ)しょうこおねえさんとお会いする機会があったときも、恥ずかしいという感情がまったくなくて、ばっちり歌うんですよ。3歳になったばかりのころかな。しょうこおねえさんから、「今までたくさんの子どもを見てきたけど、こんな子は初めて」って言われました。「そんなに好きなら」とリトミック(音楽教育法)をやらせて、その延長でピアノもさせた。ダンスは本人が「はじめたい」って言うんで、やらせてあげたので、親としては「あー、よかった」って。

――「プロレスラーになりたい」と言いださなくて?

府川 そうです。なんで「よかった」って思ったかというと、あの子は表現力があって、周りの空気を明るくするところがあって、リングに立ってるイメージが私のなかでときどき生まれていたんですね。それを「嫌だ」って否定して、かき消していたから、違う方向を向いてくれて、「よかった」と。

「プロレスラーになりたい」娘から告げられた日

――どんなタイミングで、「プロレスをやりたい」と告げられたんですか。

府川 義務教育が終わって、高校を選ぶタイミングですね。「あー、きたか……」と。親の権限や圧力で抑えることができたのは中学までで、そこから先は娘の人生ですよね。私も10代で自分の好きな道を選んだように。ほんとはね、もう少し学生でいてくれれば、そばにいて教えてあげたいことがあったし、楽しい時間を過ごせたのかなぁと思ったりもしたけど、あの子は、そんなことよりはるかに大きくて大切なものを手に入れようとしていた。親としては、応援するしかないですよね。って、今はそういう気持ち。

――いつか来るだろうと、予想していましたか。

府川 ほんっとにプロレスが大好きだったので……ねぇ。最近になって、お友達から暴露されたんですよ。「昔、きーたんにつかまってプロレスの技をかけられた」って(笑)。幼稚園、小学生のころに友達が遊びに来ると、2階に行ってプロレスの技をかけてたらしいんです。ぜんぜん知らなくって、私。それと並行してメイクも好きだったので、友達が来ると一緒にメイクをして、みんなでおもしろい顔になって、(2階から)下りてきたりとか(笑)。

――さすが、空気を明るくする子だ。お友達にプロレスの技をかけていたことは、お母さんに内緒にしていたということ?

府川 私が「(プロレスラーになるのは)ダメ!」って言ってたから? かもしれないですね。すごく仲のいい女の子がいてね、毎日一緒に学校に行ってたんですけど、「いつもプロレスの話をされて」「きーたん、プロレスの話しかしないから、すごく詳しくなっちゃった」って言うんですね。その子もwaveに詳しくなっちゃうぐらい、毎日同じ話を繰り返されていたみたい。

「応援するね」と素直には言えなかった理由

―お母さんのケガ(編集部注:現役時代の2000年7月に急性硬膜下血腫とクモ膜下出血を経験)については、どんな形で伝えたんですか。

府川 ざっくばらんな家族なので、普通に伝えました。それも、「実はね……」という重い雰囲気ではなく。

――知ったときの反応は?

府川 あの子って、大事なことを聞いて返しがないときは、心に響いてるんですね。固まってしまうというか。話したときも何も返ってこなくて、私も淡々と続けたんですけど、そういうときこそ受け止めてる。まだ小学生だったというのもありますけど、小さい子どもなりに受け止めていたんじゃないですかね。

――長女の決意に対して、パパはどんなリアクションでしたか。

府川 うれしいとは思わないですよね。最初は一緒に反対していたので。だけど私とは違って、「ほんとにがんばっていれば、俺は応援するぞ。だから、がんばりを見せろ」という感じでした。それでも私は、「じゃあ、がんばってね」「わかった。今から応援するね」とは言えなかった。「ごめんね。認めたくはない。認めたくないけど、ほんとにやりたいんだったら、がんばっていれば、それは響いてくるから。きーたんのことは見てるから」っていう話をしました。

おこづかいで買ったプロレスのチケット

――数ある女子プロレス団体からwaveを選んだ理由は、なんだったんでしょうね。

府川 後輩の(栗原)あゆみも小さいときからかわいがってくれていて、一緒に焼肉を食べに行ったりしてたんですけど、そのあゆみがプロレスをしている姿を観て、「かっこいい!」ってなった。「あゆみはwave所属じゃないよ」って言ったんですけど、でも、waveのプロレスを観て育ったから、しょっちゅう「プロレスを観にいきたい!」って言うようになっていて。

――waveを興したGAMIさんは、お母さんのアルシオン時代の先輩。すごい運命ですよね。

府川 ほんっとにその通りで! あの子が高校2年生だった12月にGAMIさんに会いに行って、相談してたんですよ。ちょうど進路相談の時期で、「プロレスをやりたいって言いだしてるんですよ。どういう結果になるかわからないですけど、GAMIさんには報告しておこうと思って」みたいな話をしたら、GAMIさんは「しゃ~ないなぁ。でも、wave(を選ぶこと)はないやろう」っておっしゃって。その時点で娘のなかでは、プロレスラーにはなりたいけど、どうしよう、という段階だったと思うんですね。翌年3月の後楽園ホール大会の前に、「waveの試合をもう1回観たい。そこで決めたい」って言ってきて、ここで行かせちゃってもいいのかなぁって、すごく悩みましたよね。でも、自分のおこづかいでチケットを買って。

――高校生にとってプロレスのチケット代は、高額ですよ。

府川 GAMIさんは「いいよ。チケットを出すから」って言ってくださったんですけど、本人は「自分で買いたい」と。それはきっと意味のある1枚だと思うから、自分で買わせて、観にいかせたら、「やっぱりここでやりたい」って言ってきた。あー、もう私は何も言うことはないなぁって。

もし「男子レスラーと結婚したい」と言い出したら…

――今、家のなかではどう接しているんですか。

府川 私は「ケガだけには気をつけてね」とか「頭が痛かったらすぐに言うんだよ」「大丈夫?」「体調は平気?」って言っちゃうんで、たぶん「うるさいなぁ」と思ってるでしょうね。でも、親ってそういうものじゃないですか。ダンナは言葉にはしないけど、あの子はパパの気持ちをすごく読み取っているし、すごく尊敬しているのでね。自分がパパの試合を観て育ってきているので、プロレスのことで何か言われたら、「あー、そうなんだ」って納得している感じですかね。

――もし、きずな選手も将来「男子プロレスラーと結婚したい」なんて言いだしたら、どうしますか。

府川 プロレスラーだからダメとか、それは思わない。思わないけど、その人をしっかり見て、自分はどうしていきたいのかを考えてほしいですね。プロレスラーの奥さんだけが大変だとは思わないけど、私はきずなが小さいとき、ダンナが遠征で1カ月近くいないことが当たり前で、父と子の運動会に参加できないことがあったんですね。寂しい思いをさせたくないから、私がお父さんの代わりに肩車をして、力なら任せとけみたいな感じで(笑)。お父さん役をやりつつ、お母さんもやらなきゃいけないので、お父さんは外でがんばってくれていても、家庭内にいないことが多いんですね。「それでもいいのか?」と。レスラーの妻も楽ではないから。

――最後の質問ですが、次女もいますよね。もし、「私も女子プロレスラーになりたい」と言いだしたら、どうしましょうか。

府川 いやぁ、もうお願いだから勘弁してーと思います(笑)。

スターダム見てて思いまかしが、いまだに頭何回も落としてカウントギリギリ、それを繰り返して長時間闘うって、正しいのかなと思います。いくら受け身練習しててもあれでは消耗品みたいになり、何年もやってるのが奇跡。超ベテランは頭から落とされるなんてないし、本当のタイトル戦線には入らないからいいが、主力はヤバいですよね。
加齢なる親父より。

コメントをお書きください

コメント: 13
  • #1

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:23)

    急性硬膜下血腫で亡くなることもあるって、事故して受傷したとき言われた。
    私も幸い開頭しなかったが、耳からの大量出血、目の周りが黒く内出血。瞼と額が腫れ上がったおかげで脳は無事だった。しばらくは寝たきりでした。
    今も耳鳴り、難聴、記憶障害がありますが、大丈夫なのでしょうか?
    プロレス、命懸けですよねぇ。
    人力でそんなことになっちゃうなんて凄いと思う。

  • #2

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:23)

    あの頃は四天王プロレスの影響か、過激な技が多く、リングで大きな怪我をしたり、練習生が亡くなったりリング禍も多かった。
    他の格闘技に対する焦りもあったと思うが業界が健全じゃなかったと思う。
    ファンは説得力は求めるけど、垂直落下式を求めてた訳では無かったので、その後のプロレスの衰退と、棚橋を中心とした復興は、プロレスとは何か?を考えるキッカケになったと思う。
    現在のように新日は当然として、女子プロレス、DDTのようなインディー、なんなら地方プロレスまでプロレスの熱が広がったのは結果的に良かったのかもしれない。

  • #3

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:24)

    以前いた接客関係の仕事の時に、担当させて頂きましたが、思ったより小柄で驚きました。
    アルシオン創成期の頃で、ファイトスタイルが、関節技や基本ムーブで良い選手と思っていました。
    久々に元気なお姿をみれてよかったです。

  • #4

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:24)

    観てるファンは、彼女達がプロレスラーだから安心して当たり前のように観てます。
    どんなに受け身が上手くても、首を鍛えていても脳への衝撃は蓄積される。
    定期的な検査はしっかりやってもらいたい。

  • #5

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:25)

    急性硬膜「外」血腫になったことはあります、硬膜の外側か内側かってのは打ちどころなのか力のかかり具合なのか…
    硬膜外でも血腫による圧迫で顔面麻痺も併発して完治に3ヶ月、脳神経外科への通院は1年にも及びました。再発リスクも考えたら引退して良かったのではないかと思います。

  • #6

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:25)

    プラムの事故に隠れるけど門の事故も衝撃だった。その後福田と続き、どうなっているんだと困惑した。疾患名は違うけど三沢、高山、大谷とベテラン勢で頚椎損傷の事故が続いている。最近新日が昔の全日みたいに30分を超える試合をやらせている。正直見ているのが怖い。

  • #7

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:26)

    府川さん覚えてますよ。
    あの頃、プロレス好きな友人の影響で私もハマっていました。
    何度か見に行って間近で観る事もできました。
    皆さん素敵でした。

  • #8

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:27)

    男の相当鍛えたプロレスラーでも一生ベッドの上から起き上がれなくなって下の世話を含めて家族に面倒みてもらっている人が居るのに、どれだけ鍛えたか知らないが、本当にどれだけ覚悟を持って技を掛けたり掛けられているのか疑問に思う。

  • #9

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:27)

    最近の新日やスターダムでも同じような危険性による怖さを感じるのは私だけでしょうか。再び技の危険度が危ない領域に上がっていってる気がします。

  • #10

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:28)

    そのまま続けていたらラス・カチョーラスと一緒にヒールになったり色んな道があったでしょうね。でも今もお元気なのが1番良かったと思います。

  • #11

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:28)

    女子の試合はめったに観ないけど、そんな自分でも門さんとプラム麻里子さんのことは忘れていないし、その頃のプロレスを観ていた者として忘れたらいけないと思っている。

  • #12

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:29)

    プラム麻里子さんも同じ急性硬膜下出血で亡くなっていますよね。プラム麻里子さんと一緒にJWP 創成期に活躍した人と知り合いで悲しい話を聞きました。

  • #13

    名無し (日曜日, 26 11月 2023 11:30)

    記事を読んでいたら、北斗晶さんがGAEAで引退した時に"死ぬなよ"って言葉が浮かびました。
    まさに、プロレスラーは本当に死と隣り合わせなんだなと改めて感じた。