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「旧車會」に異変、若い女性が増加中。今どきの若者たちに「昭和の族車」がウケる謎

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は廃刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。

交通ルールを守って走る“暴走族スタイル”の「旧車會」

 

 

走行会

旧車イベントの「走行会」の様子。画像は、YouTube「実話ナックルズ TV」の動画より

 ここ数年、私がプロデュースしている『実話ナックルズ』(大洋図書)のYouTubeチャンネル「ナックルズTV」では様々なネタを配信していますが、その中でも個人的には「旧車會」という存在が気になっています。 「旧車會」は、まさに私がやっていた「ティーンズロード」の時代に暴走族が乗っていたバイクや車、いわゆる“族車”の改造を再現している方々のことで、不良少年たちも30年以上経った今は、立派なおじさんです。  当時は若くてお金がなかったので思うように改造もできませんでしたが、現在は経済力を得て、当時はできなかった改造を施しているわけです。  もちろん、基本的にはもう“大人”なので、あくまで交通ルールを守ってツーリングを楽しんでいます。高速道路の料金を払わなかったり、チーム同士で喧嘩をしたり、暴走族のような蛇行運転をしたりという“暴走行為”はしません。  あくまで、“暴走族スタイル”です(ただし、テンションが上がりすぎて昔のような走りをして問題になっている方も一部にはいらっしゃるようですが……)  そんな「旧車會」の方々は全国各地に存在しており、定期的に「旧車イベント」が開催されているのですが、イベント主催者も事前に「イベント会場に来る際は自走して来ないでください」と通達しています。皆さん、会場までは、トラックやキャリヤカーなどに自慢の愛車を積んで来るという対応をされているわけです(私はそう認識しています)。  とはいえ、イベント会場(人里離れたサーキット場や貸切状態の巨大な駐車場)の中に一歩踏み入れると、そこからはおじさんたちもリミッターを外して少年の頃に戻ります。

昔ヤンチャだったおじさんたちが少年時代に戻って…

 

 

コール大会

旧車イベントの「コール大会」の様子。画像は、YouTube「実話ナックルズ TV」の動画より

 イベントの主な内容は、次のようなものです。たとえば、時間を決めて自由に爆音を立てて走る「走行会」。バイクのアクセルを巧みにコントロールしてリズムを刻む“コール”のテクニックを披露する「コール大会」。前輪を浮かせて後輪だけで走る“ウイリー”の技を競う「ウイリー大会」などなど。ヤンチャなおじさんたちが、昔培ったテクニックを少年時代に戻って披露する「晴れ舞台」ってわけです。

旧車イベント

旧車イベントの様子。画像は、YouTube「実話ナックルズ TV」の動画より

 イベントの合間にはステージ上で歌手がうたったり、芸人さんがものまねしたり。会場には大晦日や初詣ばりに露店が並び、多くの人で賑わいます。入場料もそれなりに高いわけですが、そこには非日常感があって、参加者も「お金に糸目はつけない」わけです。  ただ、やはりハメを外して盛り上がってしまうために、最近はイベント会場として貸してくれる場所も少なくなってきているとか……。それでも「旧車愛」はさめることを知らないといった感じなのです。

旧車會の「世代交代」、イベントには若者たちの姿も

 

 

旧車イベント

旧車イベントの様子。画像は、YouTube「実話ナックルズ TV」の動画より

 私は何度も旧車イベントの取材に行っているのですが、その中でも気になっているのが、「旧車會の世代交代」です。  先程もお話しましたが、今イベントに来られているメインの層は40代~50代のおじさんです。  しかし、そこに混じって、20歳前後の若い子が目立つようになってきています。旧車好きの両親の元で育ったせいか、その子たちも「旧車」に憧れるようになり、今やお父さんが作ったバイクにまたがり、イベントやツーリングにも参加しているというのです。

おじさんに混じって「若いギャル」が増加中!

 

 

ヤンキーギャル

旧車會に今どきの若い女性の姿が……(撮影/長谷英史)

さらに驚くべきことは、旧車に乗る女の子たち(娘さん)も増えていることです。お父さんたちに話を聞くと「うちは子どもたちに旧車をすすめたことは一度もないし、強要もしていないです。ただ、本人が『旧車が好きで旧車に乗りたい』と言うので、ちょっと心配ではありますが協力してあげています」とのこと。  一方、娘さんたちに話を聞いてみても「両親に旧車に乗れと言われたことはないけど、単純に昭和の旧車ってカッコいいし、乗りたいと思ったから乗ってます!」と明るく言います。  当然のことながら、彼女たちは昭和や平成の暴走族を直に見たことはありませんし、レディースを作って「喧嘩上等!全国制覇!」なんて気持ちも一切ありません。  また、服装やメイクも「今どきのギャル系」です。それで旧車にまたがる姿は、「ヤンキー×ギャル=ヤンギャル」。令和版ハイブリッドギャルなわけです。  昭和から平成のレディースを取材し続けてきた私には、今どきの「ヤンギャル」の気持ちを理解するにはもう少し時間がかかりそうですが、昭和の族車のビジュアルに憧れているということは間違いありません。  まぁ、もしも「ヤンギャル」という若者たちの新しいカルチャーが定着したとしても、令和は令和です。昭和や平成の頃とは違うので、あくまでルールを守りながら少しだけヤンチャな青春を楽しんでくれればいいと思うわけですが、読者の皆様はどう感じますでしょうか。 <文/倉科典仁(大洋図書)>

倉科典仁(大洋図書)
伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』をはじめ、改造車だけを扱うクルマ雑誌『VIP club』や特攻服カタログ『BAMBO』、渋谷系ファッション雑誌『MEN’S KNUCKLE』など、数々の不良系雑誌の編集長を務めて社会現象を起こす。現在は、大洋図書発行の実話誌『実話ナックルズ』のYouTubeチャンネル「ナックルズTV」や、ギャル男雑誌『men’s egg』をWebで復活させたYouTubeチャンネル「men’s egg 公式」のプロデューサーとして活躍中。

「地方のレディース暴走族」たちの“意外なサービス精神”。総長と副総長が繁華街に

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は廃刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。

「地方のレディース」取材の依頼が嬉しかったワケ

 

 

レディース

写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 この連載ではティーンズロードの取材や撮影にまつわる秘話などを話しているのですが、もちろん取材対象は「暴走族」なので、毎回なにかしらのハプニングに遭遇します。  かなり危険な現場(命の危険を感じるほど)も多々ありましたが、我々も仕事として行くわけなので、ハプニングが起こらないことを祈りつつ、インタビューや撮影をしていくわけですが、無事に取材を終えた後はとても楽しかった思い出があります。

レディース

写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 それは、とくに“地方のレディース取材”です。編集部に彼女たちから取材依頼があった時は正直、嬉しくなってしまうほどでした。  

撮影は深夜帯、ゆっくり観光する余裕はなく

 男性のチームを取材する際は、いわゆる“族車”の台数や規模が大きかったりするので、なるべく撮影は深夜帯の時間を選び、周りの住民の方たちにも迷惑がかからないように「爆音を立てないで欲しい」と念を押してから集まってもらっていました。  深夜帯ということは、取材後は飲食店が閉まっており、地方に行っているにもかかわらず、その土地の美味しい物を食べるような余裕もなく、コンビニでお弁当を買ってホテルで食べることがほとんど。ゆっくり観光する時間もないので、次の日の朝一番の飛行機や電車に乗るか、編集部の社用車で何時間もかけて東京に戻るといった感じです。

地方のレディース取材では“至れり尽くせり”!?

 

 

レディース

写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 一方、地方のレディース取材の場合はどうか。ほとんどのチームが取材班が行くことをとても喜んでくれて「超歓迎ムード」で迎えてくれます。  例えば、九州の某チームは、わざわざ空港まで迎えに来てくれて(族車ではありましたが)我々を観光名所に案内してくれたり、地元の美味しいお店を紹介してくれたり。  取材もローカルな場所で、男性チームのように大規模ではないこともあるため、日中に行なってもほとんど近隣の住民に迷惑もかからず、警察も来ないので、和気あいあいと撮影を進められるわけです。帰る時も空港まで見送りに来てくれて「これ美味しいので編集部の皆さんで食べてください!」と、その土地の名物をお土産としていただくこともしばしば。思わず「もう少しここにいたいな」と思ってしまいました。

まるで“ヤンキー系旅行コーディネーター”

 

 

 また、東北地方の某チームに取材に行った時には、夕方に撮影が終わってホテルに戻ろうとする私たちに「ティーンズロードさん、明日の飛行機で帰るんですよね? これから何か食べたいものがあったら案内しますんで行きましょう!」と、レディース総長と副総長が繁華街に連れていってくれて、美味しいお店に案内してくれたり、チームのOG(先輩)がやっているスナックに連れて行ってくれたりと、まるで「ヤンキー系旅行コーディネーターさん」のようでした。  まあ、ティーンズロードに大きく載りたいという気持ちで親切にしてくれていたのかもしれませんが、それにしてもどの地方に行っても皆さん人柄が良いというか。一生懸命に私たちを楽しませよう、もてなそうと、撮影の時とはまるで違う表情を見せてくれるので、地方のレディースの取材が決まると、ワクワクしていたような気がします。レディース総長には美人も多かったので、当時20代の新人編集者は地方に行くたびに恋をしてしまい……とにかく、ティーンズロードという雑誌は良くも悪くも私に刺激と思い出を残してくれた雑誌でした。

レディース

写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 これからも暴走族との「怖い話」だけでなく、「楽しかった話」も紹介していきますので過去の笑い話としてお読みください。 <文/倉科典仁(大洋図書)>

 

伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』誕生秘話。じつは原型となる「ヤンキーの雑誌」があった

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は廃刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。

ティーンズロード

写真は、『ティーンズロード』の表紙

 初代編集長の比嘉健二氏が当時を綴ったノンフィクション作品『特攻服少女と1825日』が第29回小学館ノンフィクション大賞を獲ったことで話題を呼んでいますが、あの頃は“なんでもアリ”とは言いませんが、暴走族が人気者になれる時代でした。  令和においてはコンプライアンス的にも許されませんが、今回は『ティーンズロード』創刊時の秘話を、私の目線でお届けしたいと思います。あくまで昔話としてお読みいただければ幸いです。

“車の雑誌をつくる”はずが、まさかのレディース(女暴走族)!?

 

 

 

 今からさかのぼること35年前、25歳の私は、あまりやりたいこともなく、フラ

フラしていましたが、「車好きだよね? オレのいる出版社で車の雑誌をつくらない?」と声をかけてくれた人がいます。  その人こそが、『ティーンズロード』初代編集長の比嘉健二氏です。ちなみに、今でも頭があがりません……。さておき、私は「車の雑誌の編集者か……ちょっとカッコイイなー!」と思い、軽い気持ちで「やりまーす! よろしくお願いします!」と返事をしました。そして、数日後すぐに出版社の編集者として働くことになりました。  初代編集長が笑顔で言います。 編集長「レディース(女暴走族)の雑誌をつくるからよろしくね!」 私「え? 車の雑誌をつくるのでは……?」 編集長「そうだよ、レディースだって車や単車に乗ってるじゃん!」 私「え? でも、暴走族ですよね?」 編集長「そうそう、よろしくね!」  あまりにもサラリと言われ、呆気にとられてしまいました。そこから私の暴走族専門の編集者人生が始まったわけです。  ただ、いきなり『ティーンズロード』が生まれたわけではありません。じつは、その前に原型となる雑誌をつくっていました。

「ヤンキーの雑誌」がほぼ完売

 

 

ツッパリ少年少女カタログ

写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』より

「とりあえず、最初にヤンキーの雑誌と外車で改造車の雑誌を続けて出すから頑張ってね」  編集長はそう言いますが、私は雑誌がどうやってつくられているのかも知らず、ぶっつけ本番状態。編集長の後にくっついて現場に行ったのを覚えています。取材のために、改造された外車や暴走族が集まるイベント的なものに行きますが、自分でも何をやっているのかわからない感じです。

ツッパリ少年少女カタログ

写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』より

 しばらくして、その「外車の雑誌」と「ヤンキーの雑誌」を順番に発売したのですが、結果としては、外車の雑誌もそこそこ売れましたが、なんと、ヤンキーの雑誌のほうは完売に近い売れゆきだったのです。

バブルの時代、東京に暴走族はほとんどいなかった

 

 

 時代はバブルの絶頂期で日本中が浮き足立っていました。深夜の六本木には1万円札をヒラヒラさせながらタクシーを止めているサラリーマンで溢れ、若者たちはステータスとして、こぞって左ハンドルの外車に乗っていました。  そんな中、東京で暴走族を見ることなんてほとんどありません。正直に言えば、「今どき暴走族なんかいるんかいっ!」と疑問に思っていました。  のちに編集長から聞いた話ですが、じつは編集長もバブル絶頂期ということもあり「外車の雑誌」と「ヤンキーの雑誌」のどちらをつくるか悩んでいたそうで、両方出してみて売れたほうをレギュラー化させようと思っていたそうです。  なんにせよ、ヤンキーの雑誌は東京で売れなくとも“地方”に潜在読者がいると編集長の頭の中ではイメージがあったとのことで、さすがと思いました。 (まあ、どちらの雑誌をつくるにしても、確かに両方とも車が出てくるのは間違いないので、編集長が私に対して嘘をついているわけでもないんですが)  

原型となる雑誌『ツッパリ少年少女カタログ』

 

 

ツッパリ少年少女カタログ

写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』

 さて、外車の雑誌の話は割愛しますが、「ヤンキーの雑誌」として発売された本のタイトルが『ツッパリ少年少女カタログ』です。

ツッパリ少年少女カタログ

写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』より

 もちろん、その時点ではティーンズロードは無いわけなので、ゼロからのスタートです。知り合いのツテを辿って、ヤンキーの写真を借りたり、暴走族が集まりそうな場所まで行って写真を撮らせてもらったり、必死にネタを集めてつくった一冊。初めて本をつくって、それが売れたというのは私自身とても嬉しかったです。

ツッパリ少年少女カタログ

ヤンキーの私服ページ。写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』より

ツッパリ少年少女カタログ

改造パーツのカタログページ。写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』より

 内容は、ティーンズロードのようにレディース(女暴走族)がメインではなく、「ヤンキーの歴史」「改造パーツカタログ」「不良系男女の投稿写真」「不良のファッション」等々、読み物系の企画が多かったと記憶しています。

約20万部の大ヒット、社会現象に…

 

 

ツッパリ少年少女カタログ

“レディースとは?”を解説したページ。写真は、『ツッパリ少年少女カタログ』より

そして、これが原型となった雑誌『ティーンズロード』がムーブメントを起こすわけですが、最初から売れたわけではありません。  4号目までは売り上げが伸びず、初代編集長が「オレ、次の号が売れなかったら会社辞めるわ……」と、まだ半人前だった私に吐露しますが、“誘ったくせに辞めるんかいっ!”と心の中では思っていました。  ただ、そこからみるみるうちに部数が増加、約20万部近くになると新聞やテレビ、週刊誌などで良い意味でも悪い意味でも取り上げられ、「社会現象」を巻き起こしていくわけです。  あれから35年が経ったわけですが、人生は面白いですよね。たまに「あのとき、外車の雑誌をつくっていたらどうなってたのかな?」と考えることもありますが、たぶんバブル崩壊後には潰れていたのではないでしょうか。  いま、メディアの方々はコンプライアンスの関係でなかなか自由な発想でモノをつくるのが難しくなっていますよね。それを考えると、ティーンズロードのように「ギリギリの雑誌」を出版できたあの時代は、読者にとってもつくり手にとっても良い時代だったのかもしれない……と、私は思ってしまうことがあるのですが、皆さんはどう思われますでしょうか? <文/倉科典仁(大洋図書)