【BS日テレ】おぎやはぎの愛車遍歴 篠塚和典 地獄のキャンプで“ミスター”長嶋茂雄にむちゃぶりの思い出
11月25日(土)よる9時放送。初めて買ったクルマのエピソードも!

BS日テレで毎週土曜よる9時放送の「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!」11/25(土)の放送に、巨人で2度の首位打者を獲得した篠塚和典さんがゲストで登場!人生で切っても切り離せない数々の愛車について語ります。巨人にドラフト1位で入団。初めて買ったクルマのエピソードも、購入予定の次の愛車も、家族への愛があふれ…。地獄と称された伝説のキャンプや、長嶋茂雄さんとの数々の秘話を披露。ジャイアンツファンならずとも必見です!
■家族孝行すぎる契約金の使い道
MCのおぎやはぎにとっては、少年時代にその活躍ぶりが目に焼き付いている篠塚さん。小木博明は「流し打ちっていうのを初めて見た感じ」と、現役時代のシュアなバッティングは今でも鮮明に覚えているという。
広角に打ち分ける打撃センスと華麗な守備で、若くして巨人のレギュラーに定着した篠塚さん。銚子商では2年春に全国制覇。3年時はまさかの地方大会敗北の憂き目に遭ったが、そこで免許取得に踏み切り、カーライフがスタート!契約金で買った初のクルマの行方、そして契約金の使い道は、家族を思ってのもの。そのナイスガイぶりに、矢作兼は「すごい恩返しだよ?」と感激しきりだ。
ドラフト秘話も披露した。実は高2で重い病気を患い、長い入院生活を味わっただけに、体調が心配されていたという。そんなさなか、病院に1本の電話が…。篠塚さんの獲得を目指していた、当時の長嶋茂雄監督だったという。「不安が除かれて、テンションが上がってきた」と感謝する、ミスターからの金言を明かす。若手時代に経験した地獄の“伊東キャンプ”では、長嶋さんにありえないリクエストをしたという。篠塚からの“挑戦状”に、ミスターの反応は?

愛車遍歴を辿れば、人生がみえてくる!
■運転中のまさかのトラブルで「新車を買わないと」
篠塚さんの愛車遍歴は、スポーツカーに高級外国産車にと、とにかく豪華の一言。現役時代は、覚えているだけでも15台は乗ったという。中には、当時の主力投手だった小林繁さんに憧れて買った、あのアメ車も。一方で、中古の高級外車を買った時には、運転中に信じられないトラブルに見舞われ、「新車で買わないといけないな」と教訓を得た逸話も明かす。
実は今、予約購入して納車待ちのクルマがあるという。番組では特別に、篠塚さんのものとは別グレードのものを用意。小木も「俺も今、一番乗りたいかも」と目をキラキラさせる。篠塚さん自身はドライバーに徹するが、こだわったのは後部座席。ここにも、篠塚さんの家族思いな一面が反映されているようで…。
【番 組 名】 おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!
【放送日時】 毎週土曜 よる9時~9時54分
【放 送 局】 BS日テレ
【出 演 者】 おぎやはぎ、今井優杏(自動車ジャーナリスト)
【ゲ ス ト】 篠塚和典 11月25日放送
【番組 HP】 https://www.bs4.jp/aisya_henreki/
【クレジット】©︎BS日テレ
【番組概要】 車をこよなく愛するおぎやはぎが、ゲストを迎え、ゲストがこれまで愛した車の「愛車遍歴」を、実際に見たり乗ったりしながら紹介します。「愛車遍歴を辿れば、その人の人生が見えてくる!」をキーワードに繰り広げるカートークバラエティー。


おぎやはぎの愛車遍歴▽元巨人・篠塚和典 車と野球の深い関係とは!?


番組概要
ジャイアンツ入団に長嶋監督が策略!?20歳で渋すぎる?契約金で購入した理由。マイカー禁止なのに初愛車はあの名車。小林繁投手に憧れて購入した愛車。篠塚流の洗車方法。
番組詳細
おぎやはぎ(小木博明、矢作兼) 篠塚和典 今井優杏
車をこよなく愛するおぎやはぎと女性自動車ジャーナリスト今井優杏がゲストを迎え、ゲストの「愛車遍歴」を徹底紹介!「愛車遍歴をたどれば、その人の人生が見えてくる!」をキーワードに繰り広げるカートークバラエティです。ビバ!車のある人生!
■番組にご出演頂けるカーオーナーさん募集中!番組HP(https://www.bs4.jp/aisya_henreki/)よりご応募ください。 ■番組公式X(旧Twitter)やってます! アカウントこちら⇒ Aisya_Henreki
https://www.bs4.jp/aisya_henreki/
篠塚和典
篠塚和典(利夫)の天才的な打撃と守備。トレード、結婚&離婚の噂。名前改名の理由
篠塚 和典(しのづか かずのり)さんは首位打者に二度も輝いた巧打者です。
天才的なのは打撃だけでなく、守備もかなりのレベルと言われていました。
今回は篠塚さんの天才ぶりやトレード、結婚について迫って行きましょう。
本名:篠塚 利夫 (しのづか としお)
身長:176cm
血液型:A型
出身地:千葉県銚子市
生年月日:1957年7月16日
所属球団:読売ジャイアンツ(1976~94) ※選手時代
主なタイトル:首位打者(1984年・1987年)
打つだけでなく守備も天才的だった篠塚
まずは篠塚和典さんの天才ぶりを改めて振り返ることから始めましょう。
篠塚さんのバッティングは巧いだけでなく美しさも兼ね備えており、あのイチローさんも「篠塚モデル」のバットを使うなど意識していたのは有名な話です。
バットコントロールの見事さは芸術品と言えるレベルとして知られ、Youtubeで守備やバッティングを教えている時に何度も「柔らかさ」や「流れ」という言葉が出ていました。
確かに篠塚さんの流し打ちは美しいほどしなやかで、守備もフワッとした印象を受けます。
これは天性の物というより意識的に取り組んでいるらしく、打撃も守備も体にゆとりを持たせることで瞬時のアクシデントに対応できると論理的に説明していました。
また、わざと体勢を崩して打つ練習をすることもあったそうですが、これによって急に難しいボールが来た場合にも冷静かつ、いつも通りに打ち返すことができるそうです。
もっとも、並の選手であれば変な癖がついて本来のバッティングに影響が出かねませんが、まったく問題なく自身の技術に取り込んでいるセンスは天才的と言えるでしょう。
守備もダイビングキャッチなど派手な動きはあまり無かったものの、バッターの立ち位置やキャッチャーの構えから打球を予測して待ち構えているという巧さを持っています。
本当に巧い人は”いつの間にかそこにいる”ような人を指しますので、篠塚さんは捕球力だけでなく打者心理を読んで守備位置を変えるセンスもまた天才的と言えるでしょう。
現役時代は腰痛に悩まされるなど健康面に不安がありましたが、もしも体が万全でフル出場できていたとしたら日本の野球史が大きく変わっていたかもしれませんね。
※主なタイトル (首位打者2回 / ベストナイン5回 / ゴールデングラブ賞4回)
篠塚和典をトレードに出す計画があった?
次は篠塚和典さんをトレードに出す予定だったという驚きの噂を見て行きます。
1986年のシーズンが少し不振だったことで6年間続いていた打率3割が途絶えてしまい、早くもシーズンオフにロッテの主砲だった落合博満さんとのトレード説がにわかに浮上。
その年の落合さんは123試合に出場して2年連続の三冠王(打率.360 / 本塁打50 / 打点116)に輝いており、ジャイアンツに限らずどこの球団であっても来て欲しい選手でした。
実は前年(1985年)のオフもジャイアンツはロッテに対して落合さんのトレードを打診をしていたらしく、その時は「原以外なら誰でも出す」とまで言ったそうです。
名前の挙がった篠塚さんは”巨人を出るのなら辞める”と宣言したことで注目を集め、ジャイアンツが揉めているうちに中日が牛島和彦さんらを出すことでトレードをまとめました。
また、騒動に奮起した篠塚さんは翌年に2度目の首位打者を獲得する活躍を見せています。
結果としてトレードは合意に至りませんでしたが、ロッテ側が求めた選手はジャイアンツの柱である原辰徳さんや中畑清さんだったので御破算は無理もないことでしょう。
そんな過去がありながら、1991年に篠塚さんは出場が減った不満から「必要無いならトレードに出してくれ」と主張し、球団から罰金処分を受けたのは何とも皮肉な話ですね。
結婚や離婚の回数について
ここでは篠塚和典さんの結婚や離婚など私生活の部分をチェックして行きましょう。
野球ファンの間やネット上では篠塚さんが”遊び人”というイメージがあるそうです。
あまりプライベートを明かしていないので結婚や離婚の回数は少し曖昧(あいまい)ですが、1981年に婚約破棄、1982年に別の女性と結婚して翌年には離婚をしたと言われていました。
それでは収まらず、1984年に女優・折原啓子さんの娘である嘉津子さんと再婚。
また、俳優の三上博史さんと折原さんは甥と叔母なので篠塚さんとも親戚になります。
1989年5月8日に長男の宜政(よりまさ)さんを授かっており、嘉津子さんとは2023年現在も結婚生活が続いている様子なので、結婚歴は(結婚2回と離婚1回)ということになるでしょう。
ちなみに、篠塚さんのブログを読むと結婚記念日が10月15日であることが読み解けます。
昔は色々とありましたが、嘉津子さんと結ばれてからは落ち着いた生活を取り戻していました。
篠塚利夫から和典に改名した意外な理由
最後に篠塚和典さんが改名をした理由について見ておきましょう。
1992年6月29日まで本名の篠塚利夫でプレーしていましたが、同年6月30日からは和典という登録名に変更したことはファンの間でも大きな話題になりました。
改名した理由は1990年以降、持病である腰痛の悪化によって出場機会が激減していたこともあり、一種のゲン担ぎのような意味合いもあって変える決断をしたそうです。
篠塚さんに改名を勧めた人物は「知り合いの内気功の先生」と「お寺の住職」というふたりが挙がっていますが、最近の流れでは内気功の先生説が有力になっていました。
改名を勧めた人から利夫という名前が腰を悪くしていると指摘され、藁(わら)をもつかむ気持ちだった篠塚さんはすぐに改名しましたが腰痛は治ることなく2年後に引退。
科学的に考えれば当然の結果ですが、それだけ腰痛に悩んでいた表れなのかもしれません。
実は篠塚さんに限らず野球選手には改名する人が多いらしく、ミスター赤ヘルの山本浩司さんは「山本浩二」に、阪神の矢野輝弘さんも「矢野燿大」に改めています。
他にも本名ではなくニックネームで選手登録する人も多く、イチローさんやパンチ(佐藤)さん、山本昌(本名は昌広)さんなどバラエティーに富んでいるのも面白さのひとつでしょう。
ただ、改名の裏には様々な悩みがあったことも併せて記憶に留めておいて頂ければ幸いです。
銚子商業高校出身のプロ野球選手一覧表
澤井良輔
内野手 銚子商業高-千葉ロッテマリーンズ 1995年 ドラフト1位
千葉県銚子市出身。銚子商の主軸として大活躍。3年生時に春夏連続甲子園出場。センバツでは準優勝、夏の甲子園は3回戦敗退。しかし、そのパワーとスター性はプロ級と評判になり、「西の福留・東の澤井」と呼ばれる。また、福留とは交友関係。
1995年、ドラフト会議で、ライバル・福留のハズレ1位としてロッテに指名され入団。当時の背番号は10。2002年、シーズン開幕戦をスタメンで飾る。2004年、1軍出場なしに終わり、背番号を10から32に変更。2005年、2年連続1軍出場なしに終わり、ロッテから戦力外通告を受ける。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | ロッテ | – | – | – | – | – | – | – | – |
1997 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1998 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | |
1999 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
2000 | 9 | 10 | 2 | 1 | 1 | 0 | 3 | .200 | |
2001 | 12 | 19 | 5 | 0 | 1 | 0 | 6 | .263 | |
2002 | 41 | 68 | 12 | 3 | 8 | 0 | 17 | .176 | |
2003 | 26 | 61 | 17 | 2 | 9 | 0 | 11 | .279 | |
2004 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
2005 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算10年 | 90 | 160 | 36 | 6 | 19 | 0 | 38 | .225 |
八木政義
投手 銚子商業高-阪急ブレーブス 1987年 ドラフト3位
千葉県銚子市出身。銚子商から1987年ドラフト会議で阪急ブレーブスへ入団。1年目の1988年に2試合に登板しただけで、その後は一軍登板が無く、1991年に引退。オリックスではイチローの前に背番号51を付けていた選手である。
年度 | 球団 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | 阪急 | 2 | 0 | 0 | 0 | – | 2.0 | 1 | 22.50 |
1989 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1990 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算3年 | 2 | 0 | 0 | 0 | – | 2.0 | 1 | 22.50 |
大川隆
内野手 銚子商業高-横浜大洋ホエールズ 1985年 ドラフト3位
茨城県行方市(旧麻生町)。銚子商から1985年に当時の横浜大洋ホエールズに投手として入団。しかし投手登録は1986年のみで、1987年からは100mを10秒台で走る俊足を活かしスイッチヒッターの外野手に転向。当時盗塁王の常連だったチームメイトの屋鋪要を凌ぐ俊足で、「屋鋪・大川の右中間は抜けない」と言われ期待されたが、故障や打撃の非力さでレギュラーになれず、1995年に引退。
引退後は球団スタッフに転身し、2009年9月5日、先発投手のメンバー表にランドルフと書くべきところをライアン・グリンの名を書くトラブルを起こし、リリーフしたランドルフの1試合15奪三振の最多記録を演出する。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 |
大洋
横浜 |
– | – | – | – | – | – | – | – |
1987 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | – | |
1988 | 5 | 5 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | .400 | |
1989 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1990 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1991 | 12 | 15 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | .133 | |
1992 | 28 | 33 | 6 | 0 | 3 | 0 | 12 | .182 | |
1993 | 53 | 66 | 14 | 0 | 4 | 6 | 17 | .212 | |
1994 | 8 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | .000 | |
1995 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算10年 | 108 | 122 | 24 | 0 | 7 | 8 | 34 | .197 |
片平哲也
投手 銚子商業高-中日ドラゴンズ 1985年 ドラフト2位
福島県会津若松市。銚子商では1985年夏の甲子園に出場。真上から投げ下ろす速球は威力があり評判は高かったが制球難もあり一回戦敗退。1985年ドラフト2位で中日入団し、2年目から野手に転向。1988年11月本村信吾と共に、片岡光宏・斉藤浩行との2対2の交換で広島に移籍。1992年投手に再転向も現役引退。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 | 中日 | – | – | – | – | – | – | – | – |
1987 | 12 | 28 | 11 | 1 | 10 | 0 | 7 | .393 | |
1988 | 5 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | |
1990 | 広島 | 11 | 13 | 3 | 0 | 1 | 0 | 4 | .231 |
1991 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1992 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算6年 | 28 | 44 | 15 | 1 | 11 | 0 | 11 | .341 |
尾上旭
内野手 銚子商業高-中央大-中日ドラゴンズ 1981年 ドラフト1位
千葉県旭市出身(旧飯岡町)。銚子商業高から中央大学へ進学。東都大学リーグ通算108試合出場、394打数105安打、打率.266、14本塁打、43打点。ベストナイン1回。1981年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
高校時代は1977年遊撃手として春のセンバツに出場、大学時代は1981年全日本選抜メンバーに選出された。
中日では巧打と堅守を誇る即戦力内野手との評価を受けるも内野守備・代走要員としての起用にとどまる。1987年11月に近鉄バファローズに移籍。1991年現役引退。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | 中日 | 50 | 65 | 14 | 1 | 9 | 2 | 17 | .215 |
1983 | 57 | 67 | 15 | 2 | 5 | 1 | 14 | .224 | |
1984 | 57 | 43 | 8 | 1 | 10 | 2 | 9 | .186 | |
1985 | 81 | 70 | 14 | 0 | 3 | 4 | 6 | .200 | |
1986 | 70 | 96 | 17 | 1 | 5 | 1 | 14 | .177 | |
1987 | 18 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | .111 | |
1988 | 近鉄 | 15 | 15 | 4 | 0 | 1 | 0 | 4 | .267 |
1989 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | |
1990 | 13 | 10 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | .300 | |
通算9年 | 362 | 377 | 77 | 5 | 33 | 10 | 69 | .204 |
宇野勝本塁打王
内野手 銚子商業高-中日ドラゴンズ 1976年 ドラフト3位
千葉県匝瑳市出身(旧八日市場市)。銚子商業では1976年の甲子園に遊撃手として出場。中日ドラゴンズのスカウトが甲子園で三遊間の深い位置に転がったゴロをさばいて強肩で打者走者を刺した守備力を評価して、同年のドラフトで3位指名したという話がある。同じ学年の神奈川・東海大相模の原辰徳三塁手から電話で『東海大学で三遊間を組もう』と誘われたが、家が裕福でなかった宇野は、原より先にプロで金を稼がせてもらおうという理由で中日ドラゴンズに指名を受けて高校からプロ入りに踏み切ったと言われる。
プロ入り3年目の1979年からレギュラーとして定着。1981年8月26日の対読売ジャイアンツ戦で、7回裏の守備の際に山本功児の打った飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てる伝説の珍プレーは有名な話。自身の1シーズン最多本塁打は1985年の41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては最高。
また、中日時代に打った334本塁打も球団史上最多記録。1992年、シーズン前に目標を聞かれ、「3割、30本、3盗塁」とテレビカメラの前で宣言。しかし、立浪和義・種田仁・前原博之との競争に敗れ、また高木守道監督との確執もあり、オフに地元球団の千葉ロッテマリーンズにトレードで移籍。1994年オフ、成績不振・出場機会減少によりロッテから戦力外通告受け現役を引退。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | 中日 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | – |
1978 | 26 | 48 | 10 | 3 | 7 | 1 | 14 | .208 | |
1979 | 122 | 359 | 95 | 12 | 37 | 4 | 74 | .265 | |
1980 | 121 | 408 | 100 | 12 | 44 | 3 | 71 | .245 | |
1981 | 128 | 429 | 121 | 25 | 70 | 6 | 85 | .282 | |
1982 | 125 | 446 | 117 | 30 | 69 | 4 | 91 | .262 | |
1983 | 129 | 457 | 123 | 27 | 64 | 9 | 97 | .269 | |
1984 | 130 | 458 | 116 | 37 | 87 | 13 | 117 | .253 | |
1985 | 130 | 486 | 133 | 41 | 91 | 5 | 98 | .274 | |
1986 | 83 | 308 | 65 | 10 | 26 | 7 | 71 | .211 | |
1987 | 130 | 471 | 127 | 30 | 80 | 9 | 75 | .270 | |
1988 | 130 | 465 | 129 | 18 | 76 | 8 | 78 | .277 | |
1989 | 119 | 437 | 133 | 25 | 68 | 2 | 82 | .304 | |
1990 | 119 | 454 | 131 | 27 | 78 | 4 | 105 | .289 | |
1991 | 125 | 428 | 102 | 26 | 74 | 2 | 112 | .238 | |
1992 | 110 | 335 | 80 | 11 | 52 | 1 | 86 | .239 | |
1993 | ロッテ | 59 | 166 | 30 | 3 | 9 | 0 | 43 | .181 |
1994 | 14 | 33 | 8 | 1 | 4 | 0 | 7 | .242 | |
通算18年 | 1802 | 6188 | 1620 | 338 | 936 | 78 | 1306 | .262 |
篠塚利夫(篠塚和典)首位打者
内野手 銚子商業高-読売ジャイアンツ 1975年 ドラフト1位
千葉県銚子市出身。銚子商2年生時に春夏と甲子園に連続出場し、夏の大会ではチームの優勝に貢献。その後、湿性肋膜炎にかかり一時は野球生命まで危ぶまれたものの、当時の巨人監督だった長嶋茂雄に見込まれ、1975年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1980年に二塁手としてシーズン通して出場。翌年の1981年当初はルーキーの原辰徳が二塁を守ったため出場機会が減少したが、三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により原が三塁に回り、以後は篠塚が二塁手のレギュラーに定着。
華麗なバットコントロールと巧みな守備で鳴らし、シーズン打率3割以上を5年連続も含めて7回記録。通算打率も3割を超えている。1981年は藤田平(阪神)と首位打者争いし、わずか1厘差でタイトルを逃すものの現役最高の打率を記録。1984年には自身初の首位打者を獲得。1987年にも正田耕三(広島)と共に2度目の首位打者を獲得。主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。持病の腰痛もあり晩年は代打での起用が主となり、1994年に現役を引退。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 巨人 | – | – | – | – | – | – | – | – |
1977 | 18 | 24 | 5 | 0 | 0 | 0 | 4 | .208 | |
1978 | 3 | 7 | 2 | 0 | 2 | 0 | 2 | .286 | |
1979 | 76 | 90 | 25 | 0 | 10 | 1 | 14 | .278 | |
1980 | 115 | 315 | 82 | 6 | 31 | 6 | 31 | .260 | |
1981 | 116 | 412 | 147 | 7 | 45 | 2 | 39 | .357 | |
1982 | 124 | 467 | 147 | 7 | 67 | 5 | 32 | .315 | |
1983 | 115 | 424 | 130 | 13 | 56 | 10 | 42 | .307 | |
1984 | 126 | 461 | 154 | 12 | 66 | 7 | 49 | .334 | |
1985 | 122 | 466 | 143 | 8 | 54 | 6 | 45 | .307 | |
1986 | 128 | 485 | 141 | 8 | 43 | 3 | 54 | .291 | |
1987 | 115 | 429 | 143 | 7 | 49 | 4 | 52 | .333 | |
1988 | 116 | 414 | 131 | 6 | 58 | 2 | 31 | .316 | |
1989 | 119 | 461 | 134 | 4 | 38 | 5 | 38 | .291 | |
1990 | 71 | 232 | 66 | 5 | 29 | 1 | 27 | .284 | |
1991 | 97 | 289 | 77 | 3 | 23 | 1 | 49 | .266 | |
1992 | 67 | 241 | 64 | 0 | 21 | 2 | 35 | .266 | |
1993 | 66 | 208 | 70 | 4 | 23 | 0 | 21 | .337 | |
1994 | 57 | 147 | 35 | 2 | 13 | 0 | 15 | .238 | |
通算19年 | 1651 | 5572 | 1696 | 92 | 628 | 55 | 580 | .304 |
土屋正勝
投手 銚子商業高-中日ドラゴンズ 1974年 ドラフト1位
千葉県旭市出身。銚子商では1年秋からエースで1973年春から4期連続で甲子園に出場。オードソックスなフォームから投げ下ろす本格派投手として、早くから注目されていた。1973年の選手権では、2回戦で作新学院の江川卓に延長11回の末投げ勝ち、ベスト8に進出。翌1974年の選抜でもベスト8。同年の選手権では圧倒的な強さで見事全国優勝を成し遂げる。
同年秋のドラフトでは高校生の目玉として注目を集め、中日ドラゴンズの1位指名を受けて入団。入団後も度々肘や肩の故障に苦しみ、全盛期の球威が復活することは遂に無かったが、リリーフ・中継ぎとして息の長い活躍を見せた。1984年にロッテオリオンズに移籍。1986年5月10日の試合には1球で勝利投手になった。この年のシーズン終了後に現役を引退した。
年度 | 球団 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975 | 中日 | 14 | 0 | 1 | 0 | – | 39.2 | 22 | 4.28 |
1976 | 8 | 0 | 0 | 0 | – | 11.2 | 6 | 8.25 | |
1977 | 9 | 0 | 1 | 0 | – | 20.1 | 7 | 5.40 | |
1978 | 16 | 0 | 2 | 0 | – | 38.2 | 12 | 7.38 | |
1979 | 32 | 2 | 6 | 0 | – | 104.0 | 43 | 4.76 | |
1980 | 28 | 1 | 4 | 0 | – | 61.0 | 39 | 4.87 | |
1981 | 23 | 1 | 0 | 0 | – | 33.0 | 16 | 1.91 | |
1982 | 13 | 0 | 0 | 0 | – | 15.1 | 5 | 3.00 | |
1983 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1984 | ロッテ | 29 | 0 | 3 | 1 | – | 62.2 | 32 | 5.31 |
1985 | 33 | 2 | 2 | 0 | – | 89.2 | 43 | 4.72 | |
1986 | 36 | 2 | 3 | 2 | – | 41.0 | 19 | 4.61 | |
通算12年 | 240 | 8 | 22 | 4 | – | 517.0 | 244 | 4.86 |
根本隆
投手 銚子商業高-日本石油-大洋ホエールズ 1974年 ドラフト1位
千葉県銚子市出身。銚子商時代に1972年の選抜ベスト4進出の原動力となり注目される。同校卒業後は日本石油に入社し主戦投手を務める。速球と鋭いカーブを武器に1974年にドラフト1位で入団したものの期待通りの活躍はできなかった。1978年オフ、交換トレードで西武に移籍した。
年度 | 球団 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975 | 大洋 | 4 | 0 | 0 | 0 | – | 4.2 | 3 | 3.60 |
1976 | 34 | 3 | 7 | 1 | – | 116.0 | 69 | 3.96 | |
1977 | 21 | 2 | 2 | 0 | – | 47.2 | 29 | 6.56 | |
1978 | 18 | 1 | 2 | 0 | – | 33.0 | 19 | 7.64 | |
1979 | 西武 | 8 | 0 | 1 | 0 | – | 13.1 | 4 | 7.62 |
1980 | 9 | 0 | 1 | 0 | – | 13.2 | 9 | 6.43 | |
1981 | 9 | 1 | 0 | 0 | – | 16.2 | 8 | 2.65 | |
1982 | 5 | 0 | 1 | 1 | – | 6.2 | 6 | 3.86 | |
1983 | 2 | 0 | 0 | 0 | – | 4.2 | 0 | 0.00 | |
1984 | 3 | 0 | 0 | 0 | – | 4.1 | 1 | 4.15 | |
通算10年 | 113 | 7 | 14 | 2 | – | 260.2 | 148 | 5.08 |
町田公雄
外野手 銚子商業高-元日本石油- 阪神タイガース 1974年 ドラフト5位
千葉県銚子市出身。銚子商から日本石油野球部に進み、全日本入りも果たした。1974年のドラフト5位で阪神タイガースに入団。1976年にプロ初出場、翌1977年には46試合に出場したものの、1978年は出場が無く退団した。打撃を期待されたが、守備が課題で代打での出場がほとんどだった。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975 | 阪神 | – | – | – | – | – | – | – | – |
1976 | 39 | 54 | 10 | 0 | 1 | 1 | 9 | .185 | |
1977 | 46 | 45 | 10 | 1 | 2 | 1 | 12 | .222 | |
1978 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算4年 | 85 | 99 | 20 | 1 | 3 | 2 | 21 | .202 |
渡辺進
内野手 銚子商業高-ヤクルトアトムズ 1970年 ドラフト4位
千葉県銚子市出身。銚子商から1971年ドラフト4位でヤクルトアトムズに入団。内外野問わず守れるユーティリティ選手として活躍。1980年に二塁手としてレギュラーに定着する。後に、三塁手と一塁手を務める。しかし、広澤克実が入団してからは出場機会が減っていき、1987年に現役引退。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971 | ヤクルト | – | – | – | – | – | – | – | – |
1972 | 8 | 16 | 4 | 1 | 1 | 0 | 6 | .250 | |
1973 | 8 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | .000 | |
1974 | 13 | 13 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | .000 | |
1975 | 20 | 25 | 4 | 0 | 0 | 0 | 7 | .160 | |
1976 | 84 | 177 | 40 | 4 | 15 | 1 | 37 | .226 | |
1977 | 91 | 225 | 46 | 8 | 26 | 7 | 52 | .204 | |
1978 | 61 | 114 | 22 | 4 | 17 | 1 | 24 | .193 | |
1979 | 17 | 40 | 4 | 0 | 0 | 0 | 12 | .100 | |
1980 | 87 | 269 | 68 | 11 | 35 | 3 | 54 | .253 | |
1981 | 125 | 404 | 108 | 16 | 57 | 5 | 68 | .267 | |
1982 | 112 | 331 | 70 | 11 | 35 | 0 | 54 | .211 | |
1983 | 118 | 381 | 106 | 19 | 45 | 3 | 56 | .278 | |
1984 | 121 | 391 | 110 | 9 | 53 | 3 | 73 | .281 | |
1985 | 107 | 274 | 76 | 8 | 34 | 1 | 54 | .277 | |
1986 | 50 | 73 | 18 | 2 | 8 | 0 | 21 | .247 | |
1987 | 36 | 24 | 1 | 0 | 1 | 0 | 9 | .042 | |
通算17年 | 1058 | 2761 | 677 | 93 | 328 | 24 | 535 | .245 |
杉山茂
捕手 銚子商業高-読売ジャイアンツ 1968年 ドラフト6位
千葉県銚子市出身。銚子商から1968年ドラフト6位で読売ジャイアンツ入団。主に森昌彦、吉田孝司に次ぐ3番手の捕手として起用された。しかし、山倉和博の入団により出場機会が激減し1982年限りで現役を引退。引退後は巨人のトレーニングコーチ、バッテリーコーチ、スコアラなど裏方で活躍している。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | 巨人 | – | – | – | – | – | – | – | – |
1970 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1971 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | – | |
1972 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1973 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | |
1974 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | – | |
1975 | 13 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | .200 | |
1976 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | – | |
1977 | 30 | 51 | 14 | 0 | 7 | 1 | 4 | .275 | |
1978 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .167 | |
1979 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1980 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | |
1981 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1982 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算14年 | 58 | 70 | 17 | 0 | 7 | 1 | 8 | .243 |
市原明
内野手 銚子商業高-東京オリオンズ 1968年 ドラフト13位
千葉県佐原市出身。右投右打。銚子商では三塁手、七番打者として1968年の春の甲子園に出場。準々決勝へ進出するが倉敷工業に敗退する。また、この試合ではリリーフとして甲子園初登板を果たす。同年夏の千葉県予選でも決勝戦に進むが、千葉商業に敗れて準優勝。高校の同期生に杉山茂、町田公雄がいる。
その後、1968年ドラフト会議で東京オリオンズから13位指名を受けて入団。1970年にはジュニアオールスターに出場するが、一軍ではあまり出場機会に恵まれなかった。1971年の第2回トレード会議の対象となり、指名を受けた阪急ブレーブスへ移籍。1973年限りで引退。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | ロッテ | – | – | – | – | – | – | – | – |
1970 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
1971 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | – | |
1972 | 阪急 | – | – | – | – | – | – | – | – |
1973 | – | – | – | – | – | – | – | – | |
通算5年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | – |
木樽正明最多勝最優秀防御率
投手 銚子商業高-東京オリオンズ 1965年 ドラフト2位
千葉県銚子市出身。銚子商業高校3年の時、1965年夏の甲子園大会で準優勝。卒業後は早稲田大学への進学希望で、入団には難色を示していたが、青木一三スカウトの説得で翌年の1月に入団。杉下茂、堀本律雄のつけた背番号20を受け継ぎ、速球と切れのいいシュートを武器に入団1年目から主力投手として活躍。
1968年は故障で0勝1敗の成績で終わり、野手転向も検討されたが、1969年にはリリーフで15勝をマークし、パ・リーグ最優秀防御率のタイトルを獲得。1970年には先発に転向し、21勝をマークして同年のリーグ優勝に大きく貢献、MVP・ベストナインのタイトルも獲得した。翌1971年も24勝をマークし、最多勝に輝く。1974年の日本一にも貢献し、成田文男、金田留広、村田兆治とともに四本柱を形成した。その後は持病の腰痛に苦しみ、1976年に29歳で現役引退。
年度 | 球団 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966 | ロッテ | 17 | 3 | 8 | – | – | 78.0 | 32 | 3.00 |
1967 | 44 | 8 | 8 | – | – | 146.0 | 90 | 2.53 | |
1968 | 5 | 0 | 1 | – | – | 14.1 | 11 | 5.79 | |
1969 | 51 | 15 | 9 | – | – | 162.0 | 70 | 1.72 | |
1970 | 42 | 21 | 10 | – | – | 278.0 | 161 | 2.53 | |
1971 | 47 | 24 | 8 | – | – | 266.0 | 168 | 3.45 | |
1972 | 37 | 9 | 7 | – | – | 123.0 | 78 | 3.88 | |
1973 | 44 | 14 | 7 | – | – | 165.1 | 88 | 2.84 | |
1974 | 36 | 13 | 6 | 2 | – | 201.0 | 85 | 3.09 | |
1975 | 30 | 5 | 14 | 1 | – | 140.2 | 44 | 3.96 | |
1976 | 14 | 0 | 2 | 0 | – | 35.2 | 14 | 5.50 | |
通算11年 | 367 | 112 | 80 | 3 | – | 1610.0 | 841 | 3.05 |
阿天坊俊明
内野手 銚子商業高-南海ホークス 1965年 ドラフト2位
1965年、銚子商業高3年の時、夏の甲子園では遊撃手としてエース・木樽正明と共にチームの準優勝に貢献した。同年秋の第1回ドラフト会議で南海ホークスより2位指名を受けるも入団拒否し、立教大学に進学する。入学後すぐの1966年春季リーグ戦では、リーグ三冠王の槌田誠,小川亨,谷木恭平,秋山重雄らと共に「2番・遊撃手」として立大の13季ぶりの優勝に貢献した。
大学卒業後は、1970年から新日本製鐵室蘭でプレー。その後、郷里の銚子市に帰り、実家の干物商「干物工房・あてんぼう」を引き継ぎ、代表取締役に就任する。また、地元のシニア野球チーム「銚子シニア」の会長も務めた。
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
備考 | 入団拒否 |
2017年4月15日放送 21:00 - 21:54 テレビ東京 出没!アド街ック天国 銚子 出演者 薬丸裕英 峰竜太 須黒清華 山田五郎 井ノ原快彦(V6) 石塚英彦 城之内早苗 篠塚和典


オープニング映像。今回は6年連続水揚げ量が日本一の銚子を紹介。
- キーワード
- 銚子(千葉)
都内から「特急しおさい」で2時間、「JR銚子駅」近くにある「銚子漁港 第一卸売市場」。銚子市には卸売場が3カ所あり、年間水揚げ量が約27万tとなっている。第一卸売市場のすぐ目の前には新鮮な魚を食べられる食堂がある。「鮪蔵」では地元の漁師もオススメで入り口では水揚げされた鮪が出迎える。名物のメニューはバチマグロの腹の部分を使った「近海まぐろ丼」。他にも「みうら」では銚子つりきんめを使用した「きんめづくし膳」や「海ぼうず」ではアブラボウズを使用した「あぶらぼうず照り焼きと刺身2点定食」などを紹介した。
「カスミ フードスクエア南小川店」に行ってみると海藻売り場が充実している。その中にある「海藻」は千葉県のローカル食材である。この「海藻」専門店もある。原料となるのは「コトジツノマタ」というスギノリ科の海藻で、食べ方は「海藻」にねぎやかつお節に七味唐辛子、醤油をかけて食べる。銚子市には「コトジツノマタ」を拾う名人もおり、阿部さんは日に3回くらいにわけて拾い、近所に配ったりしている。
「銚子マリーナ」から出向する「フリッパー号」ではイルカ遭遇率が80%以上となっている。船長の宮内さんはイルカの出現ポイントを熟知しており、沖合の漁師とも連携しイルカの動きを予想していて、運が良ければイルカの大群にも出会える。
銚子市内に17軒ある寿司屋では新鮮な寿司を食べられるが、それ以外にもどの店でも食べられるのが「伊達巻」である。人気の寿司屋「鮨 治ろうや」では伊達巻専用の調理場があるほどで、たっぷりの砂糖を溶かした糖蜜を卵に加え、釜で焼き上げた。
江戸期に創業し、全国展開している「ヤマサ醤油」と「ヒゲタ醤油」。その他にも5軒の醤油蔵が市内に存在する。「銚子 山十商店」では醤油のルーツとされる「醤」が名物である。市民に話を聞くと醤油は好きでいろんなものにも醤油をかけるという。ある噂ではカレーライスにも醤油をかけるという。50人にアンケートを取るとかけるが19でかけないが31で4割の人がカレーライスに醤油をかけるだった。他にもとんかつに醤油をかけるや醤油かけご飯をするなどの意見があった。
VTRを振り返りトーク。銚子の人の醤油好きについて銚子市出身の篠塚さんは「とんかつにはかけた事がある」や「カレーライスにもかけた事がある」など話す。しかし、かけるならソースなど峰さんらが反論した。そして、出演者が思う銚子市について峰さんは「イワシ」で銚子市でイワシ料理を食べに行ったなど話す。篠塚さんさんは「魚と野球」で昔は加工屋が点在し、魚を干していて、頂いても問題がなかったなど話す。
城之内さんは「銚子大橋」で城之内さんは銚子市の隣の茨城・神栖市の出身で「銚子大橋」があったおかげで醤油をかける文化が伝わったなど話す。石塚はつりきんめは外せないと話、金目鯛のしゃぶしゃぶがオススメなど話す。薬丸はヤマサと書き、工場見学でバーチャル映像を使って説明してくれて楽しめ、見学後に食べてほしいものとして「しょうゆソフトクリーム」と話す。山田五郎は「銚子商業高校」の校歌が銚子の地質を物語ってるなど説明した。
「地球の丸く見える丘展望館」では海と内陸を360度見渡せる。銚子の歴史について江戸時代「ヒゲタ醤油」と「ヤマサ」の二大醤油醸造が創業。この2つの醤油は利根川の水運により江戸へと運ばれ寿司やそばなどに使用された。
銚子市にある食事処「一山いけす」の店内には巨大な生け簀が設置されており、地元の漁師から新鮮な魚介類を買い付けている。メニューは「イカ活け造り」や「平目活け造り盛り合わせ」などが販売している。
銚子市には作付面積が東京ドーム375個分が広がるキャベツ畑があり、地元の特産品である「灯台キャベツ」が生産されている。「灯台キャベツ」を味わえる店の一つ「シーフードレストランうおっせ」では「マグロのロールキャベツ」が5月まで限定で味わえる。他にも「ちょうし駅前酒場 きょんまる」では灯台キャベツを4分の1にカットしそれを丸ごと焼いた「焼き春キャベツ」を食べれると紹介。中華の「麗華」では出荷できないキャベツを譲り受け使用した「回鍋肉」を食べれる。
銚子市にある「ウオッセ21」には多くの鮮魚店などが入っている。「かねまた水産」ではマグロ仕入れの達人でびんちょう鮪が1柵1800円で販売。「しだや」は缶詰専門店でベストセラーは「サバカレー」である。そして、名物イベントとしてマグロの解体ショーが行われ8万円相当のメバチマグロが無料で振る舞われる。
「銚子商業高校」では中日ドラゴンズの宇野勝さんや読売ジャイアンツの篠塚和典さんなど多くのプロ野球選手を輩出している。また、昭和49年の第56回全国高等学校野球選手権大会では当時3年生のエース土屋正勝さんが好投し、篠塚和典さんら打線も爆発し夏の甲子園を初優勝し銚商フィーバーが起きた。銚商野球部名物練習が「バイクおっぺし」というものでコーチがブレーキを賭けたバイクに乗り、それを選手らが押して進んでいくものである。当時を知る根本さんは篠塚さんより1学年先輩で夏の甲子園優勝時にはウイニングボールを捕った人物。根本さんは篠塚さんに「銚子の方に来たときには寄って遊びに来て下さい」とメッセージを送った。
VTRを振り返りトーク。篠塚さんは銚子商業高校の先輩である根本さんについて東京に来てから一回も会ってないと話し、40年ぶりに見たと話す。「バイクおっぺし」について野球人生の中で一番つらかったとコメントした。「灯台キャベツ」について美味しそうなど話すがキャベツに醤油をかけるならソースという意見が出た。また、石塚が剥いて食べたら甘いと述べた。
- キーワード
- 千葉県立銚子商業高等学校根本雅一灯台キャベツ
銚子はレジャーとしての釣り場としても魅力的で船宿は市内に11軒存在する。「福田丸」には全国各地から上級者釣り人が集まる。船長の福田さんは御年74で深海魚の「メヌケ」を狙う。同行した日は大量に釣り上げ中には6尾の「メヌケ」を釣り上げた。市場にはあまり出回る事がない。料理はしゃぶしゃぶがオススメである。
- キーワード
- メヌケメヌケのしゃぶしゃぶ外川漁港福田丸
「犬吠埼観光ホテル」は日帰りでも堪能できる温泉宿である。温泉は他にもあり「別邸 海と森」は市内でも新しい宿で全室がオーシャンビューの露天風呂付きである。
銚子市にある「嘉平屋」は練り物が大人気。人気ナンバー1は1日1万個が売れる「カレーボール」。「嘉平屋」はイベントにも引っ張りだこで、「道の駅 風和里しばやま」に出張販売する。そして、そこで揚げていた人が篠塚さんの兄である正二さんだった。正二さんは篠塚さんに「カレーボール100個家に送っとくからね」とメッセージ。
額賀屋染工場では親子2代で大漁旗を制作している。小沢染工場では家族総出で制作しており、手早く色付をしないと色にむらがでるので素早く行っている。完成した大漁旗は進水式に用いられる。他の職人技として「青柳畳店」では4代目が畳グッズを販売し、イギリス王室などにも贈られるなど日本外交にも一役かっている。
「銚子電鉄」で有名なのが「ぬれ煎餅」。平成10年頃に陥った経営危機を救った原動力である。しかし、14年には脱線事故が起き、資金不足なるが調子商業高校の生徒が車内販売やオリジナル商品の販売など支援をし復旧した。銚子電鉄の観音駅では銚子電鉄が経営しているたいやき屋があり「お好みや鯛焼き」が販売している。犬吠駅では銚子市内にある煎餅屋の煎餅がセット販売している。外川駅では木造の駅舎などが見れる。

銚子の気にスポとして、喫茶店の入り口の上に巨大な看板がかかっているお店を紹介。マスターの渡辺さんは100歳でお店出来たらいいなと思い看板を掲げていると話す。そして、コーヒーについて愛のように甘く、地獄のように熱いコーヒーを出すなど述べた。
- キーワード
- パピーコーヒーシヨツプ珈琲銚子(千葉)
VTRを振り返りトーク。コーヒーのテーマがしっかりしていたと述べ、最後に甘いのは秘密のシロップがあると説明された。
- キーワード
- パピーコーヒーシヨツプ珈琲
銚子にいた女性60人のラインナップ映像。
- キーワード
- 銚子(千葉)
市の無形文化財である「銚子はね太鼓」は8月5日に開催される「銚子みなとまつり」で披露される。
銚子市内には醤油蔵元が5つあり、その中でも街の顔となっているのがヒゲタとヤマサの2代メーカー。銚子市内の飲食店には2社の醤油が置いてある光景がみられる。どちらも工場見学が人気で2社とも醤油醸造をバーチャルで体験出来る。そして、2社の広報に話を聞くと銚子の街を盛り立てようと仲良く頑張っていた。
水揚げ量日本一の「銚子漁港」。リニューアルしたばかりの第一卸売市場では「生マグロ」が水揚げされ漁船基地となっている。買い付けに来るのは生マグロ専門店「久六」やかねまた水産。久六の山口さんの目利き力ををかねまた水産の桐谷さんが鍛えている。買い取られたマグロは店で「上刺盛り定食」などになり販売される。
VTRを振り返りトーク。石塚は最高の魚を最高の醤油で食べるって銚子しかないなど話した。また、篠塚さんはトラックに乗せられた魚が道に落ちることがあり、それを拾って子供だけで焚き火して焼いて食べたなど話した。
出没!アド街ック天国の次回予告。
美の巨人たちの番組宣伝。





篠塚和典氏 地獄の伊東キャンプで長嶋茂雄氏を挑発?「一緒に走ってみろよ!」 長嶋氏の反応は

銚子商(千葉)からドラフト1位で巨人に入団。当時はまだV9戦士が現役でいたころだったという。篠塚氏ら若手は、チームが5位と低迷した79年の秋、静岡県伊東市に集められ、約3週間にわたるキャンプを実施。過酷さゆえに“地獄の伊東キャンプ”と呼ばれた。参加メンバーは江川卓氏、西本聖氏、山倉和博氏、河埜和正氏、中畑清氏、松本匡史氏ら18人。このメンバーがその後、新たなチームの礎を築くことになり、ファンの間で語り草になっている。
篠塚氏は、当時監督だった長嶋茂雄氏からの言葉を覚えているという。「キャンプ始まる前にミスターが、“お前たちはここでしっかり技術、体力を付け、お前たちがこれからジャイアンツを10年、15年引っ張って行くんだ”って。言われた言葉というのが大きかったので」と振り返った。
高校時代から厳しい練習は慣れっこかと思いきや、「やっぱりきつかったですね。時間が長いというかね」と、当時のキャンプは格別のつらさだったという。「明るい時間はグラウンドでやっているんですけど、暗くなってくると走りに行くんです。タクシーを何台かで行って、そのタクシーのライトで照らして走るんです」。そんな日々が続き、練習後に遊びに出るような元気も「まったくないです」と笑った。
キャンプ最終日の走り込みでは、印象的な出来事があったという。「最後は坂を上って、坂を降りてきたりというのがあって。中畑さんに、“監督も走らせろよ”という言葉を言われたんです。僕が」。篠塚氏は「何で俺が言わなきゃいけないんだ」と思いつつも、意を決してコーチ陣に挑発的な言葉をかけたという。「“コーチ、監督も腕組みなんかしてないで、一緒に走ってみろよ!”と言ったら、監督が付いてきたんですよ。他のコーチは来なかったですけど、来てくれた。ケツが割れるくらいの感じで坂道を降りてきて、みんなで最後、拍手して、18人と監督、コーチが絆じゃないけど、つながった瞬間でしたね」と懐かしんでいた。
18人はこのキャンプを通して強く結束し、その後も毎年、泊まりがけでゴルフに行くなど、プライベートでも交流を深めたという。
コメントをお書きください