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アルバイトは次々とクビになり「無職・借金1000万円生活」…じつは知らない「高学歴難民」の厳しすぎる現実

学歴があれば「勝ち組」なのか?

月10万円の困窮生活、振り込め詐欺や万引きに手を染める、博士課程中退で借金1000万円、ロースクールを経て「ヒモ」に、日本に馴染めない帰国子女、教育費2000万円かけたのに無職……

なぜ高学歴でも生きづらいのか? 発売即3刷が決まった話題書『高学歴難民』では、「こんなはずではなかった」誰にも言えない実態の数々に迫っている。

難民生活をどう乗り切るか

2018年、九州大学の箱崎キャンパスで、40代の元大学院生の男性が焼死体で発見され、自殺のために放火した疑いが強いと報道されました。男性は、九州大学法学部の博士課程を中退し、大学の非常勤や専門学校の講師をしながら研究者を目指すオーバードクターだったようです。

講師業だけではとても生活していけませんので、肉体労働のアルバイトもしていたと言います。奨学金の他にもローンがあり、生活に困窮し、追い詰められ、疲弊した末の自殺だったのでしょう。非常に痛ましい事件です。

難民生活を支える資金としては、奨学金、アルバイト、家族からの援助が考えられます。就職すればすぐに返せると思って借り続けた奨学金返済地獄、セックスワークの世界に入り抜け出せなくなってしまった女性、難民生活を支えてくれていた夫からのまさかの裏切り……。

波乱の難民生活の実態とは――。

〈私は研究職待ちの、いわゆる「ポスドク」の33歳です。収入は月20万円くらいです。千葉県の月6万円の家賃のアパートを友人とシェアして、東京まで通勤しています。

(中略)

私は大学院に進学し、海外留学も経験しました。日本を離れた時期以外、これまでずっと風俗のアルバイトは続けてきました。

昔は、セックスワークは10代がピークだろうと考えていましたが、落ち着いた女性の方が安心するという人もいますし、30歳を過ぎても需要は減らないと思っています。

私の場合、10歳サバを読んでも通用しますし、あと10年くらいは大丈夫なんじゃないかと……。〉(『高学歴難民』より)

「家賃6万円のアパートをシェア、セックスワークで支える難民生活」という30代女性のインタビューでは、生い立ちから難民生活にいたるまで赤裸々に語られています。

「無職・借金1000万円」の迷走人生

また、「学歴至上主義家庭に生まれ、『無職・借金1000万円』の迷走人生」と題した40代男性のインタビューでは、学歴至上主義家庭に生まれた苦悩が語られます。

〈僕は、誰もが知る難関有名私立大学を卒業し、同大学の大学院で社会学の修士号を取得、その後、国立大学の大学院で文学の修士号を取得後、そのまま博士課程に進学しましたが、博士論文は書けないまま中退することとなり、アルバイトを重ね、現在もフリーターです。

(中略)

僕は40歳になりますが、社会における実績がひとつもありません。アルバイトは次々とクビになり、社会運動の現場でも疎外され、1000万円近くの奨学金の返済も半分以上残ったままです。もう、人生に疲れてしまいました……。

(中略)

不幸な境遇、体験が多ければ多いほど尊敬され、カーストが高いのです。地方から出てきて苦労している人も多い中、埼玉県で生まれ、大学院まで進学し、親も健在で、実家暮らしの僕など、やはりここでも最下位カーストです。

生まれながらの属性や家庭環境といった、自分ではどうしようもない問題で困窮に至った人たちは、自己責任を否定し、社会が悪いと堂々と主張できるのでしょう。

それに比べ、ただ、人生の選択を間違えただけの僕は、自分を責めるしかないのです。〉(『高学歴難民』より)

そのほか、「無駄に高学歴」「ダメ男」という烙印が押され、学習塾や図書館でのアルバイトで直面したまさかの出来事など「高学歴難民」の生きづらさがありありと語られています。

つづく「私立中高一貫の「お嬢様学校」を卒業、国際線CAになり「人も羨む順風満帆な人生」から一転、転職活動に失敗し「高学歴難民」に」では、「CAから検察官への華麗なる転身を夢見て」と題した40代女性へのインタビューから「高学歴難民」の壮絶な実態に迫る。

私立中高一貫の「お嬢様学校」を卒業、国際線CAになり「人も羨む順風満帆な人生」から一転、転職活動に失敗し「高学歴難民」に

学歴があれば「勝ち組」なのか?

月10万円の困窮生活、振り込め詐欺や万引きに手を染める、博士課程中退で借金1000万円、ロースクールを経て「ヒモ」に、日本に馴染めない帰国子女、教育費2000万円かけたのに無職……

話題の新刊『高学歴難民』では「こんなはずではなかった」、誰にも言えない悲惨な実態にせまる。

※本記事は阿部恭子『高学歴難民』から抜粋・編集したものです。
(登場人物は仮名で、個人が特定されることのないよう一部エピソードに修正を加えています。)

法科大学院が生んだ難民

最近、17歳の高校生(受験時)が司法試験に合格した報道されていました。最年少の合格者だそうです。今後、記録は更新されるかもしれません。また、大学在学中に司法試験に合格する人もおり、必ずしも法科大学院に進学しなければ法曹資格を得られないわけではありません。

2004年から開始された法科大学院ですが、現在はその半数以上が廃校になっています。大学院の学費は高く、法曹資格を取得した後も奨学金の返済に苦労している人々もいます。こうした事情から、当初に比べて入学者も激減しました。

花形と呼ばれる職業を捨てての挑戦に失敗し困窮生活を余儀なくされる、弁護士になった彼女の部下となり「ヒモ」と揶揄される、法律事務所で体験した学歴のない事務員からのいじめ……。

法曹難民の行方を追います。

 

CAから検察官への華麗なる転身を夢見て
            ──相澤真理(40代)

母がこだわった「お嬢様」

私の人生は、25歳まで完璧でした。

前職は、国際線のキャビンアテンダント(CA)です。採用された時、両親は涙を流して喜んでいました。私は就職が決まるなり、出身大学の広報誌や地元メディアから取材を受けるようになり、人も羨む順風満帆な人生を歩み出しました。

私は中部地方の、いわゆる「お嬢様学校」と呼ばれる私立の中高一貫校を卒業し、地元の私立大学に推薦入学しました。

小さい頃から学校の成績は良く、運動会や学芸会でも活躍し、成績表にはいつも「5」が並んでいました。ダラダラするのが嫌いで、宿題でもなんでもすぐ取り組んで完璧にやる子どもでしたから、両親や先生からいつも褒められてばかりいる「いい子」だったと思います。

私は会社員の父親と専業主婦の母親の下に長女として生まれ、2歳年下の弟がいます。就職して上京するまでは、地方都市で家族4人で生活してきました。

母は私を「お嬢様」に育てたかったようで、私は幼い頃からピアノやバレエ教室に通わされていました。志望校も母が決めたようなものでしたが、経済的にゆとりのある家庭ではありませんでした。

父親は高卒で母親は短大卒。父の年収は高い方ではありませんでした。それでもローンを組んで一戸建ての家を買い、子どもたちの教育費を捻出するため、母はいつも頭を悩ませていました。

私立のお嬢様学校ですから、お金持ちの子が多く、友達は年に一度、家族で海外旅行に行っていました。うちは余裕がなく、旅行と言えば近県の祖父母の家に行く程度で、私は友達と話を合わせるために、海外の事情や空港の様子を調べるようになったんです。それが、CAを目指したきっかけです。

大学の成績も良好で、氷河期世代の同期たちが就職活動に悪戦苦闘する中、私は難なく第一志望の職種に就くことができました。周囲からは羨ましがられましたが、私にとっては当然の結果と感じていました。

入社後、私は誰よりも早く出社し、掃除をしたり、仕事を早く覚えたりするように努めていました。休日は語学教室に通い、体力が必要な仕事でもあるので、ジムで体を鍛え、万全に備えていたのです。

憧れの職場は「地獄」に

期待に胸を膨らませて入った職場でしたが、同僚たちとは嚙み合いませんでした。私は完璧に仕事がしたくて努力しているのですが、周りは飲み会とかプライベートな話題ばかりに夢中でついて行けませんでした。

CAは花形の職業と言われますが、一部では「色物」のように扱われることもあります。私はこういう人たちが全体の評判を落としているのだと、軽蔑し、仲間に入ることはありませんでした。

いつも時間ギリギリの行動でバタバタしている同僚のひとりは、物覚えが悪く、何度も同じことを私に尋ねるので、「一度で覚えて」と注意したことがありました。

それでも改善が見られず、我慢の限界に達した私は上司に相談したのですが、融通が利かないのは私の方だと逆にお叱りを受けることに……。なんでも、彼女は乗客からの評判がすこぶる良く、私は口調がきつくてクレームが多いと……。

真面目に努力しているより、要領よくヘラヘラしている方が評価される職場なのかと失望しました。客室でも屈辱的なことは日常茶飯事でした。ルールを守らないお客様に注意をすると「黙れブス!消えろ」などと暴言を吐かれることもしばしば……。

それでも長期休暇で実家に帰ると、母親は「私の自慢の娘を見て」と言わんばかりに親戚を集め、鼻高々と、私に皆の前で仕事の話を披露させるのです。

海外に行けることは本当に楽しかったのですが、職場では孤立し、いい思い出などありませんでした。

「姉貴、本当に大丈夫なの?飛行機乗るといつも思うんだよ。姉貴にCAは向いてないってさ」

弟は、私の性格を見抜いていました。

「公務員とかの方がよっぽど向いているよ」

弟の言うとおりだと思いました。正直なところ、できるものであれば、すぐにでも転職したかったです。それでも「石の上にも3年」と言われるように、次第に馴染んで状況は好転するだろうと考えていました。これまでは、仕事への期待が高すぎたのです。

ところが、入社後3年目を迎えても、職場では孤立したまま、CAの仕事にやりがいは見出せませんでした。

一度、通勤途中に交通事故に巻き込まれ、足を怪我して1週間の入院を余儀なくされたことがありました。病院で目覚めた時、「これで仕事に行かなくていい」とほっとしたのを覚えています。

この頃から、既に軽い鬱状態が始まっていて、精神科にも通院していました。遅かれ早かれ仕事は続けられなくなると思っていましたが、一番気がかりだったのは母親です。こんな形で退社するなんて、きっとがっかりさせるだろうなと思うと、なかなか踏ん切りがつきませんでした。

CAよりも社会的信用のある職種とか、企業に転職できないものか悩んでいました。
弟に公務員に向いていると言われたことを思い出し、調べていたところ、目に入ったのが法科大学院の募集です。以前、何かの雑誌で、CAから司法試験を受けて検察官になった女性の記事を見たことがありました。

「これだ!」

私は雷にでも打たれたような衝撃を受けました。ようやく、心にかかっていた霧が晴れ、希望の光が差し込んできたのです。

「CAは女性が長く続けられる仕事ではないと思ったの。法科大学院の募集が始まって、法曹への道が広がるみたいだから、25歳で退社して、30歳からは検察官としてスタートを切ろうと思うの」

私は実家に帰省し、家族に検察官への転身を宣言したのです。母の反応が気になっていましたが、

「まあ、凄い!真理ちゃんは小さい頃から優等生だったから、すぐに受かるわよね」
母親はあっさりと転職の計画を受け入れてくれました

「いろいろ挑戦できるのも若いうちだけだから頑張れ」

父親も賛成してくれました。

「真理ちゃん今度は検察官!かっこいい!」

母親は、まだ大学院にさえ入学していないにもかかわらず、私が検察官になると親戚中に言いふらしており、恥ずかしい反面、自分の評価が下がっていない反応に胸を撫で下ろしていました。

烙印となった学歴

私の大学での専攻は英文学で法学部出身者ではないので、法科大学院は未修者の3年コースを選択しました。初めての分野なので、1年間は予備校に通い、4年後に試験を受け30歳で法曹デビューするという計画でした。

法科大学院の第一志望はもちろん、「東京大学」です。目標は絶対高い方がいいでしょ?実はCAの同僚に、

「相澤さん、所詮、地方の私大でしょ」

って、学歴を馬鹿にされたことがあったんです。

私も本当は、東京の大学に進学したかったんですが、うちは経済的に余裕がないので浪人はできないし、確実な推薦入試で、実家から通える大学を選ぶしかなかったんです。

東大大学院を出て検察官になり、また注目を集めて、職場の同僚たちを見返してやりたいと意気込んでいました。次の目標が定まったことで、鬱からも抜け出すことができたのです。

予備校生活は充実していました。時間を自由に使えて、やりたいことに専念できるのですから。

ところが、入試の結果は散々でした。東大は無理でも、東京六大学のどこかに入れればと思っていたのですが、結局、引っかかったのは、卒業した大学より偏差値の低い大学の大学院でした。

予備校の仲間たちも、有名な大学の大学院には合格できず、進学を断念する人もいました。都内の有名私立大学を卒業している男性は、

「もし司法試験に合格しなかったら、微妙な学歴だけが残るよな……。学費も高いし、烙印になったらと思うと躊躇する……」

彼が言った通り、学歴は私にとって烙印になりました。この時点で、止めておけばよかったのです。

ここが、ターニングポイントだったと思っています。公務員試験に切り替えればよかったと……。

それでもその時は、大学院はあくまで試験の切符を得るところで、最終的に司法試験に受かりさえすればキャリアは開けるのだからと進学を決めました。

集まった学生たちは、意外にも私より学歴が高い人たちばかりで驚きました。負けず嫌いの私は勉強に励み、成績は上位でした。

院生生活はとても充実していました。学生たちの年齢もバラバラで、いろんなバックグラウンドを持つ人と話ができました。男女の割合では男性の方が多く、なぜか気が楽でした。女性だけのコミュニティは、CA時代でもうこりごりでしたから……。

順調に3年間を過ごし、最初の司法試験の受験日を迎えました。大学院の成績は良かったので自信はあったのですが、時間配分が上手くいかず、不本意な結果となりました。不合格です。

とてもショックでしたし、30歳で転職という計画が狂い、途方に暮れました。

大学院の学費は奨学金制度を利用していましたが、予備校の費用や生活費は貯金から出していました。アルバイトなどできる余裕はありませんし、あと1年、持つかどうか……。

さらに【つづき】〈テレビや洗濯機などの家電はすべて売り、炊き出しに並ぶ…「お嬢様学校」を卒業した元CAの「凄惨すぎる事態」〉では、2回目の受験を目指す相澤真理さんの壮絶な受験勉強の様子をみていきます。

テレビや洗濯機などの家電はすべて売り、炊き出しに並ぶ…「お嬢様学校」を卒業した元CAの「凄惨すぎる事態」

学歴があれば「勝ち組」なのか?

月10万円の困窮生活、振り込め詐欺や万引きに手を染める、博士課程中退で借金1000万円、ロースクールを経て「ヒモ」に、日本に馴染めない帰国子女、教育費2000万円かけたのに無職……

話題の新刊『高学歴難民』では「こんなはずではなかった」、誰にも言えない悲惨な実態に迫っている。

本記事では〈私立中高一貫の「お嬢様学校」を卒業、国際線CAになり「人も羨む順風満帆な人生」から一転、転職活動に失敗し「高学歴難民」に…〉にひきつづき、花形と呼ばれる職業を捨てて法曹界への挑戦したが失敗し、困窮生活を余儀なくされる女性の様子を追う。

※本記事は阿部恭子『高学歴難民』から抜粋・編集したものです。
(登場人物は仮名で、個人が特定されることのないよう一部エピソードに修正を加えています。)

田舎でひとり受験勉強

一緒に勉強をしていた仲間は全員不合格でした。皆、「1回目だからこんなもんでしょ」とまったく落ち込んでいる様子はありませんでした。

私は彼らの反応を見て、今後は距離を置こうと決めました。なぜなら、私以外の学生は、家が裕福だったり、すでに他の法律資格を持って仕事を始めていたり、たとえ試験に合格しなかったからと言って食い扶持に困るような人たちではなかったからです。

私から見れば、意識が低いというか、本気度が感じられなくて、一緒に勉強するのが嫌になったんです。それに、大学まで通う時間があるなら家でひとりで勉強したほうが余計なお金も使わないと思い、とりあえず引っ越しをすることにしました。

テレビや洗濯機などの家電はすべて売りました。料理する時間ももったいないので、台所用品も不要です。洋服も数着あればいい。これまでは東京のどこに行くにも便利な駅の側に住んでいましたが、埼玉の田舎の物件を決め、家賃は半分になりました。
1年間、机と参考書だけが置いてある部屋で、ひとりで朝から晩まで勉強を続けました。一日中、誰とも話をしない日も多々ありました。

食べることだけが唯一の楽しみとなり、運動もしないので、それまで着ていた洋服はすべて入らなくなりました。美容院にも行かず、化粧もしない。ほとんどパジャマで過ごし、買い物にもジャージで出かけ、だんだんとそれが習慣になっていきました。
実家の家族には、合格するまで帰省しないと伝えていました。

しかし──。迎えた2回目の試験。また、不合格だったのです。私は奈落の底に突き落とされる思いでした。

家族になかなか結果が伝えられずにいると、母から電話がかかってきました。電話を受けた私の声で、母は不合格だと察したようでした。

「難しい試験なんだから無理しなくていいのよ。真理ちゃんだから、お見合いの話もあるんだけど、どう?」

やはり母は先回りしていました。

母としては、最終的に経済力のある男性と結婚すれば満足なんでしょうが、私は専業主婦という選択だけはどうしても避けたかったのです。理由は、母の生き方が、嫌だったからだと思います。経済的に夫に依存した生き方だけはしたくないと、心のどこかで思って生きてきました。

「余計なことしないで!」

そう言って、電話を切りました。

受験制限まであと1回チャンスはありますが、生活費がまもなく底をついてしまう……。

炊き出しの列に並ぶ

近所の公園で、ホームレスの人々を対象にした「炊き出し」の列ができている光景が目に入りました。

若いカップルも並んでいて、思わず私も列に並び、おかずとスープをいただき、おにぎりももらいました。1日の食費を浮かすことができたのです。主催者の方が、毎週開催している時間を教えてくれたので、それから列に並ぶようになりました。

今後の生活費をどうしていこうか……来月には貯金は底をついてしまう。それでも実家に戻ることだけは避けたいと思いました。

「弁護士の○○先生、生活保護受けていた時期もあったって……」

極貧の受験生活を送った法曹関係者の噂も、真偽は定かではありませんが、聞いたことがありました。一瞬、「生活保護」という手段が頭を過りました。

受けられるものならば、躊躇はありませんでしたが、問題は扶養照会です。家族に生活保護申請を知られるわけにはいかなかったんです。

途方に暮れているとき、珍しく父親から着信がありました。

「元気か?ごめんな。母さんがまた余計なこと言ったみたいで」

優しい父は、昔から極端な母の行動をフォローしてくれました。

「まあ、いつものことだから」
「母さん見栄っ張りだから、真理に昔から迷惑かけてたよな」
「何よ、今さら」

父の仕事は忙しく、ふたりで話をするようなことは、これまでなかったかもしれません。

「お父さんできることないけど、少しお金を振り込んでおいたから使って。結果はどうあれ、最後まで諦めないことだぞ。後悔だけはしないように」

父の思いやりに、私は胸が熱くなりました。

翌日、口座を確認すると、父から100万円振り込まれていたのです。私はこのお金で、最後のチャンスに挑むことにしました。

その1年間、会話したのは炊き出しの主催者とホームレス、そして、新興宗教の勧誘の人だけでした。体重はさらに増え、髪は白髪だらけで臨んだ試験。

結果は不合格──。

改めて、「司法試験」のレベルの高さを実感しました。これまで私が経験してきた試験とは比べ物にならないレベルだったんです。

それでも、私は諦めませんでした。当時3回だった受験資格を消化しても、予備試験に受かって受験資格を得るという道が残されていたんです。ここまできたら、とことん、受けるしかないと思いました。

そのために、生活自体を見直さなければならないと思い始めたのです。これほど受験生活が長引くとは思っていなかったので、不摂生も仕方ないと考えていましたが、体調を崩すことが多くなり、集中力も落ちました。生活費もこれ以上、家族に甘えるわけにはいかないので、働かなければならないと思いました。

さらに【つづき】〈「勝ち組だった「元CA」が採用面接で面接官に言われた「衝撃の一言」…司法試験に落ち続け、新興宗教に入信した30代女性の「壮絶な人生」〉では、就職活動や新興宗教に入信する様子、それから結婚するまでの転末をみていきます。

勝ち組だった「元CA」が採用面接で面接官に言われた「衝撃の一言」…司法試験に落ち続け、新興宗教に入信した30代女性の「壮絶な人生」

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話題の新刊『高学歴難民』では「こんなはずではなかった」、誰にも言えない悲惨な実態に迫っている。

本記事では〈テレビや洗濯機などの家電はすべて売り、炊き出しに並ぶ…「お嬢様学校」を卒業した元CAの「凄惨すぎる事態」〉にひきつづき、花形と呼ばれる職業を捨てて法曹界への挑戦したが失敗し、困窮生活を余儀なくされる女性の様子を追う。

貧すれば鈍す

私は就職活動を始めました。前職の経験を生かして、子ども英会話教室なら時給はいいし、楽勝だろうと思ったのです。

まず筆記試験がありましたが、これは完璧でした。ところが、2次面接のネイティブスピーカーとの面談では、単語がスムーズに出てこなかったのです。5年以上、生の英語に触れていませんでした。

私はもっと準備しておくべきだったと後悔しましたが、案の定、結果は不採用でした。次の面接は有名ホテルの従業員採用です。

面接官だった女性が、CA出身だと聞いて嬉しくなりました。面接が終了し外に出ると、フロントには著名人の姿がありました。格式の高いホテルで仕事ができるなら、ここに勤めるのもアリか……と、辺りを見回しながら歩き始めた時、

「ちょっといいかしら」

元CAの面接官に呼び止められたのです。

「あ、はい」

彼女は私を、ホテル内の大きな鏡の前に誘いました。

「先輩だから、率直な意見を伝えてあげたいと思って」

面接の時とは打って変わって厳しい目つきでした。

「私に採用の可否を決める決定権はないの。だからわからないけど、あなたが採用されることはないと思う」
「え?」
「あなた、鏡を見てきた?」

女性は私に鏡を見るように促しました。

「今は身だしなみなど気にしていられないと思うけど、10年前、その姿で飛行機に乗れたかしら?

私はドキッとしました。

「あなたとても30代には見えない。ブラウスのボタンも取れてるし、スーツのボタンも取れてる。ストッキングは伝線してるし、そんな姿で面接に来た女性はいません。接客業ではありえない。よく鏡を見て、どんな仕事が向いているか、もう一度よく考えてみるべきよ」

そう言って女性が立ち去った後、私は全身が映る大きな鏡の前にしばらく呆然と立ち尽くしていました。

とにかく仕事をしなければと、細身のスーツに無理やり身体をねじ込んだ結果、ボタンははじけ、ストッキングも破れ、すでに美容院に行かなくなって2年以上が経過した髪の毛は白髪だらけでした。

私は明らかに場違いなところにいて、きっと、第三者が見たら、炊き出しに並ぶ姿の方が私にマッチしているのだと、ようやく現実に目が覚めたのです。

新興宗教に入信

2社の面接を終えた後、これ以上面接に行くのは止めようと思いました。昔の同業者に今の私の惨めな姿を見られるのは嫌だからです。我に返り、なんて恥ずかしいことをしてしまったんだろう……穴があったら入りたい、そんな思いが込み上げてきました。

やはり、受験を続けるしか、社会に私の居場所は作れないのか。私はこの時初めて、脳裏にはっきりと「自殺」という文字が浮かんだのを覚えています。

もう、完全に疲れていたのです。失うものも、ありません。踏切の遮断機の音が聞こえてきた時、いっそのこと……と思った瞬間、私の葬式に集まる親戚のことが頭に浮かびました。

「あんなに綺麗で輝いていた真理ちゃんがこんな姿に……」

きっと皆、そう言って哀れむのでしょう。

まず、激太りした姿に驚くはず。嫌だ、惨めすぎる……。生きよう。死んだ後の光景が浮かんだ途端それを打ち消すように、すぐ思い直しました。身内に対してのプライドだけは失っていなかったのです。

私は家によく来ていた新興宗教の人に電話をし、支援を求めると、彼らはすぐに洋服や食べ物を差し入れてくれました。

翌月から家賃が払えなくなりそうだと言うと、仕事が見つかるまでシェルターを利用させてくれるということでした。私は藁にもすがるしかなく、こうしてよくわからない宗教に入ることになったのです。

信者の人たちは、私に結婚を強く勧めてきました。そして、私に相応しいだろうという白人男性がいると言われたのです。胸が躍りました。私は密かに、白人男性と結婚するのが夢でしたから。

ところが、私の前に連れて来られた男性は、小柄で小太りで、頭はすっかり禿げ上がった男性でした。とても、同じ位の年齢には見えませんでした。

自分で相手を見つけるのは不可能な男が貧困女子とくっつくのだと、また厳しい現実を目の当たりにしたのです。

それでも、今の私には最高のパートナーかもしれないと思いました。すでにCA時代の面影はなく、寄付された花柄のマタニティドレスしか入らない、肥満で白髪だらけ、ニキビだらけの中年貧困女性ですから……。私は彼とデートをしてみることにしました。

自宅に迎えに来てくれた彼は意外にも高級車に乗っていました。連れて行ってくれたお店も、高級料理店でした。彼は、外資系企業に勤めているエリートサラリーマンだったのです。日本のアニメが好きなオタクです。同僚たちとは話が合わず、プライベートはいつもひとりだと聞いて、昔の私のことを思い出しました。

私は30歳を過ぎていましたが、男性と交際するのが、実は初めてだったんです。久しぶりにお酒が入ったせいか、そんなことまで彼に打ち明けていました。楽しい時間を過ごすことができ、また、彼に会いたいと思いました。

昔の自分に戻りたい

2回目のデートで、早速、彼にプロポーズされました。私がまもなく住むところを失うと言うと、一緒に暮らそうと言ってくれたのです。私たちの宗教では、共に住むには家族になる必要があり、同棲してみてから……というわけにはいかないのです。

しかし、彼も迷っているようでした。なぜなら、彼はアメリカに帰国しなければならず、一緒についてきてくれる女性を求めていました。

そして、妻には結婚後、家事と育児に専念してほしいと。結婚を選ぶと同時に、キャリアは捨てなければなりません。

自分でも意外でしたが、私は二つ返事でOKしました。アメリカで暮らすというのは、願ってもいないチャンスでした。親戚のしがらみもなく、私の過去を知る人もいない場所で、一からやり直したいとずっと願ってきたからです。

彼との最初のデートから、次に会うまでの1週間、私は毎朝ジョギングをし、ジャンクフードを控えました。体が軽くなり、出かける前に鏡を見ると、少し、昔の自分に近づいたような気がしたのです。

「将来なんてどうでもいい!昔の、25歳の自分に戻りたい!」

鏡を見つめていると、急にそんな思いが込み上げてきたのです。彼なら、その願いを叶えてくれると思えました。

彼の家に越してから、私は日中、家事をこなすと同時に、日々、美容院やエステに通い、数ヵ月で20代の容姿を取り戻しました。

夫と一緒に実家に結婚の報告に行くと、家族は皆、喜んでくれました。案の定、母は娘がエリートサラリーマンと結婚すると親戚に言いふらし、

「やっぱり真理ちゃんはかっこいい」

親戚からはそんな反応が返ってきました。私の評価は下がっていなかったようです。
その後すぐに子どもができ、第2子を出産した後、家族4人でアメリカに移住しました。

結局、母と同じ専業主婦になりました。絶対に避けたかった選択肢でしたが、社会に適応できない私が生きていくには、家庭しか居場所がなかったのだと今は受け入れています。

父と弟は気が付いていましたが、私は母にそっくりなんです。勉強は個人プレーなので、そこそこできますが、チームワークができないので、組織の中では活躍できないのでしょう。たとえ、司法試験に合格していたとしても、職務を全うできたかどうか……。

遠回りになりましたが、紆余曲折する中で、本当の私を見つけることができ、振り返れば楽しい「旅」だったと感じています。挑戦してきたことに全く後悔はありません。そして今、とても幸せな人生を送っています。

本記事の抜粋元『高学歴難民』では、一時はエリートと呼ばれ、順風満帆な人生を歩んでいたかと思えば、30歳を過ぎてもまだ無職、長年の努力は評価してもらえず、居場所を求めてさまようことになってしまった「高学歴難民」についてくわしく書かれています。