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奥多摩山中で26歳男性がバラバラ死体に…BBQと共に行われた鬼畜たちの「狂気の宴」

2020年9月24日、コロナ禍の最中、一人の男が「再逮捕」された。男の名は紙谷惣(46)。2003年に東京都奥多摩町の山中で男性の切断遺体が見つかった猟奇殺人事件の容疑者だったが、事件直後から南アフリカ共和国に逃げ、殺人容疑で国際手配されていた。

17年にわたる国外逃亡の裏で繰り広げられていた、警視庁捜査第一課との度重なる「駆け引き」。日本警察の面子を掛けた国際捜査の全貌を、当時事件を担当した警視庁捜査第一課元刑事、原雄一が明かす――。

海外逃亡被疑者

「国際手配中の『紙谷 惣46歳』が南アフリカから帰国」
「警視庁は逮捕監禁容疑で逮捕」

各報道機関は、新型コロナウイルスの感染拡大で生活苦となり、令和2年9月3日夕方、逃亡先の南アフリカ共和国から単独帰国した「紙谷惣(そう)」の逮捕を報じた。

“とうとう逮捕したか”捜査の一端に関わった私は、しばし感慨に浸った。

しかし、事件を深掘りした記事が見当たらないばかりか、誤報も散見される。それに続報も乏しいことに違和感を覚えた。

そして、いつしか報じられなくなったこの重要未解決事件。

私の脳裏には、平成23年の記憶が蘇ってきていた。

紙谷惣容疑者(1999年撮影)=警視庁ホームページから

この年の春、未解決事件の捜査を担当することになった私は、日本で事件を起こし、海外に逃亡している被疑者の追跡捜査を模索していた。当時、海外に逃亡していた被疑者は、日本人と外国籍を合わせ100名ほどいた。

また、このころ私は、海外に逃亡した被疑者を地道に逮捕していけば、いつしか犯罪者の間に、「日本で事件を起こして海外に逃亡しても、日本警察は地の果てまで追ってくる」という意識が浸透し、ひいては日本の犯罪を減少させられるのではないかと、突飛なことを考えていた。

ただ、日本警察が海外の地で直に捜査をすることはできない。そのため、被疑者の逃亡先である相手国の国家警察等に捜査を委ねたり、あるいは相手国の法律に照らして処罰を求めることになるが、それには、詳細な説明資料を作成して国内の関係省庁に理解と協力を求めた上、煩雑な手続きを経て相手国の当局と折衝していかなければならない。さらには、文化や法律が異なる相手国が、日本警察のリクエストを受諾するかは不透明である。そうした手間に嫌気して、海外における捜査に尻込みしてしまい、被疑者に海外逃亡されたならば、その所在確認を求めるICPO(国際刑事警察機構)手配をして捜査を打ち切ることが多かった。

でも、それでは日本警察が犯罪者に舐められるだけである。何とかしなければならない。

切断された右腕

私が着目した未解決事件の中に、「松井知行(犯行時31歳)」や「紙谷惣(犯行時29歳)」らによる「奥多摩山中および秩父山中における連続殺人事件(不良グループによる殺人事件)」があった。平成15~16年にかけて、高井戸警察署に特別捜査本部を設置して鋭意捜査をしたものの全面解決とはならず、南アフリカ共和国に逃亡中の松井と紙谷の逮捕に向けて、ICPOプレトリアに対し、発見時の通報依頼をして特別捜査本部はいったん閉鎖していた。

松井知行容疑者(2002年撮影)=警視庁ホームページから

事件は、平成15年10月4日、有害獣駆除のため奥多摩山中に入っていた猟友会メンバーが、側溝から切断された右腕を発見して青梅警察署奥多摩交番に届け出たことから発覚した。指紋照合の結果、遺棄された右腕は、高井戸署が特異行方不明者として受理していた「古川(こがわ)信也さん(当時26歳)」のものと判明し、同人周辺に対する捜査を重点的に進め、12月27日までに被疑者8名を逮捕監禁罪で逮捕し、その取調べ等から、古川さん殺害に至るまでの残忍極まりない手口が明らかになってきた。

古川さんは、偽造クレジットカードを用いた商品詐欺グループのリーダー松井から六本木にクラブを開店するように指示されていた。しかし、古川さんは松井の指示を断り続け連絡を絶った。それは、クラブの開店目的が、来店客のクレジットカードデータを不正に入手することにあったからだった。

松井は古川さんの反逆を許さなかった。激高した松井は、配下の者たちに命じて、平成15年9月17日深夜、千葉県市川市内のレストラン駐車場で古川さんを拉致させ、一方、松井らは、古川さんの彼女マリコさん(仮名、当時19歳)を誘拐して、両名を埼玉県戸田市内のマンション一室に連れ込んだ。

この部屋で松井らは古川さんを執拗にリンチし、翌18日昼、貨物車に乗せて奥多摩町の空地まで移動すると、乗用車のトランクに押し込み監禁した。さらに、翌19日昼、山梨県北都留郡丹波山のキャンプ場まで移動すると、松井らは古川さんの処理を考え始めた。この状況に古川さんの彼女マリコさんは、「信ちゃんを助けてあげてください」と泣き叫んで懇願したが、松井らはこれを無視した。しかし、その一方ではマリコさんの扱いにも困っていた。

「このままマリコを解放すれば、警察にタレ込まれる。だから、古川を殺すとき、マリコにも手伝わせましょう」

それが配下の者たちからの意見だった。松井はその意見に同意した。

「一緒に古川を殺さなかったら、あんたも松井に殺されるよ」
「両親の所に乗り込むぞ。兄弟がどうなっても知らねえぞ」
「マリちゃんも、一緒にやればみんな信用してくれるから」
「俺たちも首を絞めるから一緒にやろうよ」

震え上がるマリコさんに、配下の者たちは殺しの手伝いを繰り返し強要した。

“いくら断っても許してくれない、このままでは私も本当に殺される”

怯えたマリコさんには、もはや松井らの指示に抵抗できるだけの気力はなかった。

鬼畜たちの宴

まず、マリコさんがトランク内で衰弱し切った古川さんの首に両手をかけることになった。

愛している彼の首を、自分の手で絞め付けなければならない残酷な仕打ちに耐えるマリコさん。松井、紙谷、その配下もこれに加勢して首を絞めた。さらに、古川さんの首にベルトを巻いて、その端を綱引きのように引っ張って絞め付けた。最終的に、松井が拳で古川さんの顔面を何回も殴りつけ絶命させた。

この一連の行為が終わると、松井や紙谷は、配下の者たちと河原でバーベキューに舌鼓をうち、ひと仕事終えたあとの達成感に浸っていた。まさに鬼畜たちの宴である。

そして、その夜は、仲間の「ミドリ(仮名)」の家に全員で移動すると、松井は言った。

「これから古川をバラバラにする。できる奴は手を挙げろ」

しかし、ほとんどの者はやりたがらなかった。

“バーベキューのあとに、それはきついよ”

結局、19日深夜から20日未明にかけて、松井、紙谷ら数名が古川さんの遺体をノコギリ、包丁でバラバラに切断してビニール袋に分別し、丹波山山中から奥多摩山中にかけて、手分けして投棄させた。

この残忍極まりない事実により、平成16年1月23日、被疑者6名を殺人、死体損壊、死体遺棄で逮捕した。

さらに、逮捕した被疑者らの供述等から、松井らは、平成15年5月にも、配下の男性38歳を新宿区内のホテルに監禁した上、暴行を加えて死亡させ、その遺体を埼玉県秩父山中に埋めて遺棄した事実も発覚した。そして、被疑者らの案内により男性の遺体を発見し、5名を死体遺棄で、3名を監禁と傷害致死で逮捕した。

しかし、松井と紙谷の所在は不明のままだった。それに、ミドリとマリコさんとも連絡がつかない状態になっていた。

あとで分かったことだが、松井は、10月4日、古川さんの右腕が発見されたことを報道で知ると、他人名義の旅券を使用して、紙谷、ミドリ、マリコさんを伴いハワイへ逃げた。ここで松井らは、南アフリカへ逃げることを企図し、松井とミドリは米国アトランタを経由して、10月18日、南アフリカのヨハネスブルグに入り、紙谷とマリコさんは韓国ソウルを経由して、10月22日、同じくヨハネスブルグに入った。ここに、男女4人の奇妙な逃亡生活が始まった。

不思議な縁

早速、私は、この事件の下調べに取りかかった。まず、松井と紙谷が反社会的勢力と交流し、闇社会で蠢いた人物だったことから、その類いの者に接触を試みていった。殊に、過去の捜査を通じて信頼関係を構築してきた裏社会の面々と連絡を取り合っている中、六本木を根城にする半グレの「ヒロキ(仮名)」とたまたま知り合うことになった。私は、平成23年9~10月にかけて、このヒロキと接触して、紙谷について様々な情報を得た。

「紙谷は、キャバクラで雇われ店長をやっていたけど、あのころはパシリだったこともあり素直だった。しかし、松井とつるむようになっておかしくなったよ。平成20年頃だったけど、突然、紙谷から横柄な態度で電話がかかってきた。

『今、南アフリカに逃げている。人を殺してバラバラにした。不良中国人もビビる松井という凄い人と一緒だ。悪いけど、高級外車を調達してくれ。フェラーリとかベンツがいいな。コンビニの駐車場にエンジンをかけて止めておいてくれれば仲間が持って行くから』

紙谷は、高級外車を南アフリカへ飛ばしてさばく様子だった。当然断ったよ」

以後、ヒロキは、紙谷に関する情報を提供してくれた。

私が紙谷周辺の内偵捜査に力を注いでいると、今度は高井戸署から連絡が入った。

松井や紙谷によって、南アフリカに連れ去られた「マリコさん」の家族と会合を持つ連絡だった。“なんという展開だ。まさに今、見直している事件ではないか”私は不思議な縁を感じざるを得なかった。

平成23年10月19日午後、私たち未解決事件担当の捜査員は、高井戸署の会議室で悲痛な面持ちのご家族と面会していた。

「松井や紙谷が娘のマリコを南アフリカに連れて行って8年になります。何とかしてマリコを日本に連れ戻したいと思っています。外務省に相談したら警察にも相談して欲しいと言われました」

私は、切々と語るご家族の言葉に少なからず衝撃を受けていた。

松井らは私利私欲のため、マリコさんの人生を大きく狂わせてしまっていた。ネイティブ・イングリッシュを操り、インターネット環境に長けたマリコさんは、逃亡する松井らのアシスタントとして申し分のない能力を備えていた。マリコさんは、「ストックホルム症候群」※1の状態になっていたのかもしれない。

悪事が身に染み付いた松井は、「南アフリカまで日本警察は追って来ない、たとえ追って来たとしても、南アフリカは死刑廃止国だから、死刑制度のある日本へ身柄の引渡しはしない」と考えたのだろう。

ただ、松井にも誤算があった。

逃亡生活が始まって間もなく、ミドリの両親と兄弟が南アフリカに乗り込んで来て、現地警察官を高額な報酬で雇って一時的に松井と紙谷の身柄を拘束させ、その隙にミドリを連れて帰国してしまったのである。その上、帰国したミドリは警視庁に監禁罪で逮捕され、さらに起訴後、殺人等で再逮捕された。

この予期せぬ出来事により、松井らは警戒心をより一層強めることになった。

※1 誘拐や監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感の感情を抱くようになる現象

逃亡犯の闇

マリコさんの家族は話を続けた。

「9月29日夜、突然、南アフリカにいるマリコから『元気にしているよ』と母親の携帯電話に着信がありました。その日以降、ほぼ毎晩、マリコから電話がきます。南アフリカの裕福な家庭で匿ってもらっていて、その方から『日本にいる家族に心配をかけてはいけない』と言われ、電話を借りてかけているようです。平成19年にも、南アフリカにマリコを迎えに行きましたが、到着するとマリコと連絡がつかなくなり、結局、会うことができませんでした。しかし、今回は環境のよい場所で生活しているように感じます。

家族としての願いは、日本警察にマリコを確保してもらうか、私たち家族が南アフリカに渡航してマリコと会い、日本国大使館で保護してもらうことです。どのような手続きを踏めばマリコを帰国させることができるのか、教えてもらいたいのです」

平成19年3月にも、突然、南アフリカのマリコさんから母親に電話が入ったことがあった。内容は、「乳癌になった。松井から帰国して手術を受けてよいと言われた」というものだった。電話を替わった松井も、「病気なので帰すことにした」という。しかし、4月に入り松井から、「帰国させる話は白紙に戻す。手術はこちらでやらせる。警察が動いている」と電話があった。それでも、マリコさんの家族は一縷(いちる)の望みにかけて南アフリカに飛んだ。しかし、マリコさんと会うことができないまま無念の帰国となった。

このときの苦い経験について、マリコさんの家族は、「私たちの相談を親身になって聞いてくれない警察の不誠実な態度には本当に呆れました」と当時を振り返った。

両親にとってみれば、身が引き裂かれる思いだったに違いない。居ても立ってもいられず、何も手につかない状態だっただろう。食事も喉を通らず、夜も眠れない日々が続いたことが容易に推察できる。その辛い心情を汲み取って、迅速に行動に移してこそ、警察のあるべき姿ではないのか。

私は速やかに行動に移すべき緊急案件と判断し、高井戸署での会合を終えると警察庁の関係部署と連絡をとり、その日の夕方から協議に入った。

その席上、まず話題となったことは、警視庁の捜査員がマリコさん家族に同行して南アフリカへ飛ぶべきか、あるいは、マリコさん家族だけで南アフリカへ行ってもらうべきか、ということだった。その背景には、この年の8月中旬、南アフリカの松井の下から日本に逃げ帰って来た日本人男性タダシ(当時41歳)の姿があった。

平成22年6~7月、FIFAワールドカップ南アフリカ大会が開催されることに乗じ、松井は、先物取引会社勤務当時の同僚「タダシ」に「ツール・アフリカ」なる旅行会社を立ち上げさせ、その代表取締役にタダシをつかせた。そして、南アフリカのサッカー観戦ツアーをでっち上げ、100名以上の応募を受け付けて代金6500万円以上をだまし取った。

多額の犯罪収益を得たタダシは、平成22年4月、他人名義のパスポートを使用して日本から南アフリカへ逃亡し、ダーバン郊外の紙谷の家に転がり込んだ。その後、その年の10月からは首都プレトリアの豪邸で松井、紙谷、マリコさんと生活するようになったが、松井から日常的に暴力を振るわれるようになり、敷地内の小屋での生活を強いられた。毎日、使用人として働き、外出は許されず、風呂は週に1度だけだった。“このままではいずれ始末される”と不安になったタダシは、平成23年8月、松井の監視下から脱出して放浪した挙げ句、日本国大使館に保護を求めて帰国した。そして、警視庁に詐欺等で逮捕されることになった。

このタダシの帰国・逮捕は、松井にとって大きな打撃となった。

警戒した松井は、マリコさんに指示して母親へ電話をかけさせ、通報を受けた警視庁の行動を探るのではないかと考えられた。もし、警視庁の捜査員が同行して南アフリカに渡航し、それを察知したマスコミが報じたならば、松井の思うつぼになる。それに、警視庁の捜査員が同行するとなると手続きに時間を要してしまい、マリコさんの帰国が叶わなくなるかもしれない。それならば、家族だけですぐに渡航して、南アフリカに入国した後は日本国大使館員にガードしてもらう方針が最善策であると打ち出した。その上で、帰国したマリコさんを、警視庁が殺人罪で逮捕することも申し合わせた。

霞が関の壁

マリコさんの家族と面会した翌10月20日午後、外務省にて警察庁での協議結果を報告し、外務省と在南アフリカ日本国大使館の対応について申し入れた。

しかし、外務省の担当者は開口一番、「前例はありますか」と口にした。私は、“前例がないと動かないのか。前例を作る気はないのだろうか”といささかびっくりしてしまった。 

さらに、「マリコさんの話には嘘が多い。タダシが帰国したことで松井が探りを入れているのではないのか。それに、どうやって松井の監視下からマリコさんは逃げ出し、母親に電話ができているのか不可解だ。平成19年にもマリコさんの家族は南アフリカに渡航したが、松井の意思が働いたのか、現地に着くとマリコさんと連絡が取れなくなり、やむなく帰国することになった」と説かれてしまった。

それでも、警察庁関係者が順を追って説明していくと外務省職員も徐々に理解を示し、ようやく帰国に向けた協議となってきた。

外務省職員が言う。

「南アフリカからの出国は比較的簡単にできると思う。リスクがあるとすれば、ICPO手配になっていることと、本邦では最高刑が死刑の殺人罪で逮捕状が出ていることだ。帰国のための渡航証を発行するので、ご家族が現地入りしたら日本国大使館と連絡をとるように指導していただきたい。中継地の香港では、日本国総領事館職員が対応する」

外務省から何とか前向きな回答を引き出し、警察庁関係者と私たち警視庁の捜査員は、この日、手分けして次の作業に入った。警察庁は法務省との協議、警視庁は東京地方検察庁とマリコさん家族への報告だった。

法務省における協議では、マリコさんを帰国させる手続きと並行して、南アフリカ当局から松井と紙谷の身柄を引き渡してもらうための協議にも及んでいた。日本における殺人罪は、刑法第199条に最高刑として死刑が規定されているが、南アフリカのような死刑廃止国に対し、これまでに外交ルートを通じて、殺人罪のような死刑該当犯罪の被疑者の身柄引渡しを要請したケースについて説明を受けた。

それによると、N国とK国の2例があるという。N国の場合は身柄の引渡しに成功し、K国の場合は身柄引渡しには至らなかったものの、同国の国内法に照らして日本に代わって処罰してもらい判決も確定していた。これを俗に「代理処罰」という。いずれの場合も、担当検察官が相手国に出張して説明し、その際、検事正が作成した死刑は求刑しないことを保証する文書等を相手国に提出していた。

そこで、法務省から重い宿題が課せられた。

「まず、警察庁は、協議のテーブルに着く前に南アフリカの関係法規を研究し、取り分け、日本のような死刑存置国に対する身柄引渡しの運用規定を入手して、その具体的方策を研究すること」

一方、警視庁は、東京地方検察庁の担当検察官に対して事件全体の把握をお願いしたほか、マリコさんの行為が刑法第37条の「緊急避難」に該当する行為であり、違法性は否定されて犯罪が成立しない点を説明した。つまり、殺人罪で逮捕しても、起訴するだけの嫌疑に乏しいことを訴えた。

東京地検を出ると、私たちは日本橋で会社帰りのマリコさんの父親と落ち合い、昨日から今日に至る警察の動きを説明した。

「南アフリカまで警視庁の捜査員は同行しませんので、ご家族で現地に飛んでください。現地に着いたら、すぐに日本国大使館へ連絡を入れ、その指示に従ってください。既に根回しはしてあります。マリコさんに会えたら日本国大使館へ駆け込んでください。帰国の道が開かれます。中継地の香港では日本国総領事館が対応します。この流れは、南アフリカで会うまでマリコさんには伝えないでください。松井が何か企んでいた場合、マリコさんと会えなくなる可能性があります」

警視庁が単独で、あるいは家族と一緒に渡航しないことは、責任逃れと受け取られるかもしれなかったが、それが最も早く、しかも確実にマリコさんを救出できる方法だった。

これに対してマリコさんの父親は表情も明るく答えてくれた。

「素早い対応に感謝します。帰国させる自信がつきました。指示どおり、現地に着いたら日本国大使館と連絡を取り、それからマリコに連絡します。指示された内容は家族で共有します。帰国したら成田でマリコを警視庁に引き渡します」

翌21日、在南アフリカ日本国大使館から外務省に対し、マリコさんに対するICPO手配の解除と警視庁捜査員の同行を求める打電があった。ヨハネスブルグのO・R・タンボ国際空港でマリコさんの出国が差し止められる懸念があったからだ。そこで、指示どおり、ICPO手配は解除したものの、警視庁捜査員の同行には応じなかった。

いざ南アへ

10月27日午後、羽田空港の国際線出発ロビーで、私たち警視庁捜査員は、これから南アフリカに向けて出発するマリコさん家族と最後の打合せをしていた。

その席上、私は、八王子市の子安神社で手に入れた「無事帰ることを祈願した」
カエルのお守りを父親に手渡した。

「これを持って行ってください。一緒に帰国できるように守ってくれます」

マリコさんの父親に託したお守り

軽く会釈する父親の表情には、“必ず連れて帰る”という決意に満ちた笑みがあった。

果たして、日本時間10月29日午後、父親から朗報が入った。

「マリコに会えました。今、日本国大使館に行き、帰国に向けて順調に手続きが進んでいます。予定では、日本時間11月1日夜、成田に帰れる予定です」

ホッと安堵した瞬間だった。マスコミもこのオペレーションには気付いていない。このままスムーズに帰国でき、何の騒ぎもないまま高井戸署へマリコさんを任意同行できそうだ、とこのときは思っていた。

マリコさんと対面したときの状況について、帰国後、マリコさん家族が語った。

「南アフリカに到着してプレトリアのホテルでチェックインしているとき、白人男性(当時30代後半)からマリコのフルネームを書いた紙片を手渡されました。この男性は、『ジョセフ(仮名)』と名乗り、マリコを匿ってくれている方でした。私たちはジョセフの案内で富裕層の居住区に建つ豪邸に招かれ、リビングで少し待っているとマリコが現れました。感無量でした。8年振りに娘と対面できました。もう、どこにもマリコを行かせたくないと思いました。だから、私たちのホテルに連れて来て一緒に宿泊していました」

マリコさんを匿っていたジョセフは松井知行の取引先関係者だった。また、ジョセフの父親は元軍幹部で、その父親の親友が歴代大統領側近を務めた警察幹部だった。松井や紙谷は、この警察幹部を非常に恐れていた。特に、松井にとっては煙たい存在で、計画する仕事はことごとく潰され、松井は精神的に追い詰められていた。

 

そのため、松井は何事にもやる気をなくしてしまい、その姿勢に呆れた紙谷は、平成23年6月中旬、家から出て行ってしまった。このことで、松井はすっかり傷心してしまい、9月下旬になると、自殺を仄めかして姿を消してしまった。一人になったマリコさんは、本来の自分を取り戻してジョセフに助けを求めた。

在南アフリカ日本国大使館の尽力により、マリコさんはO・R・タンボ国際空港で出国停止を受けることもなく、現地時間10月31日夕方、家族と共に南アフリカ航空SA286便で8年余を生活した南アフリカを発った。そして、経由地の香港に現地時間11月1日昼に無事到着し、事前の打合せどおり、香港日本国総領事館がアテンドした。

香港での約3時間の乗り継ぎ時間を領事たちに見守られ、一行は夕方の全日空NH910便で一路帰国の途につく一方、私たち捜査員は成田空港第1ターミナル南ウイングで受け入れ態勢を整えていた。

見事な変装

すると、次第に報道のカメラが並び始め、マイクを持った記者らしき男女が右往左往するようになってきた。

「なんてことだ。なぜ情報が漏れたんだ」

すると、見覚えのある記者が声をかけてきた。

「何時頃の到着ですか。南アフリカから帰国すると聞いています。日本の飛行機に乗ったら、報道陣には分かってしまいますよ」

記者の言葉に、私は自分自身の脇の甘さを痛感していた。

それでも記者は表情を曇らせて、

「慌てて成田に来たので事件の詳細が分からない。帰国する人の顔も分からない」
と話を続けた。

どうやらこの記者は、デスクの指示で成田に急行したものの、事件に関する予備知識がないらしい。

「それなら頑張って!」

私はさり気なくそう言うと記者から離れた。

午後8時過ぎ、予定どおり全日空便が成田に到着し、間もなく機中の父親から電話が入った。

私は記者たちに悟られないように応答した。

「報道機関にマリコさんの帰国が分かってしまいました。何かカモフラージュしてください。ご家族一緒に降りて来ないで、バラバラになって到着口まで来るとか工夫してください」

私の意図することを、マリコさんの父親は瞬時に理解して臨機応変に動いて
くれることになった。

そのため、飛行機の搭乗口で待っていた私たち捜査員ですら、家族を見落としてしまいそうになるくらい見事な変装だった。父親とマリコさんは、ハネムーンカップルのように腕を組んで、マリコさんは、つば広の帽子、サングラス、ワンピース姿、父親は、アロハ仕立ての派手めの装いで颯爽と機内から姿を現すと、堂々と歩いて行った。そして、その後方少し離れたところを家族が続いた。この状況に報道のカメラは、撮影対象が分からずマリコさんの姿はもちろんのこと、家族さえ撮影することができないでいた。マイクを持った記者たちもまた、すべての乗客が降りるまで待ち構えていたが、何もできずに退散することとなった。

その後、マリコさんの父親からの電話で私たちは家族と落ち合い、マリコさんを高井戸署に任意同行することになった。

 

悲惨な逃亡行脚

11月1日午後10時過ぎ、マリコさんを乗せた捜査車両が高井戸署に到着した。高井戸署前には数台の報道カメラが待ち構えていたが、特に混乱もなく刑事組織犯罪対策課の取調室に入ったマリコさんに、古川信也さん殺害の逮捕状を示して読み聞かせ逮捕した。

しかし、マリコさんは逮捕事実を否認した。当然と言えば当然である。

「松井やその配下の者たちに脅されて、自分の命を守るためにやむを得ず手を貸す素振りをしただけです」

勾留期間中、マリコさんの取調べ、共犯者の取調べ、引当り(被疑者による現場案内)等の所要の捜査を進めた結果、東京地方検察庁は、マリコさんに関して、殺人の実行行為、殺意、共謀等に疑義が生じる点、緊急避難が成立する余地がないと断じることは困難な点等から、11月22日、嫌疑不十分として不起訴を決定した。

これに伴いマリコさんは釈放され、晴れて親元に帰ることになった。

ただ、このマリコさんの取調べから、松井、紙谷らの逃亡生活が少しずつ明らかになってきた。

「平成15年10月、日本から南アフリカに逃亡すると、ヨハネスブルグの大邸宅に4人で転がり込みました。ここは、松井が慕う日本人ボスと取り引きする南アフリカ人男性の家でした。ところが、ミドリが帰国してしまい、3人で一時的にダーバン方面に逃げ、さらに翌年にはケープタウンに移り、平成17年には、当初のヨハネスブルグの大邸宅に戻りました。しかし、ここも半年くらいで出てケープタウンで生活していました。

住居を転々とした理由は、インターネット詐欺で生活費を稼いでいたので、足が付かないようにするためでした。その後、ヨハネスブルグやダーバン界隈を転々として生活し、平成22年10月からは松井の取引先の男性ジョセフの紹介で、プレトリアのモンタナパークの豪邸を借用して生活していました。しかし、翌23年6月16日、松井が、『お前らみたいなお荷物がいるから俺は疲れた。死ぬことにした』と言い出し、これを聞いた紙谷と松井は口論となり、結局、呆れた紙谷が家から出て行ってしまいました。紙谷は、現地語を流暢に話し、既に独自に生計を立てていました。紙谷の離反は松井に大きなショックを与えました。焦った松井は、連日紙谷を探し回りましたが見付からず、すっかり傷心してしまいました。さらに、仕事の成果も挙がらなくなり、9月28日、松井は私に『自殺する』と言っていなくなってしまいました。そこで、私は顔見知りになったジョセフに松井と紙谷に監禁されていたことを打ち明けて保護してもらっていました」

 

安易な帰国計画

南アフリカでの逃亡生活は、決して楽なものではなかった。

松井は、常に周囲を警戒して落ち着きがなく、精神的に不安定になっていた。

ただ、このマリコさんの話に対し、一足先に帰国していたタダシは、取調べにおいて、違ったニュアンスの話をした。

「松井とマリコは恋人同士、夫婦気取りで生活していました。2人が口論するとき、マリコは負けていませんでした。ワールドカップの観戦ツアーを装った詐欺では、松井がトップで、その下にマリコがいました。マリコは、私を含め日本から呼び寄せた日本人男性4人に命令口調で指示を出し、その指示で私たちは動いていました。紙谷は自身の事業があり、詐欺には関わっていませんでした」

マリコさんにしてみれば、夢にも思わぬ殺人事件に巻き込まれ、その上、犯人たちに半ば拉致されるように南アフリカに連れて来られたのである。この異国の地で生き延びていくためには、松井らと同等あるいはそれ以上に強くならなければならないと、自己防衛本能が働いたのだろう。

さらに、タダシは、松井が語っていたマリコさんの帰国計画についても言及した。

「紙谷がいなくなり、仕事もうまくいかなくなった松井が私に言ったことは、『平成23年11月、マリコを帰国させる。それから数ヵ月しておまえも帰国しろ。マリコは警察に捕まっても、松井に監禁されていたと話せば釈放される。おまえはワールドカップ詐欺で捕まるだろうが、マリコのことは知らないと否認を通せ。釈放になったマリコが何らかの形でおまえに接触する』ということでした。松井は、日本国内でも、私とマリコに何か非合法なことをやらせようとしていました」

松井は、日本国内で裏活動をさせるため、信頼できるマリコさんを先に帰国させる計画でいた。しかし、タダシが日本大使館に保護を求めて帰国したため、その計画はぶち壊されることになった。この「帰国計画」が頓挫したことで、いよいよ松井は追い詰められていた。

つば競り合い

警視庁に突き付けられた次の課題は、南アフリカに逃亡中の松井と紙谷を拘束して日本に連れ戻すことである。

松井は南アフリカに他人名義の旅券で密入国した上に不法滞在、紙谷は自分名義の旅券で入国したものの不法滞在状態になっている。南アフリカ当局に要請して、両名の身柄を拘束して国外退去の措置をとってもらい、公海上の航空機内で逮捕する計画が考えられたが、死刑制度という壁が立ちはだかった。つまり、日本の刑法における殺人罪の最高刑が死刑であるため、死刑廃止国の南アフリカにとっては、死刑判決が下される可能性のある場合は身柄の引渡しは拒否することになる。また、日本と南アフリカでは二国間条約を締結していない。

マリコさんの逮捕と前後して、警察サイドでは、法務省と東京地検に今後の方針を求めていたが、「警察庁と警視庁は何をしたいのか分からない」などと抗弁して見解を示さなかった。「南アフリカ当局に対し、松井と紙谷の身柄引渡しを交渉するためには、まず死刑判決が出ない誓約が前提となる」ということを再三説いていたが、法務省や東京地検は遅々として回答を出してくれなかった。

そのため、マリコさんが釈放される11月22日午前、私は警視庁刑事部の方針を東京地検に正式に申し入れた。

「警視庁は被疑者らの身柄の引渡しを受け、事件を解決することを最優先とする。求刑に対する判断は検察官に委ねる」

この方針を東京地検に回答した際、私は更に、「この回答を聞けば、検察官はどのような求刑をすればよいか、お分かりになると思います」と付け加えた。それに対し、担当検察官は、「無期懲役を求刑することになる」などと漏らした。

この日、警視庁刑事部長は、「『そもそも仲間割れの殺人事件で死刑判決は出ないから心配するな』と南アフリカ当局に対して言っても構わない。南アフリカだって、日本で殺人をやった犯人が、他人名義の旅券で密入国して不法滞在しているのに、その犯人を国内に留めておこうとは思わないはずだ。本音で話せば南アフリカだって分かってくれる。強気で急ぎ折衝を進めて欲しい。今日、マリコさんが釈放されたが、マリコさんから松井らに情報が提供されるおそれが十分ある」と判断した。

警察庁は、在南アフリカ日本国大使館を通じて南アフリカ当局に対し、現地において直接交渉したい旨の打診をしていた。南アフリカの日本国大使館では、既に松井の住居を特定し、紙谷の素性も解明しつつあった。できることならば、身柄引渡しと併せて松井らの住居に対して捜索差押えを実施して、パソコン等の証拠品を押収することも目論んだ。

しかし、南アフリカ当局は、「通常、12月第4週からクリスマス休暇に入るところ、今年は第3週から休暇に入り首都プレトリアを離れるため交渉のテーブルには着けない」と言い出してきた。

“なに、のん気なことを言っているんだ”と思っていると、さらに、
「来年2月以降ではどうか」
「検察官も同行してほしい」
と要求してきた。

私たちには一刻の猶予もなかった。マリコさんから情報を得て、松井らが所在不明になるおそれがあったからだ。

伝家の宝刀

この南アフリカ当局の回答を目の当たりにした警察庁の担当者は、すかさずこう詰め寄った。

「一日中、あなたたちを拘束するわけではない。急ぎ協議を開始して松井と紙谷の身柄拘束に動いてもらわなければ、彼らは逃走してしまう」

ところが、警察サイドの焦る気持ちを逆なでするような回答が東京地検から届いた。

「我々に何を聞きたいのか、南ア当局は具体的に示せ」

東京地検は強気だった。それとも、東京地検は、この事件に乗り気になれなかったのだろうか。

ならばどうするか。警視庁は更に大きな決断を下すことになった。

「諸外国の多くは、警察には身柄引き渡しを求める権限がないものとして検察官の同行を求めることがあるが、日本の場合、警察にもその権限がある。初回の協議では、身柄引渡しのハードルを確認することが重点となるので検察官の同行は必要としない」

この決断により、警察庁と警視庁だけで、南アフリカへ身柄引渡しの折衝に乗り込むこととなった。

すると、この可及的速やかに展開したい警察サイドの外交折衝を汲んでくれたのか、法務省と東京地検は、急ぎ協議を進めてくれていた。

そして、“伝家の宝刀”として、
●本事件に関し死刑は求刑しない旨の誓約書
●検察が死刑を求刑しなかった事件で裁判官が死刑判決を下した例はないという書面
●近年、死刑判決が出された事件のリスト
を渡航準備を整えた私たちに授けてくれた。

このような国内のつば競り合いを経て、警察庁と在南アフリカ日本国大使館は南アフリカ当局を理論でねじ伏せ、交渉のテーブルに引きずり出すことに成功したのである。

これを受けて、警察庁の担当部署では、警視庁が作成した「捜査共助要請書」のドラフトに修正を加え、正式に、12月2日付の捜査共助要請書として南アフリカ当局に送付した。
こうして特命を帯びた警察庁2名、私を含め警視庁2名の計4名は、12月11日夕方、羽田から香港経由で南アフリカに向けて飛び立った。そして、到着早々から息詰まる交渉を展開することになったのである。

衝撃の結末…!17年間逃亡を続けた猟奇殺人犯がコロナ禍に劇的逮捕された「全真相」

2020年9月24日、コロナ禍の最中、一人の男が「再逮捕」された。男の名は紙谷惣(46)。2003年に東京都奥多摩町の山中で男性の切断遺体が見つかった猟奇殺人事件の容疑者だったが、事件直後から南アフリカ共和国に逃げ、殺人容疑で国際手配されていた。

17年にわたる国外逃亡の裏で繰り広げられていた、警視庁捜査第一課との度重なる「駆け引き」。日本警察の面子を掛けた国際捜査の全貌を、当時事件を担当した警視庁捜査第一課元刑事、原雄一が明かす――。

 

交渉のテーブル

O・R・タンボ国際空港に到着したのは12月12日朝だった。ムッとする暑さと独特の臭いのする空気に包まれた空港は、朝からたくさんの人で混雑していた。長旅の疲れもあり、私たちは汗だくになって雑踏をかき分け、在南アフリカ日本国大使館職員と落ち合うと、アーリーチェックインのため、首都プレトリアのホリデイ・インに向かった。車中から見える街並みは雑然としたもので、道路端で散髪している光景に、「あれは床屋ですから」と大使館員が説明した。

続いて大使館員は、「夜間、一人で外出することは危険です。東洋人は強盗のターゲットになりますから、必ず団体で行動してください」と付け加えた。

私たちは、夜間、出歩くほど余裕のある日程で渡航したわけではない。大使館員の忠告は、有り難く聞き流していた。

ホテルにチェックインすると、早速、日本国大使館を表敬訪問し、午後から大使館の会議室を借りて、南アフリカ法務省と国家警察の各幹部と協議に入った。

まず、日本側から、事件概要の説明と不法滞在状態にある逃亡被疑者2名の国外退去強制をリクエストした。要するに、「南アフリカ国内で不法滞在している日本人被疑者2名を南アフリカから追放してくれ」ということである。

それに対する法務省幹部の回答は、「ノー」だった。

そして、幹部は、「今回の要請は、非常に重要な案件と理解した。ただし、逃亡被疑者2名を国外に退去強制することはできない。死刑が科される可能性がある殺人罪で手配されている日本人を国外に退去させることはできない」と、いかに不法滞在であろうと、死刑廃止国としては、死刑の可能性のある手配犯を国外に退去させることはできないと説いた。

その上で、「唯一の選択肢は、身柄引渡し要請である。日本とわが国は身柄引渡しの条約を締結していないから、大統領の同意が必要になる。日本の法務省からわが国の法務省に対し、身柄引渡しを要請していただきたい。その要請に基づき証拠を精査して、引渡し可能と決定すれば、逮捕状をもって日本人2名の身柄を拘束する。死刑になりうる犯罪の被疑者を引き渡すには、死刑を科さないという保証と死刑判決が出ても執行しないという保証が必要である。それも、総理大臣の保証である」などと淡々と話し続けた。

“総理大臣から保証を取るには、どんな手続きが必要なんだよ”
“警察庁長官に決裁に行ってもらわなければならないのか”
“総理大臣と言っていたけど、はったりではないのか”

私たちが、顔を見合わせて返事しあぐねていると、それを察知したのか、法務省幹部が、「日本の法務省の保証でも……、まあいいかな」と大幅に折れてくれた。

私たちは、一瞬呆気にとられたが、それならばと、間髪を入れずに代替案を示した。

「(1)検察官が死刑を求刑しない誓約、(2)検察官が死刑を求刑しなかった場合、裁判官が死刑判決をした例がないことを示す書面、(3)近年、死刑判決が出た事件のリストを提供する」

すると、法務省幹部は「それで十分である」と即座に回答してくれた。

さらに、幹部は、「過去、二国間条約のない国から殺人被疑者の身柄引渡しの要請を受けた際の関係書類の写しを提供するので、まずはそれを参考にしてドラフトを作成して送付していただきたい。また、日本の法務省の担当者も紹介して欲しい。正式に身柄引渡しが受理されれば、60日以内に日本人被疑者2名を拘束する」と前向きな回答に変わってきた。

私たちは、南アフリカ法務省から身柄引渡しに関する参考資料の提供を受け、帰国後、日本の法務省のコンタクトポイントを連絡する旨を快諾した。

取り敢えずは南アフリカ側の前向きな回答を得て、初日の交渉は成功裡に終了することができたものの、予想以上に身柄引渡しのハードルが高いことを実感した。それと同時に、「この法務省幹部の話は、本当に信じていいのだろうか」と、やや疑念を抱いたのも事実だった。

その夜は、国家警察の幹部とディナーを取りながら、南アフリカ国内の犯罪や警察の実態について情報を交換して、信頼関係の構築に傾注した。

「赤手配」の打診

翌13日、私たちは、同じく日本国大使館の会議室を借りて、ICPOプレトリアの最高責任者やその上級幹部たちと交渉することになった。そして、その場には、前日の協議と夜の飲食に同席した国家警察の幹部が立ち会ってくれた。

まず、前日の法務省との協議結果について国家警察幹部がICPOプレトリアに対して説明した後、私たちから事件の概要と逃亡被疑者の所在について説明した。また、当初、ジョセフの取調べも要請する方針でいたが、ジョセフから松井らに情報が漏れる可能性があるため保留にすることを伝えた。

 

これに対するICPOプレトリアの回答は、「ジョセフの取調べは、正式に仮拘禁と身柄引渡しの要請を受理した段階で、松井と紙谷の身柄拘束と併行して実施する。証拠品の押収も併せて要請してくれれば、松井と紙谷の家を捜索してパソコン等の証拠品を押収する。また、松井を訪ね、大金を持って日本から渡航してくる人物の出入国についても調べておく」という頼もしいものだった。

その上で、「ところで、松井らのICPO手配は青手配(BLUE NOTICE)だが、赤手配(RED NOTICE)にしてくれないか。そうすれば国境や周辺国で発見した場合に、身柄の拘束ができる」とリクエストされた。

赤手配とは、「引渡しまたは同等の法的措置を目的として、被手配者の所在の特定及び身柄の拘束を求める手配」であったが、松井らは、青手配で、「事件に関連のある人物の人定、その所在地又は行動に関する情報を収集する手配」となり、拘束力に欠けるものだった。

このリクエストに対し、警察庁は、「相互主義の観点から、日本では、赤手配書の発行はしていない」という苦しい回答となった。

以後、ICPO側から細かな質問が続いたが、最終的に、「南アフリカは、正式に仮拘禁と身柄引渡しの要請を受理すれば、被疑者2名の拘束に向けて迅速に対応する」と説明した。結びに、「今後も両国の良好な関係を維持し、緊密に連携を取り合い、2名の身柄拘束に向けて全面的に協力していきたい」という最高責任者の発言を聞き、私たちは勇気づけられた。

この夜は、多国籍の板前さんたちが握る寿司店で、ICPOプレトリアの幹部と身柄引渡しに向けた協議の延長戦が進められた。幹部たちは一様に、「心配するな。松井と紙谷の身柄は日本に引き渡されるよ」などと、私たちが喜びそうな発言をしてくれた。私たちは、笑顔で「ありがとうございます。よろしくお願いします」と答えていたものの、「本当かな。そんなに簡単にいくのかな」と、その真意を疑ってしまい、本心から喜ぶことはできなかった。

翌14日は、南アフリカ外務省での協議となった。敵陣に乗り込んでの協議となるため、外務省側は関係分野のスタッフを総動員して対応した。

冒頭、これまでと同様に日本側から事件概要と逃亡被疑者の現況や身柄引渡しについて説明した。関係機関と協議をするのも3日目となるため、私たちはどこに重点を置いて説明すべきか体得できていた。それは、後にも先にも「死刑制度」についてである。今振り返れば、パワーポイントを使って合理的に説明すればよかったが、このころはその発想や余裕はなく紙ベースだった。

まず、外務省の日本・韓国・中央アジア担当課長が口火を切った。

「日本のプレゼンテーションを聞いて、事件概要と要請事項について非常によく理解できた。南アフリカ外務省としては、積極的に支援していきたい。ただし、問題点がある。それは死刑制度である。日本では、この種犯罪になると、死刑があるのではないのか」

それを聞いた外務省法律顧問が日本を擁護する発言をした。

「この事件では、共犯者が多数捕まっているが、その中で最高刑は懲役16年である。死刑になる可能性は低いのではないのか」

これに日本側は追加説明をした。

「日本における殺人罪の最高刑は死刑であり、それが身柄引渡しの大きな障害になることは承知している。この点について、日本では、法務省と協議して、被疑者らを起訴した場合、検察官は死刑を求刑しない方針を確認している」

すると、日本・韓国・中央アジア担当課長が頷いて語り始めた。

「死刑にならない保証があるならば、身柄引渡し要請は、日本国大使館を通じて口上書をもって外務省に送付していただきたい。身柄引渡しは、法務省の管轄事項であるから、外務省の関係部署で要請書をチェックした後、法務省に転送し、ICPO、入国管理局等の関係機関とも協議して、日本からの要請を受諾するか否か決定する。結果については、日本国大使館とICPO東京に対して連絡する。南アフリカ外務省が正式に『仮拘禁・身柄引渡し要請書』を受理してから、正式に受諾の可否を決定するまで2~3ヵ月程度を要する」

以上を語った後、日本・韓国・中央アジア担当課長は、「要請書には、死刑を求刑しないことを確実に記載してくれよ」と付け加えた。

恐るべき支配力

私たちは、各協議の合間、日本国大使館員や国家警察の案内で、松井らが生活していた居住区や事務所を視察した。彼らは、逃亡犯ながら、街並みが整った高級住宅街で生活していた。そして、この地から、日本の反社会的勢力の仲間たちに指示を出して、犯罪収益をあげようと画策していたのである。恐るべき支配力である。

入国管理局との打合せは、スケジュールの都合上かなわなかったものの、身柄引渡しの根幹となる政府機関とはじっくり協議して、一定の成果を得て帰国の途についた。

12月15日朝、プレトリアのホテルをチェックアウトして、ヨハネスブルグに移動した。“次に、この地に来るときは、松井と紙谷と一緒に日本に帰ることになる”。そう考えながら、空港に向かう車中で期待に胸を膨らませていた。それと同時に、南アフリカ当局から出された宿題を反芻していた。

紙谷惣容疑者(1999年撮影)=警視庁ホームページから

私たちは、その日の昼の便で香港に向かった。

身柄護送の際、中継地となる香港でシミュレーションしておく必要があったからだ。

16日朝、私たちは香港に到着して早々、在香港日本国総領事館職員や空港関係者と落ち合い、護送時の待機場所や護送経路、報道対策、不測の事態が発生した場合の対処要領について打ち合わせた。来春にはきっと実現するだろう身柄の護送について、細部の打合せを滞りなく済ませ、香港を発った。成田に着いたときには夜も遅くなっていた。

翌日から他事件の捜査の進捗状況を見ながら、南アフリカの宿題に取りかかり、翌週からは、東京地検や警察庁と今後の方向性について協議していた。担当している捜査は、この事件だけでなく、多くの重要事件の捜査が同時並行で進んでいた。12月30日には、「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」も発生から12年目を迎えようとしていた。

警視庁捜査第一課が身に着けるエンジバッジ

様々な事件に忙殺されている中、平成23年大晦日、オウム真理教の特別手配犯「平田信」が丸の内警察署に出頭する事態が起きた。続いて1月10日には、平田を匿っていた女性も弁護士に付き添われて大崎警察署に出頭した。この機に乗じ、警察庁は、各都道府県警察に対し、残りの特別手配犯「菊地直子」と「高橋克也」の追跡捜査の強化を指示した。

こうした警察内の激流に揉まれながらも、私は、1月中には、南アフリカ共和国の当局に対する「松井と紙谷の仮拘禁・身柄引渡し要請」に関わるドラフトを作成して警察庁に提出し、警察庁の担当部署ではこれに修正を加えて、2月初旬、正式要請として南アフリカへ送付した。それに続き、警察庁では、法務省や外務省と今後の見通しについて協議していた。

すると、南アフリカから回答が届いた。

“ずいぶん素早い反応だ”と喜んだのも束の間、その回答は、とんでもないものだった。

「裁判官に、『死刑判決は出さない』という誓約書を作成させ添付しろ」というのである。

なんということだ。到底呑める要求ではない。

南アフリカの協議では、「死刑は“求刑しない”という“検察官”の誓約で十分だ」と言っていたのに、いったいどういうことなのか。

今になって無理難題を突き付ける南アフリカ当局の真意が、私たちには読めなかった。裁判官から「死刑判決は出さない」という誓約書など取れるはずがない。仮にそうした誓約書が存在して提出したとしても、南アフリカは更なる難題を突き付けてくるだろう。その思惑が、それまでのやり取りを考えると、透けて見えた気がした。

まさかとは思うが、
「松井と紙谷の身柄が欲しければ、それ相当の“誠意”を見せろ」
とでも言いたいのか。

でも、政府機関が反社会的勢力のような戯れ言を発したりはしないはずだ、と信じたかった。

この南アフリカからの要求について、警視庁、警察庁の内部はもちろんのこと、関係省庁とも議論したものの打開策はなかった。

結局、仮拘禁と身柄引渡しの要請は頓挫することになり、あと一歩の所で私たちのオペレーションは潰えてしまった。

なぜ、南アフリカ当局は、逃亡犯罪者の逮捕に一生懸命にならないのだろう。

南アフリカで協議中、「日本で犯罪を起こし、不法滞在している日本人を国外退去させて欲しい」と依頼したとき、その第一声が、「不法滞在者なんか、この国にはたくさんいるよ。そんな事件に一々手を付けていられない」だった。

日本の捜査機関と全く違った考え方を目の当たりにした、その言葉が思い出された。

押し寄せる余波

平成26年6月12日、久しぶりにマリコさんの父親から電話があった。

父親が言うには、マリコさんは大学に通い元気に生活しているという。

一通りの前置きをして、「実は、マリコが、警視庁の捜査二課にワールドカップの詐欺事件で逮捕されました」と告げられた。

私は、椅子から転げ落ちるほどびっくりしてしまい、「えーっ」と言ったまま次の言葉が出なかった。

それを察知してか、父親は、「知らなかったの?」と続けていたが、私は何も答えられなかった。

私の頭の中は、「なんだよ。なぜ、捜査二課は教えてくれなかったんだ」「両親が苦労して南アフリカから連れ戻したのに」「松井が指示した詐欺だから、任意捜査でもよくないか」「捜査二課でも、松井の身柄引渡し要請に挑戦してくれよ」などの言葉が駆け巡っていた。

事件はさらに意外な展開を見せる。

平成28年5月16日、久しぶりにヒロキから電話があった。それまでも、折に触れて連絡を取り合い、お互いの信頼関係を継続していたが、この電話のヒロキは、やけにはしゃいでいた。

「お疲れさまです。まだニュースになっていないけど、オレ詐欺の連中に、組から招集がかかり、昨日朝方、コンビニのATMでスキミングしたカードを使って大金を引き出していますよ」

私は、ヒロキが言っている意味が分からず、「そんなこと、できるのかよ」と答えていた。

すると、5月22日朝刊で、報道各社が紙面を大きく割いて報じた。

「全国17都府県のコンビニATMで15日午前5時過ぎから8時前の約2時間半の間に偽造クレジットカードによる大量の不正引き出しが発生した。引き出された総額は約14億4000万円に上るという」「ATM約1400台で、南アのスタンダード銀行が発行したクレジットカード約1600枚分の情報が計約1万4000回使われ、総額約14億4000万円が引き出された」「警察当局は背後に国際犯罪組織が関与しているとみて捜査を進める」
などと書かれている。

一生かけての償い

数日後、私は、西麻布の隠れ家でヒロキと密会した。

「5月13~14日、オレ詐欺の店長クラス(中核メンバー)から、『仕事があるんだけど、人手が必要なので何人か出せませんか』と依頼がありましたよ。仕事の内容を聞くと、15日早朝、スキミングしたカードを使って、コンビニのATMから一斉に現金を引き出すということだったので、危ないと思い断りました。その後も別の店長たちから同じ仕事の依頼があったけど、もちろん断りました。でも、オレ詐欺の店長クラスが何人も依頼してくるからには、5月15日早朝、コンビニのATMから一斉に現金を引き出す計画が本当にあると確信しましたよ」

私は、“スキミングしたカード”と聞いて、松井らの関与を疑った。

結局、5月15日の被害は18億円超となった。

「南アフリカの銀行のカードがスキミングされたようだけど、松井や紙谷が関与していてもおかしくないな」

「可能性は高いですね。依頼してきた奴らに聞いたところ、みんな成功したと言っていました。集金役を兼ねたリーダーを頭に3~4人一組になって車で移動しながらやったらしいです」

さらにヒロキは言う。 

「今回の件には中国人が絡んでいて、愛知と九州で4億くらい引き出したと言っています。去年の12月にもやったと言っています」

確かに、ヒロキが言うとおり、「12月27日、7都県で約1億が引き出される」という朝刊記事を見付けることができた。

 

その後、ヒロキの紹介で、実際にスキミングしたカードを使って現金を引き出した連中に接触し、計画から実行に至るまでの具体的な手口を聞くことができた。それに連れ、南アフリカ⇒中国⇒日本に至る太いラインが存在していることがうかがえた。

時事通信(2020年9月4日)によると、「松井容疑者とみられる男は16年12月ごろ、南ア国内の海岸で木に首をつった状態で死亡していた。同容疑者の名前が書かれた遺書のような日本語の文書を所持し、『迷惑を掛けた』という趣旨の内容が書かれていた。今年5月、南アの捜査当局から外務省を通じ、日本の警察当局に連絡があった。現地から届いた遺体の指紋は松井容疑者と一致したという」

あのとき、身柄の引渡しが実現さえしていれば、松井に一生かけて罪を償わせ、自死するわがままを許さなかったはずである。

これが、犯罪捜査の前に高くそびえ立つ分厚い「国境の壁」という現実である。

その壁を突破できる日がくるのは、いつのことだろうか。

 

「宿命 國松警察庁長官を狙撃した男・捜査完結」(原雄一/講談社文庫)

 

警察庁長官狙撃事件は、なぜ解決できずに時効を迎えなければならなかったのか。濃厚な容疑を持つ人物が浮上していながら、なぜ、オウム真理教団の犯行に固執しなければならなかったのか。日本警察の宿命を説く第一線捜査官による衝撃の手記。