明るく陽気な歌唱スタイル。聞くだけでなく見るのも楽しめるステージだった(1949年)
その天真爛漫な明るさに、どれだけ多くの国民が救われたことでしょう。敗戦による暗い世相を吹き飛ばした「東京ブギウギ」を歌った笠置シヅ子 (1914~1985)。NHKの朝ドラのモデルとして改めて注目が集まっています。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は「ブギの女王 」として知られた彼女の知られざる横顔に迫ります。 【写真】日本中が元気をもらったあの笑顔、ステージ、そして大物たちとの共演姿
すさんだ時代を明るくした歌
モヤモヤした気持ちになったとき、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」に耳を傾ける。8ビートの激しいリズム。 「東京ブギウギ リズムウキウキ 心ズキズキ ワクワク……」 と、こんなフレーズで始まる軽やかな歌唱は浮かれ調子で、どこかやけくそ気味に聞こえなくもないが、だからこそ理屈抜きに胸がスーッとするのだろう。
あの歌は、敗戦後のGHQ(連合国最高司令官総司令部)による植民地的雰囲気が覆っていた1948(昭和23)年1月に発売された(吹き込みは47年秋)。暗い世相を吹き飛ばす勢いで瞬く間に全国的に広がり、子どもにまで口ずさまれた。大きな声を張り上げて歌い、舞台を駆け回る笠置のスタイルは斬新。「これが敗戦国の姿か」と進駐軍の米兵も驚くほどの明るさと、爆発的なエネルギーに満ちあふれていた。
古い日本映画を見ていると、焼け跡や闇市のシーンで流れてくるのは並木路子 (1921~2001)の「リンゴの唄」より「東京ブギウギ」のほうが多いのではないか。混沌として猥雑で雑多な雰囲気の闇市には、陽気な「東京ブギウギ」のほうが似合うのだろう。 作曲した服部良一(1907~1993)はかつて朝日新聞の取材にこう答えている。
《だれもがみんな大声でワァーッと叫びたくなるような時代でしたでしょう。この歌で日ごろのうっぷん晴らしをしたということも、爆発的に受け入れられた一因かもしれませんね》(95年4月19日 夕刊芸能面) 一方、戦前・戦後を通じて音楽娯楽番組を手がけたプロデューサーの丸山鉄雄 氏(1910~1988)は著書「歌は世につれ」(みすず書房)の中で、「東京ブギウギ」をこう位置づけている。 《被圧迫民族ニグロの音楽の持つあきらめと反発と解放感の入りまじった感覚が、半植民地的状態に置かれていた当時の民衆の生活感情になんらか訴えるものがあったのであろう》 当時の民衆とはもちろん、敗戦後まもない日本人を指す。
たしかに時代はすさんでいた。空襲で焼け野原になった街には闇市ができた。日々の生活に困窮していた多くの人々が集まったが、一方で危険と隣り合わせの風景が広がっていた。愚連隊が大手を振って歩き、恐喝やスリ、置き引きが横行。「ラク町」と俗に呼ばれた東京・有楽町のガード下は「夜の女」と呼ばれた街娼たちのたまり場となった。
生きるため、やむなく夜の世界に身を投じた女たち。言葉は悪いが「パンパン」と呼ばれた。「パンパン」と手をたたいて招いたという説やインドネシア語で女性を意味する言葉が訛ったという説などがあるが、どれも確証はない。だが、社会全体が荒っぽかった当時の世相を反映する言葉ではある。 そのパンパンをテーマに掲げた小説が作家・田村泰次郎 (1911~1983)の「肉体の門」だったが、笠置の「東京ブギウギ」も乱世の中でのあるがままの人間像をさぐり、人間とは何であるかを探求しようとした歌だったといえるかも知れない。闇市の空きっ腹の庶民に、「生きるとは何か」を問いかけた強烈な歌だった 。
歌の舞台に「動き」の迫力を持ち込む
話を戻す。 繰り返して言うが、笠置がその名を流行歌の歴史にとどめるのは、美声とか歌のうまさではなく、歌の舞台に「動き」の迫力を持ち込んだことだった。
舞台の上で踊ったり動いたりするのは今ではごくごく当たり前のことであるが、笠置の時代にあっては「革命的なこと」だった。昔は姿勢を正しくして歌わないとお客様に失礼にあたるということから、例えば東海林太郎(1898~1972)は直立不動で歌った。肉体の存在を声高に主張する激しい動きと解放感あふれる叫びが多くの人の胸に響いた。
要は、それまでの日本にはいなかった新しいタイプの歌手だったということである。「東京ブギウギ」がヒットしたお陰で世相が明るくなったのは間違いない。 さて、そんな歌を世に伝えた笠置とはどんな人物だったのか。 1914(大正3)年、香川県生まれ。 「からだも弱いし家も貧乏なので芸で身を立てよう」
と幼いころから日本舞踊を習い、小学校卒業と同時に松竹歌劇団(SKD)の前身、松竹楽劇部へ。踊りと歌で一躍人気者になった。1938(昭和13)年に東京へ移り、大阪と東京の楽劇部が合流して帝国劇場で旗揚げした松竹楽劇部に参加。ジャズ歌手として売り出した。そのころから笠置のリズム感の良さに注目していたのが服部良一だった。
「東京ブギウギ」以来、笠置は数々の「ブギもの」を世に出したが、中でも売れたのが1950(昭和25)年に発売の「買物ブギ」。45万枚を売り尽くし、歌詞のオチとなった「わて、ホンマによう言わんわ」は関西言葉に触れる機会のなかったエリアの人々に強烈なインパクトをもたらした。
それにしても、昔の映像を見ると、笠置が所狭しとダイナミックに踊っているのが分かる。なぜそんなに舞台の上で動き回ったのだろうか。
戦時中、当局から舞台で何メートル以上動いてはならぬなどと、そのダイナミックなアクションを制限されていた笠置。内心は面白くなかったに違いない。だからこそ「東京ブギウギ」を皮切りに「ホームラン・ブギ」「ジャングル・ブギー」「買物ブギ」など自由奔放に歌いまくり、踊りまくったのだろう。あの美空ひばり(1937~1989)も笠置を大変意識していたというから、「ブギの女王 」の面目躍如である。
「ブギの女王」が抱えていた悲しみ
実は「東京ブギウギ」発売の前年、笠置に悲劇が襲った。恋人の子を出産するが、その直前、恋人が病気で急逝したのである。シングルマザーとして生きる決意を固めた笠置。「東京ブギウギ」は、そんな笠置へのエールを込めて服部が作った歌でもあった。作詞は服部が戦時中に上海で知り合ったジャーナリストの鈴木勝(1916~1971)。仏教哲学者の鈴木大拙(1870~1966)の息子である。
「東京ブギウギ」は多くの人がカバーした。が、やっぱり迫力では笠置にかなわない。服部の自伝「ぼくの音楽人生」(日本文芸社)によると、この歌のヒットによって《 敗戦の悲嘆に沈むわれわれ日本人の明日への力強い活力》につながってほしいという願いが根底に流れていた。
ところで1956(昭和31)年、笠置は歌手廃業を宣言する。ブギの人気が下火になってきただけでなく、自らの体が太ってきたことが理由だったらしい。笠置の歌は踊りと切り離せない。踊れない歌手はもはや「ブギの女王 」といえなくなる。 服部は笠置のことを「常に妥協を許さない厳しい人」と称したが、一度こうと決めたら切り替えは速く、しかも頑固だ。その発言通り、同年12月31日、第7回NHK紅白歌合戦に出場して「ヘイヘイ・ブギー」を歌い、笠置は華やかな音楽界のスポットライトから静かにフェードアウトした。
翌1957(昭和32)年、笠置は映画会社やテレビ局を訪れ、「これまでの歌手・笠置シヅ子 のギャラではなく、これからは新人女優のギャラで使ってください」と挨拶して回った。ギャラのランクを自ら下げてくれと頼んだ芸能人なんて過去にいただろうか。
「ブギの女王」として君臨した過去の栄光にすがることなく、常に前向きで溌剌とした笠置の姿が目に浮かぶ。気さくな長屋のおばさんのような笑顔や「大阪のおばちゃん」的キャラクターを生かし、映画やテレビに出演。女優としての活動も始めた。
私が懐かしく思うのは、TBS系の歌番組「家族そろって歌合戦」(1966~1980)の審査員の笠置である。番組は13年間も続いたが、いつも笑顔を絶やさなかった。勝ち残った人をほめるより、敗れた人に「惜しいなあ。惜しかった。またいらっしゃい」と声をかけることが多かった。まさに人情味のある審査員だった。
一方、戦前・戦後のスター歌手たちが一堂に会し、往年のヒット曲を歌う「懐メロ番組」には出演しなかった。何度もラブコールを受けたのだろうが、断り続けた。「その潔さこそ笠置シヅ子であり、彼女の生き方だった」。新著「笠置シヅ子 ブギウギ伝説」(興陽館)を出した娯楽映画研究家の佐藤利明(60)はそう語る。
笠置は1985(昭和60)年3月30日、卵巣がんのため東京都内の病院で息を引き取った。本名・亀井静子。享年70。最初に乳がんが発覚したのは14年前。1983(昭和58)年には卵巣がんの手術をした。あの明るい笑顔の影で、病と闘っていたのである。
次回はアクションから文芸作品まで幅広いジャンルで活躍した俳優・松田優作(1950~1989)。39歳で旅立って34年になるが、その人気は衰えない。死と隣り合わせで生きてきた男の原風景とは。
小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。
デイリー新潮編集部
新潮社
笠置シヅ子さんの東京ブギブギは聴いたことはあるけど他の歌を改めてYouTubeで聴いてみた。一番衝撃を受けた曲は 『ジャングルブギ』だった。ステージにターザンみたいにロープで出てきて それだけでも凄いのにそのステージ衣装は太ももあらわでビックリ!。そしてその歌が凄い! ワァオ〜ワァ〜オ!とターザンを模した叫びで斬新でパワフルで思わず見入り聴き入りましたよ。 聴いた事無い方は是非観て聴いてください 加齢なる親父より
小柄で美女ではない笠置シヅ子がスターになれたのはなぜか。シヅ子についての本を書いた青山誠さんは「シヅ子は東京で作曲家の服部良一と出会い、素質が開花した。服部は最初、シヅ子の地味な素顔にがっかりしたが、彼女の低い声と迫力あるパフォーマンスに可能性を感じ、スイング・ジャズにはぴったりだとシヅ子に賭けた」という――。
※本稿は、青山誠『笠置シヅ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記 』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
戦争景気に沸く東京が笠置シヅ子の新天地になった
日中戦争が始まる4日前の昭和12年(1937)7月3日、松竹は浅草国際劇場をオープンさせている。約5000人を収容する当時は日本最大の劇場で、ここが少女歌劇の本拠としても使用されることになった。
同年10月には大阪松竹少女歌劇団が上京してこの国際劇場で「国際大阪踊り」のレビューを公演した。シヅ子もこれに出演し、そのパフォーマンスが東京の関係者たちの目にとまり彼女の引き抜きに動き始めたのだという。
松竹は東京に多くの劇場を所有していた。これに国際劇場が加わったことで、出演者やスタッフの陣容を強化する必要に迫られている。また、少女歌劇につづく新しいレビューを立ち上げることも決まっていた。
シヅ子が上京した年には、少女歌劇のスターたちに男性出演者をくわえた松竹楽劇団(SGD)が旗揚げされる。彼女もこの楽劇団のメンバーに加えられることになった。丸の内界隈の大きな映画館では、上映の合間にアトラクションとして演劇やショーを開催するのが流行っている。SGDも松竹洋画系映画館で催すショーを目的につくられたもので、男女の共演による本格的なミュージカルをめざしていた。
最初にジャズプレーヤー・紙恭輔の指導を受ける
劇団の音楽を担当する総指揮者として招聘しょうへい された紙恭輔かみきょうすけ は、日本のジャズプレーヤーの草分け的人物。松竹は少女歌劇が得意としてきた情熱的で激しいダンスにくわえて、ジャズの演奏や歌を存分に聴かせることを新劇団のウリにしようとした。洋画系のハイカラな映画館で催されるショーなだけに、欧米文化の雰囲気が濃厚なジャズとの相性がよいと踏んでいたのだろう。
新天地で自分の居場所を確固たるものにするため、シヅ子はジャズの歌唱法を本格的に学ぶことにした。総指揮者の紙を追いかけまわし、背後霊のように張りついて離れない。彼の言葉を聞き漏らすことなく、求めているものを知ろうとする。また、練習が終わっても相手の都合などおかまいなしに、根掘り葉掘りしつこく質問してくる。
紙も辟易へきえき していたようだった。あからさまで貪欲どんよく な姿勢に引いてしまう劇団仲間もいたが、気にしない。空気を読むとか忖度そんたく するとか、芸の修練には不要なものだと割り切っている。その考えは研修生の頃から変わらない。
紙の補佐役になった服部良一と初めて顔を合わせ驚かれる
紙恭輔はゆったりと大人しめな曲調のスウィート・ジャズに精通した人物。だが、それだけでは動きの激しいダンスを売り物とする楽劇団には物足りない。本人もそれは分かっていたようで、ダンスとの相性が良いホット・ジャズに精通した人物を補佐役に探していた。そこで白羽の矢が立ったのが服部良一である。
当時の服部はコロムビアの専属作曲家として契約しており、戦地の兵士を慰問するため中国に滞在していた。SGDの初公演が迫り紙も焦っていたようで、服部が帰国して東京駅に到着すると、ホームで松竹関係者が待ち構えていた。その場で説明をうけて副指揮者に就任することが決まり、旅装を解く間もなく団員たちが練習しているという帝国劇場に連れて行かれた。
服部が帝国劇場に到着すると間もなく、稽古場にシヅ子も姿を現した。このとき、ふたりは初対面。担当者から呼ばれて服部に紹介された彼女は、
「笠置シヅ子です。よろしゅう頼んまっせ」
と、挨拶してきた。しかし、服部は驚いて挨拶を返すことができなかったという。
少女歌劇のスターであるその名前を知らぬはずがない。顔も雑誌やブロマイドで幾度も目にしていた。が、目の前に立つ女性は、写真で見るそれとはまったく別人に見えた。服部の自伝『ぼくの音楽人生 』にもこのときのことが書かれている。それによると、
「トラホーム病みのように目をショボショボさせた小柄の女性がやってくる。裏町の子守女か出前持ちの女の子のようだ」
地味でやせっぽちなシヅ子は歌い出すと強い輝きを放った
第一印象は最悪。舞台の上の笠置シヅ子は厚いメイクでぱっちりと目を大きく描き、長さ3センチの特大付けまつ毛をつけている。しかし、金欠ゆえに普段は粗末な服装で化粧もろくにしていない。そのギャップは激しかった。
地味でしょぼくれた姿にがっかりした服部だったが、しかし、練習が始まると……また驚かされてしまう。心が震えるような強い感動も覚えた。本番のメイクをして、舞台衣装に着替えて現れたシヅ子は別人に変わっていた。それがオーケストラの演奏にあわせて歌い踊ると、いっそう強い輝きを放つ。
シヅ子が表情豊かに声を張りあげて唄うた い激しく動きまわれば、一緒に踊る他の少女歌劇出身の女優たちの存在が霞かす んでしまう。ブロマイド写真では感じることのなかったすさまじい迫力、圧倒的な存在感が服部の心を捉とら えて離さない。目は彼女に釘づけ、シヅ子と組めば新しい可能性が開けるかもしれないと期待した。
淡谷のり子と組んで「和製ブルース」を成功させた服部
どんなに良い曲を書いても、それを唄いこなせる歌手がいなければ宝の持ち腐れ。人の心には刺さらない。服部はコロムビアの専属作曲家になってから、ブルースを日本になじむものにアレンジした“和製ブルース”で一世を風靡ふうび していた。その成功もまた淡谷のり子こという歌手に出会えたことが大きい。
淡谷は昭和12年(1937)に服部が作曲した『別れのブルース』を唄って大ヒットさせ、ブルースのブームを巻き起こしていた。
彼女は東洋音楽学校で本格的にクラシックの歌唱法を学び、以前からソプラノ歌手として高く評価されていた。クラシック界では悪趣味な際物扱いされるジャズやブルースを唄うことには抵抗があり、それだけに、当初は服部の指導にも反発していたという。しかし、淡谷の歌唱力に惚ほ れた服部は諦あきら めず熱心に対話をつづけながら、やがて信頼を得ることに成功する。それからは彼女も凄まじいプロ根性を発揮して、レコーディング前には吸えないタバコを何十本も吸ってブルースが似合う低音をつくりあげた。
次はシヅ子と組んでスイング・ジャズでもヒット曲を狙った
服部はスイング・ジャズでもヒット作を作りたいと考えている。シヅ子が『恋のステップ』を歌ったときも、本格的に育てあげればモノになるかもしれないと関心を持っていた。同じ劇団で仕事するようになり、直接に彼女の歌声を聴いてそれが確信に変わってくる。いまの日本でスイング・ジャズを唄える歌手は、笠置シヅ子以外にはいない、と。
楽劇団の舞台が求めるノリが良くてパンチの効いた曲については、それを得意とする服部に一任されている。彼は『ラッパと娘』『センチメンタル・ダイナ』『ホット・チャイナ』などを次々に作曲して舞台でシヅ子に唄わせた。
服部にとっては幸いなことに、シヅ子は音楽学校で本格的に歌唱法を学んだことがなく、音楽知識がほとんどない。ジャズに先入観を持たず、拒絶反応を見せることはなかった。
淡谷のり子にブルースを唄わせたときには苦労した。彼女にはこれまで自分が培ってきたものに対する自信や、めざすべき音楽の理想があったのだろう。芸術家ゆえの頑固。静子もまた頑固なところがあるが、淡谷のそれとは違う。
シヅ子にとって最も大切なもの、守らねばならないものは家族と自分の幸福である。
それには、生活の糧を得るための居場所を確保することだ。もともと、歌はその手段と割り切っているようなところがある。どんなジャンルの歌であろうが、自分がこの世界で生き残るという目的に適合していれば貪欲に学んで吸収しようとする。
シヅ子は服部を信頼してどんな無理難題でも従った
彼女は自分の味方と認める相手であれば、とことん信じ込む。知人の少ない東京で、服部のことは最も信頼できる味方だと思っている。盲信していた。彼の指導はすべて「それが自分のためには最良のやり方」と信じて疑わず、どんな無理難題を言われようが不服は一切言わないで従った。
この頃の女性歌手は、高音で柔らかく優しげな女らしい声が好まれた。以前はシヅ子もそれを意識して唄ったりもしていたのだが。本来の自分の声とは違うだけに、それが喉のど を痛める原因にもなる。服部はまずその悪い癖を直そうとした。
シヅ子はもともと女性としては声の低いほうだが、服部が求める歌い手にはそれが求められた。彼がシヅ子に惹ひ かれたのも、地声に魅力を感じたからだ。
「自分を隠すな、地声で唱え」
と、レッスンの厳しいことで知られる服部だけに、それができるまで徹底して唄わせつづける。舞台でいくら疲れても、休むことなく練習はつづく。その甲斐あって地声に磨きがかかり、声量にあふれていっそうの魅力を放つようになってきた。
顔をマイクにすり寄せて歌うパフォーマンスで観客を釘付けに
目立っていたのは歌声だけではない。シヅ子は大股で顔をマイクにすり寄せながら、踊るように体を揺すって唄う。表情は豊かに変化して、ステージからは距離のある劇場の2階席にも喜怒哀楽の感情が強く伝わってくる。行儀よくすまし顔で唄っていたこれまでの日本人歌手とは違って、感情をストレートにぶつけるパフォーマンスが観客の目を引きつけて離さない。
ウケを狙ったわけではなく、乗ってくると自然にそうなってしまう。服部がにらんだ通り、軽快で奔放なスイング・ジャズはシヅ子との相性が抜群だったようである。
他の出演者が霞んでしまう圧倒的な存在感。楽劇団の看板女優どころか、他の団員たちは彼女のために編成されたバックバンドやバックダンサーのように映る。
昭和14年(1939)4月に帝国劇場で公演された「カレッジ・スヰング」で、シヅ子は『ラッパと娘』を披露した。彼女のスキャットとトランペットがみごとに絡み、観客は魅了された。これを観た評論家の双葉十三郎などは、
「日本にもスイングを体現できる歌手が現れた」
このように絶賛している。
彼はシヅ子のことを「スヰングの女王」と褒め称え、以後これが彼女の代名詞になった。また、大評判となった『ラッパと娘』はレコード化されて、コロムビアの専属歌手にもなっている。
月給200円のうち150円を大阪の実家に送っていた苦労人
戦前の芸能界ではトップクラスと目される存在にまで上りつめた。しかし、シヅ子の風体はあいかわらず地味。服部は彼女と初対面の時に「子守女」「出前持ちの娘」とも評していたが、いまもそれと大差はない。街中で出会っても、スヰングの女王とは誰も気がつかず見過ごしてしまう。
世間での知名度は上がっても、給料は上京した頃と同じだった。金の苦労はつづいている。200円の月給のうち150円は大阪の実家に仕送りして、残った50円が彼女の生活費。女子の事務員やタイピストの月給よりは少し多い額ではあるが、派手な生活をする他の団員たちとつき合うには無理がある。給料を全額お小遣いとして使ってしまうような、自宅住まいのお嬢様も多かった。
劇団の仲間から食事や喫茶店に誘われても断らねばならない。大阪の松竹から引き抜かれてきた余所者よそもの なだけに、つきあいが悪いと仲間内では存在が浮いてしまう。劇団内には親友と呼べるような者もおらず、孤立感を深めていた。
その寂しさを紛らわせるため歌の練習にいっそう熱が入る。他の娘たちが喫茶店で楽しく談笑しているときも、夜遅くまで稽古場に残って練習に励む。それが功を奏したところもある。歌のスキルにはますます磨きがかかり、もはや他者の追従を許さない。
シヅ子と服部は孤独な境遇ゆえにお互いを高めあった
師匠の服部もまた大阪出身者であり、東京では疎外感を味わうことも多かった。そんな異邦人同士、仲間意識もあってだろうか。いっそうシヅ子に肩入れして、彼女に唄わせる曲を書きつづけた。
「質素で派手なことが嫌い。間違ったことが許せない道徳家。しかし、世話好きの人情家でもあり、一生懸命生きている」
服部はシヅ子についてこのように語っていた。生きることに不器用な娘だが、道を踏み外すことなく一生懸命に進んでいる。その健気さにほだされていた。シヅ子は人から向けられる好意を察することには敏感だ。服部への信頼はますます強固なものになってゆく。音楽とは関係のない会社との契約や私生活についても、服部に相談して意見を求めることが多くなっていた。
昭和歌謡界華やかなりし頃に「ブギの女王」として活躍した笠置シヅ子だが、私生活では肉親の愛に恵まれなかった。作家の青山誠さんは「シヅ子(静子)の両親は大阪で銭湯を営んでいたが、実はシヅ子は養母が故郷の香川でもらい受けた養子だった。シヅ子は17歳のとき、その事実を知って人生最大の衝撃を受けた」という――。
※本稿は、青山誠『笠置シヅ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記 』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
松竹少女歌劇で活躍しはじめた17歳の静子は香川県へ
昭和6年(1931)、静子(のちの笠置シヅ子)は17歳になった。女学校に入学していればそろそろ卒業を迎える頃、親類や知人から縁談話が持ち込まれる年齢である。しかし、彼女は歌の練習と舞台に明け暮れる忙しい日々、異性に関心を抱く余裕すらなかった。
研修生から楽劇部に正式採用されて、いまや松竹少女歌劇の舞台には欠かせない存在になっている。この世界で生きてゆくために、歌の練習にはいっそう熱心に取り組んだ。重要な役を任されることも増え、舞台稽古にも長い時間をとられるようになっていた。2週間に及ぶ公演が終わった頃にはいつも心身ともに疲労困ぱいして倒れそうになる。
もともと体が丈夫なほうではない。オーバーワークがたたり、気管支を悪くして寝込んでしまう。当分の間、舞台を休演するしかない。心配した母親のうめは静子と弟の八郎を連れて帰郷することに。大阪にいるよりは、空気のきれいな四国でしばらく静養させたほうがいいと考えたようだ。
香川県の引田ひけた から5~6キロほど西に、白砂青松はくさせいしょう の美しい眺めが広がる景勝地・白鳥しろとり 海岸がある。昭和時代に入って付近に駅が開設されると、行楽客が増えて駅前には旅館や土産品店が建ちならぶようになった。うめは実家に寄らず、ここで親子3人滞在することにした。
静子の実父は村一番の名家の跡取り息子だった
今回の帰郷について、親族たちには告げていない。静子の生家である三谷家に知られるのを避けたかった。静子が産まれて間もなく、実父の三谷陳平は病に倒れて亡くなっている。すると、静子の存在を無視していた三谷家の態度が豹変ひょうへん 。実家に帰省する都度、彼女を屋敷に連れて来るよう催促するようになった。
静子の祖父・三谷栄五郎は乃木大将のような長い白髭しらひげ をたくわえて、威厳を感じさせる人物だった。静子が習ったばかりの唄や踊りを披露すると、その時だけはこの老人も厳しい風貌ふうぼう を崩してデレた笑顔をのぞかせる。亡き息子の忘れ形見。そう思うと情が湧いてくるのだろう。
しかし、静子が成長するにつれて、うめは色々と理由をつけて屋敷に行かせるのを断るようになった。小学校に入ってからは三谷家に行った記憶がない。
うめは静子が自分の出生の秘密を知ることを恐れていた。ともある。伯父はそれを避けたかったのだろう。
実の祖父とは知らずに三谷家の当主から法事に呼ばれた
執拗しつよう な説得に、うめもとうとう屈した。静子が法事に出席することを了承してしまう。間が悪いことに夫の音吉から早く戻ってくるように催促がきて、静子をひとり残しうめは八郎を連れて先に大阪へ戻ることになった。自分が見ていないところで三谷家の親族たちが静子に何か吹き込んだりしないかと、不安でしょうがなかったのだが。銭湯の商売は忙しく、自分がいつまでもここに居るわけにはいかない。
静子はひとりで残り、引田の伯父宅で寝泊まりしながら法事に出席することになった。久しぶりに訪れた屋敷に入ると、広間を埋め尽くして大勢の人々が座っている。豪華な料理もふるまわれた。じつはこの屋敷は借金のために人手に渡っており、祖父たちは隣の小さな離れに住んでいるという。法事のためにこの日だけ母屋を借り、無理をして料理や酒をそろえたのだろう。名家は没落していたようだ。
静子からすれば、そんなことはどうでもいい話。もう10年以上も行き来していない縁遠い親戚だと思っていただけに……しかし、その法事になぜ自分だけが呼ばれるのだろう。腑ふ に落ちない。
宴会の場でとつぜん自分が養女だったと知らされ…
彼女が少女歌劇の舞台に立っていることは地元でも知られている。つまり、親戚筋の有名人を法事に出席させて、没落した名家の面目を保つということか。と考えて、一応は納得していたが、すぐに自分がここに呼ばれた本当の理由を知ることになる。法事の同席者たちから求められて、レビューの踊りや歌を披露した。みんな大盛りあがりして喜ぶ。しかし、酒が入って口が軽くなっていたようで、
「見事なもんやなぁ、あの時の赤ん坊が立派になって」
「陳平が生きとったら、きっとこの娘を家に呼び戻していただろうになぁ」
などと、言ってはならない事をしゃべる者がでてくる。うめは伯父に出席者たちの口止めを徹底するよう言い含めていたが無駄だった。不審に思った静子は、法事を終えてから従姉妹や伯母を激しく問い詰めた。その勢いに気圧けお された伯母が出生の秘密をしゃべってしまう。
母も父も弟も、家族がみんな自分と血の繫つな がらない他人だったとは……これまで信じてきたものがすべて崩れ落ちたような、言葉にできない衝撃をうけた。
大阪松竹座にて、松竹楽劇部(後のOSK)による「春のおどり」フィナーレ(写真=『松竹百年史』1932年より/PD-Japan-oldphoto/ Wikimedia
Commons )
大阪の父母とは血がつながっていないという衝撃
事実を知った日の夜は一睡もできなかった。朦朧もうろう としながら朝を迎えて、ふらふらと家を出てあてもなく街をさまよい歩いた。そして町外れの川に辿たど り着き、衝動的に川に入ってしまう。肩まで水に浸かり、川から上がった時には髪も着物もずぶ濡れ。その姿で河畔の土手を走りまわったというから、誰かに見られていたら大騒ぎになっただろう。いったい何がやりたかったのか、自分でもわからない。尋常な心理状態でなかったことは間違いない。
静子は感情の起伏が激しく、突拍子もない行動にでることが時々ある。反面、切り替えの早いサバサバ系。後悔や未練をいつまでも引きずらない。悩んでいるよりは、悩みの原因を解決するために動こうとする。この時もそうだった。
水に浸かり頭が冷えて平常心を取り戻したところで、これから自分はどうするべきか? と、考えてみた。実父の陳平は亡くなったが、実母はまだ生きているという。まずは彼女と会って話してみることにした。何故、自分を捨てたのか? 理由を本人の口から聞かないことには納得ができない。このまま何もせず大阪に帰れば、後々に絶対に後悔する。
実母は生きていると知ってその家を訪ねてみると…
静子は伯母をさらに問い詰めて、実母である鳴尾の居場所をしゃべらせた。彼女はいま引田の街中に住んでいるという。古びた小学校校舎の裏手にその家はあった。鳴尾は陳平の死後すぐに結婚したが、その夫の姓も「三谷」だった。田舎の集落に同姓は多い、これは偶然の一致だろうか。それとも、三谷家が罪滅ぼしにと縁者に嫁がせたのか?
静子が意を決して格子戸の隙間から声をかけると、中から女性が5~6歳くらいの男の子の手を引いて出てくる。
「あんたはんでしたか……」
それが鳴尾の第一声。引田はさほど広い街ではない。亀井夫妻に連れられて帰省した静子を見かけることもあったのだろう。玄関先に立っている静子を見て、すぐに自分の娘だと気がついたようである。
家の中に通されるが、お互い何を話せばいいのか。気まずい沈黙がつづく。十数年ぶりの対面で緊張していたこともあったのだろうが、実母は顔色が悪く陰気な雰囲気を漂わせる女性だった。小柄でやせ細った体がその印象を強める。この体格は静子も受け継いでいる。自分はこの人から産まれたのだと思えてきた。長い沈黙の後、鳴尾がぼそぼそとしゃべりはじめた。
小柄でやせ細った体は実母から受け継いだものだった
「わては、若い頃にあちこちで女中奉公してましてな、あんたが小さい頃にもようお守も りをしました」
などと嘘で塗り固めた話ばかりで、自分が実の母親だとは絶対に言わない。涙を見せることもなく、その表情はほとんど動かない。松竹に入ってから静子は人をよく観察するようになっていた。相手が何を考えているのか、言葉に出さない感情や意図を機敏に察して先に動く。下積み時代の楽屋で会得した技なのだが、能面のような鳴尾の表情からは、何も察することができなかった。
静子にもそういったところがある。神経質で色々と気に病むことは多いのだが、人前ではけしてそれを表にださない。他人を信用していないだけに、自分の弱みを知られたくないのだろう。「明るい」「ガサツ」「さばさばしている」などと人からよく言われる性格も、弱い自分を隠すための演技? そう思ったりもする。
鳴尾と対面してから数日後、静子は大阪に帰って仕事に復帰した。伯父や伯母は自分たちの失態をうめに知られることを恐れて、絶対にこの事を話さないようにと何度も口止めしてきたが。言われずとも話す気など毛頭ない。
静子はこれまでと変わらぬ態度で家族と接した。それを見て、うめも「約束は守られた」と安堵あんど する。お人よしのうめを騙だま すことは簡単だ。が、騙しているという負目がずっとついてまわる。それを隠して平静を装いつづけるのは苦しかった。
実母は母親だと認めず、静子は養母に知らなかったふりを
自分と会った時の鳴尾も、あの無表情の裏側で沸き起こる感情を必死で抑えていたのだろうか。そんなことを考えたりもする。しかし、彼女の本意はまったく分からない。やっぱり、自分とあの人は似ているのかもしれない。自分はあの人から産まれたのだと確信するようになっていた。
だからといって、うめに対する信頼や愛情が揺らぐことはない。自分の母親はこの人だけ。その思いは変わらない。何を考えているか分からない実母とは違って、うめは分かりやすくたっぷりの愛情を注いでくれる。この世で一番、自分のことを愛してくれている人だ。それは間違いないのだから。
静子にはこの育ての親から受け継いだものも多くある。うめは苦しみや悲しみを笑い飛ばして忘れてしまうタフで明るい女性だった。人情に厚く困った人をほってはおけないおせっかい。そんな性格だから多くの人に好かれる。
自分も他人からそんなふうに見られたい。と、憧あこが れてもいた。静子は味方と思う人々には深い愛情を注ぎ、恩をうけたら倍にして返す義理堅さがある。このあたりは、うめの影響が大きかったのだろうか。
慈しんで育ててくれた養父母の影響も大きかった
また、静子の後天的な性格には、養父の音吉から譲り受けたものも多い。米屋の商売にさっさと見切りをつけて銭湯に転業するあたり。後先考えないようなところはあるが、果敢な行動力と決断力は静子も受け継いでいる。それにくわえて、いつも忙せわ しなく動きまわるせっかちなところまでそっくり。
余談だが、この父娘については面白いエピソードがある。
昭和2年(1927)3月7日に京都府北部の丹後半島を震源とする大地震が発生した。「北丹後地震」「奥丹後地震」などと呼ばれたものだが、ちょうど研修生から松竹楽劇部に正式採用が決まった日のことで静子もよく覚えている。
研修生の卒業証書をもらって帰宅する途中、市電を降りたところで小腹が空す いてきた。そこで家の近所のうどん屋に入り、きつねうどんを注文したのだが。丼を持って食べようとした瞬間、激しい揺れに襲われた。
記録によると大阪市は震度4。東京の人なら大騒ぎするほどの揺れではないが、関西人は地震に慣れていない。また、静子たちが住む恩加島は大阪湾岸の埋立地。軟弱地盤だけに他の地域よりも揺れが激しかったのかもしれない。身の危険を感じて、食べかけのうどんが入った丼を持ったまま店の外に飛びだした。
大衆に愛される「ブギの女王・笠置シズ子」を生み出したもの
店の外に出ると、通りの先にある自宅の方角から大勢の人々が慌てて走ってくる。そのなかには音吉の姿もあった。
「お父さん」
声をかけると音吉も気がついて、
「あかん、もっと遠くに逃げにゃ。うちの銭湯の煙突が倒れたらえらいこっちゃ」
そう言って静子を促す。父の後ろについて走りだすのだが、見れば音吉も茶碗をかかえていた。御飯時だったのだろう。丼と茶碗を手にしたまま必死に走る父娘の姿を想像すると、なんだか笑えてしまう。せっかちな性格ゆえの失態は、静子はこの後もよくやらかす。天然ボケも他人からは好感をもたれるものだ。
実母から受け継いだ忍耐とポーカーフェイス、育ての親から学んだ人情の大切さや行動力。それにくわえて、天然のギャグセンス? すべて芸能界で生きてゆくのに必要なスキルだ。複雑な生い立ちも“ブギの女王・笠置シズ子”を育むためには不可欠の要素だったのかもしれない。
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名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:07)
朝ドラを見て引き込まれ、初めて笠置シヅ子さんを知りどんな歌手だったんだろうと、
YouTubeで当時の映像を見て、衝撃を受けました。
全身全霊でエネルギーを投げかけてくれる!
なんてパワーなの!すごい。
この人の歌を聞くと楽しくなり元気になる。
今でも通用する素晴らしいスターです。
ファンになりました。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:08)
還暦男ですが、
笠置さんは、小学生時代に必ず見ていた
日曜日のお昼の人気番組
「家族そろって歌合戦」の
審査員のおばちゃんのイメージしかないです。
庶民派の風体で
関西弁で優しいが、
かなり辛辣な意見を言っておられた。
こんな、すごい歌手だとは思わなかった。
多分、僕らの世代の男性は、皆、同じ様な
印象を持っていると思います。
いや、今回、改めて脚光を浴びて良かった。
多分、天国でニコニコ笑顔で喜んでると
思いますよ。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:08)
確かに私の記憶にあるのは、家族そろって歌合戦の笠置さんです。
ニコニコした、普通の大阪のおばちゃん。
でも昨日朝ドラで見たあのステージ。
あの時代にあの歌と踊りは本当に革命だったと思います。
対極的な淡谷のり子役の菊地凛子さんが「下品ね」と言っていたのが、それをよく物語っていると思います。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:09)
自分が幼かった頃、初めて現役の笠置シヅ子さんを白黒テレビの画面で見たのは、犯人となった息子に自首を説得する母さん役だった。この記事によれば潔く歌手を廃業し、新人並みのギャラで良いといって始めた俳優の仕事を自分は見ていたことになる。高度成長期に生まれた自分は、敗戦直後の日本を知らない。亡父や母のそれぞれの長兄に当たる伯父らは出征し、みな戦死した。子供の頃、夏休みに両親それぞれの実家へ遊びにいくと、その会ったことの無い伯父の遺影が仏間にあり、勲章と共に飾られていた。戦争直後の日本には戦争で肉親を失った悲しみを抱え、その上敗戦の物質不足で生きていくのは相当ハードないことだったろう。当時の日本人の心に染みた流行歌は並木路子さんの「リンゴの唄」だと思っていたが、この記事で笠置シヅ子さんの明るいブギが暗い世相の日本に受け入れられたのだ。陽気な大阪人の笠置さんの歌とダンスが当時の日本人を元気づけたのだ。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:10)
女性はつつましやかが当たり前の時代に、はじけるように歌い踊る笠置シヅ子の登場はさぞセンセーショナルな出来事だったのだろう。 今は複数人数が激しい振り付けで歌うのが当たり前になっているが、聞き手から見ると「機械的ではじけてない」から心に残るものが少ないのではないか。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:10)
大阪のおばちゃん、のイメージって笠置シヅ子さんのイメージかもしれない。明るく前向きで、飾り気のない人柄。戦後の日本の苦しい時代に生きる勇気皆に与えて。心の底から歌って踊ることが大好きだったのに、引き際を知りさっぱりと引退宣言。昭和の大スターに道を譲った。その後愚痴一つ話すこともなかったという。今を生きる日本の若者に、なにか力になることがある彼女の生きかたですね。晩年のカネヨンのテレビコマーシャル見ると、庶民派の雰囲気に満ち溢れています。素晴らしい人を紹介してくれたNHKの朝ドラに感謝いたします。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:11)
黒澤明監督「酔いどれ天使」の劇中「ジャングルブギ」を歌唱するのは笠置シズ子さん。
黒澤明さんはいわゆる歌謡曲の類は大嫌いと公言していたが、そんな発言とは裏腹に自身の作品では当時の流行歌を上手く用いて劇的効果をあげている。
この「ジャングルブギ」は黒澤明自身の作詞でもある。それに合わせて踊り狂う三船敏郎さんはまさにジャングルの野獣の如しであった。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:11)
ほんとうに軍部ってのはろくでもない規制をかけていたんですね。何メートル以上舞台で動いてはいけないってもう理屈も何もないですね。今でこそステージで歌って踊っては当たり前のようにやるけど、笠置シズ子はまさにその先駆者だったわけだ。その革命的なシーンを朝ドラで見せてくれているわけですね、すごい。軍部の規制に逆らい続けて化粧もドレス着用もやり、米兵の捕虜の前で英語の歌も披露したのが淡谷のり子。こちらをモデルにした茨田りつ子も登場しました。両者の対決が見物になりそうです。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:12)
65歳男性ですが、笠置シヅ子の若い頃は凄かったんやでと死んだ母がよく言っていましたが、既におばちゃんになっていた笠置さんしか知らなかったので正直意味が良く分かりませんでした。懐メロ番組の出演も断ってたのならそうなりますよね。それで今回この朝ドラを観てようやく解決しました。母の青春時代のスターだったんだと。
可能ならその時代に戻り生でステージを見たいです。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:13)
自分も戦後生まれですので「ブギウギ」見るまで笠置シヅ子さんの話は「東京ブギウギ」の大ヒット曲を歌った歌手くらいしか知らず子供の頃に「カネヨンCM」のおばさんか「家族そろって歌合戦」位しか覚えていませんでした。
笠置さんてこんなスケールのデカい大スターだったんですね。東京ブギウギの振付もご自身で考えたとか信じられない位の元気でパワフルなダンスに歌をYOU TUBEで見て圧倒されました。ハリウッド・ミュージカルの歌って踊るスター、フレッドアステア、ジーンケリー、ジュディガーランド並みのパフォーマンスを見せた日本人スターがいたとは感無量で大きな発見でした。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:13)
笠置さんは 家族そろって歌合戦の審査員のイメージが強かった
若き日の 鶴瓶師匠がアフロの前髪をかき上げて
笠置さんの物真似をしていた姿に
テレビの前で笑い転げてました
金曜日の放送を見て
偉大なミュージシャン、エンターテイナーであった事を 思い知りました
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:15)
毎週日曜日に「家族そろって歌合戦」をsれこそ「家族そろって」見るのが我が家の習慣でしたが、そのときにオカンが笠置シヅ子のことを「あの人は、自分の子供を早くに亡くしてるから、小さい子が歌うと点が甘なるねんで」って言ってたけど。後年になってオカンの勘違いと知った。でも、あの穏やかで優し気でどこかユーモラスある審査員ぶりは今も脳裏に残っている。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:16)
なんか違和感があるな。この記事。
スズちゃんは大和さんに憧れていて、大阪時代でも踊って歌っていた。
大和さんは踊って歌っていたのだろうか。
そういうことになっているようではあるけど。
あと、気になるのはラインダンスとかミュージカルの要素。
ラインダンスは大和さんが考案したの?
秋山さんのはジュリー・アンドリュースやウエストサイド物語が入ってないか?
本場ではどうだったんだろう。
そこがどうも気になる。
それまでの歌手は直立不動で歌ってた…というのにケチをつけるわけではないが、大和さんのモデルや宝塚はどうだったんだろう。
戦後の話をされても…
はだしのゲンに出てきてたっけ。
当時としては画期的だという認識でしたが、ブギウギを観てると逆に そうなのか?と思えるようになった。
淡谷のり子との対決のあとは美空ひばりとの対決?
江利チエミのほうが共通点多いと思ってますけど。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:16)
奥さん、カネヨンでっせ
のテレビCMに出ていた、おばちゃんが
一番印象あります。
日曜日の午後の獅子てんや、瀬戸わんやさんの
司会の素人の家族が出演した
歌合戦の審査員でした。
市川昭介さんもいました。
好きな女優の高峰秀子さんが歌う
「銀座カンカン娘」に
笠置シズ子さんも出演して、
歌ってましたね。
日曜日夜は、萩本欽一さんの
オールスター家族対抗歌合戦。
審査員長は古関裕而さん、近江俊朗さん、
水の江滝子さん、立川澄人さん、
ダン池田さんの審査員。
こちらは有名人の家族が出演
してましたね。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:17)
深夜ラジオ全盛期で中学生だった頃、東京ブギブギを聞いて、歌っている歌手が審査員のオバチャンやドラマで陽気なお母さん役の笠置さんだと分かってビックリした記憶がありました。
おっさん、おっさんこれなんぼを連呼する歌詞に笑った覚えがあります。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:17)
>ギャラのランクを自ら下げてくれと頼んだ芸能人なんて過去にいただろうか。
笠置シヅ子さんは「プロ」とは何かを骨身にしみてわかっていたのであろう。自分は歌ではプロであったが演技ではまだプロではない、と。だから新人のギャラでお願いしたい、と。この点は親の七光りに一切頼ることなく、実力で主役の座を勝ち取った趣里さんに通じるものがある。
名無し (火曜日, 14 11月 2023)
「東京ブギウギ」を耳にした進駐軍の兵士達はどう感じたんだろうな。
戦場では滅茶苦茶な攻撃を仕掛けてくる理解不能なクレイジーな民族だと思っていたが、音楽の感性的には彼等にも理解できる曲を作り上げる。「俺達とは全く異なる連中ってわけじゃないぞ」とかね。
それが後の占領政策に、たとえ微々たるものであっても、影響を及ぼしたのならすごいことだと思うな。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:19)
小さい頃は
関西ローカルのCMに出てる
オバチャンのタレントさんやと思ってたけど
中学生になって
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのアルバムに
笠置シズ子さんをリスペクトしたであろう
売り物ブギという曲があり
買い物ブギを知った
歌詞にある
・わて、ホンマに、よう言わんわ♪・
明石家さんまさんが
全国放送のテレビで
全く遠慮せず
関西弁を喋りまくる
ずーっとずーっと前なのだから凄いですよ
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:20)
私は、59歳。こっこっこっこコケッコー…
私は…迄は良く覚えている。東京ーブギウギ…
家族対抗歌合戦は、ゾウさんチーム、うさぎさんチーム?だったか(薄ら覚えですみません)獅子てんや、わんやさん司会。良く覚えています。
流石にふくよかに成っていました…朝ドラ、意外と面白いですね!
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:21)
幼い頃の美空ひばりがステージで笠置シヅ子のカバーを歌って話題になった時、笠置サイドがクレームを入れ美空ひばりが歌えなくなりました。しかし美空ひばり自身が売れ始めると、美空ひばりの母親がその仕返しとばかりに笠置シヅ子に対して反社の人間を使って歌手活動の妨害したために歌えなくなったと噂されています。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:23)
笠置さんの私の中での一番古い記憶は、民放のドラマ(題名は失念)で大阪のお好み焼き屋のオバチャン役で出てたこと。コテコテの大阪のオバチャンでハマり役だった。
それと黒澤明監督の名作『酔いどれ天使』の中でステージ出演してたことも忘れ難い。
恋人との結婚をその母親の吉本興業のゴッドマザー吉本せいに猛反対され恋人も早逝したというのは残念なことでした。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:23)
古希爺さんだから彼女は私がより少し上の世代、私等の親の時代だが、
あの時代はテレビが無かったからね、実際のステージ見た人は元気貰っただろうな
テレビが普及した頃は既にかなりのおばちゃんとして観ていた記憶
面白いオバチャンやなと思ったが何故かあのリズムはウキウキ感たっぷりだったね
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:24)
「東京ブギウギ」は新宿で夕方になると歌詞を替えて「お掃除ブギウギ」で流れています。
曲のイントロで「新宿の街をきれいにしましょう」というセリフが入ります。
誰が歌っているのか、ちょっと気になります。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:25)
笠置シヅ子さん、その名を知ったのはとんねるずのやぶさかでないという歌でした。東京ブギウギのメロディも、クリアアサヒのCMソングでしょうか。なぜか知らなくても、歌詞の通りのリズムですね。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:26)
美空ひばりが出てきた頃、
大人の声を出す気持ち悪い子供
と言ったとか言わなかったとか。
成人して再会した時は、やっと歳が追いついたわね。と称賛した。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:26)
1965年前後に笠置シヅ子さんがテレビのステージで歌われるのを見た記憶があるのですが…
初めて聞き、こんな歌が日本にあったのか!と衝撃を受けたのです。
記憶違いだったのかな。
名無し (火曜日, 14 11月 2023 10:27)
美空ひばりもミニスカでステージに立った時は、センセーショナルだったらしい。
こーゆうガッツがある人が時代を変えていくんだろうなぁー。