イギリスの首都、ロンドン。2021年の国勢調査によると、ロンドン在住者のうち4割以上が外国の出身だそうです。魅力的なその街に、密航してまで訪れる人々もいるのだとか。「ロンドンの歴史はローマ帝国が建設したロンディニアムの時代から、人を引き寄せる歴史だった」と語るのは、ロンドン郊外在住の日本人翻訳家、園部哲さん。園部さんは「車で自宅へ帰るときにいつも印象深いのが、ロンドンの緑の深さと犬を散歩させる人々の姿だった」と言っていて――。
「愛犬隣組」
マイロがいなくなった! というニュースが近所をかけめぐる。逃げ出したのが午前10時ごろ、線路沿いの道路とテムズ川へ向かう通りが交わるところでいなくなった。
マイロというのはラブラドル・リトリーバーとテリアの混血種で、ラブ・テリアと呼ばれることもある小さめの中型犬である。大きめの小型犬といったほうがいいかもしれない。全体がクリーム色で口吻(こうふん)まわりが白いかわいい犬だ。
およそ半径500メートルのいびつな円内に住んでいる犬の飼い主たちが、チャットアプリのワッツアップで「愛犬隣組」とでもいうべきネットワークを作っている。
僕が参加したのは5年ほど前で、その当時はまだ10人程度しかいなかったが、今では約50人と60匹に増えている。早速このグループが始動した。
─ 駅の向こう側には行かないでしょう。
─ マイロは1人で大通りを渡れるの?
─ 車が通っていなければ渡るガッツはあるわね。
─ それじゃあテムズ沿いも探さないと。
─ わたしたちは墓地のほうを捜してみる。
2時間も経たぬうちに、川沿いを心置きなく散歩しているマイロが見つかった。
イギリスは「犬の天国」
みんなが手分けして迷子犬を探すのはこれが初めてではない。公園に行くと皆リードをはずして犬を自由にさせるので、他意はなくとも魅力的な匂いにつられて行方不明になる犬がときどきいる。
捨て犬あがりの犬だと、何かの刺激で逃げ出すこともある。このときは町なかでの行方不明だったから、比較的簡単に見つけることができたけれど、リッチモンド・パークなどの公園とも森ともつかぬ場所でいなくなると難しい。あそこは野生の鹿もいて危険だ。
最近では、迷子になった犬をドローンで探そうとするグループが現れた。2、3機同時に飛ばすと比較的容易に見つかるらしい。
「ドローンからソーセージをぶらさげて飛ばしたら、うちの犬なんか一発で釣れる」というメンバーもいて、われわれのグループでもドローン導入を検討中である。
イギリスは犬の天国だと人はいう。「イギリスの家庭は子どもより犬を大事にする」と、スロヴァキアから出てきてオーペアをやっていた女性が言っていた。それも誇張とはいいきれない。
出張を終えてヒースロー空港へ到着し、車で自宅へ帰るときにいつも印象深いのが、ロンドンの緑の深さと犬を散歩させる人々の姿だった。
アフリカなどから帰ってくるときに、その印象は特に強いけれども、愛犬家が多いとされるパリと比較しても散歩犬の数は目立つ。ついでにパリの文句を言っておくと、あそこは犬の糞の始末をしない人が多すぎる。
歩道に放置された犬の糞で足をすべらせた回数のほうが、バナナの皮ですべった回数よりもまちがいなく多い。
犬にかぎらずペットに手厚い英国
遅まきながら、イギリス滞在通算22年目にして僕も犬を買った。人生で3匹目の犬である。
最初は雑種、2匹目が柴犬、今いるのがゴールデン・リトリーバー。イギリスではなるべく捨て犬を保護してやろうという動きがあって、僕らも最初はテムズ南岸のバタシーにある犬猫ホーム(Battersea Dogs & Cats Home)へ行ってみた。
近代的な施設の中に捨てられた犬と猫が住んでいて、新しい飼い主を待っている。捨てられたというよりは、暮らしが変化したために犬を飼いつづけることができなくなった人たちが、泣く泣く愛するペットを連れてくる例が多いらしい。
このバタシーの施設ではないけれど、最初の猫2匹は別の猫ホームから手に入れた。彼女たち(子猫姉妹)は文字通りの捨て猫だった。行ったらすぐに連れ帰ることになるのかと思っていたら違った。
そこの職員が、僕たちの家が猫を飼うのに適しているか、生活スタイルはどうか、などをまずチェックするのだった。そのための家庭訪問があって、それに合格して初めて連れて帰ることができるという順序だ。犬にかぎらず英国はペットに手厚い。
すでに1824年に動物愛護のチャリティ組織を発足させている(1680年代末に徳川綱吉が発布した「生類憐れみの令」などは世界の最先端をいっていた)。今では2家族に1家族はペットを飼っている計算になるそうだ。
バタシーの犬猫ホームでは望むリトリーバー系の犬が見つからず(すぐに引き取り手が現れる人気種だから)、ネットで探すことにした。イギリスではペットショップで犬猫を売ることは法律で禁じられている。
子犬は母犬と最短でも8週間は過ごさせないとメンタルが不安定になり、攻撃的になるというのが理由だ。攻撃的になれば嫌われて捨てられる、その悪循環を断とうとする施策である。こうなると公認ブリーダーか子犬が生まれてしまった個人から直接買うしかない。
法律で禁止されたのは2018年だけれど、僕らが犬を探していたころにはすでにその動きが浸透していた。
子犬と里子に出会う
探し求めた理想の子犬はイングランド南部の海岸の町、サウスボーンにいた。個人宅である。
ドアを開けたらころがり出てきたフワフワの子犬のかわいらしさに、わが家の3人は打ちのめされた。彼女のきょうだいはまだ4匹残っていたけれど、僕らのすぐあとに来た家族がそのなかから1匹引き取っていった。
その家には犬もたくさんいるが人間の子どもも多かった。それもひとつの人種ではなく。白人のほかにインド系とアフリカ系。「里子なんです、あの子たち」と、子犬の売り主夫婦が、キョロキョロしていた僕に言った。
サロンでお茶を飲みながらの世間話のなかで、彼らは里親履歴を語った。今預かっている子たちは4人目と5人目らしく、フルタイムで里親をしているのだった。
常々里親制度に興味があって、キャシー・グラスという作家が書くノンフィクションの里親シリーズの愛読者だった僕は、まったくの偶然で養育家庭の現場に入りこんだことでやや興奮して話しこんでしまった。
そこで金銭的なことを訊くのはためらわれたが、あとで調べてみると、養育家庭は里子1人当たり毎週400~650ポンドを受け取ることができる。年額にすると300~500万円相当になる。
これとは別に経費(食費・衣料費)として毎週230ポンド(年額200万円)が出る。その家庭では二人の里子がいたからかなりの金額にはなる。いとまごいをしようと立ちあがったとき、うちの子犬は母犬のお乳にすがって最後のミルクを飲んでいた。
これをひきはがすのか、と思うと胸が熱くなった。そこへ大きな目のインド系の少女がやってきた。里子の1人である。彼女は子犬を両手ですくいあげ、いったんきつく抱きしめてから、さあどうぞ、というふうに僕に差し出した。
この子犬は彼女に世話をしてもらってきたのだろう。少女はやさしい顔でほほえんでいる。かわいがってあげてね、と大きな目が訴えていた。
※本稿は、『異邦人のロンドン』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。
『異邦人のロンドン』(著:園部哲/集英社インターナショナル)
朝日新聞GLOBE「世界の書店から」の筆者が綴る、移住者たちのトゥルー・ストーリー。
移民、人種や階級差別、貧富の差……。さまざまな問題を抱えながら、世界中から人を集め続けるロンドンの実像を鮮やかに描く。
出典=『異邦人のロンドン』(著:園部哲/集英社インターナショナル)
園部哲翻訳家
1956年、福島県生まれ。79年、一橋大学法学部卒業、三井物産入社。2005年同社退職、翻訳者に。訳書に『北極大異変』(集英社インターナショナル)、『北朝鮮14号管理所からの脱出』『アジア再興』『アメリカの汚名』『ニュルンベルク合流』『エリ・ヴィーゼルの教室から』『第三帝国を旅した人々』『上海フリータクシー』(以上、白水社)、『密閉国家に生きる』『人生に聴診器をあてる』(共に中央公論新社)。朝日新聞GLOBE連載「世界の書店から」英国担当。ロンドン郊外在住。
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