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”はじめてのおつかい”のようなお話し【青空と向日葵の会】

【”はじめてのおつかい”のようなお話し】
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雨つづきだった8月半ば、夏の陽ざしが戻ってきた。
晴れる日を待ちわびていた息子が、
「千春を連れて、バスで図書館へ行ってくる」と言う。
小学二年の息子は、一学期に生活科の授業で、
図書館行きは経験済みなのだ。
本を借りたいというよりは、一つ違いの妹に、
”いいとこ”を見せたいのが本音らしい。
「バス代は70円、100円玉はあかん。
 ぼくらみたいな子供が両替してたら、他の人が迷惑。
 帰りの分はポケットに入れて、行きの分だけはしっかり握ってる。
 わかった?」
普段は必ず文句をつける妹もいやに従順だ。
10時過ぎ、晴れやかな「行ってきます」を残して、
息子と妹は、図書館へ出発した。
本を借りてくるだけなら、1時間で十分だ。
それなのに、11時半を過ぎても戻ってこない。
心配になり始めた時、息子が目を真っ赤にし、
息を切らせて戻ってきた。
「お母さん、千円ちょうだい。ごめんなさい、
 ぼく、タクシーで帰ってきたんだ。
 バスを間違えて……待ってもらってるから、
 早く千円ちょうだい」
「タクシーですって?!どういうこと?
 ちゃんと説明して!千春は?」
背中に冷たいものが走る

も答えず、私から千円札をうばうように、 息子は飛び出していった。

後を追うと、娘がべそをかきながら帰ってきた。

すれ違いざまに、息子は慰めるように妹の両肩に手を置くと、 ひと言ふた言話しかけ、全力疾走でタクシーを目指した。

息子にまかせよう、私は行かないほうがいい。

そんな思いが私の足をとめた。

私は娘の手を取り、黙ってゆっくりと家に向かった。

そして、走って戻ってきた息子と、同時に玄関に入った。

息子の目には、今にもあふれんばかりに、 涙があふれている。

それを私や妹に見せまいと、サッと手でぬぐい、 息子はぽつりぽつりと話し出した。

バスに間違えて乗り、途中で違う方向に曲がってしまったこと…。 まったく知らない道、まったく知らない景色……。 泣き出す妹……。やっと知っている駅前に着いたこと…。 タクシーの運転手さんにすべてを説明して、 どうにか乗せてもらったこと……。

「電話をかける」「近くの人にたずねる」 そんなことすら思い浮かばないほど、 息子の胸は不安でいっぱいだったのだろう。

そして、悲しいほどの使命感。 とにかく、妹を連れて帰らなければ……と。

息子の目には、旅行帰りに乗り覚えのある、 タクシー乗り場が光り輝いて見えたのかもしれない。

私にすがってすすり泣く娘の横で、 息子は呪文のように繰り返す。

「ごめんね、千春……。ごめんね、お母さん。  ぼく…ぼく……、ごめんね、ごめんね」

自分だって、私の胸で泣きたいだろうに。

抱き締めてやりたい……。 でもそうすると、確実に息子の涙はこぼれ落ちる。

今まで堪えに堪えた涙ではないか。

今、落ちてはいけない……。

私は電卓を取り出すと、 図書館から借りてきた本の値段を読み上げた。

「800円、560円、480円…」

値段もデタラメなら、電卓を押す指もデタラメだ。

私はとびきりの笑顔を作った。

「よっしゃ!タクシー代引いても、買うより1,500円の儲け、  大丈夫、損してへん!」

ようやく息子と娘に笑顔が戻った。

その時のタクシーの運転手さん、 本当にありがとうございました。

参考本:らくだのあしあと NTT出版 「損してへん!」(T.H.さん)