
何も答えず、私から千円札をうばうように、 息子は飛び出していった。
後を追うと、娘がべそをかきながら帰ってきた。
すれ違いざまに、息子は慰めるように妹の両肩に手を置くと、 ひと言ふた言話しかけ、全力疾走でタクシーを目指した。
息子にまかせよう、私は行かないほうがいい。
そんな思いが私の足をとめた。
私は娘の手を取り、黙ってゆっくりと家に向かった。
そして、走って戻ってきた息子と、同時に玄関に入った。
息子の目には、今にもあふれんばかりに、 涙があふれている。
それを私や妹に見せまいと、サッと手でぬぐい、 息子はぽつりぽつりと話し出した。
バスに間違えて乗り、途中で違う方向に曲がってしまったこと…。 まったく知らない道、まったく知らない景色……。 泣き出す妹……。やっと知っている駅前に着いたこと…。 タクシーの運転手さんにすべてを説明して、 どうにか乗せてもらったこと……。
「電話をかける」「近くの人にたずねる」 そんなことすら思い浮かばないほど、 息子の胸は不安でいっぱいだったのだろう。
そして、悲しいほどの使命感。 とにかく、妹を連れて帰らなければ……と。
息子の目には、旅行帰りに乗り覚えのある、 タクシー乗り場が光り輝いて見えたのかもしれない。
私にすがってすすり泣く娘の横で、 息子は呪文のように繰り返す。
「ごめんね、千春……。ごめんね、お母さん。 ぼく…ぼく……、ごめんね、ごめんね」
自分だって、私の胸で泣きたいだろうに。
抱き締めてやりたい……。 でもそうすると、確実に息子の涙はこぼれ落ちる。
今まで堪えに堪えた涙ではないか。
今、落ちてはいけない……。
私は電卓を取り出すと、 図書館から借りてきた本の値段を読み上げた。
「800円、560円、480円…」
値段もデタラメなら、電卓を押す指もデタラメだ。
私はとびきりの笑顔を作った。
「よっしゃ!タクシー代引いても、買うより1,500円の儲け、 大丈夫、損してへん!」
ようやく息子と娘に笑顔が戻った。
その時のタクシーの運転手さん、 本当にありがとうございました。
参考本:らくだのあしあと NTT出版 「損してへん!」(T.H.さん)

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