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日本史探険 すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上)

関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(新暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)を主戦場として展開された野戦。「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利し、家康は1603年に江戸幕府を開く。決戦前の両軍の駆け引きから勝敗を分けた要因まで3回にわたって解説する。

秀吉の遺言

慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は京都の醍醐寺三宝院裏山で花見の宴を開いた。 北政所や淀殿など秀吉の嫡妻・側室をはじめ、諸大名の妻ら1300人もの女性を招いた盛大な催しだった。

ところが、この頃から秀吉の体調は悪化する。断定はできないが、末期の胃がんではなかったかと推察される。 秀吉は、側近の五奉行(石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以、長束正家)が政務を分担し、重要な案件は有力大名の五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)が合議して決める仕組みを整えた(近年、明確な五奉行・五大老制度はなかったという説も登場している)。

秀吉の「醍醐の花見」として知られる、京都市伏見区の醍醐寺。真言宗醍醐派の総本山であり、世界文化遺産に登録されている。写真は桜満開の三宝院 PIXTA

醍醐の花見から2カ月後、儀式の後に倒れた秀吉は、十一カ条の遺言書を五奉行・五大老に与えると、全員から起請文を集めた。

遺言は次のような内容だった。

「家康は律儀な人柄であることから昵懇(じっこん)にし、わが子の秀頼を家康の孫婿(千姫の婿)とした。だから秀頼を盛り立ててほしい。 私の死後、家康は伏見城で政務を執るように。前田利家は幼友達で律儀な人柄であることを知っており、秀頼の傅役(もりやく=教育係)とする。秀頼と共に大坂城に入って補佐してほしい。宇喜多秀家よ、お前は私が育てたのだから秀頼を頼む。上杉景勝と毛利輝元も律儀な人柄なので、秀頼を頼む。五大老は法度に背かず、仲たがいするな。不届きな者がいれば斬りなさい。五大老と五奉行は、今後はどんなことでも家康と利家に諮り、その判断を仰ぐように」

10人への遺言といっても、家康と利家に向けたものが多く、2人の権限が大きいことが分かる。

大阪市旭区の大宮神社で2020年5月に発見された豊臣秀吉とみられる江戸時代の木像。等身大で秀吉の木像の中では全国最大という 時事

6月、いよいよ秀吉は重篤な状態となる。

死期を悟った秀吉は大名や公家に遺品や金銭を分与すると、改めて秀頼への忠誠を誓わせた。そして8月18日、伏見城で逝去する。

その直前、秀吉は再び五大老に遺書を与えていた。原文を意訳して紹介する。

「五大老たちよ、返す返すも秀頼のことを頼みます。詳しいことは五奉行に申し渡してあります。名残り惜しく思う。どうか秀頼がうまくやっていけるよう、この書付を5人の大老に送ります。このほかは何も思い残すことはありません」

このように、天下人たる秀吉がわが子の安泰を哀願する遺言を見ると、哀れみとともに権力に執着するおぞましさを感じてしまう。

秀吉が死去すると五奉行・五大老の間で起請文が交わされた。そして翌年正月、秀吉の遺言に従い、秀頼が前田利家と共に伏見城から大坂城に移った。

三成暗殺計画

一方、伏見城に残って政務を執る家康は、伊達政宗の娘を六男忠輝の妻に迎えたり、福島正則の子・忠勝に養女を輿入れさせたり、蜂須賀家政とも縁組みを結ぶようになった。

これは、秀吉が生前まとめた取り決めに反する行為であり、他の五奉行・四大老に詰問された。家康も己の非を認めたものの、縁組みを解消することはなかった。

家康が「政治は五奉行と五大老の合議で行う」という約束を破り、勝手に大名たちと私的な縁組みを行ったのは、豊臣政権内の武功派(福島正則、加藤清正ら)と吏僚派(石田三成、増田長盛ら)の対立をあおり、武功派を味方につけて吏僚派を武力で倒し、政権奪取を目論んだともいわれる。

しかし近年、まったく別の説が登場している。秀吉は生前、秀頼が成人した暁には実権を戻すとの約束のもと、家康に天下人の地位を譲ったというものだ。にもかかわらず秀吉の死後、毛利輝元や石田三成が「政治は五奉行・五大老の合議で行うべきだ」と言い始めたので、驚いた家康が大名との婚姻関係を結ぶなど権力の強化を図ったという説である。

勝手な行為を問い詰められた家康は、五奉行・四大老に謝罪したといわれるが、それは誤りだと論じる研究者もいる。

詰問された家康は、「誰が私の忠節を疑うような讒言(ざんげん)をしたのか。自分を政権から除くことは秀吉の遺言に背くものだ」と激怒し、多くの武将を集め五奉行や他の大老らと戦うそぶりを見せたため、結局、彼らのほうが家康に屈服することになったというのだ。これは通説とは真逆の解釈である。

ともあれ、この事件から2カ月後、秀頼の傅役である前田利家が病没し、政権内の権力バランスが大きく崩れた。巷説(こうせつ)では、見舞いに来た家康を利家は刺殺しようとし、息子の利長に制されたという。

その日の夜、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、浅野幸長の武功派七将が、大坂で石田三成を襲撃した。 三成は朝鮮出兵での軍目付を統轄しており、その報告により武功派大名たちが秀吉から叱責や処分を受けたので、これを恨んでの行動とみられる。

襲撃を受けた三成は、機転を利かせて家康の屋敷に逃げ込んだといわれてきたが、近年、伏見城内の自分の屋敷に退避していたことが分かった。また、三成は襲撃されたのではなく、 七将たちが訴訟を起こし、三成に切腹を迫ったのだという説もある。

いずれにせよ、この騒動は家康の仲介により、三成が五奉行を退き居城の佐和山(滋賀県彦根市)に蟄居することで決着をみた。

石田三成像。三成は関ヶ原の戦いで敗れ、捕らえられ京都で処刑されたが、1978年1月、子孫にあたる石田多加幸さんが墓所から発掘された頭蓋骨に基づき、377年ぶりに“復顔”した 共同

家康暗殺計画

こうして大老の前田利家が死に、奉行の石田三成が表舞台から退場すると、がぜん家康の政権内での力が膨らんでいった。

三成が佐和山城 に蟄居したわずか3日後、家康は伏見の向島にあった屋敷から大坂城西の丸に移った。これを知った公家や僧侶たちは、家康が天下人になったとうわさした。

ところが、世の中から天下人と認められるようになっていた家康に、冷や水を浴びせる事件が起こった。慶長4年(1599年)9月の家康暗殺計画である。

これは前田利長、浅野長政、大野治長らが家康の暗殺を企んだというもの。計画の詳細はよく分からないが、家康は彼らに嫌疑をかけ、前田利長を討つべく加賀征伐をもくろんだ。

前田利長は驚き、母の芳春院(まつ) を人質として江戸に差し出した。浅野長政も息子に家督を譲り、徳川が支配する武蔵国の府中に隠居。大野治長も罰せられ、下総国の結城秀康(家康の次男)に預けられた。この前後、加藤清正や細川忠興なども家康に服すようになった。

慶長5年(1600年)正月、大坂城本丸の秀頼のもとに年賀のあいさつに来た大名たちは、そのまま西の丸にも赴き、家康にもあいさつをした。翌月には、家康単独の名をもって大名たちに領知宛行状を出し、新地を与えている。まさに天下人といってよいふるまいだ。

“直江状”が家康の軍事行動を誘発

さらに家康は会津の上杉景勝に対し、大坂への召喚命令を出した。

上杉謙信の養子にあたる景勝は、謙信の死後、上杉の家督を相続。秀吉が亡くなる直前、会津120万石に加増移封されたばかりで、国元に戻って領国経営に専念していた。

ところが、上杉の旧領・越後に移った堀秀治が家康に対し、「景勝に謀反の嫌疑あり」と告訴したのだ。

家康はその訴えを取り上げ、家臣の伊奈昭綱を会津に遣わし、景勝本人に大坂へ来るよう催促した。

だが、領内整備に忙しい景勝はその求めに応じない。すると家康は、外交僧の西笑承兌(さいしょう・じょうたい=秀吉・家康のブレーンとして寺社政策・外交政策に辣腕を発揮した)に、「謀心がないなら、それを起請文にしたため無実を誓い、直ちに上坂せよ」と記した一書を作らせ、これを持たせた問罪使を再び会津に送りつけたのだ。

すると、景勝の重臣・直江兼続(なおえ・かねつぐ)がその書状への返書をしたためた。俗に直江状と呼ばれる十八カ条の書簡には、堀秀治に対する非難、上杉氏の立場としての数々の弁明、さらに「そちらが景勝が上洛できないように仕向けているではないか」と家康に対する批判まで理路整然と書き連ねられ、 上坂を拒否したものになっていた。

この書状が結果的に家康の軍事行動を誘発し、会津征伐へ発展することになる。ただ、この直江状は写ししか残っていないことから、「偽書である」とか、「脚色はあるが実在した」など昔から真贋論争があり、いまも議論は続いている。

米沢城址・松が岬公園(山形県米沢市)に立つ上杉景勝(左)・直江兼続の主従像(天地人像) PIXTA

小山評定

家康は、上坂をしぶる上杉氏の態度を豊臣政権に対する謀反とみなし、慶長5年(1600年)6月、約5万6000(人数は諸説あり)の大軍を引き連れ、上杉景勝を討つため大坂から会津へ向かった。

家康は大坂城に諸将を招集し、会津攻撃に関する会議を開いて部署を定め、上杉領近隣に領地を持つ最上義光や伊達政宗を国元へ戻した。そして大坂城から伏見城へ入ると、軍勢を整えて出立したのである。

この会津遠征は、家康が勝手に仲間を集めて強引に実行されたといわれてきたが、多くの研究者は、会津遠征は豊臣政権の公的な行動だったとする。

なぜなら家康は、秀頼から正式な許可を得ており、軍事指揮権など全権を与えられていたからだ。

これに対して従来通り、会津征伐は家康の強行だったと考える研究者もいる。

家康は7月21日に江戸を出立し、会津へ向け進軍した。だが24日、下野国小山(栃木県小山市)在陣中に石田三成と大谷吉継の挙兵を知ることになる。

翌日、家康は諸将を集めて軍議を開いた。小山評定である。会議の場で家康は、「どちらに味方するかは自由である」と各自に進退を任せた。

辺りは水を打ったように静まり返った。人質を大坂城に残してきた者も多く、家康が勝つ保証もないので躊躇(ちゅうちょ)したのだ。

静寂を破って福島正則が「私は徳川殿に味方する」と公言、続いて山内一豊が「居城の掛川城を家康に提供する」と申し出たことにより、諸大名は家康に従うことを約束、反転して西上していった。

ただ、近年はこの小山評定はなかったという説や福島正則は小山にいなかったという説も登場している。

家康は江戸に戻ったものの、西上せずにひと月以上も江戸にとどまり続けた。これには深い理由があった。そのあたりは次回詳しく説明する。

【参考文献】

  • 『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(高橋陽介・著、河出書房新社)
  • 『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(白峰旬・著、平凡社)
  • 『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(本多隆成・著、中公新書)
  • 『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治・著、吉川弘文館)

バナー写真:石田三成が本陣を構えた笹尾山の展望台から家康の陣地を見渡す(岐阜県関ケ原町) 時事

河合 敦KAWAI Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1965年東京生まれ。多摩大学客員教授。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。早稲田大学でも非常勤講師を務める。歴史研究家、歴史作家として精力的に執筆活動を行い、これまで200冊以上の著書を出版。近著に『日本史の裏側』(扶桑社新書)『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)などがある。

日本史探険 わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中)

関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(新暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として展開された野戦。「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利し、家康は1603年に江戸幕府を開く。連載「中」では、予想外の惨敗に終わった三成の誤算、東軍の勝因について解説する。

賊に転落した家康

徳川家康は、上洛を拒む会津の上杉景勝の態度を謀反とみなし、慶長5年(1600年)6月、約5万7000(数は諸説あり)の大軍を引き連れ会津への遠征を開始した。

だが7月24日、下野国小山(栃木県小山市)在陣中に、石田三成と大谷吉継の挙兵を知ったのである。

そこで翌日、会津征伐を中止して味方の諸将を西上させた。自身はいったん江戸に戻り、すぐにその後を追いかけるつもりだったようだ。

だが、家康は江戸から動けなくなってしまう。状況が大きく変わったからだ。

西国の大大名である毛利輝元が、いきなり大坂城に入り込んで西軍(反家康派)の盟主となり、豊臣秀頼を手中にしたうえ、秀頼の母・淀殿や三奉行(前田玄以、長束正家、増田長盛)を味方に引き入れたのである。五大老の一人、宇喜多秀家も西軍方についてしまった。

豊臣政権は、三奉行の名をもって家康の非道を「内府違いの条々」という弾劾状にまとめ、諸大名に配布した。公的性格をにおわせた同書には、理路整然と家康の暴虐ぶりが記され、秀頼に対する忠義が説かれていた。この書状を読む限り、正義は西軍にあった。つまり家康は、賊に転落してしまったのである。

そうなると家康は、自分に味方して先発した豊臣系大名らが、本当に徳川方(東軍)として働くか疑心暗鬼になってきた。それに、敵対する会津の上杉景勝に加え、去就が読めない常陸の佐竹義宣などが徳川領に攻め入ってくる可能性も出てきた。もちろん、多数派工作も必要になった。まさに家康にとっては大きな危機だったのだ。

秀忠軍は間に合わず

だが、結果的に家康の心配は杞憂(きゆう)に終わった。味方(東軍)の先鋒隊はすさまじい勢いで進撃し、西軍方の岐阜城を一日で陥落させたのである。逆にこのままでは、徳川なしで西軍を倒してしまう状況になった。

かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三の居城でもあった岐阜城(岐阜市)。現在の城は1955年に復興されたもの PIXTA

驚いた家康は、先鋒の諸将に対し、「私が出向くまで、何事も軍監の井伊直政の指図に従ってほしい」と彼らの勝手な行動を制し、急きょ9月1日に江戸から出立した。率いる軍勢は3万2000(諸説あり)。東海道を迅速に進み、9日に岡崎城、11日には清須城に入った。ただ、ここで家康は風邪を理由に進軍を止めた。東山道(中山道)から西進するはずの徳川秀忠軍が遅れていることを知ったからだろう。

家康が率いる兵は小身の寄せ集めで、万石以上の譜代や精鋭は息子の秀忠が率いていた。つまり、秀忠軍が徳川の主力だったのだ。秀忠軍の使命は、真田昌幸の上田城など信濃一帯を制圧すること。その上で後日、家康軍と合流する手はずになっていた。

しかし、いま述べた事情により、家康は秀忠に即座の西上を求めた。ところが、秀忠への使者の到着が洪水などのために遅れ、さらに秀忠軍が上田城攻めに手を焼いたことで、もはや天下分け目の合戦に間に合わないことが確実になった。

とはいえ、このまま清須城に居続ければ、味方の先鋒隊は、大垣城にこもる西軍主力軍に勝手に攻めかかりそうだった。このため岐阜城に入った家康は14日、大垣城近くの赤坂に着陣し、先鋒の諸将と合流した。

徳川家康像(徳川家十六善神肖像図「家康公」、永嶌孟斎・作)国立国会図書館デジタルコレクション

家康方についた福島正則

翌日は、いよいよ天下分け目の関ヶ原合戦である。

戦いの詳しい経緯や様子は一次史料(当時の手紙や日記)からは確認できない。

合戦全体をまとめて描いているのは、すべて後世の記録(二次史料)なのだ。ただ、『関ヶ原始末記』は、酒井忠勝(若狭小浜城主、のちの江戸幕府老中・大老)の体験を明暦2年(1656年)に儒者の林羅山・鵞峰父子がまとめたもので、史料として比較的良質なのでこれをもとに記していく。

石田三成は当初、清須城と岐阜城を中心に、犬山城や竹ヶ鼻城を加えた防衛線を考えていたとされる。清須城主の福島正則は秀吉子飼いの武将なので、西軍方につくと三成は考えていたようだ。

ところが、その正則が逆に東軍先鋒の主力として池田輝政と共に岐阜城を攻め立てたのである。しかも、城主の織田秀信(信長の嫡孫)はあっけなく城を明け渡してしまった。結果、岐阜城だけでなく、犬山城と竹ヶ鼻城も陥落した。

これは大誤算だった。作戦の変更を迫られた三成は、今度は大垣城にこもって東軍を引き付け、その間に西軍の総大将である毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる方針をとったとされる。近年、関ヶ原の近くに巨大な城(玉城)の存在が判明し、三成はこの城に輝元と秀頼を入れる予定だったという新説が出ている。

三成は「大軍を引き連れた輝元が秀頼と共に来臨すれば、東軍の豊臣系大名は戦意を喪失する」と判断したのだろう。

こうして三成は9月8日、佐和山城から大垣城へ入った。同時に、十数キロ後方の関ヶ原周辺に陣地を構築し、諸大名を分置した。今述べたように輝元と秀頼もここに陣を敷いてもらう予定だったらしい。

1535年に築城され、関ヶ原の戦いで西軍・石田三成の本拠地となった大垣城(岐阜県大垣市)。1936年に国宝に指定されたが、45年の戦火で焼失。59年に復元された 時事

一方、家康としては籠城戦は避けたい。城攻めで日を送れば、大坂城から輝元や秀頼がやって来るからだ。そこで、秘策を打ったという。

諸将を集めて軍議を開き、「三成の本拠地の佐和山城を落とし、一気に大坂城へ攻め寄せる」と決めたのである。この方針は、西軍の間諜に漏れ、三成の知るところとなった。もちろんそれが家康の狙いだった。

焦った三成は、急きょ、関ヶ原一帯に防衛ラインを敷いて、東軍の進軍を食い止めることにした。関ヶ原の地名の「関」は、関所に由来する。かつてここに関所があったのだ。関ヶ原一帯は交通の要衝地で、ここを押さえてしまえば西へ進めない地形になっていた。

2020年10月にオープンした「岐阜関ケ原古戦場記念館」の展望室からは、合戦の舞台を一望できる 

井伊直政の“抜け駆け”

かくして9月14日夜、豪雨の中、闇に紛れて三成率いる西軍は大垣城からひそかに離脱する。三成は松明を焚せず、馬の口をしばって音を消させ、東軍に気づかれないよう迂回して関ヶ原へ向かった。大垣城から西軍が離脱したという確報が家康の耳に入ったのは、翌日の午前2時頃だったという。

そこで家康も、全軍に進撃を命じた。こうして東軍も雨の中、泥まみれになって関ヶ原へ急いだ。

戦いの火ぶたを切ったのは、徳川四天王の一人とされた東軍の井伊直政だった。天正3年(1575年)頃に家康に臣従した新参者だが、華々しい戦功を上げ大身に成り上がった。ただ、これは軍令違反だった。

合戦での先手一番は、福島正則と決められていた。さらに藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政といった豊臣系大名が最前列に陣を敷いていた。そのグループに唯一加わっていた徳川譜代が直政だったのだ。

東西両軍が布陣を終えたのは15日の午前6時から7時の間だったとされる。雨はやんだが霧が立ちこめていた。両軍は、対陣したままにらみ合っている。そんななか、先手の福島正則隊の脇を50騎ほどの騎馬隊がすり抜けようとした。井伊直政勢だった。

見とがめた福島隊の可児才蔵が「ここから先は通すわけにはいかない」と怒鳴った。すると直政は「こちらは松平忠吉(家康の四男)様。今日が初陣なので、戦を知っていただくため物見に来た」と答え、そのまま先へ進むと、対峙する西軍の宇喜多秀家(1万7000)隊へ突入したのである。

明らかに抜け駆けだった。

にもかかわらず、戦いの後、福島正則から苦情は出なかった。

直政は3000の兵を連れていたが、本隊は置いたまま物見と称し、たった50騎でやって来た。このため正則は、濃い霧のため偶発的に敵と遭遇し、やむを得ず戦闘行為に至ったと判断したのかもしれない。なお近年、直政と忠吉が一番槍を入れたという説に疑問を唱える研究者もいるが、今回は通説に従っておく。

ともかく、家康の子と徳川譜代の臣が合戦の口火を切ったので、家康は上機嫌だったという。

家康に内通していた毛利方

こうして東西両軍の全面対決が始まったが、家康の政治工作が功を奏し、西軍大名の多くが陣地で傍観を決め込み、西軍8万(諸説あり)のうち戦ったのは半数以下だった。

南宮山に布陣した毛利軍1万6000も傍観した部隊の一つだ。毛利輝元は西軍の総大将だったが、当日は大坂城におり、毛利軍を率いていたのは輝元の養子秀元だった。

実は秀元は戦おうとしたのだが、先陣の吉川広家(輝元の従弟)がいくら催促しても動かなかったのである。当然、石田三成からは「戦いに加わってほしい」という催促がたびたび届く。閉口した秀元は、「いま兵に飯を食わせている最中だ」と三成の使者に苦しい弁明をしたという。もちろん後世の作り話だと思うが……。

毛利軍が動かなかったので、近くに陣を敷いた長束正家や長宗部盛親も疑心暗鬼となって戦いに参加しなかった。結果、南宮山にいた3万以上の兵は用をなさなかった。

広家はすでに家康に内通していたのだ。

これより前、広家は三成が輝元を大将に担いで挙兵することを知った。そこで輝元に同意しないよう説得しようとしたが、輝元は大坂へ入ってしまった。

そこで広家は、親しい黒田長政を通じて家康に「これは毛利の重臣・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の計略であり、輝元本人は一切関知していない」と釈明した。家康はその言葉を信じた。

以後、広家は徳川方とひそかに連絡を取りつつ、西軍として行動し、関ヶ原の戦いの前日になって、家康に内通している事実を主将の秀元や毛利家の重臣たちに打ち明けたとされる。 

相談の結果、輝元の許可なく家康方に人質を出し、徳川方からは「毛利氏の忠節が明らかになれば本領を安堵する」という血判付きの起請文を獲得することに成功。だから広家は、戦場での傍観という行動で家康に忠節を示したのだ。

ただ、戦っているのは半数以下だったが、西軍はすさまじい戦いぶりを見せた。このため、最初の数時間は膠着状態になった。これには家康も焦ったことだろう。もし傍観している毛利などの西軍諸将が、この形勢を見て東軍に攻撃を仕掛けてきたらアウトである。

そこで裏切りを約束していたのに動かない松尾山の小早川秀秋に対し、気を揉んだ家康は「せがれ(秀秋)めに計られた(だまされた)か」(『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』)と怒り、松尾山に鉄砲を撃ち込むよう命じた。俗にいう問鉄砲(といてっぽう)である。

小早川秀秋像(『肖像集』「権中納言秀秋」、栗原信充・画)国立国会図書館デジタルコレクション

去就を決めかねていた秀秋だったが、問鉄砲によって松尾山を駆け下り、眼下にいる味方・大谷吉継の陣へ攻め入った。これにつられて赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治も味方に攻めかかり、大谷隊が壊滅したのを機に、西軍は瓦解したのである。

ただ、近年は小早川秀秋は最初から東軍として戦っていたという新説が登場、その可否を巡って論争になっている。

いずれにせよ、わずか数時間で「天下分け目」の関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったのである。

関ヶ原の戦いには多くの火縄銃が投入され、名将も銃撃により死傷した。写真は2001年4月に関ケ原町の民家で見つかった全長2.3mの火縄銃を復元したもの 

【参考文献】

  • 『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(高橋陽介・著、河出書房新社)
  • 『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(白峰旬・著、平凡社)
  • 『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(本多隆成・著、中公新書)
  • 『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治・著、吉川弘文館)

バナー写真:渡辺美術館(鳥取市)所蔵の関ケ原合戦図屏風(江戸時代、右隻)。合戦当日の様子を戦場の南方面から描写したもの。人物・甲冑などが丁寧に表現されており、右隻には、開戦間もないころの両軍の激突の様子などが描かれている。

日本史探険 親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下)

関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場として展開された野戦。「天下分け目の戦い」と呼ばれるように、徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利し、家康は1603年に江戸幕府を開く。最終回では、親子兄弟が東西に分かれて戦った大名家や三成の最期について紹介する。

お家の存亡を懸けた戦い

慶長5年(1600)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは、わずか数時間で徳川家康(東軍)の勝利となった。ただ、当初から家康が勝つと決まっていたわけではない。だから各大名にとっては、東西いずれに味方するかは、お家の存亡を懸けた一大事であった。

ゆえに、どの家中でも多かれ少なかれ、真剣な話し合いがもたれたはず。負けるほうにつけば、取り返しがつかないことになる。このため、己の信じるところを譲らず、一族や家臣が対立・分裂する事態が頻発した。

有名な逸話としては、真田一族の「犬伏の別れ」がある。

信州上田城主・真田昌幸は家康の会津征伐に従軍していたが、下野国犬伏(栃木県佐野市)で石田三成の密書を受け取り勧誘を受けると、長男の信幸(信之)と次男の信繁(幸村)と話し合った。

昌幸は、三成とは同じ宇田頼忠の娘を妻とする義兄弟であり、信繁は三成に加担した大谷吉継の娘を妻としていた。一方、信幸の妻は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)だった。このため昌幸と信繁は西軍に、信幸は東軍につくことに決め、どちらが負けても真田家を残す道を選んだと思われる。

和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院・善名称院。関ヶ原の戦い後、蟄居となった真田昌幸・信繁の草庵跡と伝えられ(諸説あり)、真田庵とも呼ばれる PIXTA

なお、東軍に味方して本領は安堵されたものの、家の存続のためか、怪しい動きをした大名もいる。たとえば加賀の前田家である。

関ヶ原の合戦前に前田利家が亡くなると、跡継ぎの利長は、家康の威光を恐れて母の芳春院(まつ)を江戸に人質に差し出した。関ヶ原合戦でも最初から徳川(東軍)への加担を表明している。

しかし、利長の弟で能登七尾城主(22万5000石)・利政は、東軍から西軍に寝返ったのである。当初、利政は兄に従い山口正弘(西軍)の大聖寺城を攻撃していたが、利長が家康から美濃出兵を命じられると、同行せずに帰国してしまう。

三成の密書を受け取り寝返ったとか、妻が大坂で西軍の人質になったので東軍に加担できなかったなど諸説あるが、おそらく西軍勝利の場合に備えて、最悪でも能登前田家(分家)は残るよう、前田一族で話し合って別行動をとった可能性がある。

案の定、戦後利政は改易されたが、利長の懸命な謝罪で死一等を減ぜられ、京都で余生を送った。また、利政の領地はすべて兄の利長に与えられたので、前田一族としては領地は減らなかった。さらに利長は利政の子・直之に1万1000石を与え、以後、この家は前田土佐守家として代々前田本家を支えていくことになった。

志摩国を本拠とする九鬼水軍で有名な九鬼氏は、父の嘉隆が西軍に加担して鳥羽城にこもった。これを知った子の守隆は、家康の許しを得て鳥羽城を包囲。父子で東西に分かれて争う状況になった。ただ、真剣に戦った形跡はなく、だらだらと日を送り、関ヶ原の戦いが家康の勝利に終わると嘉隆は城から行方をくらまし、やがて切腹して果てた。

一方、守隆は関ヶ原合戦前から積極的に西軍方の周辺諸将を攻撃し、家康の心証を良くした。結果、嘉隆が潔く責任をとったことや守隆の戦功が考慮され、論功行賞で九鬼氏は2万石を加増され5万5000石の大名となったのである。

最後まで志を失わなかった三成

さて、関ヶ原の戦いで西軍が崩れると、大将の石田三成は伊吹山方面に逃亡し、やがて家臣と別れて単独で動いた。だが結局、徹底的な残党狩りによって友人でもあった田中吉政に捕縛されてしまい、家康のいる大津へ連行された。

石田三成(石田治部少輔三成)像(『関ヶ原合戦絵巻』より)国立国会図書館デジタルコレクション

後世の編纂資料だが、江戸中期の『常山紀談』によると、三成の監視役であった本多正純が「年若く分別がつかない秀頼様を導いて太平の世をつくるべきなのに、由なき戦などを起こしたから、あなたはこんな恥辱を受けることになったのだ」となじったところ、三成は「徳川殿を滅ぼすことがよかれと考えて戦を起こしたが、裏切り者たちによって勝つべき戦いに負けてしまった。運も尽きれば源義経さえも殺されてしまうもの。私が敗れたのは天命であろう」と悪びれずに答えたという。

正純は「智将は人情を測り、時勢を知るという。が、あなたは武将たちが同心しないのも知らずに、軽々しく戦を起こし、しかも敗れたあと自害もせずに捕縛された。いったいどういうことか」と述べた。

これを聞いた三成は怒り、「おまえは武略というものを全く知らない。腹を切って他人に殺されないようにするのは、葉武者(はむしゃ=取るに足らない武者)の所業である。石橋山の戦いで敗れた頼朝も、木のうろに隠れていた。そんな頼朝の気持ちなどおまえは想像すらできぬはず。大将の道を語っても、おまえには理解できない。もう話すことはない」と言うと、以後は二度と言葉を発しなかったという。

ただ、家康と対面した際、「こうしたことは昔からあるのだから、決して恥じる必要はない」とねぎらいの言葉をかけられ、機嫌を直した三成は「天運のしからしむところ。早く首を落とせ」と語った。これを聞いた家康は「大将としての器量である」とたたえたとされる。

なお、三成は本陣の門外にさらされたが、合戦中に味方へ攻めかかった西軍の小早川秀秋は、興味本意でそれを見に行ったという。すると三成は秀秋に向かい、「約束を違えて義を捨て、人を欺いて裏切ったことは武将の恥辱、末の世まで語り伝えて笑うべきだ」とののしったので、秀秋は返す言葉もなく、すごすごと去って行ったと伝えられる。

三成はその後、同じく捕虜となった安国寺恵瓊、小西行長と共に大坂や堺を引き回され、9月29日、京都所司代の奥平信昌に預けられた。そして10月1日、肩輿に乗せられて京都市中を引き回されたが、三成の顔色は平生と変わるところがなかったという。

いよいよ、六条河原に引き出された三成は刑場に向かう道すがら、喉が渇いたのか警備の者に湯を所望した。男が「ここに干し柿がある。これを食べよ」と伝えたところ、三成は「これは痰(たん)の毒である」と断った。これを聞いた警備の者は「これから首を切られる人間が何を言う」と大笑いした。

すると三成は、「おまえのような者には道理かもしれないが、大義を思う者はたとえ首をはねられる瞬間まで命を大切にして本意を遂げようと考えるものなのだ」と言ったのである。

これが史実なら、驚くべき精神力の持ち主といえるが、後世の編纂資料に載る話なので、事実とは思われない。享年41。三成の首は三条大橋にさらされたが、その後、大徳寺の高僧・春屋宗園が引き取りを願い、許可された。受け取りには、のちに高僧として知られる沢庵が出向き、大徳寺三玄院に埋葬されたと伝えられる。

石田三成の墓所がある寺として知られる大徳寺三玄院。通常は非公開で、今年2月に約半世紀ぶりに一般公開されたが、三成の墓は公開されなかった PIXTA

外様大名の処遇に腐心した家康

西軍に加担した大名のうち、処刑されたのはこの三成と、小西行長、安国寺恵瓊ぐらいだった。自刃を含めても10名程度に過ぎない。とはいえ、事前に寝返りを約束していなかった藩は、原則、お家取り潰しか大幅な減封となった。

改易された数は、なんと88家。減封で済んだものの、西軍の総大将である毛利輝元は8カ国をわずか2カ国に減らされ、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減らされてしまった。家康が敵将から取り上げた石高は、630万石(総石高の3分の1)に上った。

また、関ヶ原の戦いに参戦しなかったが、日和見的な態度をとった常陸の佐竹義宣に対しては、秋田への転封が命じられた。結果、佐竹氏の石高は3分の1に減ってしまった。

徳川家は戦後、約250万石から400万石へと領地を拡大。豊臣家が握っていた都市や鉱山も手に入れた。ただ、これで家康が天下を掌握できたわけではなかった。実際、征夷大将軍となって江戸に幕府を開くまで2年半を要しているのがその証拠だ。

それは、前回述べたように、徳川秀忠率いる徳川主力軍が関ヶ原合戦に間に合わず、結果として豊臣恩顧の外様大名が軍功を独り占めにしたためだ。

仕方なく家康は、福島正則、黒田長政、山内一豊、小早川秀秋、最上義光といった自分に味方した外様たちの領地を倍増せざるを得なかった。

例えば、藤堂高虎は伊予板島8万石から伊予今治22万950石、掛川城主の山内一豊は5万石から土佐一国(20万石)の国持(くにもち)大名に。福島正則は、尾張国29万石から芸備二国49万8000石へと大加増を受けた。豊前国中津18万石の黒田長政は、一気に筑前一国52万石に加増されている。

福島正則像。秀吉子飼いの大名ながら、秀吉の死後、いち早く家康方につき、関ヶ原の戦いでは先鋒を務めた(栗原信充・画、江戸時代後期)国立国会図書館デジタルコレクション

しかし家康はこの加増を機に、外様大名たちの多くを九州や四国など西国の遠地に配置し、徳川の拠点である関東、大坂や京都といった重要都市から遠ざけている。政権の安泰を図ろうとしたのだろう。また、西国には譜代の小藩や幕領(天領)を配置したり、豊臣秀頼の押さえとして娘婿の池田輝政を姫路に配置した。

関ヶ原で南宮山の敵と対峙していた池田輝政は本戦での出番はなかったが、論功行賞で三河国吉田15万2000石から播磨一国52万1000石へと一挙に領地は3倍以上に加増された。輝政の弟・長吉も6万石を与えられ、鳥取城主となった。

池田家は徳川の親族ということもあり、輝政の次男忠継(家康の孫)にも備前一国(28万石)が与えられ、のちに三男忠雄にも淡路国6万3000石が付与された。忠継も忠雄もまだ幼年だったため、実質的には三国は輝政の支配するところとなった。

ちなみに関ヶ原合戦に遅参した秀忠に対し、腹を立てた家康はしばらく会わなかったが、重臣会議を開いて後継者に再選定したという逸話は、近年、事実ではないといわれている。確かにそんなことをしたら秀忠の面目は丸つぶれであろう。

以上、関ヶ原の戦いについて3回にわたって述べてきた。よく言われているように、まさしく天下分け目の合戦であったわけだが、多くの大名たちは少なくても数カ月間は戦いが続くと思っていたようだ。まさかあっけなく数時間で勝敗が決まってしまうとは考えていなかったはず。そんな番狂わせな結果に一番驚いたのは、家康自身ではなかったろうか。

【参考文献】

  • 『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(高橋陽介・著、河出書房新社)
  • 『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(白峰旬・著、平凡社)
  • 『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(本多隆成・著、中公新書)
  • 『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治・著、吉川弘文館)

バナー写真:渡辺美術館(鳥取市)所蔵の関ケ原合戦図屏風(江戸時代、左隻)。合戦当日の様子を戦場の南方面から描写したもので、左隻には東軍が押し気味に戦闘を展開している様子などが描かれている。


日本史探険 江戸幕府を開いた徳川家康:戦国時代から安定した社会へ

人質から天下人へ

徳川家康は、三河国岡崎城主・松平広忠の子として生まれたが、6歳のとき尾張国織田氏の人質に、次いで駿河・遠江の大名今川義元の人質となった。その間、父の広忠は家臣に殺され、岡崎の地は実質的に今川領に組みこまれてしまい、家康も今川方の一将として戦うようになる。

 

家康ゆかりの町、愛知県岡崎市。家康が誕生した岡崎城(左)と岡崎公園内にある徳川家康の銅像(写真提供:岡崎市)

しかし、1560年に桶狭間の戦いで義元が討ち死にしたことを機に、尾張の織田信長と結んで今川氏から独立を図り、三河一国を平定して戦国大名となった。さらに武田信玄と手を組んで今川氏を滅ぼして遠江国を手に入れ、その後、武田氏から駿河国を奪い、本能寺の変後は、武田旧領であった甲斐、信濃を手中に収めた。一時、豊臣秀吉と敵対するが、結局、その家臣となって政権を支えるようになる。1590年、小田原北条氏が滅ぼされると、秀吉から関東へ移封を命じられ、以後、江戸を拠点とした。

ところが、秀吉が死ぬと、五大老の筆頭だった家康は、勝手に他大名と婚姻関係を結んだり、論功行賞を行ったりするなど、横暴な振る舞いをみせる。これが反発をよび、1600年、五奉行の石田三成らが五大老の毛利輝元を盟主として家康打倒の兵を挙げたのである。

こうして家康は、三成らの西軍と関ヶ原で激突したが、戦いはわずか数時間で家康(東軍)の勝利に決し、敗北した三成は京都で処刑された。戦後、西軍93大名(合計506万石)を改易(領地没収)とし、自分に味方した外様大名の領地を大幅に加増した。ただ、その多くは遠国へ転封(国替え)し、大都市(江戸、大坂)周辺や交通の要地には、親藩(徳川一族)や譜代大名(昔からの徳川家の家臣)を配置した。外様が反乱しても、すぐに江戸や大坂に攻めてこないようにするためであった。

関ヶ原古戦場跡(PIXTA)

世襲制度の始まり

こうして天下人となった家康は、1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、正式に江戸に幕府(武家政権)を開いた。親藩、譜代、直臣(旗本・御家人)を合わせると、家康は20万人を超える兵力の動員が可能であり、完全なる軍事政権であった。

ただ、政治組織については、三河以来の家政機関をもとに、本多正信ら年寄(側近)や南禅寺の金地院崇伝(こんちいん・すうでん)、儒学者の林羅山ら顧問に政務を分担させた。複雑な政治制度が定まるのは、3代将軍家光の時代のことである。

1603年、家康は諸大名に江戸城と城下の大規模な造成事業(天下普請)を命じた。日比谷入江を広範囲に埋め立て、小名木川や道三堀などの水路を巡らせた。こうした水運に加え、陸上交通の整備も始めた。江戸の日本橋を起点として五街道と街道沿いの宿駅を整えたのだ。この結果、家康の晩年には、江戸は十数万人の大都市に発展した。

1605年、家康はわずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲る。徳川氏の将軍世襲を天下に示すためであった。ただ、その後も伏見城や駿府城を拠点として政治の実権を握り続けた。

豊臣家の滅亡

一方、関ヶ原合戦後、大坂城の豊臣秀頼は60万石程度(摂津・河内・和泉)の一大名に転落したが、いまだ豊臣氏に心を寄せる大名は少なくなかった。しかも1611年に久しぶりに家康が秀頼と会見してみると、聡明な青年に成長していた。そこで家康は、政権の永続を図るため、秀頼を滅ぼす決意をしたという。

豊臣家は、秀吉とゆかりの深い京都の方広寺を再建していたが、寺の梵鐘(ぼんしょう)銘に「国家安康、君臣豊楽」の文字が刻まれていた。「家」と「康」が分断されていることから、家康は「徳川家を呪詛(じゅそ)する文言だ」と難癖を付け、1614年、20万という大軍で大坂城を包囲したのである。こうして大坂冬の陣が始まるが、同年12月にいったん講和が成立。しかし翌1615年に再戦(大坂夏の陣)となり、秀頼は自害し豊臣家は滅亡した。

同年、家康は一国一城令を発する。西国大名に対し、居城以外すべての城を破壊させ、その軍事力を一気に弱めたのである。さらに同年、将軍秀忠の名をもって、大名を厳しく統制する武家諸法度を発布した。大名が勝手に婚姻を結んだり、新しい城を造ったりすることなどを禁じたのだ。

徹底的な権力統制

このように、軍事力と法律で大名の動きを押さえこんだ家康だったが、統制したのは大名だけでなかった。政権を揺るがす存在は、容赦なく封じ込んだ。例えば朝廷である。

建前上、江戸幕府は、朝廷が徳川家の当主を征夷大将軍に任命し、政権をゆだねるという形態をとっている。だから家康も表面的に朝廷を尊び、1601年、戦国期に領地を減らした朝廷に1万石を進呈している。しかし、皇室領(禁裏御料)の管理は、幕府が自ら行ったのである。また、朝廷や西国大名を監視する京都所司代を新設し、日常的に朝廷や公家の動向に目を光らせた。さらに幕府(京都所司代)の指示を朝廷に伝える武家伝奏の職を設けた。定員は2名。公家から選ばれ、幕府が給与(役料)を支給した。1613年には公家衆法度を出して、公家は代々の学問(家業・家職)に励み、禁裏小番(宮中を昼夜警備する仕事)を務めるよう規定した。次いで1615年、禁中並公家諸法度を定め、朝廷を運営する在り方を明らかにし、天皇や公家の生活、公家の席次や昇進にまで法的に規制を加えたのだ。このように家康は、朝廷や天皇を政治的に無力な存在にしようとしたのである。

比叡山や高野山の僧兵、一向門徒といった仏教勢力も、戦国時代には大名を脅かす存在だった。そこで家康は、こうした寺社・仏教勢力についても、1615年に寺院法度を出して統制を始めた。

家康の財政政策

さて、幕府の財政基盤である。収入の基本は、400万石におよぶ幕領(天領)からの年貢(税)であった。税や諸役を負担するのは、田畑や屋敷(高請地)を持ち、検地帳に登録された本百姓(高持百姓。石高持ちの戸主)である。『昇平夜話』(高野常道著 1796年)には、家康が「郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申し付様」と言ったとある。財産を殖やさず、死なない程度に年貢を絞り取るのが、家康の統治法だったようだ。このほか、江戸、大坂、京都、長崎、堺などの都市を直接支配し、特に長崎での貿易を独占して利益を得るようになるが、それは家康の死後のことである。

また、豊臣政権同様、各地の鉱山を直轄として利益を得たが、家康は採掘した金銀で貨幣の鋳造を始めさせた。江戸、駿府、佐渡、京都などに金座を、伏見、江戸、駿府、京都などに銀座を設け、金貨や銀貨(慶長金銀)を大量に発行したのである。これまで日本では、中国の銅銭を通貨として用いていたから、これは画期的な金融政策の転換といえた。

実利的外交政策

続いて、家康の外交政策を見てみよう。

家康は、積極的な外交を進めた。1600年、オランダ船リーフデ号が豊後(現在の大分県)の臼杵湾に漂着すると、航海士のヤン・ヨーステン(耶揚子)と水先案内人でイギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)と会見、彼らを江戸に招いて外交顧問とし、盛んにオランダとイギリスを誘致した。両国はプロテスタントの国(新教国)であり、旧教国(スペインやポルトガル)とは異なり、キリスト教の布教と交易を一体と捉えていないことが分かったからだ。こうしてオランダは1609年、イギリスは1613年、平戸に商館を開いて貿易が始まった。

東京駅近くにある、ヤン・ヨーステンのレリーフ(フォトライブラリー)

一方、ポルトガル商人は、マカオを拠点にして中国産生糸(白糸)を長崎に持ち込み、暴利で日本人に売り付けていた。そこで家康は1604年、ポルトガル商人の利益独占を排除するため、京都・堺・長崎の特定の商人に仲間組織(糸割符仲間)をつくらせ、毎年春に輸入生糸の価格を決定し、その値段(安値)でポルトガルから生糸を一括購入し、仲間の商人たちに分配する糸割符制度をつくらせた。

1610年、家康は京都の商人・田中勝介をスペイン領のメキシコ(ノヴィスパン)に送って、ルソンを拠点にするスペインとの貿易の再開を求めた。秀吉が宣教師たちを処刑した(二十六聖人の殉教)ので、この時期、スペインとの交易が途絶えていたのである。 

さらに家康は、対馬の宗氏に命じて朝鮮出兵で断絶した朝鮮との国交を復活させようとした。宗氏の努力により、1607年にそれが実現、やがて朝鮮は将軍の代替わりごとに祝福の使節(通信使)を派遣するようになった。残念ながら朝鮮出兵で戦った明国は、正式な国交に応じなかったが、民間商船が盛んに平戸や長崎に来航するようになった。

このように積極的な外交で交易を盛んにしようとした家康だったが、最晩年、その方針が大きく変化する。これまでキリスト教を黙認してきたが、1612年、幕領でキリスト教の信仰を禁じるようになったのである。さらに翌1613年、禁教令を全国へ拡大する。同時に教会を破壊して宣教師を追放、信者に徹底的に棄教を迫るようになった。スペインやポルトガルの侵略や教徒の団結を恐れたからだという。1614年には、キリシタンの高山右近ら300人余りを、見せしめとしてマニラやマカオに追いやった。こうした政策に転じたのは、ポルトガルやスペインと交易せずとも、オランダやイギリスがその代わりを果たしてくれるというめどが立ったからだと思われる。この外交政策は秀忠の時代に強化され、家光の治世でいわゆる鎖国制度として完成した。

寛永文化のはじまり

家康は、文化にも理解を示した。蒔絵(まきえ)の工芸品である「舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)」を製作した本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は京都の上層町衆で、書道や焼き物(楽焼の茶わん)にも才能を見せる文化人として知られていた。家康は1615年、そんな光悦に京都洛北の鷹ヶ峰を与えたのである。光悦はこの地に芸術村をつくった。彼は俵屋宗達や尾形光琳、尾形乾山などとも関係が深く、やがて寛永期の文化がここから花開くことになる。

翌1616年、家康は鷹狩りに出た後、体調を崩して伏せるようになった。鯛の天ぷらにあたったといわれるが、胃がんの可能性が高いと思われる。薬づくりが趣味であったので、医師の指示を無視して自分で処方した薬を服し続けたが、病状は悪化の一途をたどり、4月に75歳の生涯を閉じた。その遺骸は久能山に葬られ、翌年、日光山に改葬されて東照大権現(神)として祀られた。

家康を祀った日光東照宮。日本を代表する美しい陽明門(PIXTA)

以上、家康の生涯とその時代について述べてきた。

戦国の真っただ中に生まれ、人質として翻弄された少年期を経て独立の大名となった家康は、忍耐を重ねて領国を広げ、豊臣政権の重鎮として力を蓄え、天下分け目の戦いに勝って天下人となった。そして、還暦を過ぎてからようやく政権(江戸幕府)を樹立し、わずか10年ほどで盤石な政治体制を築き上げ、200年以上続く平和の礎を築き上げたのである。

バナー写真:徳川家康肖像画(嵯峨釈迦堂所蔵/アフロ)

なぜ関ヶ原で激突することになったのか? もともと三成が想定していた決戦の場所とは? 天下分け目の「関ヶ原合戦」開戦の真実『どうする家康』

松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第41回で大坂城・西ノ丸に入った家康。政治を意のままにおこない、周囲から天下人と称されているのを茶々(北川景子さん)は苦々しく見ていた。そんななか、会津の上杉景勝(津田寛治)に謀反の噂が広がり――といった話が展開しました。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回は「なぜ関ヶ原だったのか」についてです。

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三成挙兵に対する家康の対応

慶長五年(1600)八月五日に江戸城に戻った家康は、上方で石田三成・大谷吉継らの挙兵に対し、ただちに西上するというようなことはなく、そのまま江戸にとどまって、諸方面との対応に当たった。

とりわけ、「小山評定」の時点では三成らの挙兵の報しか届いていなかったが、その後、七月十七日に三奉行が背いて「内府ちかひの条々」を発し、さらに毛利輝元が大坂城に入って秀頼を擁するという予想外の事態の展開が明らかになり、西上した豊臣系諸将がどのような動きを示すのかを見極める必要があった。

その答えは、豊臣系諸将が西軍の美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)を攻略したことで明らかになった。すなわち、八月十日頃からつぎつぎに尾張清須城に集結していた豊臣系諸将らは、十九日に家康の使者村越直吉が来るに及んで行動を起こすことに決し、二十三日には早くも岐阜城を攻略したのである。

城主の織田秀信(信長の嫡孫、幼名は三法師)は降伏・開城し、その後剃髪して高野山へ送られた。これによって、豊臣系諸将らが引き続き家康を支持していることが明確になった。

決戦を急ぐ決断をした家康

岐阜城攻撃の第一報は二十五日に、その攻略の報は二十七日に家康のもとに届いた。


『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

家康は諸将の戦功を賞するとともに、早急に出馬をするのでそれ以上の行動をやめ、東海道を上る家康と中山道を進軍中の秀忠と、「我ら父子の到着を待つように」と指示した。

こうして家康は九月一日に江戸から出馬し、その道中からも各地の諸将に頻繁に指示や要請を出しながら、十一日には清須城に着いた。

ここで徳川方の主力部隊を率いる秀忠の遅参を知るが、これを待たずに決戦を急ぐことに決し、十四日には美濃国赤坂(大垣市)に着陣し、岡山(同前)に本陣を置いた。

この徳川方の主力部隊を待たずに決戦を挑むというのは、家康にとっては大変な決断であったが、結果的には見事に奏功することとなった。

真田の掃討戦に手間取った秀忠

徳川氏の主力部隊を率いた秀忠が、会津の上杉方への備を見届けて宇都宮を発ったのは、八月二十四日のことである。中山道を西上し、美濃辺りで東海道を西上してくる家康率いる旗本部隊と合流する予定であった。

ところが、よく知られているように、西軍に与した上田城(長野県上田市)の真田氏の掃討戦に手間取ることになった。そこへ家康からの使者がやってきて、西上を急ぐようにと告げたため、上田城へは押さえの兵を残し、急遽西上に転じたが、すでに九月十日になっていた。

このため、十五日の肝心の決戦の場に間に合わなかったのであるが、この真田氏との戦いを「第二次上田合戦」と呼んでいる。

決戦の場の想定は三段階変遷した

他方で、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家らの西軍諸隊は、この時期には美濃大垣城(岐阜県大垣市)に入っていた。

三成の東軍を迎え撃つ決戦の場の想定や戦略には、三段階の変遷があった。

第一段階は八月初め頃で、三河・尾張間での決戦を想定し、福島正則の説得にも意欲を示していた。しかしながら、これらは多分に希望的な想定でしかなかった。

第二段階は八月半ば以降で、三成が描く現実的な防衛ラインは、尾張・美濃間へと後退した。木曽川・長良川などの大河をたのみ、岐阜城を核にして、東の犬山城(愛知県犬山市)、南の竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)などと連携して防戦しようとするものであった。三成自身は十日に大垣城に入った。

しかしながら、二十一日に木曽川上流の河田(愛知県一宮市)の池田輝政隊と、下流の萩原・起(同前)からの福島正則隊と、二手に分かれた東軍諸将の岐阜城攻めが始まると、翌日には竹ヶ鼻城、二十三日には岐阜城が、それぞれわずか一日であっけなく攻略され、犬山城は戦わずして東軍の軍門に降った。

八月末以降は第三段階となるが、三成は大垣城を拠点としながら、伊勢方面に展開していた西軍の部隊を呼び寄せて南宮山に配置し、連携して赤坂・岡山・垂井に展開する東軍に対峙しようとした。

関ヶ原が合戦の場になった理由

ただ、西軍は家康西上の情報をつかんでいなかったようで、九月十四日に大垣城からわずか四キロメートルほどの岡山本陣に家康の金扇の馬印(戦場で大将の居場所を示した目印)と旌旗(せいき。葵紋章の旗七本と源氏を示す白旗二〇本)が掲げられると、意表を突かれて動揺したという。

家康の出現を受けて西軍は軍議を開き、島津義弘の夜襲策なども出たといわれるが、東軍に佐和山城(滋賀県彦根市)を衝かれることを恐れ、結局大垣城を出て関ヶ原に向かうことになった。

石田隊を先頭に、西軍の諸隊は夜の雨を衝いて関ヶ原に向かった。夜半過ぎにこれを知った家康は全軍に進発を命じ、東軍諸隊も相次いで関ヶ原に向かった。

こうして、翌九月十五日にまさに「天下分け目」の関ヶ原の合戦となった。

※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。