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「上祐史浩」がひた隠し! 警察も知らない「麻原彰晃」の女性信者殺害

上祐史浩氏(他の写真を見る

 一連のオウム事件では、8件で計28人の犠牲者が出た。しかし、あれほど捜査を尽くした警察も把握していない殺人事件がある。麻原はじめ幹部は、教団初期に女性信者を殺害していたのだ。上祐史浩・元幹部(55)もその場にいながら事実をひた隠しにしてきた。

 教団関係者の間で、ある“噂”が広がったのは、昨年の秋頃のことだった。

「新実智光死刑囚が“余罪”を告白している」

 関係者が言う。

「教団の初期、ある女性信者が麻原教祖に首を絞められて殺されていた――というもの。これまでまったく表に出ていない事件です」

 麻原について有罪が確定した殺人・逮捕監禁致死事件は8件で死者の数は28人。その中に本件は含まれず、立件もされていない。

「新実死刑囚が言うには、1990年か91年の冬。富士山総本部で経理を担当していた吉田英子さんという27歳の信者が、金を横領したと教祖の部屋に呼び出された」

 そこにいたのは、麻原、新実、中川智正、故・村井秀夫幹部、上祐氏、そして麻原側近の女性幹部だった。

「本当に横領があったのかはわからない。が、問い詰めた結果、麻原は“ポア”という判断をした。新実と中川が彼女の手足を押さえ、麻原自らが首を絞めた、と。遺体は、護摩壇で焼いて、本栖(もとす)湖に流したそうです」

 新実には6年前に獄中結婚した元アレフ信者の妻がいる。彼女にも聞いてみると、「確かにまったく同じ話を聞いたことがあります」と言葉少なに認めるのだ。

 吉田さんとは何者なのか。

 95年当時、編集部が入手した「信者名簿」を捲るとその名はあった。「吉田英子/1963年生まれ/88年入信/89年出家/ホーリーネーム:タントラインドラーニ/本籍地・大阪市」とある。

 続いて、更なる情報が得られたのは、オウム真理教被害対策弁護団の滝本太郎弁護士からである。

 滝本弁護士は当時、信者の親族や脱会信者、警察当局などと連絡を取り合い、信者のうち、生死が判明しない「行方不明者」についても情報を集めてきた。滝本氏は言う。

「その中に吉田さんの情報もありました。本部職員になった後、91年に音信不通となった、と。親御さんが教団に問い合わせたところ、“トラブルを起こして出て行った”と言われたそうです。が、その後も家に帰らないので、お母さんは、94年、自宅近くの大阪の警察署に家出人捜索願を出しているのです」

 その後、吉田さんの件に関わったのは、大阪に事務所を構える加納雄二弁護士である。当時、被害対策弁護団の関西における中心メンバーの一人として活動していた、加納弁護士が言う。

「95年の地下鉄サリン事件の後、子どもが入信して、事件後も帰ってこないという親御さんが、多数相談に来た。その中に吉田さんのお母さんもいたんです」

 相談の中で、母親は“気になること”を述べていた。

「娘さんと不通になった91年の暮れ、お母さんの元を現役のオウム信者が訪れた。そしてまだ帰宅していないことに驚き、“英子さんは、麻原から、自分に出来ないことを命じられて苦しんでいた”“91年に麻原と話し合いをし、その翌日から姿を消した”と言い残していったそうです」

 加納弁護士は、彼女の安否をオウムに照会した。しかし、なぜか回答を拒否されたという。

「そこで、人身保護請求に訴え出る準備を始めました。が、結局、お母さんはその道を選びませんでした」

 その7年後の2002年。吉田さんの母親は、家庭裁判所に娘の「失踪宣告」を申し立てている。「失踪宣告」とは、生死が7年間明らかでない「不在者」について、親族などが家庭裁判所に申し立てできるもの。認められれば、不在者は法律上は「死亡」した扱いとなる。吉田さんも翌03年、失踪宣告が認定されていた。その数年後、両親は相次いで世を去っている。

いかがだろうか。

 種々の事実と一致する新実証言。信憑性は極めて高いものと思われた。

 では、現場にいたとされる当事者に聞いてみよう。

 まず、女性幹部の自宅を訪れると、本人と思われる女性が出てきたものの、吉田さんの名を出すと、「知らないわよ、そんなん!」と激高。その後、応答はなかった。

 続いて、生前の中川。死刑囚には面会制限があり、直接接触することは出来ない。そのため、別件で面会予定があったオウム真理教家族の会の永岡弘行会長に本件を尋ねてもらった。が、「“何ですか、それ”“永岡さん、私が今さら嘘を吐くわけないでしょう”と言っていました」(永岡氏)と、これもシラを切ったのだ。

“心臓が止まった”

 ところが、だ。

 今年4月中旬、残る上祐氏に確認すると、当初は「いや……調べてみます」「わからない」などと誤魔化していたものの、逃げられないと思ったのか、7月8日夜になって事実を認めてこう説明したのである。

「時期は91年のはじめ頃だったと思います。富士山総本部で経理として働いていた吉田さんにお金の件でトラブルがあり、“スパイ”との疑惑がかけられた。彼女は、第一サティアンの2階の部屋に呼び出されました」

 そこにいたのは、新実証言と同じく、麻原、新実、中川、村井幹部、上祐氏、女性幹部。「白状しろ!」と、麻原は吉田さんを恐ろしい形相で詰問したという。

「でも、吉田さんは麻原に帰依していたためでしょうか、“思い出せません”と言うばかり。“何で思い出せないんだろう”と、だんだん泣き声になっていった。それが繰り返され、麻原が“思い出せないんだったらポアするぞ”“それでもいいのか”と言っても、“どうして思い出せないんだろう”と。最後に麻原が“私は嘘は吐かない男だよ”と言って、新実や中川に彼女を取り押さえるよう誘導したんです」

 彼女は抵抗もなく仰向けになり、新実が顔を押さえた。中川は、注射液と思われる物質の名を出し、麻原に「持ってきましょうか」と提案した。

「麻原が頷き、中川は取りに行った。戻ってきた中川は彼女の左腕に注射した。しばらく後、中川は吉田さんの胸に耳を当て、“心臓が止まった”と言いました。麻原はその間、ソファーにずっと座っていましたが、事が終わった後、“彼女は魔女だと思う”“魔女だったよ”と言っていました」

 遺体は、村井幹部が処理したと思われるという。

 重大な告白である。直接の実行者が誰か、新実証言とは異なるにしろ、麻原が指示し、幹部が実行した「殺人」には間違いない。それを当事者が認めたのだ。

 が、不可解なのは、上祐氏の態度である。

 彼は、殺人の最中、女性幹部と共に、3メートルほど離れたところで見ていただけと主張する。

――なぜ声を上げなかったのか。

「驚愕していたので、止めるに止められなかった。それに麻原に帰依している状態ではそれは言えません」

――その後もなぜ事実を隠していたのか。

「麻原への信仰が続いているうちは言えませんでした。(アレフを)脱会した後も恐怖と不安で言えなかった。告白したら自らに危険が及ぶという不安がありました」

――そのせいで吉田さんのご両親は最期まで真相を知ることが出来なかった。

 

「それは十分わかります。自分の弱さ、恐怖、不安感ですよ」

――その行為は正しかったのか。

「正しくはなかった。でも、どうしてこういうことになったのかと言われれば、そういうことなんです」

 等々、自らの責任を回避する理屈をこねるのである。

 ちなみにこの件、既に時効が成立して事件化する可能性はない。

 しかし、麻原はもちろん、中川も死ぬまで口をつぐみ、あるいは、嘘を吐いてきた。上祐氏も同罪だ。

 23年経っても少しも変わらない、これがあまりに悪魔的なオウムの本質である。

週刊新潮 2018年7月19日号掲載

特集「奈落に落ちた『麻原彰晃』 『劇画宗教』30年の総括」より