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「死亡保険を担保にしてるから」改装費用は3000万円…デコトラに人生を捧げた男(74)が蘇らせた“超伝説の車両” 「哥麿会」田島会長インタビュー

 昨年のパラリンピック開会式で、ひときわ話題を集めたのが、ギタリストの布袋寅泰さんらを乗せたド派手なデコトラ(デコレーション・トラックの略)。各国のアスリートや記者を魅了し、日本のカルチャーのひとつとして海外でも称賛された。

 デコトラが日本で最初にブームになったのは、映画「トラック野郎」シリーズが放映された1970年代。それから時を経て、映画に登場した伝説の「一番星号」の修復が完了し、今、再びデコトラに注目が集まっている。そこで、国内最大のデコトラ団体「全国哥麿会」会長を長年務め、自らも20代の頃からデコトラに乗り続けているという田島順市氏(74歳)に、その魅力と「一番星号」完全復活までの軌跡をお聞きした。(全3回の1回目/#2に続く

デコトラは故郷を原点にして走っている

――パラリンピックでは眩しいぐらいのデコトラが登場して、会場の選手たちも驚いていましたね。ここ数年、グッチのCMやイギリスの博物館で紹介されるなど、海外でも人気を呼んでいますが、日本のデコトラはいつ頃から始まったんですか?

田島 戦後、ちょっとしてからじゃねえかな。今みたいに塩害に強い車があるわけじゃないから、東北や日本海のトラックって、潮風とか雪でボディがすぐサビちゃう。そのサビた部分に模様のあるステンレスを貼って補修したらしいんだ。

――もともとは補修が目的だったんですね。

田島 そう。そしたら、それがカッコよくて、飾ることが目的になっていったんだろうね。やっぱり、長距離ドライバーは、全国あちこち行くからなかなか家には帰れないの。座席で寝泊まりしながら、全国の漁港や産地を回る。トラックが家代わりというか、もう自分の城だよね。

 だから、ボディに故郷や家族の名前を入れたり、「三河の〇〇」や「浪花の〇〇」とかアンドンをつけたり。いわば故郷の宣伝カーみたいなもんで、うちの町にはこういう建物があるとか、こんなお祭があるとか。だからデコトラは故郷を原点にして走っているんだ。

――なるほど。どんな人が乗っているのか、デコトラを見れば分かるんですね。

田島 そうだね。そのお披露目の舞台は東京なんだよ。野菜でも魚でも田舎もんが都会の市場に荷物を持っていくでしょ。だから、東京っていうのは、自分のデコトラを見せ合う場なんだよね。それに真っ暗な田舎と違って夜でもネオンがきれいだがね。その東京の夜に負けねえように、自分のトラックを飾るんだ。

「トラック野郎」の大ヒット

デコトラが広く世間に知られることになったのは、1964年の東京オリンピックから11年後の75年から始まった映画「トラック野郎」シリーズだ。主人公の桃次郎に扮した今は亡き俳優の菅原文太さんや相棒役の愛川欽也さんなどが出演し、トラック野郎の友情をコミカルに描いたロードムービーである。ド派手なトラックによる過激なカーアクションが人気を呼び、5年間で全10作品が放映された。

――映画の大ヒットで、トラック運転手やデコトラを始める人は増えましたか?

田島 ああ、映画がヒットしてからトラック運転手になる奴や、そのトラックを飾ってデコトラを始める奴もものすごく増えた。映画がスタートして、撮影協力のためのデコトラ団体「哥麿会」が結成されたんだけど、そこに入会すると、自分のトラックが映るチャンスがある。ずいぶん、後のほうだけど、俺も入れてもらったんだ。

――当時のデコトラ乗りは、映画に出ることが憧れだったんですね。

田島 そうだね。声がかかるようにせっせと飾ったよ。運転手の意識もずいぶん変わったんじゃねえかな。何しろ、映画の前までは、トラック運転手なんて「そばに寄らないほうがいいよ」と言われていた雲助みたいな存在でよ。俺なんかトラック乗り始めたころは、ズボンも履かずステテコと腹巻とねじり鉢巻きだったしね。

――今はトラックからステテコで降りてくる人は見ませんね。

デコトラが社会現象に

田島 まあ、運搬業って江戸時代からイメージが悪かったんだよ。ふんどし一丁で籠に人乗せて担いで歩いたり、台車を引っ張って歩いたり。時代劇だって、駕籠屋が山中で客をかどわかしたり、脅したりするシーンって出てくるでしょ。

――そういえば(笑)。

田島 勉強できなくたって健康で免許さえあれば、誰でも運転手になれる。敷居が低いぶん、この業界には、だらしなくて悪い奴もたまには入ってくるんだ。でも「トラック野郎」の人気で、自分のデコトラも一般の人に見られて写真を撮られるようになると、乗ってる本人もそれに合わせないと恰好つかない。

 だから服にも気を使うようになる。芸能人だって、見られてきれいになるよね。それと同じで、中身はまだまだの奴もいるけど、だいぶ見かけはましになったんじゃないかな。

――映画によって、イメージがアップしたんですね?

田島 トラック野郎のイメージを良くしたのもこの映画なんだけど、さらに悪くしたのもこの映画なんだよね。警察官をバカにしたり交通違反したり、そんなシーンもあったの。だから「子供に良くねえ」って、寅さんほどは、お茶の間で放送されなくてよ。それでも、主役の桃次郎が乗っていたデコトラ「一番星号」のプラモデルが子供に飛ぶように売れたり、デコチャリ(デコレーションした自転車)少年が増えて当時、社会現象になったんだ。

“伝説のデコトラ”が奇跡の復活

「トラック野郎」で故・菅原文太さんが演じる長距離トラック運転手「星桃次郎」が全10作で乗っていたのは「一番星号」という、派手な装飾や電飾で車体を飾ったデコトラだった。装飾は1作ごとに変えられたが、2作目から10作目まで同じ車体「ふそうFシリーズ」が使われていた。シリーズ終了後、売られてスクラップ同然になっていた「一番星号」は、数十年の時を経て田島さんの元へとやって来た。現在、大規模な修復を終え、全国のイベントや被災地を回っている。

――1979年に映画が終わった後、一番星号はどうなったんですか?

田島 東映がパチンコのグループ会社に一番星号を売っちゃって、パチンコ屋の駐車場に人寄せで置いといたんだ。そしたら人気のトラックなもんで、電飾とか部品をあちこち盗まれて。もう見る影がなくなって、スクラップ屋に売られてよ。

 でもバラバラになる寸前に関西の人が引き取って、修理して10年くらい乗ったんだけど、古くなって野ざらしにされていた。そしたら、2014年に俺んとこに連絡がきて、「引き取ってくれねえか」って。

 

――2014年というと、撮影終了から35年ほど経った時ですね? 田島さんが見た時はどんな状態だったんですか?

田島 俺が行ったら、放置された一番星号の周りに竹が生えてたんだ。映画の最終回(10作目)のまんま、箱型荷台のサイドには大きな鳳凰、後ろの観音扉には「桃太郎」が描かれてるんだけど、あちこちサビたりペンキが剥がれたり、そういう状況でよ。長年、一番星号はどうなったか心配してたから、これも何かの巡りあわせだと思って。金があるわけじゃないけど、「分かった。いいよ」って。

 本当ならスクラップの値段だけど、骨董と同じなんだよね。高級車が買えるくらいの値で引き取った。これはみんなの憧れや魂が乗り移った車だから、それだけの価値があるんだよ。

――長い間、野ざらしになっていたら、改修は相当、大変だったでしょうね。どのくらいの期間、かかりましたか?

田島 ほぼ改修が終わったと言えるのは、つい最近かな。引き取ってから7、8年かかったよね。初めにエンジンを直して動けるようにして、車検を通したの。もうボロボロだったから、荷台の箱絵は全部、剥がして描き直すことになったんだけど、どこのメーカーのペンキなのかも分からない。それで「トラック野郎」の元製作スタッフで、元東映美術監督だった桑名忠之さんに連絡をとったの。

――映画は1970年代ですから、美術監督の桑名さんはその時、おいくつだったんでしょうか?

田島 もう70歳になられていたけど、駆けつけてくれてよ。普通、トラックの荷台の絵は水に強い油性のペンキで描くんだけど、一番星号で使われていたのはツヤのない水性だった。業務で使うわけじゃないし、優しい風合いを出すために映画では水性を使ったんだろうね。

 調べてみたら、今は製造されてないペンキでよ、全国、探し回って倉庫とかに残っているものを掻き集めた。それで桑名さん監修のもと、専門業者に描いてもらったんだ。彼がいなかったら、ここまで再現できなかっただろうよ。

改装費用は3000万円……!?

―大掛かりな改装ですね。

田島 あとはもう、トラックに使われているボルト一本から電飾ひとつまでこだわって、当時のもんを探してつけたの。だってよ、ファンが見に来て「ここのボルトがちょっと違う」なんて指摘するんだから(笑)。金、出すの俺なのにな。

 探してないものはイチから作り直した。運転席の横についている真鍮のハシゴだって金型から作ったんだ。結局、改装費用が3000万円くらいかかってよ。俺の死亡保険を担保にしてるから、死んだら何にも残んねえ。もうやぶれかぶれだよ!(笑)

――修復に3000万!? 家が1軒、建つ値段ですね。

田島 ほんとだよ! ただ、トラック業界は景気も厳しくて、それまであんまり元気なかったんだけど、「あの一番星号が復活した!」って、往年のファンたちがみんな元気が出てね。

「一番星号と同じだから付けてほしい」って、天井のシャンデリアとかアンティークの部品なんかを持ってきてくれる映画のファンもいたよ。驚いたのは、お葬式で座るような金糸の入った座布団とか、袈裟を仏具屋で見つけて「これ、一番星号の内装と同じ柄じゃないか?」って連絡くれた人もいて。

――ファンはよく見ていますね(笑)。

田島 そう。この間なんて、映画の中では一番星号のフロントに小さな金具がついてたんだけど、「うちのタンスの取っ手の金具と同じ形です」と送ってきた人もいた。映画だから発想が自由でデコトラショップにない飾りが多いんだ。

デコトラを手放す人が増えている

――一番星号が復活して、またデコトラが盛り上がってきたという手ごたえは感じますか?

田島 そうね、第一次デコトラブームが「トラック野郎」の映画が始まった70年代だとすると、撮影会で盛り上がった80年代が第二次、そして、「一番星号」が復活した今は、第三次ブームと言ってもいいかもしれない。

――「トラック野郎」の70年代同様、今、運転手やデコトラに憧れる若者は増えているんでしょうか?

田島 いや、トラック運転手は昔と比べて稼げないし仕事はきついし、なり手自体は減っているよね。その分、デコトラも本当に少なくなった。「トラック野郎」の時代は、運転手もデコトラも多かったんだよ。国や会社の規制がどんどん厳しくなって、デコトラを手放す人が増えたんだ。

 よくデコトラは違法トラックなんて言われるけど、そうじゃねえ。「一番星号」のように、規制前に飾ったデコトラは、そのままで大丈夫。でも新しく購入したトラックを飾るとなると、道路交通法違反になる飾りも多いから、いろいろ制限される。

 ところが、その厳しい道交法を守って飾っても派手なデコトラとの取引はダメっていう会社も増えてね、だんだん仕事で使いづらくなったわけ。だから、「デコトラに乗れねえなら」って、運転手を辞めちゃった人もいるよね。

――自分の好きなトラックに乗れるのが楽しみで仕事を続けていた人は、モチベーションが下がってしまったんでしょうね。

「哥麿会」も最盛期の6分の1に

田島 そうだね。それに排ガス規制なんかで古い型のデコトラが使えなくなって、新車を買わないとならない。泣く泣くデコトラを売ってお金に変えた人も多いよね。余裕があれば趣味用と仕事用の2台持つこともできるけど、1台でも修理や車検なんかで維持費も大変だから。

 うちの「哥麿会」も最盛期は3000人くらい会員がいたけれど、今は500人くらいじゃねえかな。ただ、最近だと仕事で使う大型車じゃなくて、小さい2トン車ぐらいの趣味のデコトラを持っている人も増えてるよ。

――デコトラ自体はだんだん希少になっているんですね。

田島 減っているよね。だから俺たちは今、日本の文化としてデコトラを残そうという保存運動をしているんだ。慣れないながらもYouTubeをやってみたり(笑)。そんな矢先にパラリンピックでデコトラが登場した時、「ようやくここまで来たか」って感無量でよ。デコトラを世界の人に見せても恥ずかしくねえレベルになったから、大舞台に出してもらえたんだろうって。

 だからといってデコトラや運転手がすぐにでも増えるわけじゃねえけど、一番星号がメディアで取り上げられたり、DVDで映画を見たりしてデコトラを知ったファンが増えてるんだ。グッチのCMが流れた後は、外国人や家族連れが来てくれることもあったしよ。デコトラに乗っても乗らなくても、好きな者同士、イベントもボランティアも一緒に盛り上げていけたらいいよね。

「俺らにとって一番星号は神様」

――修復された一番星号は今、どのように使われていますか?

田島 「哥麿会」のチャリティーとか被災地のボランティアで全国をまわっているよ。炊き出しとか物資を運んだりするのがメインだけど、やっぱり一番、喜ぶのは子供たちだよね。大事だからってずっと飾っておいたんじゃあ、トラックの意味がないから。荷物も詰んで、走って、それで初めて価値が出るんだ。

 なんだかんだ言っても、当時、デコトラの世界に入った人は、ほとんどが映画の「トラック野郎」に夢中になった人なんだよね。一番星号があったから、運転手に憧れる子供が増えて、大人も自分の仕事に誇りを持てるようになったんだから。だから俺らにとって一番星号は神様。それもただの神様じゃない、「動く神様」だよ。

――全国どこでも駆けつける神様ですね。

 

田島 ああ。批判もあったけど、「トラック野郎」があれだけ人気が出たのは、俺は理由があると思うんだ。この映画を作った鈴木則文監督とは、個人的に付き合いがあったんですよ。2014年に監督は亡くなったけれど、生前は「哥麿会」のチャリティーイベントにも何度も足を運んでくれた。ある時、鈴木監督はこう言っていたんだ。「世の中の困ってる人を、一番星号がどこにでも駆けつけて助ける。そんな想いを込めて映画を作っていた」って。

 ただ飾りがきれいっていうだけじゃねえ、いつでも弱い者の味方なんだよ。その映画の想いやみんなの憧れが乗り移っているのがこの一番星号なんだ。だからこれからも被災地には一番星号とともに駆けつけるよ。

撮影=三宅史郎/文藝春秋

※2022/04/02 13:00……一部表現を修正しました

 

「3回くらい殺されそうに…」日本最大のデコトラ組織・哥麿会74歳会長が明かす、波乱万丈の“トラック野郎人生” 「哥麿会」田島会長インタビュー

 映画「トラック野郎」が公開されてから半世紀近く。パラリンピックの開会式やグッチのCMにも登場し、世界でもにわかにデコトラ(デコレーション・トラック)が注目を集めている。

 かつては「怖い」「危なそう」などと、デコトラを敬遠する人も多かったが、そんな空気を地道に変えていき、デコトラを“日本の文化”にまで押し上げた立役者の一人が、田島順市氏(74歳)だ。田島氏は日本最大のデコトラ組織「全国哥麿会」の会長を長年務める、デコトラ界では知らない人のいないカリスマだ。そんな田島氏に、波乱万丈のトラック野郎人生について聞いた。(全3回の2回目/#3に続く

日本最大のデコトラ組織「哥麿会」

一世を風靡した映画「トラック野郎」の第1作が公開されたのは、1975年の夏。デコトラに乗った長距離運転手の桃次郎(菅原文太)とジョナサン(愛川欽也)が大暴れするロードムービーで、全10作が作られた。その撮影協力のために組織されたのが、現在でも活動を続ける日本最大のデコトラ組織「哥麿会」だ。当時29歳の田島さんが入会したのはシリーズが終わる少し前のことだった。

――「トラック野郎」が始まった時には、すでに田島さんもトラックに乗っていたんですか?

田島 ちょうど映画が始まった時、俺は26歳でよ、埼玉にある実家の瓦屋を継いで2トン車のトラックで関東各地に瓦を運んでた。東映の映画スタジオが大泉にあったから、埼玉のドライブインなんかでよくロケやってて、時々、見に行ってたんだ。

――この映画の撮影協力(ボランティア)のためにデコトラ組織「哥麿会」が結成されたそうですが、田島さんはいつ頃、入会したんですか?

田島 30歳手前くらいかね。自分のトラックもちょこちょこ飾ってたから声をかけてもらったんだ。「哥麿会」に入ると、自分のトラックも映画に出られるチャンスがあるんだけど、やっぱり古くから入会している人が優先で、俺なんか相手にされなかった。だから宴会ではみんなの前で裸踊りして顔を覚えてもらって、出れるチャンスを狙っていたの(笑)。

 9作目でようやく出演できたけど、俺のデコトラは映ってなくて、エキストラとして菅原文太さんの横で一緒にちょっと踊ったくらい。

――初めての撮影は楽しかったですか?

田島 楽しくはないね、ほんの一瞬だけで悔しかったぐらいだがね(笑)。次はもっと!と思っていたら、映画が急遽、終わっちゃって。寅さんぐらい続くんかなと思ってたら、もうえらい消化不良でよ。

映画に代わる“新しい目標”

――愛車は出なかったんですね。「哥麿会」は映画が終わった後、どうなったんですか?

田島 当時、何人、会員がいたのかはよく知らないけど、映画が終わったら、ほとんどの人が辞めちゃった。それで映画終了の4年後の83年に、俺が30代半ばで三代目の会長になったの。消化不良組の関東の奴ら40〜50人くらいで哥麿会を継いでよ。引き継いだっていっても名前だけ。イチから組織を作り直すことになったの。

 それで、ただ集まるんじゃ寂しいから、デコトラの撮影会を横浜でやってみたんだよね。そしたら50台くらい集まってよ。映画のファンたちが「次はどこでやるんですか?」って。

――好評だったんですね。

田島 そう。それで手ごたえを感じて、映画に代わる新しい目標を作ることにしたんだ。会って何か目標がないと続かないでしょ。1980年代って、今の倍くらい死亡事故が多かったの。「交通遺児母の会」(現:交通遺児等を支援する会)って当時からあったんだけど、そこに寄付するために次からチャリティー撮影会にしようって。

――母の会? あしなが育英会とは違う会ですか?

田島 あしなが育英会は交通遺児の学費を助ける会だけど、「交通遺児母の会」(1975年創設)は、ダンナを交通事故で亡くした妻、つまり母を支援する会なんだ。職業訓練所の学費だったり、資格の勉強をするためのお金を出したり。ダンナが亡くなって、子供達のために自分が働かなきゃなんないからな。

 うちは男ばっかの会なんだよ。「そしたら男が何かやるって言ったらおまえ、女を助けるっきゃねえだべ!」って言って(笑)。募金だけじゃなくて、今も会でやるバザーは運び出しとか裏方を手伝っているんだ。もう40年近くなるかな。

全国に支部を作り、会員は3000人に

――最盛期で何人くらい入会されたのでしょうか?

田島 10年くらいかけて3000人にしたかな。北海道から沖縄までデコトラで日本を3周ぐらい回って呼び掛けて、全国35ぐらい支部を作ったよ。すべての都道府県は無理だったけど、きちっとした組織にしないと何かあったらすぐ崩れるから。

――映画の第一次デコトラブームにつぐ第二次ブームですね。会の雰囲気は変わりましたか?

田島 そうだね。映画がやっていた頃の哥麿会って、俺たち田舎もんや新人は相手にされなかったの。もちろん世話になった先輩もいたんだけど、全体的にそういう空気もあってよ。俺も含めて大した人間は端から集まっちゃいねえのに、かっこつけたってしょうがねえのにな(笑)。

 その悔しさもあって、俺が会長になった時には「来る者は拒まず、去る者は追わず」の精神で会を運営しようって。だから、入りたいっていうなら、ちょっとひねくれてても、ヤンチャな奴でも受け入れて仲間に入れていこう、落ちこぼれねえように付き合っていこう、ってみんなで決めたんだ。

――ちょうど田島さんが33歳で会長になった1980年代は学校が荒れたり、暴走族全盛の時代でしたね。

一度、道を踏み外した奴でも……

田島 そう。でもそいつらが暴走族やめた後、行き場がなかったわけですよ。自己責任なんて批判する人もいるけど、やっぱり誰かが彼らの生きる道や励む道なんかの受け皿を作ってやらねえと、もっと悪い道に行ってしまう。

 だから、俺たちは一度、道を踏み外した奴でも、トラックの楽しさを教えようって。もともと運転は好きなんだろうし、免許を取る頭さえあれば、運転手は誰だってできるんだから。

――本当に来る者、拒まずですね。

田島 当時、哥麿会に入ってきた奴は、人生が崩れた奴とか元暴走族が6割ほどいたんです。人生が崩れた、っていうのは、いいことでも悪いことでも、とことんまで突き詰めた人じゃなくて、途中で辞めてしまって宙ぶらりんな人間のことなんだけど、とにかくそういうのがいっぱいうちの会に来るんだ。

――駆け込み寺のようですね。人生や就職の相談所の役割も果たしていたんでしょうか。

田島 俺もそうなんだけど、何で暴走族だの、人の道をはずした方に行くのかっていうのは、結局、人を喜ばせることを知らないんだよね。学校でも家庭でも喜んでもらえた経験がないから、ぐれちゃったって奴も多いんじゃないかな。

――荒れてしまったのは、今まで必要とされていなかったから?

田島 そうだね。だから荒れてる若い奴にそうした人間の絆みたいなのを教えてやりてえ気持ちがあった。でもよ、俺たちが口であれこれ言ったところで、そうそう変わらないの。だけど、もし誰かに喜んでもらえたら、真っ直ぐに生きようってなるし、そこで初めて自分の居場所ができる。居場所ができると人間は変わっていくんだ。

 仕事も覚えて、生活もできるようになれば一番、いいがね。もちろん、そんな若者ばかりじゃねえけどよ。

「留置場に入れられたから助けてくれ」

――素敵なお話ですが、会長として苦労は絶えなかったのでは?

田島 もう、大変なことしかねえよ!(笑) 3回くらい本当に殺されそうになった。

――えっ、何で!?

田島 3000人も全国に会員がいるとよ、中にはどうしようもない奴もいる。「悪い奴ともめて拘束されているから来てくれ」とか「留置場に入れられたから助けてくれ」とか。人間、弱いもんで、悪いことをしたくせに捕まれば「助けてくれ」なんて言うんだな。

 一度は、巻き込まれた俺自身が脅迫されて、うちの家を盾を持った機動隊が守りに来たこともあったよ。もっとも助けてやりたくても、助けられねえ時もあった。テレビドラマみたいにかっこいいことなんて、現実にはできねえんだ。

―会長するにも命がけとは。デコトラを見せあってワイワイする楽しい会だと思っていました。

田島 表向きは楽しくていいんだよ。俺一人で収まるなら、会員は知らなくていいんだ。まあ、俺は子供のころ病気になってずっと孤独だったから、その時のことを思えば、自分の身に何があってもいいかな、って。

 もともとはさ、誰でも良い素質を持っているんだよ。悪い奴でも赤ん坊の時はみんなかわいいだろうが。そっから環境とか親とか、いろんな状況が絡み合って悪くなったりするんだ。でもよ、脇道にそれてしまっても、産まれた時から持っている素質に気が付けば俺は立ち直れると思ってよ。

被災地支援を始めたきっかけ

――現在、哥麿会では、被災地支援が活動の大きな柱になっているとお聞きしました。何かきっかけがあったんですか?

田島 最初は1991年の雲仙普賢岳の大火砕流の時だよね。各支部で集めた募金を普賢岳の被災者に持ってったの。それが被災地支援を始めた最初かな。哥麿会は全国組織で、長崎にも会員がいたから何かできねえかと。ただ、こん時は募金だけ。

 本格的にボランティアするようになったのは、その4年後の阪神・淡路大震災からだね。俺たちだからこそ貢献できることはあるんじゃねえかと。俺が行くとなれば誰かついてくるから、まず旗を揚げることが大事だと思ってよ。

――トラック運転手が集まる会だからこそできる支援とは?

田島 そん時、俺は関東の会員と7、8台のトラックで大量に食糧を積んで、神戸に2週間、行ったんだ。大規模な炊き出しをしたり、タンクローリーを持っていって姫路で水を入れて避難所をあちこち回って水を配ることもできた。この後は、2003年の十勝沖地震から2007年の能登半島地震とか、1998年の新潟豪雨、2018年の西日本の水害とか、テレビでニュースになるような大災害にはだいたい行ったと思うよ。

 何しろ、ちょっとグズグズしてると「哥麿会、いつ来るんですか?」って連絡が来ちまうんだよね(笑)。会員じゃなくて、被災地に哥麿会が真っ先にやってくるのを知ってる、一般の人から。

――被災者が待ってるんですね。すぐに被災地に入れるんですか?

田島 そう。俺たちは震災や水害があった2、3日後には現地に入ってんだ。その時点ではたいてい自衛隊か警察しか現地にいないんだけど、うちは全国に会員がいるから、被災地の近くの支部のトラックが駆けつけることができる。だから警察や自衛隊は俺たちの活動を知っているし、通行止めの道でも哥麿会のデコトラと分かれば「おつかれさまです!」って通してくれるの。

――顔パスなんですね。一番、多く行かれたところはどこですか?

田島 俺自身は東日本大震災だよね。これは東北3県を主体に10年間で100回は行ったんじゃねえかな。炊き出し行ったり慰問に行ったり、本当にいろいろな形で。

 さっきも言ったけどよ、元暴走族だったり、人生崩れた奴もうちの会員に多いんだけど、被災地に行って汗をかいて、「ありがとう」って言われれば誰でも嬉しいよな。認められて自分の居場所ができれば、曲がった奴でもまっすぐに生きようと思うようになるんだ。だから若い会員も声をかけて連れていく。

――デコトラの会なのに、何でそんなにボランティアに打ち込んでいるんだろうと不思議でしたが、会員さんにとってもいいことなんですね。

田島 そうね。それでも、きれいごとばっかりじゃないし後悔ばっかりよ。ある被災地のおばあさんが、すーっと俺のとこに来て、「3万円、貸してくれねえか」って。ひとりに貸すのは簡単だけど、もし他の人にばれて、「私も、俺も」って来られたら、さすがにできねえから断ったけど。でも「ああ、あん時、内緒であげればよかった」って。

デコトラを見に来た子供たちと……

――難しいですね。明日が分からない状況で、とにかく不安だったんでしょうか。

田島 そうだろうね。身内を亡くした人もいたから。震災が落ち着いてからは、炊き出しよりも、デコトラ見に来た子たちとじっくり話す機会も多いんだよね。うちの会のスローガンは「災害に負けるな子供達」なの。会員のデコトラにはその文字が入っているんだ。

――交通遺児だけでなく被災遺児も支援しているんですね。

田島 被災地に限った話じゃねえかもしれないけど、やっぱり親が亡くなったり、学校に行けなくなったり、いろんなつらい状況の被災地の子を見てきたから。

 まあ、不良とかひねくれて暴れてる連中は、俺も同じようなもんだったし、背中を見て後に続いてくれれば、ある日、直っちゃうんだ。ただ、おとなしいんだけど学校行かねえ子とかのほうが難しい。親も悩んでいる。

――そういう子にはどう声をかけるんですか?

田島 「勉強が嫌いなら学校で給食だけ食って来い。そうじゃなかったら、デコトラ見せねえぞ」って。すると案外、言うことを聞いて給食だけ食べに行く(笑)。周りに溶け込めない子には、学校でも道路でも「ゴミを拾え」って言うんだよ。きれいになって文句を言う奴はいねえ。1人が拾えば、2人、3人って仲間も増えるんだから。まあ、ゴミ拾いじゃなくてもいいけど、筋を通して頑張ってると人間っていうのは味方が自然にできてくるもんなんだ。

 いじめられてる子には、「逃げていいから、絶対、死ぬんじゃねえよ」って。逆に、人をいじめる奴はね、親とか友達とか、誰かにいじめられたことがあるんだろうよ。自分が苦しんだ分、それをごまかすためにやってるだけ。みんながほっとくけど、俺はどんどん踏み込んで話を聞く。そんなことしてたら、昔、俺に悩みを話してくれたひきこもりの子が最近、高校卒業して就職したっていう話も聞いて嬉しかったね。

デコトラを“本当の文化”にするために

――よかったですね。そうした子に声をかけるのは、なかなかできることではないと思います。

田島 そうだね。嬉しいのは、支援していた交通遺児の子が大きくなって支援金を渡してくれたり、うちが縁あって応援している群馬の児童養護施設「鐘の鳴る丘少年の家」の卒業生たちがイベントに駆けつけてくれたこともある。有名人とかお金持ちとか、どっかの偉い人がやっているような支援とは違って、俺みてえなごく普通の人間がやっているからこそ、子供たちも後に続いてくれると思うんだ。

 ただよ、ずっと休日もイベントとかボランティアで休む暇がなくて、自分の息子たちには何もしてやれなかった。だから、息子はデコトラが今も大嫌れえなんだ(笑)。人の子は助けても、自分の子にはかわいそうなことをしたよな。

――息子さんも今は分かってくれているんじゃないでしょうか。それにしても活動が着実に実を結んでいますね。

田島 いや、まだ中途半端だよ。運転手に憧れる子供達が将来、誇りを持って仕事ができるように、そしてデコトラ乗ってる奴がもっと社会の一員としての自覚をもって、世の中に貢献していかなきゃなんねえんだ。それでいつか世間が本当にデコトラを文化として認めてくれる日がくるんじゃねえかな。

撮影=三宅史郎/文藝春秋

 

「少しでも世の中の役に立ちたい」デコトラで被災地支援を続ける“カリスマ会長”74歳がトラック野郎になった理由 「哥麿会」田島会長インタビュー

 デコトラ(デコレーション・トラック)のアクション映画「トラック野郎」が公開されてから半世紀近く。パラリンピックの閉会式やグッチのCMにもデコトラが登場し、海外からも注目を集め、国内でも再び盛り上がりを見せている。

 かつては「怖い」「危なそう」などと、デコトラを敬遠する人も多かったが、そんな空気を地道に変えていき、デコトラを“日本の文化”にまで押し上げた立役者の一人が、田島順市氏(74歳)だ。田島氏は日本最大のデコトラ組織「全国哥麿会」の会長を長年務める、デコトラ界では知らない人のいないカリスマだ。

 そんな田島氏に、デコトラに出会うまでの孤独な少年時代から、海上自衛隊を経て、三島由紀夫の警備を務めた青春時代など、波乱万丈のトラック野郎人生について聞いた。(全3回の3回目/#2から続く

子供時代の“空白の期間”

――#2では「哥麿会」の運営や被災地ボランティアの活動を語っていただいたのですが、今回は田島さんの幼少期からお聞きしたいと思います。1948年に埼玉県児玉町(現:本庄市)でお生まれとのことですが、ちょうど戦後の復興が始まったころですね。

田島 そう。終戦から3年後に生まれたの。当時、児玉町ではいい粘土がとれるから瓦を作っている家が多くて、うちの実家も瓦の窯元だった。だから、家には20人くらい職人がいて、勉強なんかは教えてくれねえけど、彼らが歌う浪曲はよく聞いててよ、小学校に上がる前には、清水次郎長の二十八人衆の名前を全部、覚えたよ。

 でも、栄養状況も悪かった頃だから、職人には結核持ちもいてうつっちゃったんだな。小学校に上がってすぐ小児結核になったの。

――当時はなかなか治らない病気ですよね。

田島 そう。入学式は出られたんだけど、その後、1年間ぐらいは入院してた。それまで元気で走り回っていたのに、もうガックリ。週2回、病院に通いながらも、登校できるようになったのは3年生ぐらいから。田舎の小学校だから、みんな、お互いを知ってるわけ。俺一人だけ転校生みたいな感じで、やっぱり子供の時の空白というのはでっかいんだよね。

――それで、学校にはなじめなかった?

 

田島 病気で体も弱いし小さいし、もう相当ないじめにあったんだね。殴られたり、バカにされたりしても、助けてくれる奴もいない。とにかく孤独でね。不登校になったら問題になって周りの大人も動いたかもしれないけど、元が明るく元気な子供だったから、いじめられても耐える力があったんだろうな。だからかえって、いじめは長く続いてよ。それ以降、なんかこう世の中を斜めに見るようになっちゃったの。

 中学では体も良くなって、だいぶ動けるようになった。そしたら今度は、今までいじめられた分、弱い奴をいじめる側になっちゃったんだね。

「こいつは俺が面倒を見るから」

――悔しい思いをしたのに、なぜ自分がいじめる側に?

田島 やられたから、やりかえそうって。それが自分の弱さ。さすがに年下には手は出さなかったけど、人間っていうのは、なかなかテレビで見る正義の味方みたいなのにはなれねえんだよな。高校に入ったら弱い者いじめはしなかったけど、今度は先生に突っかかったり、強い奴と喧嘩して暴れてた。

 俺なんかの時代は第一次ベビーブームで、学校でも社会でも競争して勝てなきゃ生き抜けなかった。そういう殺伐とした時代だったんだけど、俺はいろいろやらかして3回くらい停学になってよ。ついに学校を辞めて転校しなきゃならねえ、ってとこまでいったんだけど……。

――転校はしたくなかったんですか?

田島 高校では仲間ができたからね。でも自分のせいだから仕方ないよな。ところがある先生が俺みたいな奴を必死にかばってくれたんだ。その先生はまだ若くて大学卒業したばっかりで、俺らのちょっと上の兄ちゃんのような存在だった。その先生のことを思い出すと、今でも俺は涙が出ちゃうんだけどよ、「こいつは俺が面倒を見るから、何とか卒業させるから」って。

――どこか目をかけてくれたところがあったんでしょうね。

田島 そうかもしれねえ。それで転校せずに済んで、3年の時、その先生が俺のクラスの担任になった。だから俺は頭を丸めて机も一番前で、先生の授業の時は一言も騒がない。でも他の先生の授業は騒いでうるさいからって、その間は職員室に来いと。それで先生の隣に座って、毎日、お茶飲んでたな(笑)。

――授業、出なくてもいいんですか?(笑)

田島 当時は学生運動が盛んで大学生が勉強しないで、こん棒もって振り回してた時代だから。今とは違って適当だったの。それで、うちの学校には応援団がなかったから、先生が「おまえ、仲間を集めて応援団を作れ」って勧めてくれて。俺は不良たちを束ねて初代の団長になったんだよね。

 応援団を作ってまとまっていれば、はちゃめちゃはやらなくなる。夢中になるものがあるから、学校も通うようになるし。その先生とは今も付き合いがあるんだ。俺、もう74歳なのに、今も順坊、順坊って呼ぶんだよ(笑)。

高校にトラックで通学

――いい先生ですね。それで高校を卒業した後にトラックに乗り始めたんでしょうか?

田島 いや、在学中から。高校3年生の時、免許とってからは、うちの瓦を運ぶトラックで通学しててよ。といっても1トン、2トンのちっちゃいダットサンとかだけど。

――えっ、当時はトラック通学もできたんですか? 

田島 本当はダメ。でも俺はそういうのは気にしない(笑)。学校のそばに飲食店があるわね、そこん家の駐車場に停めて学校と店を半々くらい通ったかな。時には学校サボって、仲間を荷台に乗せてシートかぶせて、ここから近い渓谷の長瀞とかの河原によく行っていたよ。

 バーベキューなんてしゃれたことはできないけど、適当に何か持ち寄って。今じゃ問題になるだろうけど、トラックで仲間と楽しむということを高校時代に覚えたのかもしれねえな。

――いじめられていた小学校時代とは大違いですね。

田島 そうだね。体もすっかり強くなったし、親からは「卒業したら瓦屋を継げ」とは言われていたけど、まだそんな気がなかったんだよね。それより、小さい頃から「清水の次郎長」を聞かされていたから国を守りたい気持ちもあってよ。たまたま、うちの高校は、番長クラスは海上自衛隊に行く伝統があったの。

 番長はボクシング部の奴で、団長の俺とは兄弟みてえにしてて、二人で学校を仕切っていたんだ。だけど、そいつはプロになるためにジムに入っちゃった。だから自衛隊に行ったのは学校で俺ひとり。後の奴らは警察官とか。みんな、学校では突っ張っていても、自衛隊はすごく厳しいのを知っているから、受ける根性はねえんだよ(笑)。

海上自衛隊は厳しかった

――なぜ海上自衛隊に? 陸上のほうが田島さんが好きなトラックの運転もできそうですが。

田島 海上自衛隊の制服がかっこ良かったんだよね。陸上や航空と並べたら、セーラー服のほうがいいやん(笑)。今はどうか知らないけど、その頃の自衛隊は「入ってくれねえと困る」って、名前さえ書ければ誰でも入れたんだ。だって教官が答えを教えてから問題を出すんだから、当時は全員、受かっちゃう。俺みてえな奴はどこの会社も雇ってくれねえけど、自衛隊なら入れてくれた。

――おおらかな時代ですね(笑)。海上自衛隊に入隊した後、最初はどこで訓練をしたんですか?

田島 海上自衛隊の新人訓練所って全国に呉と横須賀、佐世保、そして舞鶴と4か所あったんだよ。その中でも海軍時代から京都府の舞鶴教育隊が一番、規律も訓練も厳しいって言われてて、俺はその舞鶴に行かされたんだけど、初めはすごいきつかった。だって俺、ひとつも泳げねえから。

――えっ、泳げないのに入隊したんですか?

田島 だって、埼玉、海ねえから(笑)。他の奴らも長野や群馬の海なし県ばっかりよ。だからこそ船乗りへの憧れが強いんだけど、俺らは泳げねえ。もちろん教官は優しくなんて教えてくれねえから、放り出されてアップアップ、水ばっか飲んでて。

 自衛隊のプールは飛び込みができるくらいだから、深いところで4メーターあるの。足がつかないから必死だよね。それでも半年くらいすれば、6時間の遠泳ができるようになるんだけど、脱走する奴は何人かいたな。

600人の同期と「毎晩、海岸でケンカ」

――海なし県の人にとって、船乗りは憧れなんですね。当時、何人くらい同期がいたんですか?

田島 舞鶴だけで600人だったかな。北海道から九州まで体格も体力も自信がある人間が入ってくるから、初めは入隊して毎晩、海岸でケンカしてよ。それで、毎朝、朝礼で教官から発表があるんだ。

――何の発表ですか?

田島 「昨夜のケンカで今日の入院は何人です」って(笑)。結局、「自分が頭になりてえ」っていう、つっぱった男ばかりが自衛隊に来る。俺なんかそいつらの中では体が小さいほうだから、力ではかなわねえ。だからハッタリきかして強い奴を自分の下につけちゃった。そいつは高校の全国相撲大会で活躍した奴で、自衛隊の相撲部でも目立っていたからみんな知ってるんだ。

――そんな強い人がなぜ手下に?

田島 やっぱり体のでっけえのは、気が弱いところがあるんだよね(笑)。それで、ケンカを売るのは俺なんだけど、そいつが後ろにいるから、もうみんな諦める。

 それで、1カ月間ぐらい海岸でケンカしていると、50~60人くらいのグループが10個くらいできるんだ。うちのグループは俺や相撲部のそいつとか数人が頭になって、今度はグループごとに夜の海岸に集まってバカ話で盛り上がる。

――1カ月、男が海岸でケンカしていると、自然と組織ができ上がるんですね。

それでも2年で自衛隊を辞めたワケ

田島 そう。そうなると、ほんと楽で。食堂でも並ばないでいいし(笑)。ただ、何もしないで、頭として認められるわけじゃない。自衛隊はだいたい18歳で入るから、タバコとかいけねえわけなんですよ、一応は。でも当時は吸わねえ奴はいなかった。それである日、便所で隠れて吸ってボヤを起こした奴がいたんだよね。

 そしたら教官が「誰がやった?」って。でも、罰が怖くてやった奴は名乗り出ねえ。案外、そういう時って、人は手を上げられねえもんなんだ。それで600人全員が3時間ぐらい正座させられたり、グラウンド走ったりで、いつまでも終わらねえの。それで、しょうがねえから俺が身代わりで名乗り出てよ。

――田島さんがボヤを起こしたわけではないのに?

田島 そう。一人が犠牲になれば、そこで終わるから。そんなことが何回かあってから、まわりから自然と一目置かれるようになって。まあ、力とか頭とか自分の足りねえところは、そうした行動で補って自衛隊の中では生き抜いてきたかな。そん時に仲良くなった奴らとは、半世紀たった今でも続いてるの。今、ボランティアで被災地を回る時でも、自衛隊員だった全国の仲間が応援してくれるんだ。

――すごい男社会というか、厳しい中でも、楽しそうに聞こえるんですけれども。

田島 ああ、ものすげえ楽しかった。一方で「これでいいんかな?」と疑問も湧いてよ。結局、俺なんかの頃の自衛隊は訓練の時は厳しいんだけど、それが終わったら案外、生ぬるいんだよ。だって船に乗って、毎日、飯を食って戦争もねえからただ体力温存してるだけ。

 世界を見れば冷戦で、国の中は学生運動とか、世の中が混乱してる。ちょうど70年安保闘争のころだったから、右も左も、いいか悪いかはともかく同じ年代の奴らは国を良くしようと、いっぱい頑張ってるわけだよ。それなのに、俺らはこんなに毎日、楽しくやっている。社会から取り残されちゃうんじゃねえかなと。

――楽しすぎて拍子抜けしてしまったということでしょうか。

田島 そう、このままじゃここに埋もれてしまう、と。それで2年で自衛隊を辞めた。そしてちょっと旅に出たんだ。親に黙って辞めちゃったもんで、すぐに帰れねえ。ちょうど高倉健の『網走番外地』っていう映画があったんだよ。それ見て北の大地に憧れて。北海道を旅した後、実家に戻って瓦を運ぶのを手伝いながら、今度は東京に行ったの。

三島由紀夫の身辺警備をすることに

――北海道から戻って、東京では何をされたんですか?

田島 当時、学生たちはいろんな思想のもと、戦ってた時代だった。左は学校の不正とか政治への不満とか、右は学校から依頼されて学生運動を鎮圧する側。警察だけじゃ足りねえって、当時の大学は相撲部とか柔道部とかあのへんの学生も雇っていたんだ。

 俺は学生じゃねえけど、国や社会のために何かしてみたくて。その頃、自衛隊員を応援してくれてた小説家の三島由紀夫を尊敬していたの。その頃の右翼はただ暴れるだけじゃなくて、精神的な右翼思想や活動をちゃんと勉強しよう、っていう人が多かった。

 俺はまだ二十歳そこそこだったけど、国の行く末を純粋に考えてる三島由紀夫を応援しようって。そしたら、たまたま友達が三島由紀夫と関わりがあったんで、俺たちは仲間を50人くらい集めて会を作って身辺警備をやることになった。混沌とした時代だったから狙われたりすることもあるかもしれないし、俺みたいなのでも少しでも役に立てたらと思って。

――あの三島由紀夫さんの警備を? 直接、お話しされることもあったんですか?

田島 いいや、話は一切せん。俺たちは遠まきに警備をしてただけ。あの人のすぐ横にいたのは、早稲田とか東大とか「楯の会」のエリートの子たち。俺なんかだと頭のレベルが違うよね。でも、知ってると思うけど、三島由紀夫が1970年の秋に市ヶ谷駐屯地でクーデターを呼びかけて切腹自殺したの。突然だったから驚いてよ。

――三島由紀夫さんが亡くなられた後も活動は続けたんですか?

「こんな俺でも、少しでも世の中の役に立ってから…」

田島 三島由紀夫が死んだ時、俺は運動をきっぱりやめた。国のために死ねるとか、俺も含めてみんな口では言うんだけど、実際、腹を切って死んだのは三島由紀夫と学生の森田必勝の二人だけ。

 切腹したところを見た訳じゃねえけど、やっぱり俺は国のためには死ねねえ。それを悟った。そしたらもうこんな活動は、嘘っこだなと。口だけ威勢がよくても、できねえことは周りのもんに迷惑かけるからやめようって、仲間たちと会を解散したんだ。

 生きている時はずっと近づけなかったけど、偲ぶ会で仮に置かれた柩の警備をして見送ることができた。一番最期に一番近いところで。それでもう終わりにしようって。

――けれど、三島由紀夫に心酔されていた若い時とは違って、それから田島さんは長い間、世の中のために尽くされてきましたよね。デコトラに出会い、被災地や交通遺児の支援などでつらい立場にいる人たちに寄り添ってきました。

田島 まだまだだけどね。何もできねえ子供のころ、本当に孤独だったから、遺児とか弱い立場にいる子供や困っている人の気持ちが少しは分かる。だから、上から何か理想を語るよりも、一緒になって泥かきしたり炊き出ししたり。そんな地を這うような活動をしているからこそ、同じ人間同士、絆が生まれるのかもしれねえな。

 俺はもう74歳で3年前に大手術して肩まで切った。脊髄が圧迫される、国の難病に指定されてよ。いつまで支援を続けられるか分かんねえけど、こんな俺でも、少しでも世の中の役に立ってから死にてえと思ってるんだ。

撮影=三宅史郎/文藝春秋