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京葉線“ナゾの終着駅”「蘇我」には何がある?

 京葉線という、とんでもない鉄道路線がある。その名の通り東京と千葉の間を、東京湾の海沿いすれすれを走っている路線だ。沿線には東京ディズニーランドや幕張メッセといったマンモス級の集客施設を筆頭に、葛西臨海公園やらイオンモールやら、たくさんの人がこの路線に押しかけるに足る集客施設が目白押し。ついにイオンモール幕張新都心のおかげで、今年の春には幕張豊砂という新駅まで誕生したほどだ。

 もちろん、単に人を集めるだけではない。最近では沿線にたくさんのマンションが建ち並ぶようになって、住宅地としての開発もめざましい。なのでレジャーばかりでなく通勤に使うお客も多く、平日の朝には途中で新木場と八丁堀のふた駅しか停まらないというゴリゴリの通勤快速も走らせている。

 東京と千葉、京葉間を結ぶ鉄道には他にJR総武線や京成線などがある。京葉線はそれらの中で最も後発だというのに、一気にそれらを追い抜く勢いで発展している路線なのである。もう、ディズニーランドだけの路線、などとは言わせない。東京駅の地下ホームが遠すぎる、などという弱点ももはや弱点とはいえないくらいの地位を確立しているのである。

 そんな京葉線の終点は、千葉駅ではない(そもそも千葉駅は通りもしない)。終点は千葉駅の少し南にある、蘇我駅という。

京葉線“ナゾの終着駅”「蘇我」には何がある?

 蘇我、というと、教科書で習ったことがあるのは蘇我馬子だとか蘇我入鹿だとか、聖徳太子の時代の人物くらいである。そんな由緒ある名前を持つ駅ということは、きっと古代ロマンを感じるターミナルなのに違いない……などと、非現実的に過ぎる妄想を胸に抱いて、京葉線に乗って蘇我駅に向かった。

 改めて説明すると、蘇我駅は京葉線の終点であると同時に、内房線・外房線の分岐駅である。

 外房線が千葉駅から南に少し走って蘇我駅に着くと、そこから内房線が分かれる。外房線は上総一ノ宮やら勝浦やらを通って安房鴨川へ。内房線は木更津、館山を経て安房鴨川へ。ふたつ合わせて房総半島をぐるりと回る環状路線だ。そのいずれも、蘇我駅を通る。つまり、蘇我駅は房総半島の入り口のターミナル、という見方もできるだろう。

 そうした事情があるからか、駅の構内は広い。ホームこそ3面6線というごく標準的なつくりだが、海側に何本もの線路が並んでいる。貨物列車を引っ張る機関車がぽつんと寂しそうに佇んでいるが、時間帯によっては長大な貨物列車も走るのだろうか。そこはかとなく、“鉄道の町”の香り漂う蘇我駅のホームである。

コンコースに向かうと壁一面が“とあるもの”だらけに…

 ところが、橋上駅舎のコンコースに向かうとそんなイメージは一変する。コンコースは、壁一面がジェフなのだ。

 ジェフというのはジェフユナイテッド市原・千葉のこと。さすがに改札内のベックスコーヒーまでジェフに染まっているわけではなかったが、だいたいあちこちにジェフのロゴとキャラクター。駅の東西をつなぐコンコースも黄色と緑のジェフカラーが一面にあしらわれている。

 橋上駅舎から繋がっている跨線橋で線路を跨いで海側の西口に出ると、そこもまたジェフである。駅前ロータリーの真ん中にはジェフのキャラクターがかわいらしく待ち受けていて、改めて駅を振り返ると駅舎の壁面にはジェフのロゴが大書されていた。とにかく徹底的にジェフ千葉の駅。それが、蘇我駅の第一印象である。

“ジェフ千葉の駅”は“フェスの駅”でもあって…

 実際に、蘇我駅はジェフのホームスタジアム・フクダ電子アリーナの最寄り駅である。駅の西口からまっすぐ目抜き通りを歩き、国道357号(湾岸道路)を歩道橋で渡って「川崎町」というエリアに入る。

 するとそこに千葉市蘇我スポーツ公園が広がっていて、フクダ電子アリーナはその中核施設だ。ジェフのホームゲームだけでなく、JAPAN JAMやROCK IN JAPAN FESTIVALといったフェスの舞台にもなっている。2005年にできた、千葉市内では比較的新しい施設のひとつである。

 

 ジェフのゲームはともかく、フェスともなれば数万人ものお客がやってくる。それに比して、蘇我駅はなかなか小さいような気がしなくもない。

 湾岸道路を渡ると道幅も広く歩きやすくなるが、駅前からの目抜き通りはやや細い。数万人が一気に押し寄せると、蘇我駅前はそれはそれはたいそうな賑わいというか、混雑というか、そういうことになりそうだ。まあ、年に数回のビッグイベントならば、多少は許容されてもいいだろう。

湾岸道路に広がる「これぞ、千葉」な風景

 さて、フクダ電子アリーナなどがある川崎町と、蘇我駅前の町を隔てている湾岸道路。この道沿いは圧巻である。いくつもの商業施設がずらりと建ち並び、広い駐車場を携えた典型的なロードサイド系飲食店もずらり。大きなトラックから何から、行き交うクルマもまったく途切れることはない。これぞ、千葉、である。

 湾岸道路の一筋東側(駅側)には、房総往還の旧道が通っている。船橋を基点にずっと海沿いを通って館山へ。簡単に言えば江戸と内房地域を結ぶ大動脈だ。湾岸道路はそれに代わる現代の道、ということになろうか。

 なので、クルマ通りの多い湾岸道路を避けて抜け道を決め込むクルマもけっこう旧道にやってくる。それほど幅の広い道ではないので、歩いているとちょっとおっかなく感じるときもある。裏を返せば、蘇我の町はそれだけ交通量の多い大都市の一端、というわけだ。

房総往還を少し歩くと湾岸道路とは対照的な光景が…

 房総往還を少し歩く。ロードサイド系の店が建ち並ぶ湾岸道路とは反対に、どことなく昔ながらの道筋である。まっすぐ直線の湾岸道路に対し、房総往還はところどころで絶妙に曲がりくねる。

 その合間合間で東西に交差している道も幅はあまり広くなく、路地といって過言でない。商店の類いは少なく、この一帯はほとんどが一戸建てを中心とした住宅地である。

 住宅地の中に唐突に巨大な東武ストアが現れ、あとはポツポツとコンビニが。房総往還沿いの数少ない商店はほとんどとうの昔に店を閉じていて、歴史の移り変わりを感じさせる。

「蘇我」に漂う“古代ロマン”はどこから?

 そんな房総往還とJR線に挟まれた町の中に、ひっそり佇むのが蘇我比咩神社だ。日本武尊命の東征伝説にまつわる言い伝えがあり、応神天皇が蘇我氏をこの地に派遣。蘇我氏がこの神社を創建したという。

 もちろん本当かどうかはまったく定かでない古代も古代のお話なので鵜呑みにはできないが、少なくともこうした言い伝えが「蘇我」という町の成立のルーツであることは間違いなさそうだ。

 蘇我の町は、古くは曾我野といった。江戸湾沿いの港のひとつで、曾我野浦として房総半島と江戸を結ぶ海運の要所になっていた。房総の年貢米をはじめ、〆粕や干鰯などを船に乗せ、江戸に運ぶ港町。17世紀半ばには、かの黄門様、徳川光圀も房総半島から鎌倉を旅するときに曾我野を訪れ、船に乗ったそうだ。

 江戸時代の末頃には、房総往還沿いに市街地が形成されていた。183の家が並び、942人が暮らしていたという。今にしてみればだいぶ小規模に感じられるが、房総の港町にしてはなかなかのもの。明治初期のごく短い期間、曾我野藩という小藩が置かれたこともあった。

なぜバリバリの“港町”だった面影が残っていないのか?

 いま、蘇我の町を歩いても、港町としての賑わいの面影は感じることはまったくないといっていい。房総往還筋には古い建物も残ってはいるが、湾岸道路のクルマ通りの多さとは比べるまでもない。町としての中心も例の神社より、圧倒的に蘇我駅前だ。

 というのも、港町としての曾我野は明治に入ると衰退してしまったのだ。理由はひとつ、鉄道の開業である。

 蘇我駅が開業したのは1896年のことだ。現在の外房線に通じる房総鉄道の駅として開業した。1912年には木更津線(現在の内房線)が開業し、現在のような乗り換えのターミナルになった。いずれも明治時代のことだ。

 これにより、東京方面への輸送はすっかり海運から鉄道へ。そうして港町・曾我野は衰退していった。この間の1889年には蘇我野村、さらに1890年に蘇我町となり、1937年に周辺町村とともに千葉市に組み込まれている。

ただ、いまのような蘇我駅前の市街地が形成されるのはまだ先である。蘇我駅周辺は畑地か荒れ地か、いずれにしてもほとんど何もない不毛の地であり、駅前から西に向けて一筋の道が延びているくらいだった。

 この道はいまの蘇我駅の目抜き通りである。目抜き通りは房総往還と駅・鉄道をつなぐ役割で、この道沿いに少しずつ市街地が生まれたが、まだまだいまの蘇我の町とはほど遠い。房総往還より西側はすぐに海。いま湾岸道路が通っているあたりを境界に、すぐに東京湾に面していた。

埋立地計画に、川崎製鉄所…「蘇我」に訪れた戦後の激変期

 大きく変わったのは、戦後になってからだ。

 明治末頃から少しずつ海沿いの埋立がはじまっていたが、それが本格化するきっかけは1940年。内務省による千葉臨海地帯計画が策定され、蘇我の沖合を含む寒川海岸の埋立地造成が決まったのだ。本格的に埋立地の造成が進んだのは戦後で、1952年には湾岸道路から海側の川崎町が誕生している。

 川崎町の名前の由来は、埋立地に進出した川崎製鉄所から。川崎製鉄所は戦後間もない時期に川崎重工から分離独立、のちにNKK(日本鋼管)と合併していまはJFEスチールになっている。この“川崎”は、神奈川県の川崎市とはまったく関係なく、川崎重工のルーツである川崎造船所を興した川崎正蔵さんからとったものだ。

 蘇我駅前の市街地は、こうした製鉄所を中心とした埋立地の工場群を背景に形成されてきた。港町時代からの房総往還の古い街並みはそのままに、工場と一体となって市街化していったのが、蘇我の町、というわけだ。

“貨物路線”のひとつだった「蘇我」という町

 1963年には京葉臨海鉄道が蘇我駅から海沿いに分岐する形で開業、埋立地に進出して千葉貨物駅という貨物駅を開業させている。1988年に京葉線も蘇我駅まで乗り入れるようになった。

 そもそも京葉線は工業地帯の貨物路線として計画されたもので、いまのような稀代の旅客路線になろうとは誰も想像していなかったに違いない。いずれにしても、このあたりまではいかにも工業都市らしい歴史を刻んできた。

 この工業都市としての蘇我の町の本質は、いまも変わっていない。ただ、湾岸道路沿いの工場敷地の一部がさらに沖合に移転したことで遊休地が生まれ、そこに蘇我スポーツ公園ができた。2005年のことだから、ずいぶん最近のお話である。

 そこにジェフが移転してきてホームスタジアムとなり、それまでの工場一本槍だった蘇我の町は、スポーツの町という新しい側面を持つようになったのである。

 曾我野といった時代の面影をかすかに留める房総往還。その道沿いには、比較的規模の大きな一戸建てがいくつも残っている。工業都市になるより前から、この地に暮らしていた人たちの家なのだろうか。そうした古い街並みは工業都市・スポーツ都市に飲み込まれてしまった感はある。

 とはいえ、大都市のターミナルのひとつにも関わらず、駅の周りに多数のタワマンが建っている、というようなことはない。房総往還沿いの古い家の塀には、「マンション建設反対」と掲げられていた。ささやかな抵抗がいつまで続くのかは別として、蘇我の町は“工業都市”としての性質を強くしてきたおかげもあって、昔からの家並みもいくらかは残されたということなのだろう。

房総半島の入り口にして、ジェフのホームスタジアム、そして製鉄所。近世以来の港町と街道町に戦後になってから工業都市が加わった。東京から京葉線に乗って東京湾を眺めながら旅をして、行き着いたところはそんな町であった。

 京葉線のほかの駅の周りを見てみると、すっかり集客施設とタワマンだらけ。もしかすると、この駅周辺もいつかはタワマンが建ち並ぶ街になってしまうのかもしれない。ただ、古今の海沿いの町の歩みが凝縮された、蘇我の町を歩けるのはいまのうち、なのだろうか。