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桑田佳祐作詞・作曲「私はピアノ」を歌った高田みづえは、数多のアイドル歌手の中でも群を抜く歌唱力だった

 1970年代は、テレビ局の公開オーディション番組からデビューするアイドル歌手が多かった。1974年~75年放送のNETテレビ(現・テレビ朝日)「決定版・あなたをスターに!」からは、岡田奈々、大場久美子がデビューした。「スタ誕」の愛称で親しまれた日本テレビ系列局「スター誕生!」は、1971年~83年まで12年間続き、森昌子、桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美、ピンクレディ、中森明菜、渋谷哲平、小泉今日子ら数多くのアイドル歌手を輩出した。「スタ誕」のライバル番組だったのが、フジテレビ系列局で放送された「君こそスターだ!」である。「君スタ」と略称され、「スタ誕」の約2年後の73年10月に始まり80年まで続いた。第1回のグランドチャンピオンは子役でも活躍した林寛子。「まちぶせ」のヒット曲やレッツゴーヤングで太川陽介と司会をした石川ひとみも「君スタ」の出身だ。

 76年「君スタ」のオーディションに鹿児島県出身の15歳の少女が出場し、グランドチャンピオンになった。高田みづえである、高田は幼いころから歌が好きで、地元ののど自慢大会で優勝するなど、いつしか歌手になる夢を見るようになった。新聞配達のアルバイトを続けそのお金で歌のレッスンに通っていたという。そして翌年の77年3月に「硝子坂」でデビューした。

「硝子坂」は、島武実作詞、宇崎竜童の作曲で木之内みどりが同年2月にリリースしたが、高田がデビュー曲として歌った「硝子坂」は、馬飼野康二のアレンジで大幅に変わった。木之内みどりの歌う「硝子坂」は都会的で儚さがあったが、小柄で素朴な少女、高田の歌う「硝子坂」は、声量もあり16歳とは思えないような歌唱力を感じさせた。アイドル歌手とは言われながらも可愛さを売り物にするのではなく、健気に歌う少女然とした高田みづえをいつしか応援するようになった。「硝子坂」は大ヒットし、その後「だけど…」「ビードロ恋細工」と連続ヒットを飛ばした。その年の日本レコード大賞他数々の新人賞を獲得し、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。

 同じ77年にデビューした榊󠄀原郁恵、清水由貴子とは、「フレッシュ3人娘」と呼ばれた。榊󠄀原郁恵は「ホリプロタレントスカウトキャラバン」で初代チャンピオンとなりデビュー曲は「私の先生」。清水由貴子は「スター誕生!」でグランドチャンピオンとなり、「お元気ですか」でデビューした。3人ともどこか雰囲気が似ており、その時代の求めるアイドル像を彷彿とさせるが、歌番組に一緒に出演することも多かった。歌の上手さは高田が他の二人に勝っていた気がする。新人賞を受賞した高田みづえの傍らで、清水由貴子が口ずさみながら応援する場面もあった。49歳で帰らぬ人となった清水由貴子だが、彼女の人柄が伝わってくるようだった。

 しかし、次第にレコードの売上げに陰りが出てきて、79年は紅白歌合戦の出場を逃してしまう。それが、80年「私はピアノ」で再ブレイクするのだ。高田の最大のヒット曲で代表曲でもある。

「私はピアノ」は、サザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲をし、原由子が初めてリードボーカルを担当した楽曲で、アルバム『タイニイ・バブルス』に収録されたものだ。ジャケットに猫が登場し「C調言葉にご用心」や「涙のアベニュー」などサザンの初期の名曲が入っている。

 失恋ソングだけれども高田が歌う「私はピアノ」は心地いいメロディーになって、聴き惚れてしまったのが最初の記憶だ。ラリー・カールトン、ビリー・ジョエルを巧みに歌詞にちりばめた桑田佳祐の世界が全開だが、やはり高田の歌の上手さが光る曲だ。12枚目のシングルでジャケット写真を見ても、20歳の高田は髪型や衣装も大人の女性らしくなっていった。自分で歌ってみて、「私はピアノ」はとても難しい曲だとわかるのだが、そんなことを微塵も感じさせず、高田は一つの世界を作り上げている。

 もちろんピアノを弾きながら歌う原由子バージョンも好きだ。原が歌うと、彼女の独特の声質で哀愁が漂う。この曲の主人公は、失恋の悲しみを自分の分身のようなピアノに語り掛け、ひたすらピアノを弾き続ける。それを高田は能面のように表情を出さず歌い上げているが、反対に原はピアノを弾きながら懸命に歌う姿も印象的だった。

 高田は、「私はピアノ」で第22回日本レコード大賞・金賞や、第11回日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞し、紅白歌合戦にもカムバックを果たした。その後、谷村新司の作詞・作曲の「ガラスの花」、桑田佳祐作詞・作曲の「そんなヒロシに騙されて」、さだまさし作詞・作曲「カーテン・コール」まで全26曲のシングルをリリースした。

 歌手だけでなく、TBSの「8時だョ!全員集合」では体当たりのコントを演じ、日本テレビの「カックラキン大放送」では研ナオコや郷ひろみたちとコメディを演じて活動の幅を広げていた。しかし、同郷の人気力士若嶋津関との婚約を発表、24歳で芸能界を引退してしまう。幕内に昇進した若嶋津関が高田のファンで雑誌で対談をしたことがきっかけだったという。87年7月場所で若嶋津が現役を引退したあとは、松ケ根部屋のおかみさんになり、21年に親方が定年で協会を退職するまで部屋を切り盛りした。

「自分は不器用なタイプだから二つ一緒にすることは無理だ。結婚は女にとって一番幸せなことだと決心した」と悩んだ末に決意したことを、著書『高田みづえの相撲部屋おかみさん』(毎日新聞社)で語っている。著書では部屋の弟子たちとの出来事を楽しそうに綴っているが、「これでもアイドルだったのよ」と笑いながら、親元を離れ辛い稽古の毎日を送る部屋の子たちを励ます姿が目に浮かぶようだ。

 関取が部屋から誕生したときは、親方と一緒に泣き、親方が入院したときは甲斐甲斐しく寄り添う姿も話題となった。まさに気立てがよくしっかりものの鹿児島の女性「薩摩おごじょ」そのものだろう。歌手になるという夢を叶えたがそれを捨て、相撲部屋の縁の下の力持ちとして支え、32年間のおかみさんを卒業した。

「私はピアノ」や「硝子坂」といった私たちの心に残る名曲も残し、潔く次の世界に進み一途に歩んだ、高田みづえに改めて拍手を送りたくなった。

文:黒澤百々子 イラスト:山﨑杉夫