· 

小松姫(稲姫)忠勝の娘にして信之の妻が真田を守る48年の生涯まとめ

元和六年(1620年)2月24日は、本多忠勝の娘であり、真田信之の正室となった小松姫(稲姫)の命日です。

戦国時代の女性としては、帰蝶(または濃姫織田信長の妻)やお市の方(信長の妹)、淀殿(豊臣秀吉の側室)の次ぐらいに有名でしょうか。

戦国系のゲームでもお馴染みですし、大河ドラマ真田丸』では吉田羊さんが演じたことで話題になりましたね。

それだけに創作とされるエピソードも多いのですが……その辺も取り混ぜて、生涯を振り返ってみましょう。

戦国最強武将・忠勝の長女

小松姫は、天正元年(1573年)に本多忠勝の長女・長子として生まれました。

父の忠勝は、立花宗茂と並んで戦国最強武将と囁かれる、家康の右腕ですね。

※以下は本多忠勝と立花宗茂の生涯まとめ記事となります

 

将来の夫である真田信之とは7歳差。当時としてはちょうどいい年齢差でしょうか。

きょうだいには、もり姫、本多忠政、本多忠朝がいます。

忠勝の跡継ぎたちの姉ということも、勝ち気なイメージの元になったのかもしれません。

小松姫の幼い頃は於子亥(おねい)とか稲姫(いなひめ)と呼ばれ、歴史に登場するのは、やはり信之との結婚がキッカケです。

天正の頃(1580年代)に【天正壬午の乱】バチバチと対立していた【徳川家&真田家】の和解を図るべく、小松姫と信之(当時は真田信幸)の結婚が決まりました。

事の経緯と、結婚した年にはいくつかの説がありますが、婿選びの際の逸話が有名ですかね。

それはこんな話です。


結婚相手候補たちの髷を掴んで顔を確認した!?

父の主君である徳川家康が、家中の若い将たちを集め、小松姫に相手を選ばせようとしました。

そのとき彼女が、一人一人の髷(まげ)を掴んで顔を上げさせて確認した……というものです。

なぜ皆が黙ってされるがままになっていたのか?

というと、小松姫が家康の養女として嫁ぐことになっていたからです。

その中で真田信幸一人だけが違う対応をしました。

「無礼な」と叱咤し、鉄扇で小松姫の顔を打ったのです。

小松姫は信幸の気概に感動し、結婚を承知した……とされていますが、これはさすがに^^;

どっちもどっちですし、当時の常識的にヤバイので、創作でしょうね。

そもそも、信之と小松姫の結婚は真田家と徳川家の和解のためですから、結婚相手を選ぶ意味も必要もありません。

後述する関ヶ原でのエピソードと合わせて、

「小松姫は自分の意志をきっちり持っている女性だった」

ということを強調するためのものかと思われます。

 

上方で正室の仕事を担っていた

菊姫武田信玄の娘にして上杉景勝の妻)や他の大名の正室たち同様、次に小松姫の動きがわかるのは【小田原征伐】の後です。

豊臣秀吉が諸大名の妻子を上方に住まわせるようになってから、小松姫も上方に来ていました。

この頃、信之の正室としての仕事を受け持つようになったと思われます。

それまでは、真田信綱の娘(清音院殿)が信之の正室でした。

しかし、清音院殿はずっと沼田にいたので、家康の養女である(とされる)小松姫のほうが上方向きとされたのでしょう。

他に何か差し障りがあったかもしれませんね。

こう書くと、いかにも打算だけで小松姫が上方に来たような感じになってしまいますが、夫婦仲は決して悪くなさそうです。

信之の子供のうち、少なくとも二男二女は小松姫が産んでいるとされています。

長男・信吉は清音院殿生まれ説もあるのですが、大事なはずの長男の生母がハッキリしていないって、うーん……(´・ω・`)

昌幸&信繁親子を沼田城の前で追い返す

そんなわけで、秀吉時代以降は上方にいたとされる小松姫。関ヶ原のときには沼田城での逸話が伝わっています。

この話は文献でも人名がはっきり書かれていないので、学者先生方の間でも意見が分かれているようです。

それを踏まえた上で、有名な逸話をご紹介しましょう。

関が原の戦いの前、小松姫の夫・真田信之と、その父・真田昌幸&弟・真田信繁は袂を分かちました。

いわゆる「犬伏の別れ」というやつで、これは真田信繁(真田幸村)の記事にお譲りしますね。

ともかく自分の旦那は、父&弟と敵味方になった。

そんな折、敵となった真田昌幸が上田城への道すがら、沼田城へ立ち寄り、小松姫に対し「孫の顔を見たいから中に入れてくれ」と頼みます。

そこで「孫の顔を見たい」と言った真田昌幸。

小松姫は不審に思い「いくら義父上でも、殿のお留守中に勝手に入れる訳にはいきません」として断ります。

昌幸が城を乗っ取るつもりでいた――それを小松姫が見抜いていたと伝わるものです。

「昌幸はおとなしく引き下がったが、夜になってから小松姫は子供たちを連れて昌幸の陣を訪れた」

「侍女に宿を案内させた」

というパターンもありますね。

結婚のエピソードと同様、全てが事実とは信じがたいところであはります。

「小松姫は花も実もある女性だった」ということを強調するために、語り継がれてきたのでしょう。

この時期、小松姫は上方で人質になっていた可能性もありますし。

小松姫は割ときっちりけじめをつけるタイプだったようで、一度敵対したからといって、いつまでも義実家を敵対することはありませんでした。

関ヶ原の後、夫とともに昌幸・信繁に仕送りをしており、武家の人間らしい切り替えを見せています。

「一人ぐらい討ち死にすれば!」

次に小松姫の有名な逸話が出てくるのは【大坂冬の陣】のときのことです。

このころ信之は病気になっており、出陣できなかったため、代わりに長男・真田信吉と次男・真田信政が参加しました。

二人とも若年のため、小松姫の弟である本多忠朝の陣に参加することで、折り合いをつけています。息子たちにとっては叔父さんですね。

小松姫はこのとき、信吉の家臣に向けてこんな手紙を書いております。

「息子はまだ若いので、いろいろ至らないことも多いでしょう。信之殿に免じてよろしく奉公してやってください」

カーチャンらしい気遣い……といいたいところですが、二人の息子が無事役目を終えて帰ってきたとき、小松姫は

「一人くらい討ち死にすれば、我が家の忠心が示せたのに!」

と言ったという逸話があります。

飴がなさすぎる上に鞭が強すぎだよ、カーチャン(´・ω・`)

とはいえ、信吉や信政と小松姫が大ゲンカしたという話もないので、息子たちのほうはカーチャンの気質をよくわかっていたのかもしれませんね。

 

病気療養のため草津温泉へ行く旅の途中

そんな小松姫が亡くなったのは、大坂夏の陣から四年後、元和6年(1620年)のことです。

この頃もやはり、諸大名の妻と同様江戸にいたと思われますが、病気療養のため草津温泉へ行く旅の途中だったとされています。

そんな重病人に長旅をさせたのか、という気もしますが、「駕籠で移動するから、旅程に余裕を持てばおk」と考えられたんですかね。

享年48。

遺骨は小松姫が帰依していた勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺(当時は常福寺)の三ヶ所に分骨され、さらに信之は上田城下と松代城下でそれぞれ小松姫の菩提を弔うためのお寺を建てています。

それだけ小松姫に感謝していたのでしょうね。

夫婦間のエピソードはあまり伝わっていませんけれども、信之が家中や幕府との関係に悩んだときなど、小松姫がアドバイスするようなこともあったのかもしれません。

戦国武将の妻が主役になる創作物というのはあまり見られませんので、そういった夫婦の会話にも力を入れて誰かに物語化していただきたいなぁ。

史実のお市の方(信長妹)はどんな女性だった?どうする家康   北川景子

戦国一の美女と囁かれる「お市の方」。

大河ドラマ『どうする家康』でも北川景子さんが演じて話題ですが、戦国ファンにとっては織田信長の妹、あるいは浅井長政柴田勝家の妻としてかなり知られてきた存在です。

長政は兄同然に慕っていた信長を裏切り、天正元年(1573年)9月に滅亡。

その後、再婚した柴田勝家は天正11年(1583年)4月に、豊臣秀吉との戦いに敗れ、お市の方と二人で自害します。

それが天正11年(1583年)4月24日のこと。

2人が自害すると、お市の方の娘たち――いわゆる浅井三姉妹(茶々・初・江)は秀吉に引き取られ、長女の茶々が秀吉の側室「淀殿(よどどの)」となり豊臣秀頼を産むわけですが……。

波乱に満ちた生涯とはこのこと。

まさに戦国時代を動かした女性とも言えますが、今回はこのお市の方の生涯を振り返ってみましょう。

※以下は柴田勝家の生涯まとめ記事となります

お市の方は生年も結婚年も不明だった

戦国時代の女性は謎多き人物が多いですが、お市の方もまた同様。

通説によると生まれは天文16年(1547年)とされていて、兄・信長の13歳下となります(信長は1534年生まれ)。

父は織田信秀で、母は土田御前

しかし両親については不確定なところがあり、本当は「信長のいとこ」だったのが輿入れの際に「信長の妹」ということにしたのではないか?という指摘もあります。

彼女の経歴が明らかになるのは、この輿入れからとなり、嫁ぎ先はすでにご存知の方も多いでしょう。

北近江の浅井長政です。

ここで問題が一つ。

お市の方は、いつごろ長政に嫁いだのか?

実は、信長の事績を細かに示す『信長公記』にも掲載されておりません。

そのためお市が嫁いだ年は以下のように

・永禄4年(1561年)
・永禄6年(1563年)
・永禄11年(1568年)

と諸説あるのです。

そんな細かいこと気にすんなよ……と私自身も言いたくなりますが、実は嫁いだ年によって大きく変わってくる重要なことがあるのです。

浅井長政の長男・万福丸です。

この万福丸が永禄7年(1564年)生まれなんですが……果たしてお市の実子かどうか? 結婚した年によって変わってきますよね。

その考察は後述するとして、ここでは仮に永禄11年(1568年)に結婚したとして話を進めたいと思います。

というのも永禄11年(1568年)は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした大きな節目だったからです。

上洛のための政略結婚が成立

お市の兄である信長は若い頃から苦労の連続です。

父・信秀から家督を継いだのが天文21年(1552年)。

その後は弟の織田信勝はじめ他の親類に幾度も裏切られながら、14年かけてようやく1565年に尾張統一を果たしました。

同時に美濃への進出も進めていた信長は、永禄10年(1567年)に斎藤龍興を追い出して美濃を制すると、本拠地を岐阜へ移転。

問題はこの先です。

以下の地図をご覧の通り、織田信長の岐阜城から西の京都へ進むには、浅井長政の小谷城付近を通らねばなりません。

※右から岐阜城(黄)、小谷城(紫)、六角氏の観音寺城(赤)、御所(黄)

尾張と美濃を有する信長にとって、北近江だけを領国とする浅井氏は、国力で見れば格下です。

しかしその北には浅井の同盟相手・朝倉義景がいて、真っ向から対戦すれば織田家は二国を同時に敵に回してしまう。

それよりは政略結婚で浅井と同盟を結んでしまった方が早い。

お市の方は、そうして浅井家に嫁ぐことになったのでした。

 

仲睦まじい二人 長政とお市

幸いお市の方は、嫁ぎ先の浅井長政とは仲睦まじい関係だったと思われます。

というのも、永禄11年(1568年)に嫁いだその翌年から、実に1年おきに娘を出産しているのです。

俗に【浅井三姉妹】と呼ばれる女性たちで、いずれも名だたる武将たちに嫁いでいます。

浅井三姉妹の生年

①茶々:永禄12年(1569年)
→豊臣秀吉の側室

②初:元亀元年(1570年)
→京極高次の妻

③江:天正元年(1573年)
→徳川秀忠の妻

もし永禄4年や6年に嫁いでたとしたら、数年間子供ができず、永禄12年を皮切りに突如3人もの娘を約1年おきに恵まれたことになります。

もちろんそういうケースもあるでしょうが、戦国大名はいち早く子供を欲するものです。ゆえに嫁入りは永禄11年説とした方が自然でしょう。

実際、お市の方と浅井長政は互いに愛し合っていたようで、後に長政が信長と戦争状態に陥ったときも、

長政「信長公のもとへ帰れ」

お市「ならば、ここで殺しておくれ」

なんてヤリトリがあったと伝わります。

戦国時代の女性は、嫁ぎ先より実家を優先する傾向がありましたが、絶世の美女として名高いお市の方は、同時に女性としての情を優先する方だったのかもしれません。

話を戻します。

小豆袋の話はウソだけど……

お市の輿入れによる同盟が功を奏したのでしょう。

織田信長は永禄11年(1568年)に将軍・義昭を奉じての上洛に成功。

これにて織田と浅井の両国もより一層結びつきは固くなるはずでしたが、友好関係は長くは続きませんでした。

2年後の元亀元年(1570年)、突如、織田軍が越前の朝倉へ攻め込んだからです。

前述の通り浅井と朝倉は同盟を結んでいます。その関係を無視したまま信長が朝倉を攻撃すれば、浅井としては立つ瀬がない。

ゆえに越前攻めはしない――という方針でしたが、信長はこれを破って朝倉方の天筒山城を落城させると、次に金ヶ崎城を秀吉の調略で開城させ、更に北へ進軍……このとき事態が勃発しました。

浅井長政が信長を裏切り、挙兵したのです。

信長の背後に襲いかかり、浅井と朝倉で織田軍を挟み撃ちにする作戦でした。

このときお市の方は兄・信長へ【両端を縛った小豆袋】を送り、織田軍が「挟撃に遭う」ということを暗に知らせたと言います。

こちら、後世の作り話と思われますが、単なる妄想とも言い切れません。

というのも、お市の方が浅井家に嫁ぐ際、密かにスパイとして同行させていた信長の家臣が、いち早く織田軍に危険を伝えたのでは?という可能性もあるからです。

いずれにせよ絶体絶命に陥った信長は、金ヶ崎から大慌てで逃げ出し、どうにか事なきを得ました。

なお、このとき豊臣秀吉と並んで織田軍の殿(しんがり・最後尾で敵を引きつける役)を担ったのが明智光秀たちです。

浅井家の裏切りは、いわば秀吉と光秀を出世させた契機であり、この撤退戦は【金ヶ崎の退き口】として後世に知られます。
歴史にIFは禁物ながら、もし浅井長政が裏切りなどしていなかったら、織田政権での長政は秀吉や光秀より上のランクにいた可能性が高そうですよね。

夫と兄が血みどろの戦いを繰り広げ

夫の裏切りにより兄がピンチに陥り、結果、両家が激突――。

お市の方としては立場がありませんが、この後も長政との間に次女(初)と三女(江)を産んでますので、二人の仲は崩れなかった模様です。

ただ……厳しい日々だったことは間違いないでしょう。

元亀元年(1570年)に【姉川の戦い】が勃発してから天正元年(1573年)まで。

織田と浅井は血みどろの戦いを幾度も繰り返し、ついに浅井家が滅ぼされてしまったのです。

前述の通り、夫の長政から「信長公のもとへ戻れ」とされていたお市の方(と浅井三姉妹)は、ついにその言を受け入れ浅井家から織田家に出戻り。

問題は、まだ9歳の長男・浅井万福丸でした。

合戦の混乱にまぎれて小谷城から脱出を果たしていたのですが、程なくして秀吉に捕らえられると、関ヶ原で串刺しにされてしまっています。

ここで考えたいのが、万福丸の実母です。

もしも、お市の方が生みの親だった場合でも、信長は万福丸を殺していたか?

一つ参考になる例があります。

信長に対して謀反を企み、謀殺された弟の織田信勝です。

信長に殺されたとき、信勝には「津田信澄」という男児がおりました。

謀反者の男児は生かしておかない――という鉄則に従えば殺さねばならない場面で、信長はこの甥っ子を許し、自らの家臣にするため育て上げているのです。

身内や家臣にはかなり優しいところもある信長。

ですので万福丸が血の繋がった甥っ子だったら助けていたのではないでしょうか。

それにお市の実子でしたら、彼女が何らかの命乞いをした記録や言い伝えが残っていてもよさそうです。

ちなみに長政には、お市の方と結婚する前に「平井定武の娘」と結婚していた経歴があり、さらには側室もいて、最大で4人の男児をもうけていた可能性も指摘されております。

長政の男児

・万福丸
・喜八郎
・円寿丸
・万寿丸

妻はお市の方だけ――そんなイメージもあっただけに意外ですね。

まぁ、男児が生まれてこないと浅井家の存続にかかわりますので、側室を迎えるのも自然なことだとは思います。

 

織田家に出戻りしていたら突然の本能寺

夫を殺され織田家に出戻りしたお市の方(と三姉妹)。

その後の彼女らはどうしたか?

実はこれも詳細は不明で

◆清洲城主だった織田信忠に預けられた

◆上野城主(伊勢国)だった織田信包(信長の弟)に預けられた

といった諸説あります。

ただ、天下人・信長の妹(と姪っ子)だけに、不自由のない生活だったことは間違いないでしょう。

お市の方は信長が再婚を勧めても断っていたと言います。

すでに彼女には3人の娘がいますし、これ以上、子供を産む必要がないと思ったか。亡き長政への愛なのか。あるいは他家に嫁いで、これ以上、戦乱に巻き込まれるのがイヤだったか。

いずれにせよ織田信長という稀代の人物の妹として、平穏な道を歩むことは許されません。

天正10年(1582年)6月、【本能寺の変】が起きたのです。

このときお市の方たちがどこにいたのかは不明です。

おそらく尾張か伊勢だったのでしょう。頼るべき兄を突如殺され、ヘタをすれば自分自身たちも殺されかねない。

混乱する織田家の状況を一変させたのは豊臣秀吉でした。

中国大返し】と呼ばれる凄まじいスピードで備中高松城から京都までやってくると【山崎の戦い】で明智光秀を打ち破ったのです。


他の織田家武将たちが右往左往している中、いち早く毛利と講和を結び、凄まじい早さで光秀のクーデターを鎮圧。

次に迎えたのが清州会議。

お市の方の運命を変えるイベントでした。

清州会議は秀吉の一方的勝利ではない!?

この会議で中心になった織田家の重臣は以下の通り。

清州会議

・豊臣秀吉

柴田勝家

丹羽長秀

池田恒興

関東に出兵していた滝川一益は参加不可能と診断され、上記4名での話し合いが行われたのです。

会議は主に

・次の織田家当主(三法師

・所領の分配

であり、お市の家族についても論じられると「勝家殿に嫁いでいただこう」ということになりました。

信長亡き後、誰かの庇護無しに生きていきてはいけない彼女たち。「秀吉が勝家を丸め込むために結婚を仕向けた」ともいわれていますが、そう単純なものではなかったようです。

存在感の大きな信長の妹を妻にできれば、勝家の立場が強まります。

巷で言われてるように【一方的な秀吉勝利の会議ではなかった】んですね。

信長の息子達はいろいろ問題があって叔母の庇護どころではありませんでしたし、ひとまず当主になった三法師(信長の孫で後に織田秀信)はまだ二歳でした。

「勝家がお市に惚れてるのを知ってたから」と見る向きもありますが……勝家とお市は25歳も離れています。

いくら年の差婚が当たり前の時代とはいえ、娘と考えたって不思議はない年齢差。

信長死後のドタバタで勝家はとんでもなく忙しかったわけですから、実際のところ夫婦らしく過ごした時間はほぼなかったでしょう。

なにせこの清州会議(1582年)から程なくして秀吉と勝家は【賤ヶ岳の戦い(1583年)】で真っ向からぶつかるのです。

賤ヶ岳から北ノ庄城まで約110km

賤ヶ岳の戦いとは、どんな合戦だったか?

結論だけ申しますと、佐久間盛政の突撃で戦線が動き、さらに前田利家の戦線離脱で秀吉が勝利を得ました。

当初、利家は柴田軍の一翼を担っていたので、端的に言えば柴田勝家を裏切って秀吉についたのです。

豊臣秀吉と柴田勝家が織田家の後継を巡って直接ぶつかった――賤ヶ岳の戦いは、前田利家の戦線離脱などもあり秀吉の勝利となりました。

合戦に敗れた勝家は本拠地・北ノ庄城へ帰ってきました。

現在の福井城ですね。

この城は、賤ヶ岳から現在の道路で110km程度しか離れておらず、すぐに秀吉もやってきて包囲戦が始まります。

先鋒は突如戦線を離脱した後、秀吉方についていた前田利家。

他にも黒田官兵衛など賤ヶ岳とその付近で功を挙げた武将たちがたくさんいました。

24日の明け方に秀吉方が本丸にまで押し入ると、夕方には勝家とお市、そして、最後まで残った数十人の配下が自害したといわれています。

お市には、逃げるようにすすめていた!?

実は勝家は、北ノ庄城へ帰ってからお市に「逃げよ」と勧めたといわれています。

しかし、お市自身が「二度も逃げたくない」といって拒否。

勝家と自害する道を選んだのですが、勝家としては「愛する女性に生き延びてほしい」というより「まだ若いし、これからが大事な娘たちもいるから、母親がいなければダメだ」と思ったのではないでしょうか。

愛する妻を見る目というより、大切な元主君の妹という風に思えてきます。

お市が自害を選んだ理由としては「秀吉が嫌いだったから」とか言われたりもします。

果たしてどうでしょうか。

娘達を直接秀吉に渡したあたり、100%嫌いとも言えない気がします。

本当にイヤだとしたら、何としてでも秀吉ではなく違う武将の下へ落ち延びさせたのではないでしょうか。

信長の存命中から浮気性で有名だった秀吉ですから、女癖の悪さがお市の耳に届いていた可能性は否定できません。

ただ、伝えられているお市の言動から「勝家や秀吉に対してどう思っていたか」をうかがい知ることはできないのが歯がゆいですね。

 

二人の辞世に同じ言葉「ほととぎす」

辞世の句からも、単なる政略結婚とか、「秀吉が嫌いだから勝家と仕方なく運命を共にした」というわけではない気がします。

二人の辞世に勝家と同じ「ほととぎす」という言葉が入っているのです。

いつも通りの意訳と共に掲載させていただきます。

◆お市
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
【意訳】「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね」

◆勝家
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
【意訳】「夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ語り伝えてくれまいか」

辞世に返歌をする、というのは度々ありますが、同じ単語を入れるというのはなかなかありません。

ほととぎすは古来からその声の美しさや「夜に鳴く」という特徴を愛でられてきた鳥で、和歌にもたくさん詠まれています。

もしかするとこの二つの辞世では、秀吉のことをさしていたのかもしれませんね。

どちらが先に読まれたのか。

そもそも本当に二人が詠んだものかという証明ができないのでアレですけれど。

もしお市が先に詠んで覚悟の程を示し、勝家がそれを了承する意味で同じ「ほととぎす」という言葉を入れて自分の辞世を詠んだとしたら……そこには単なる恋慕や夫婦関係ではない、戦国ならではの信頼と愛情があったのではないかな、と思います。

美化しすぎですかね?

いずれにせよ織田家を思う勝家の気持ちと、お市の方の誇りには、一点の曇りもない気がします。

長月 七紀・記

【参考】
小和田哲男『信長の婚姻政策とお市の運命』(→amazon
橋場日月『政略の犠牲となった信長の妹・お市』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち~70人の数奇な人生~』(→amazon
国史大辞典
柴田勝家/wikipedia
お市の方/wikipedia