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特攻服を着た暴走族が渋谷に集結。「レディース総長と副総長」のみの音楽ユニットデビュー秘話

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は廃刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。  私が編集長を務めていた当時、本物の「暴走族」の取材に行くわけですから、じつに様々なハプニングが日々起きていました。命の危険まで含めて怖い体験も多々ありましたが、もちろん、それだけではありません。“良い意味”でも思い出に残る出来事がたくさんありました。今回は、私が担当した中でも“いちばんの良い思い出”と言ってもいいくらい大きなプロジェクトのお話をしたいと思います。

レディース総長+副総長で音楽グループを結成、メジャーデビュー

 

『ティーンズロード』1995年2月号の表紙

 ティーンズロードが社会現象を巻き起こし、雑誌の実売部数は毎月のように伸びていきました。そして、それを知った各メディアや企業さんから、人気のあるレディース総長たちにインタビューやコラボをしたいという問い合わせが編集部にくるようになったんです。  その中でも印象的だったのが、某レコード会社から「本物のレディースだけで音楽グループを作りたいので協力をしてくれないか?」という相談でした。これが最大のオファーかもしれません。ヤンキー系バンドとしては「ダウンタウン・ブギウギ・バンド」や「横浜銀蝿」が有名でしたが、女性のみのグループとしてはなかったはずです。 「もしも普段の暴走行為や喧嘩に費やしているエネルギーを芸能界という場所で発揮できたら……」  私はそう考えて、すぐさまオファーを承諾し、関係者との打ち合わせを開始しました。  レコード会社の希望としては「ティーンズロードで人気がある女の子を数人集めて“メジャーデビュー”させ、アーティストとして全国展開させたい」とのことでした。  私は「それではティーンズロードで人気がある全国のレディースチームの総長、副総長に声をかけてみましょう」という提案をして、キャスティングするメンバーを選出しました。  そして、彼女たちのいる地方へレコード会社のプロデューサーと共にスカウトの旅に出かけたのです。

メンバー候補者の自宅で…

右上が栃木の「北関東硬派連盟貴族院女族」2代目総長のかおりさん(写真は筆者提供)

 当時、彼女たちは未成年だったので、デビューにあたって保護者の承諾も取らなくてはならないという事情もありました。一人ひとりの自宅まで行くわけですが、オファーをかけた候補者の中には親御さんがヤクザの組長をやられているという女の子もいて、たくさんの提灯と組の名前が飾られた事務所でドキドキしながら話をするといった場面もありました……。私もプロデューサーも人生初めてのことだったのでビビッたことを覚えております。  ともあれ、オファーをした中で保護者にも承諾していただいてデビューが決まったのは4人のレディース総長と1人の副総長。 【参考記事】⇒伝説の“レディース総長”が令和の時代にバズるワケ。SNS総再生回数は1700万回超え  先日ご紹介した令和の時代にSNSで大バズリし、2000万回再生という数字を叩き出し、今年7月に自叙伝『「いつ死んでもいい」本気で思ってた…』(大洋図書)を発売した栃木の「北関東硬派連盟貴族院女族」2代目総長のかおりさんをはじめ、読者の人気が高かった「秋田」「岩手」「三重」「京都」からメンバーが決定したわけです。

一触即発? メンバーたちの初顔合わせ

スタジオ撮影の様子(写真は筆者提供)

 メンバー全員が各地方では顔と名前が知られている人物ばかりなので、当然そんな彼女たちがグループを結成するとなったらヤバいことになるかも……と、初顔合わせのときには、喧嘩の懸念も含めてかなり緊張しましたね。  顔合わせの結果としては、最初の1時間ぐらいはお互いに距離を置いていたのですが、メンバーの1人が「あんた〇〇の〇〇でしょ? いつもティーンズロードで見てたよ!」的な会話を発した途端、「総長あるある」的な話で盛り上がり、打ち合わせが終わる頃には「仲良し5人組」になっていたのです。  いくらレディース総長とはいえ、まだ10代の女の子たち。話が合えば、すぐに打ち解けられるんだな~とホッとした記憶があります。

禁止事項だらけでも“せっかくのチャンスを逃したくない”

 

「鬼風刃」のジャケット写真

 こうして結成したヤンキーガールズユニット名が「鬼風刃」(きふうじん)です。  “鬼のように風を刃って走る”という意味らしいのですが、当初ユニット名を本人たちで決めるはずだったのですが、それぞれの主張が強すぎてまとまらず……結局はレコード会社の人が決めたそうです(笑)。  そして、華々しく芸能界デビュー! しかし、そこからが大変です。  芸能活動をするわけですから、今までのように喧嘩するなど、好き勝手な行動はできなくなります。レコード会社の偉い方々も彼女たちを抑え込むのは並大抵ではなかったと思います。タバコやシンナー禁止などの法律的なNG事項はもちろんですが、テレビの生放送で「放送禁止用語は絶対使わない」などの決まりもあったそうです。

元レディース総長・かおりさんの現在の姿(撮影/藤井厚年)

 前述のかおりさんは当時のことをこう言います。 「レコード会社から言われた禁止事項をぜんぶ守るのは、私たちに『死ね』って言ってるのと同じですよ(笑)。でも、せっかくのチャンスを逃したくないって思いで頑張りましたけどね。レディース総長としてデビューするのにヤバいことをぜんぶ禁止されたら、たんなるコスプレアイドルみたいになっちゃうよねって、メンバーとも話していましたよ」  確かに本物の暴走族をデビューさせるというのがコンセプトなわけですから、当時の彼女たちが大人の事情や矛盾に対して疑問を持つのは当然です。  やりたい放題に暴れてきた彼女たちにとっては、いきなり優等生みたいにふるまうことを求められても難しかったでしょう。ましてや本業がタレントというわけではないので、それぞれの地元から芸能活動がある時にだけ東京へ来ていましたので……。  実際、生放送に出演した際には番組MCのタレントさんや出演者の方に大きな声で「あいつ気に入らね~」とか「テメ~帰れよ!」と言ったり……テレビのスタッフや関係者の方々は心臓が止まる思いだったはずです。

“特攻服に族車”で渋谷のライブハウスまで応援に来るひとたち

ライブの様子(写真は、筆者提供)

 今考えると、こんなプロジェクトをやろうと言った某レコード会社の決断には脱帽しますが、デビュー後、初のワンマンライブの時もドキドキでした。渋谷の有名ライブハウスまでやってきて、この人たちを応援するのは、メンバーの地元の暴走族がほとんどです。渋谷まで特攻服を着て族車に乗ってくる人たちもチラホラ……。  何も起こらないわけがありません。  しかし、予想に反してライブに来てくれたお客さんたちは何も問題を起こすこともなく、ライブは大盛況で終わりました。やはり“仲間の晴れ舞台を台無しにしたくない”という気持ちが強かったのかもしれません。彼らの統率力には感心しました。  その後「鬼風刃」は2年間の芸能活動で2枚のシングルと1枚のアルバムを発売し、引退しました。彼女たちにとっては初めての大人の社会でしたが、良い経験になったことは間違いないと思います。  私は現在も彼女たちと連絡を取り続けていますが、全員が主体性をもち、社会人としてしっかりと生きております。  令和時代にテレビやメジャーシーンでこんな無謀なプロジェクトをやることは不可能だと思いますが、良い意味であの頃は大人も子どももチャレンジできた時代だったと思います。  誤解を恐れずに言えば「コンプライアンスだらけの世の中では良くも悪くも何も生まれない」と思ってしまうのは私だけでしょうか。 <文/倉科典仁(大洋図書)>

倉科典仁(大洋図書)
伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』をはじめ、改造車だけを扱うクルマ雑誌『VIP club』や特攻服カタログ『BAMBO』、渋谷系ファッション雑誌『MEN’S KNUCKLE』など、数々の不良系雑誌の編集長を務めて社会現象を起こす。現在は、大洋図書発行の実話誌『実話ナックルズ』のYouTubeチャンネル「ナックルズTV」や、ギャル男雑誌『men’s egg』をWebで復活させたYouTubeチャンネル「men’s egg 公式」のプロデューサーとして活躍中。

伝説の“レディース総長”が令和の時代にバズるワケ。SNS総再生回数は1700万回超え

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は休刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。

カリスマ的な人気を誇った伝説のレディース総長「かおり」

 

レディース総長だった頃のかおりさん。写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 今回お話するのはティーンズロードでカリスマ的な存在だった「北関東硬派連盟貴族院女族」元2代目総長のかおりさんについて。  全国各地の様々なレディース総長に会ってきた私ですが、彼女はその中でも5本の指に入るほど、良い意味でも、悪い意味でも、「逸材」だったと記憶してます。  当時の彼女は17歳。初めて会ったのは30年以上前のことです。彼女が総長をやっていた女族(じょぞく)から編集部に「取材してもらえませんか?」という連絡が来たので、私たちは栃木県の某所に向かいました。  そこにいたのがかおりさんなのですが、最初からインパクトが強く、切れ長の目と17歳にしてはどことなく色っぽい雰囲気が印象的でした。後に聞いた話では「16歳からスナックの雇われママをしていた」そうなので、大人っぽい感じがしたのかもしれません(と、軽く話しておりますが、本来は“16歳でスナックの雇われママ”自体がありえないことなのですが……)。

家庭環境から不良の道へ…

写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 そんな彼女は喋り方がどことなくカタコトだったので「もしかして他の国の人?」と聞くと「私、台湾人なんです」。やはりそうだったのかと納得し、なぜ日本でレディースの総長になったのかインタビューしました。 「生まれたのは台湾の台北市。早くに両親が離婚して、母親が出稼ぎのため日本に行ったんだけど、私も小学5年生のときに日本に来た。でも結局は母親の仕事の事情もあって、一緒に住むことができなくて……。親と一緒に住んだ記憶なんてほとんどなくて、そうこうしてるうちに学校で台湾人ということでイジメにあって、ブチ切れたり、シンナーや万引きをやるようになって、同じような子たちとツルんでいるうちにレディース作ろうって話になったわけ」  まあ、たしかに話を聞くと、家庭環境が彼女を不良の道へ行かせてしまったんだろうと思いました。しかし、彼女はタダの非行少女とは根性の入り方が違うというか、とにかく喧嘩するのが大好きらしく、それもターゲットは女ではなく男。チャラい男を見つけると喧嘩を売ってボコボコにしていたらしいのです。 「女に喧嘩を売ってもたいてい向こうが引いちゃうから喧嘩にならないんだよねー」と彼女。  彼女は喧嘩で勝つために、電信柱を殴ってこぶしを鍛えたり、足のすね(弁慶の泣き所)をビール瓶で叩いて鍛えたり……。また、常に100円ライターをポケットに忍ばせ(握りながら殴ると自分の指が骨折しないらしい)、バッグの中には大きな石を入れていたそうです(顔面を目掛けてフルスイングするとか……)。

「総長になってからがいちばん真面目」

写真は、雑誌『ティーンズロード』より

 とはいえ、かおりさんも女性です。だれかれ構わず喧嘩を売っていると、時には相手が暴力団でボコボコにされてしまったり、拉致されて襲われそうになったりと、命の危機を何回も感じたことがあったようです。  かおりさんは、当時のことをこう振り返ります。 「私は女族というチームで総長になってからが、いちばん真面目だったかもしれない。だって『シンナー厳禁』『特定の男以外と付き合うの禁止』『時間厳守』『仲間を守る』等々、いろんな規則を作るわけでしょ。総長の私が守らなかったら示しがつかないじゃない。それまでは“いつ死んでもいい”って思っていたけど、信頼できる仲間と居場所ができたんで、逆に無茶なことはやらなくなったよね(笑)」

あまりの人気に「鬼風刃」として

CDデビュー

 

音楽ユニット「鬼風刃」としてデビュー。右下がかおりさん。写真は、雑誌『ティーンズロード』の表紙

 彼女がティーンズロードに出るようになってからファンレターや似顔絵など、多くの読者から応援の手紙が届くようになりました。みるみるうちに人気が上がっていったのです。  あまりの人気に女族を引退してからもティーンズロードでは「かおりちゃんの相談コーナー」や「ファッションインタビュー」、当時やっていた「ティーンズロードビデオ」でもレディースチームを取材する際のリポーターとして活躍してもらったほどです。  ある日、某レコード会社から「本物のレディースたちでCDデビューを企画しているので協力してくれないか?」と編集長だった私のもとへオファーが届きました。  私はかおりさんを含め、当時読者人気の高かったレディース総長、副総長に声をかけました。そして、5人組の本物のレディース音楽ユニットが誕生したわけです。  チーム名は「鬼風刃(きふうじん)」と名付けられ、芸能活動が始まりました。各種メディアのインタビュー取材、テレビ出演、レコーディングなど、彼女たちにとってはまさに別世界です。生放送中に他の出演者とあわや喧嘩になりそうになったこともありました。  ただ、メンバーの中では、かおりさんは早くから水商売もしていたせいか、人当たりがよく、大人たちとのやりとりが達者だったような気がしました。  初の単独ライブは渋谷「ON AIR EAST」。当時、それぞれのメンバーの地元の暴走族仲間が渋谷まで応援に駆けつけたので、喧嘩にならないかヒヤヒヤしながら見守っていたのを覚えています。「鬼風刃」はシングルCD2枚、アルバム1枚をリリースしましたが、残念ながら2年で解散してしまいました。

SNS総再生回数「1700万回」を超える大バズり

 かおりさんはその後の人生も実に波乱万丈です。ここで紹介するにはあまりにも長くなりすぎるので割愛させていただきますが、7月13日に上梓する自叙伝『「いつ死んでもいい」本気で思ってた…』(大洋図書)に詳しく書かれています。現在、彼女はお子さん2人のお母さんであり、なんとお孫さんまで今年誕生して幸せな人生を送っています。

かおりさんの自叙伝『「いつ死んでもいい」本気で思ってた…』(大洋図書)

 さて、ここからが本題(?)なのですが、今回彼女を紹介した理由としては、驚くべきことが今起こっているわけです。  私は『実話ナックルズ』という雑誌のYouTubeチャンネル「ナックルズTV」をプロデュースしているのですが、そこでかおりさんのインタビューを行ったところ、その動画が70万回再生、ショート動画では360万回再生を超えています。10代の子がメインで見ているTikTokに至っては約400万再生。SNS総再生回数としては1700万回再生を超えており、いわゆる「大バズり」しているのです。  これにはYouTubeの編集スタッフもびっくり。当然、ティーンズロードに出ていた頃のかおりさんを今の若者たちが知っているはずもないので「令和の時代になぜ彼女がウケているんだろう?」と首をひねる状態でした。

“ヤンキー”が令和の時代にウケるワケ

 

 

女族・かおり

現在のかおりさんの姿(撮影/藤井厚年)

 この時代(令和)は、あらゆる物事がデジタル化しています。コロナの影響もあり、人と人とのコミュニケーションが難しくなり、人間関係がドライになってきているような気がしています。  一方、『クローズZERO』『今日からオレは!!』『東京リベンジャーズ』など、ヤンキーをテーマにしたアニメやドラマ、映画が若い世代に人気を博していますが、もしかすると、ヤンキー作品に見られるような「仲間のために」「本物の友情」「心の居場所」などを、どこかで求めていることの裏返しなのではないかと。  どれだけデジタル化が進もうと、今も昔も我々が人間である以上、これらを探していることは間違いないと私は思うのです。 <文/倉科典仁(大洋図書)>