昭和48年(1973年)9月21日は5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)が亡くなった日。
明治から昭和にかけて活躍した落語の天才であり、2019年大河ドラマ『いだてん』でビートたけしさん、青年期の美濃部孝蔵(みのべこうぞう)役を森山未來さんが演じていました。
ドラマでも描かれていたように、根っからの酒好き、博打好き。
いかにも遊び好きの芸人というキャラですが、これが史実でも絵に描いたような破天荒な方で、一言で表すならパンク、波乱万丈な人生を歩まれました。
数多の人々を魅了した古今亭志ん生。その生涯83年を振り返ってみます。
“徳川直参”の子として誕生するも
明治23年(1890年)、東京神田。
元徳川直参の旗本・美濃部戍行(みのべもりゆき)の息子として、志ん生(本稿は志ん生で統一)は誕生しました。
江戸末期という時代の空気もあったのでしょう。
若いころ道楽者だった戍行は、跡を継ぐのを嫌がり、町人の頭に結い直していたような男です。
明治維新により、扶持も身分も失ってしまった戍行の父は、支給金で商売に挑戦。
いわゆる「武家の商法」で、アッサリと失敗してしまうと、心を入れ替えたのか、戍行は、当時「棒丁」と呼ばれていた警視庁巡査になります。
そして、それなりに出世して、一家は本郷に引っ越しました。
戍行の総領息子(嫡男)もまた父に似て道楽者でしたが、早世してしまいます。
本稿の主人公・志ん生は末子です。
幼き頃から父に連れられ、よく寄席に通いました。
怒り爆発して槍を持ち出した父
きかん気が強い少年だったのか。
11才で小学校を退学にさせられた志ん生は、奉公に出されます。
ただし、どこも長くはもちません。
なんと朝鮮・京城で働いたこともありました。
明治37年(1904年)、美濃部一家は浅草に引っ越します。
ここは当時治安の悪い場所で、近くには遊郭立ち並ぶ吉原があり、いかがわしい飲み屋が軒を連ねておりました。
「孟母三遷の教え」の逆と言いますか。
志ん生は、周囲の悪影響を受けてしまったようで、引っ越した頃から、悪い癖を覚えるようになります。
飲酒、喫煙、博奕……。
父に酒を買って来いと言われると、途中で盗み飲んで水を足してごまかすような、そんな不良少年でした。
それにしても、なかなかスゴイ荒れようですよね。
「昔の日本人は偉かった! 明治の精神を取り戻そう」
なんて言われますものの……そんな時代を想定しているのは、お偉いさんだけでしょう。
未成年の喫煙飲酒、バクチは今よりもっと緩い時代。
子供が酒を買おうと、年齢確認なんてしないわけです。
不良少年のレベルも桁外れで、少年犯罪も今より凶悪、かつ頻繁に起きておりました。
あるとき、志ん生は博奕の借金のかたに父秘蔵の煙管を質に入れてしまいます。
激怒した戍行は、槍を持ちだして凄みました。
「世が世なら、槍玉にあげちまうところだが……今だって家に置くわけにゃあいかねえ、てめえは勘当だ!」
とうとう家を追い出されてしまいました。
母・志うが追いかけて来ましたが、志ん生はそれも振り切って逃げてしまったのです。
このとき志ん生、15才前後。
現代ならば中学生ぐらいです。
以来、彼は実家に寄りつかず、親兄弟の死に目にもあいませんでした。
落語家としての凸凹道
明治時代末期。
不良少年が家出して、生きてゆくには、どんな道があったのか。
友人知人のもとを転々とするうちに、「天狗連」というプロアマごった煮状態の芸人梁山泊に出入りするようになりました。
それから徐々に、落語家としての道を歩みます。
ざっと時系列でマトメてみましょう。
明治40年(1907年)頃:2代目三遊亭圓盛(さんゆうていえんせい)門下で三遊亭盛朝を名乗る。当時はセミプロ
明治43年(1910年)頃:2代目三遊亭小圓朝(さんゆうていこえんちょう)に入門、前座名は三遊亭朝太
大正5年から6年(1916年から1917年頃):三遊亭圓菊(ここんていえんぎく)として「二つ目」昇進
大正7年(1918年):4代目古今亭志ん生門に移籍、金原亭馬太郎(きんげんていうまたろう)に改名
大正10年(1921年)9月:金原亭馬きんとして「真打」に昇進
上記のように所属門下も名前もコロコロと変えながら落語家として歩んでいくわけです。
しかし、この歩みについては志ん生自身は、
「4代目橘家圓喬(たちばなやえんきょう)の弟子であった」
としか語っておりません。
落語の道に進んだ志ん生には、ともかく名人になりたい、そんな気持ちがありました。
天才肌とでも言いましょうか。
ともかく周囲と仲良くなろう、身なりをきちっとしよう、そんな気持ちはなし。
話がおもしろけりゃいいじゃないか。
芸が上達すればそれでいい。
そんな態度です。
真打のお披露目は、ちゃんとした身なりをしなければいけません。
しかし、志ん生は寝間着のようなボロしかない。
例えば200円という大金を借りたとしても、酒や博奕で使い果たし、周囲が驚くような格好で高座に上がります。
ぼろっちい格好の真打ち。ところが、いざ始まると、客は話に引き込まれて服装のことなんか忘れてしまいます。
芸一筋で押し通す――志ん生らしいお披露目でした。
実は当時の落語家は、ファッションリーダーでもありました。
派閥ごとに特徴的な洒落た着物をまとい、ぞろっと流す――そうした姿が人々の羨望を集めていたのです。
そんな中で、ドコにも属さず、ぼろっちい格好をした志ん生。
一人で異彩を放っていました。
「なめくじ長屋の貧乏伝説」
さて、この頃になると志ん生もいい歳になった、ということでして。
「おめえさんもそろそろ、女房をもらって身を固めねえといけねえや」
周囲はそう言い出しました。
「俺ぁ商売柄、家を空けてばっかりだ。その上、酒と博奕と遊びが好きときてらぁ。まだ一人前でもねえから金もない。親兄弟もいない。それでいいってんなら」
そんな最悪な条件にもめげずにやって来たのが、清水りんでした。
結婚するならめでたいものを、と思ったのに何のもなく、仕方なしに【鯛焼き】を本物の鯛に見立てたとか。
箪笥に道具を詰めて嫁入りしたりんでしたが、一月もしないうちに持ち物は空っぽになりました。
仲人は、相手の親に申し訳ないと涙をこぼしたとか。
りんは辛抱強く、体も丈夫な女性でした。
結婚して三日もしたら吉原に通い出した夫にもジッと耐え抜いたのです。
そんな二人は、やがて子宝に恵まれます。
大正12年(1923年):関東大震災
大正13年(1924年):長女・美津子誕生
大正14年(1925年):次女・喜美子誕生
昭和3年(1928年):長男・清誕生
昭和13年(1938年):次男・強次誕生
このころ、一家は貧乏のどん底でした。
相も変わらずきかん気の強い志ん生は、5代目三升家小勝(みますやこかつ)と対立。
落語界に居場所を失い、町工場で働いたり、講釈師になったり。
謝罪して落語界に戻ったところで、真打ちではなく、前座として端席に出るのがやっとです。
長男が生まれた頃と前後して、夜が白み始める隙をついて、家財道具を車に積んで笹塚から夜逃げ。
いついた先の業平橋のとある長屋でした。
家賃がいらないということで決めたわけですが……これこそ、志ん生が「なめくじ長屋」と名付けた、とんでもない長屋だったのです。
志ん生のことですから多少話を盛っている可能性がありますが、ここは彼自身の回想から、どんな長屋か説明しましょう。
そこは震災後の家不足を補うため、池や田んぼをゴミで埋め立てた場所でした。
えらく湿っぽいせいか、虫やナメクジがうようよ。毎朝人の指くらいのでかいナメクジがごっそりと出てくるのです。
塩をかけたくらいじゃ効きません。
毎朝それを取って、十能に入れて捨てに行くのが志ん生の日課になりました。
コオロギや蚊も出ます。
夏場は家についたら蚊帳に入らないと、生きていけないような状態。
こんな酷い場所でも人は住めると宣伝したいがため、志ん生一家は家賃無料と引き換えに、おとりの広告塔にされたわけでした。
高座にあがろうにも、着る物にすら苦労していました。
羽織を着ようにも、絽(ろ)のものしかありません。
それも破けていて縫うことができないので、紙で補強したシロモノなのです。
夏場はそれでよいものの、冬場となると困ります。
高座に上がっているぶんにはよい。されど近くで見たら絽であることがわかってしまう。
志ん生は落語家の控え室でも火鉢から遠くに、一人で座っていたと言います。
ただ、これはあくまで志ん生の言い分です。
羽織のことだけではなく、落語家仲間からは性格上の難しさ等もあって孤立していたようです。
明治から大正にかけて、落語界にも派閥がありました。
志ん生はあくまで一匹狼。孤高の姿勢を見せていたのです。
「なぁに、落語家に貧乏なんざ良薬ですよ」
後に、そう振り返っている志ん生は、苦しい状況にもめげませんでした。
彼の頭の中にあるのは、ただ芸への精進のみ。稽古だけでは到達できない、欲を捨てて味を出すこと。
何十年もしゃべり続けてようやく達せられる境地をめざし、志ん生はただひたすら、道を突き進んだのでした。
遅咲きの花がついに咲く
前座としてボロボロの格好で出て、辛気くさい顔をしている。
そのくせ話を聞いてみると、滅法うまい――。
通(つう)の間で、そんな落語家がいると話題になっていた志ん生。
精進の甲斐があってか、ようやく実力が認められるようになりました。
昭和7年(1932年):3代目古今亭志ん馬と名乗る(二度目)
昭和9年(1934年):7代目金原亭馬生、襲名
昭和13年(1938年):次男・強次誕生
昭和14年(1939年):5代目古今亭志ん生、襲名
ここでようやく、16回におよぶ改名も終わります(ただし17回説もございます)。
独演会をできるほどの人気も得たのは、実に50才手前。
ようやく遅咲きの花が開いたのです。
しかし、生活が安定するのはまだ先のこと。
明るかった時代は終わり、日本は次第に戦争へ向けて、突き進んでいくのでした。
敗戦混沌の満州、ウオッカで死のうする
戦争が激しくなると、日本の落語会は上から言われるまでもなく、自粛の道を歩み始めます。
この状況を、志ん生はこう嘆いていたそうです。
「便乗落語しかやれなくなったら、俺ぁ噺家なんざやめちまうよ」
落語関係者も出征し、寄席が空襲で焼かれる中。
次のような統制を受けながら、志ん生も戦地を歩みます。
昭和16年(1941年):落語禁止演目の墓碑「はなし塚」、建立。情痴・遊郭・不義密通をあつかった演目が禁止となる
昭和20年(1945年):空襲で罹災。満州演芸協会の仕事を請け負い、慰問芸人として満州に渡る。その直後、敗戦
昭和22年(1947年):帰国
満州に渡るや、すぐさま終戦の混乱に巻き込まれてしまいました。
慰問を終えて大連にたどり着くと、それからたった2日後には敗戦だったのです。
人々は天皇の写真を燃やしながら、「我々が不甲斐ないばかりに戦争に負けてしまった!」と悔しがり泣いています。
「ううっ、泣いてばかりいてもどうにもならん。師匠、一席やってください」
志ん生はそう頼まれたものの、こんな時は流石にできません。断りました。
どうしたものか。志ん生は悩みました。
彼の手元には、もらい物のウオッカが10本ありました。
「こうなっちまっては生きていても仕方ねえ。かといって腹を切るのも痛そうだ。この酒は強いっていうから、たくさん飲めば心臓が破裂して死ねるにちげえねえ」
志ん生はウオッカ5本をがぶ飲みし、これで死ねると眠りに落ちます。
が、死ねるわけでもなく。
真夜中、むくっと起き上がったのでした。
「なかなか死ねないもんだねえ。こんなんなら、ちびちび飲めばよかった」
さあどうするか?
同じ落語家の6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)と共に、大連に留まるほかありません。
外に出ればソ連兵が銃を持ってうろついているような状況。
どうにか生き抜くほかない状況です。
しかし志ん生は、夏服しか持ち合わせておらず、酷寒の冬は苦労しました。
ネズミのすみかのような家を転々とし、極貧生活を耐え忍ぶ。
ちなみに圓生は一足先に志ん生を置いて帰国してしまい、恨まれたそうです。
昭和22年(1947年)、げっそりと痩せこけて、やっとの思いで志ん生は帰国。
戻ったところ、妻は幽霊を見たような顔をしました。
何でも易者が、旦那さんは死んでいますよ、と占っていたそうです。
ラジオ出演で懐具合も好転
戦後、落語家を取り巻く環境は好転しました。
志ん生帰国から二年後の昭和24年(1949年)、放送法が成立してラジオ全盛期を迎えたのです。
戦前も、上方の2代目・桂春団治の出演を皮切りに、ラジオ落語が人気を博していました。
そのブームに戦後にも火が付いたのです。
セットもバンド演奏もいらない。
面白い話があれば、それで受ける。
そんな落語はもってこい。ラジオなら、志ん生のぼろっちい格好を誰も気にしません。
すぐさま志ん生は売れっ子となり、懐も随分潤うようになります。
ところがへそ曲がりの志ん生は「貧乏の頃の方が、楽しかったねえ」と言っていたそうで。
人気があっても気まぐれで、気が乗らないと高座を投げてしまう。
演じている途中で、話が無茶苦茶になることもありました。
しかし、そんな破天荒ぶりまでもが「天衣無縫の落語の神様」として愛されました。
昭和28年(1953年):ラジオ東京専属になる
昭和29年(1954年):ニッポン放送専属になる
天衣無縫の落語の神様
歳を経て人気絶頂となった志ん生は、昭和36年(1961年)、脳出血で倒れました。
療養後に現場へ復帰しましたが、芸風が変わりました。
破天荒な見せる落語から、しっとりと聞かせる落語になったのです。病前、病後と分けて語られますが、どちらにも味がありました。
昭和43年(1968年)には、紫綬褒章を受章。
祝いの言葉を聞いても「そうだってねえ」と、どこか他人事。
名人といわれていても、気取りがなく、飄々としたままです。
昭和44年(1969年)が最後の高座となりました。
が、本人としては独演会をやりたいという思いは持ち続けていたようで「こうなりゃあ、90まで生きてやる」と周囲には語っておりました。
しかしそれには及ばず、昭和48年(1973年)83才で永眠します。
昭和31年(1956年):自伝刊行、芸術祭賞受賞
昭和32年(1957年):落語協会4代目会長就任(〜昭和38年まで)
昭和36年(1961年):脳出血で倒れる。回復後は芸風がおとなしめに変わる
昭和39年(1964年):二冊目の自伝刊行
昭和43年(1968年):紫綬褒章受賞
昭和44年(1969年):最後の高座にあがる
昭和46年(1971年):りん夫人死去
昭和48年(1973年):永眠、享年83
高座で酔っ払う。
途中で話が無茶苦茶になる。
ともかく破天荒で、天衣無縫。
それでも憎めない。
人々に愛された、落語の神様でした。
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