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組員からもらうだけで100万円、新入社員の年収を超えたことも…日本人が知らない「ヤクザの息子のお年玉事情」

「組員からもらうだけでも100万円」ある年は“新入社員の年収”を軽く超えたことも…日本人が知らない「ヤクザの息子のお年玉事情」(若井 凡人/Webオリジナル(外部転載))『私は組長の息子でした』 #1

「若、明けましておめでとうございます。これ少ないですけど……」

見栄を張るのがヤクザ社会ゆえに、入ってきたばかりの若い衆でもくれる額は1万円――今ここに明かされる「ヤクザの息子のお年玉事情」とは? ヤクザの組長の息子視点で、ヤクザ社会を描いた若井凡人氏によるエッセイ『私は組長の息子でした』(彩図社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

時には大卒新入社員の年収を超えたことも……知られざる「ヤクザの息子のお年玉事情」とは? ©getty

大卒新人の年収レベルのお年玉

子どもの頃のお金に関する思い出で、一番記憶に残っているのがお年玉です。

私はいまは普通のサラリーマンですので、1000円のランチすら迷うようになっていますが、小学生の頃は“何でも買ってもらえる”(といっても、小学生が欲しがるくらいのものでしたが……)環境にあったので、子どもとしてはちょっと異常な金銭感覚だったように思います。

その異常な金銭感覚を助長させたのが、お正月の風物詩の“お年玉”でした。

お年玉をくれたのは、組員をはじめとする組の関係者たちでした。正月、事務所に顔を出すと、幹部はもちろん、部屋住みの若い衆まで私にお年玉をくれるのです。

「若、明けましておめでとうございます。これ少ないですけど……」

そう言って入ったばかりの若い衆も1万円ほどくれました。部屋住みはヤクザの修行期間のようなものですから、ほとんどお金はもらえていないはず。どうしていたのか不思議でしたが、のちに兄貴分から「正月くらい、若にいいところを見せろ」などとお金を渡されていたことを知りました。常に金欠状態の若い衆にしてみれば、ノドから手が出るほど欲しい1万円だったでしょうが、涙を飲んで私に回していたようです。

一方、これが中堅クラス以上の組員になると話が違ってきます。小学校の低学年の時でも、少なくとも5万円はくれました。幹部連中はそれを見たら黙っているわけにはいきません。10万円をハワイの空港なんかでかけてくれるレイのようにして「若! あけましておめでとうございます」という調子でした。さらに、その上の若頭になると、その10万円のレイを二重にして……といった具合なので、組員だけでも軽く100万近くになってしまうわけです

さらに、父の兄弟分の親分さんがくると「若、これで好きなものでも買いな!」と封筒に入ったお札の束を渡されるなんてこともありました。記憶が定かではないのですが、あの厚みを思えば30万円は入っていたのでは……?

このお年玉は、年齢が上がるにつれて金額も比例して上がっていきました。

高校生の頃には当時の大卒新入社員の年収を軽く上回るような額をもらった年もあります。その頃の日本はちょうどバブル絶頂期、組員たちの景気も良かったのだと思います。組員にとって正月はヤクザ特有の“見栄”を張る場であり、私へのお年玉はその格好の舞台ということだったのでしょう。

もっとも、それだけのお年玉を手に入れても自由には使えませんでした。

お年玉はもらうとすぐ祖母に没収され、その厳重な管理下に置かれたため、私が使うことができたのは、ほんのわずかでした。そういう意味では、金銭感覚が大きく狂うということはなかったのかもしれませんが、一度、現金を目にしている分、心の片隅ではいつも「僕はすごい大金を持っているんだぞ!」などと思っていました。う~ん、我ながら嫌な子どもでしたね。

父の豪快な金の使い方

お小遣いやお年玉をほとんどくれたことのない父でしたが、決してケチというわけではありませんでした。

これまで何度か触れていますが、ヤクザというのは見栄の世界です。同業者や仲間内へのお祝い事には金銭を惜しみませんでしたし、頼られてお金を援助するようなこともありました。お金は使い方によって“生き金”と“死に金”に分かれるとよく言われますが、父のお金の使い方はまさに“生き金”だったように思います。

その代表的なエピソードとして記憶にあるのが、“勝手に舗装事件”です。

あれはたしか、私が小学校2年生の頃だったと思います。

町にはまだ土がむき出しの道路が多く、毎年、梅雨の時期になるとぬかるんで大変でした。とくに学校に向かう通学路が悲惨で、雨の日に登校するとそれだけで靴がドロドロになってしまいました。

ある日の夕食時のことです。

「おう、最近、学校はどうや?」

いつものように、父が近況を聞いてきました。

「雨の日に、学校の周りの道が泥だらけになってしまって、みんな困っているんや」
私がそう答えると父は少し考えた後、真剣な顔つきになって私の顔を覗き込みました。

「オマエだけが困っているんじゃなく、“みんな”なんやな?」

私がうなずくと、父は「よし!」と声をあげると、そそくさと夕飯を済ませ、事務所へ戻っていきました。

「どうや? みんな、汚れずに学校に行けたか?」

それから数日後のこと。

その日は3連休明けの登校日だったのですが、通学中に驚きました。なぜならば、私の通学路、および学校周辺の道がものの見事にアスファルトで舗装されていたからです。いったい、誰がいつの間にこんな工事をしたのか。しかし、これならみんなが靴を汚さずに登校できます。

あとで知ったのですが、これは父の仕業でした。

懇意にしている業者を休日出勤させ、アスファルトの舗装工事を連休中の3日で仕上げさせたのです。もちろん、費用は父がポケットマネーで負担。おそらく道路工事の許可などとっていないことでしょう。まだ規制が緩かった、あの時代だからできたことです。

学校の帰りに、事務所に寄ってみると珍しく父がいて、私が喜んでいるのを見るとニンマリ笑って言いました。

「どうや? みんな、汚れずに学校に行けたか?」

父は、敵対する者には鬼のような厳しさを見せることもありましたが、家族や一般の人には温厚で、困っている人がいれば手を差し伸べるような人間でした。

「お兄さん、もっと吸ってみたらどうですか?」4、5本のタバコにまとめて火をつけて私の口に…ヤクザの息子が「父の真の怖さ」を知った日 『私は組長の息子でした』 #2

小学生の頃、友人たちとの喫煙が親にバレてしまった若井凡人氏。その後、ヤクザの組長をしている父親から受けた「2度とタバコを吸いたくなくなる」きついお仕置きとは……?

 ヤクザの組長の息子視点で、ヤクザ社会を描いた若井凡人氏によるエッセイ『私は組長の息子でした』(彩図社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む

組長の教育論

「勉強はちゃんとせいよ」

 小学校の高学年になった頃でしょうか、突然、父がそんなことを言い出すようになりました。

「遊ぶのはもちろん大切だが、勉強も大切やぞ」

 私が事務所で遊んでいるのを見つけると、しつこいくらいに「勉強、勉強」と言ってくるのです。

 ヤクザである父が「勉強しろ」というのも不思議な感じがしますが、父は中卒で社会に出ていますので、学歴の重みが骨身に染みていたのでしょう。父は私が跡を継ぐことを望んでいませんでしたので、しっかりと勉強をして、ちゃんとした仕事についてほしい、と考えていたようです。

 しかし、だからといって父は教育熱心だったのか、というと決してそんなことはありませんでした。無理矢理机に向かわされるなんてことは皆無でしたし、勉強を見てもらったことすら一度もありません。まあ、父も学校の勉強は嫌いだったようですし、はたして見てくれたところで勉強を教えることができたかどうかは、はなはだ疑問ですが……。

 そんな感じで、父から勉強を教わった記憶はないのですが、それでも“生き方論”とでもいうのでしょうか、そういった教育はされてきたように思います。

 父の教育は遊びの場でも実践されていました。たとえば、山に遊びにいったとき、父は野鳥の捕り方や食べられる植物の見分け方などを教えてくれました。口では「こうしろ!」とは言いませんでしたが、組員たちへの振る舞いなどを通して、人と人との付き合い方なども教わりました。

 言うなれば、父は背中を通して、ひとりの男としての生き方や処世術を教えてくれた気がするのです。

 さて、そんな父でしたが、もちろん悪いことをすればしっかり叱られました。

 ヤクザの組長ということで怒鳴り散らすというイメージがあるかもしれませんが、むしろ逆で、理論立てて諭すような叱り方でした。

 しかし、私の悪い点を冷静に指摘してくる分、怒鳴られるよりも恐ろしく、叱られるたびに寿命が縮む思いがしたものです。

ヤクザの父に叱られた日

 父に叱られたことで印象に残っていることがあります。

 あれはたしか、小学校4年生か5年生の頃だったと思います。

 たしかその日は法事か何かで親戚が集まっており、同世代の親戚の男の子が何人か我が家にきていたんです。小学4、5年生といえばいたずら盛りの頃。ひとりでさえ悪ガキなのに、そんなのが集まるとロクなことをしないもの。従兄弟が突然「なあ、タバコ、吸ってみいへんか?」などと言い出したのです。

 当時は現在とは違い、禁煙という感覚が薄く、世の大半の大人はタバコを吸っていました。とくに私の場合は、周囲の大人の喫煙率はほぼ100パーセント。学校帰りに父の事務所に寄ると、タバコの煙が充満しており、室内にモヤがかかっているかと思うほどでした。当時の私たちにとって、タバコはそれほど身近な存在だったのです。

 まずは、タバコの調達です。息をひそめて祖母の家の居間に入ると、どこかに出かけているのか、大人たちは誰もいません。テーブルの上を見ると、おそらく叔父のものでしょう、タバコのパックが置きっぱなしになっていました。銘柄はたしか、当時、日本初のロングサイズのタバコとして売り出されて、人気があったハイライトだったと思います。

 それをコッソリと持ち出し、祖母が経営していた飲食店でマッチを拝借。バレないように少し離れた空き地に移動して……。皆で円陣を組み、隠れるようにしてタバコを回し吸いしました。

 初めて吸ったタバコの味は、ほとんど印象に残っていません。子どもがやることですから、煙を肺まで入れず吹かす程度だったのでしょう。しかし、傍から見ると、子どもたちが集まっていて、そこから煙が上っていたら異様な光景でしかありません。

「こら! ガキのくせにタバコなんて、なにやっとるんだ! おい、お前、〇×組の“ぼん”やないか!?」

 私たちの悪事はすぐに見つかり、事務所へ通報されてしまいました。

 それからすぐに叔父が迎えにやってきて、私たちは事務所へと連行されました。

 事務所には親戚一同が集まっており、中央には父がいました。父が一歩前に出ると何ともいえない緊張感が周囲に走りました。父の荒い一面を知る叔母は、この時、私たちがボロボロになるまで殴られることを覚悟したそうです。近づいてくる父の能面のように無表情な顔を見て、私もゲンコツの1発や2発では済まないだろうな、と腹をくくりました。

父は4、5本のタバコにまとめて火をつけて…

 しかし、私の前に立つと、なぜか父はニッコリと満面の笑みを浮かべているではないですか。

「そうですか……、タバコを吸ったんですか……」

 やけに丁寧な口調が、恐怖心を倍増させます。

「タバコはおいしかったですか?」

 わざとらしい口調で、私に聞いてきます。なんと答えていいものか言い淀んでいると、「おいしいから吸ったんですよね」とねちっこく質問を重ねてきました。初めて見る父の姿に戸惑い、固まっていると父は予想だにしない行動に出ました。自分のタバコに火をつけると、私にくわえさせたのです。

「お兄さん、もっと吸ってみたらどうですか?」

 そう言うと、父は4、5本のタバコにまとめて火をつけて、私の口に押し込んできたのです。私は苦しくて、大きく息を吸い込みました。その時、肺に強烈な痛みを感じました。呼吸をしたタイミングで、タバコの煙を吸い込んでしまったようです。私は思わずタバコを吐き出し、涙を流してむせてしまいました。

「な? わかったやろ。タバコなんてロクなもんやないんや。美味しくないやろ? だから、大人になるまで吸うたらアカン!」

 父はピシャリと言いました。

 この一件で父の真の怖さを見たような気がして、以来、私は父の教えを守り、成人するまでタバコに手を出すことはなかったのです。