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花巻東・佐々木麟太郎のプロ評価急落…実父の監督は大学進学派、ヨダレ垂らす強豪校の数々

チームは接戦をモノにしたが、自身の評価はむしろガタ落ちのようだ。

 13日、高校通算140本塁打の花巻東(岩手)・佐々木麟太郎がクラーク国際(北北海道)戦に「3番・一塁」でスタメン出場。4打数無安打に終わった。

 内容はお世辞にも褒められたものではなかった。内野ゴロ3本に三振1つ。初回の第1打席は内寄りの直球に反応しきれず、空振り三振。四回無死二塁の2打席目は外の変化球を打って、ボテボテの遊ゴロ。六回無死一塁の第3打席も、外の変化球を引っ掛けて二ゴロに倒れた。

 七回終了時からの降雨で1時間34分の中断を経て八回1死一塁で迎えた第4打席も、低めの直球を打ち損じての遊ゴロだった。

 宇部鴻城(山口)との初戦は3安打を放ったものの、なかなか打球が上がらない。甲子園では自慢のパワーを発揮できないのが現状だ。

 オリックスの縞田スカウトは、「今日は4打数無安打でしたが、やっぱり振れています。(ドラフト候補の広陵の)真鍋くんとはタイプが違いますが、スイングスピードでいえば真鍋くんより速いです」と評価。この日、スカウト会議を行った阪神は麟太郎を1位候補として評価している。しかし、セ球団のスカウトは「パワーがあってスイングスピードも速い。常に大きな声を出して仲間を鼓舞する姿勢も立派ですが……」と前置きした上で、こう続ける。

■スイングに改善の余地アリ、動きに無駄

「県大会で背中を痛めた影響はゼロではないでしょうが、スイングは大いに改善の余地があります。始動が遅く、動きに無駄があってバットが最短距離で出てこない。内角を突かれると差し込まれる場面が目立ちます。高校通算140本塁打を打ったとはいえ、甲子園に出てくるような投手に対しては当たり損ねの打球が多く、引っ張りの鋭い当たりも少ない。無安打に終わった2年春もそうでした。今のままではプロの球には対応できないでしょう。課題の守備、走塁も伸びしろがあるのかどうか。大学進学して守備走塁から鍛え直し、4年後のドラフトに備えるのも手だと思います」

異例の特別枠

 花巻東といえば大谷翔平(エンゼルス)の母校であり、麟太郎は佐々木洋監督の息子だ。スポーツ紙の1面を飾るほど話題性、注目度が高いだけに、プロ側はこれを評価に加味する必要がある。

「麟太郎がプロ入りを表明すれば、3位や4位で指名するわけにはいかない。1位指名せざるを得ないでしょう。ただ、1位指名で賭けはできませんから」(同)

 しかし、甲子園でアピールするどころか、むしろプロの評価を落とす中、大学側は麟太郎の決断を心待ちにしているという。

 早大、明大を筆頭に、全国の強豪校が麟太郎にオファーを出しているといわれる。8月中旬を迎えて大学野球部の推薦枠は埋まっているケースが大半。たとえば、全国から逸材が集まる明大は、春の時点でほぼ枠が埋まるともっぱらだが、関東地方の大学野球部関係者は声を潜めてこう言う。

「麟太郎にオファーを出している大学の中には、麟太郎が進路を決断するまで特別に1枠空けて待っているところもある。異例も異例、超VIP待遇ですよ」

 父親の佐々木監督は2002年の監督就任以降、大谷翔平、菊池雄星(ブルージェイズ)ら多くのプロ野球選手を輩出する一方で、東大、慶大、筑波大といった超一流大学に多数の教え子を送り出している。

「花巻東の選手の進路は、佐々木監督の意向が大きく反映されます。選手の能力や個性に応じて進路を決めているそうですが、それは麟太郎も例外ではない。麟太郎本人はプロ志向が強いが、佐々木監督はかねて大学進学を検討している。だからこそ全国の大学が麟太郎にオファーを出しているわけで、甲子園でプロの評価が上がらない以上、大学進学に傾くかもしれません」(アマ球界関係者)

■「感触は悪くない」

 麟太郎は試合後、「全体通してゴロが多かったが、タイミングを取れた部分もあり、感触は悪くないです。打席の内容よりも、走者が進んでよかった。厳しい試合を落とさなかったのでよかった」とあくまで前向きだった。次戦は優勝候補の智弁学園(奈良)との大一番。夏の甲子園後に進路を決定するとみられるが、プロ入りを断念し、大学進学を決断する可能性もありそうだ。

大谷翔平は「日高見の王子」だった? 佐々木朗希に麟太郎…怪物を生む岩手県の謎に迫る

 異常な暑さが続く。夏の甲子園、地方大会の関係者は大変だろう。

 野球といえば、大谷翔平だ。NHKニュースは大谷で始まり、本紙を含め新聞もネットもこまごまと語る。ただ、誰も触れず答えを出さないことが一つある。なぜ岩手県か?

大谷は、旧制中学時代から野球が盛んだった盛岡や一関ではなく、花巻東高の出身で、先輩にメジャーで活躍している菊池雄星がいる。やがて海を渡るロッテ佐々木朗希は「奇跡の一本松」(陸前高田)出身、現在進行形では佐々木麟太郎という怪物君も話題だ。岩手から大物がゾロゾロ……花巻東が菊池を擁して春の決勝まで進んだ09年、佐々木洋監督になぜか聞いたことがある。神奈川で指導していた監督はこう答えた。

「新幹線でしょう。若い指導者が郷里に戻りやすくなった」

 2011年に時速300キロの「はやぶさ」が登場し、いまや東京-盛岡間は2時間12分。確かに指導者の存在は大きいが、それだけでは逸材続出の説得力に乏しい。野球に禁物の「タラレバ」の話をしよう。

 仙台の実家で「支倉六右衛門」という冊子を見つけた。中目覚は、実家近くに屋敷を持っていた明治期の地理学者、言語学者で、旧大阪外大の初代学長だった。パラパラめくると、これが面白い。

 太古の昔、本州は西に「大和」、北に「日高見」と2つの国に分かれていた。浅学なスポーツライターは「日高見」と聞けば北上川河口の石巻の銘酒しか知らないが、国名だったか。富士山あたりにあった国境が押し上げられ、「北上」は「日高見」だという。

■自然豊かで多種多様な人種が共生する国

 大和国が律令制などで体制を固めたのに対し、自然豊かな日高見国はアイヌや多種多様な人種がおおらかに暮らし、窮屈な階級制を嫌って北上する大和人もいた。その移動は北陸ルートで、新潟から山形の庄内、そこから内陸に大崎(古川)へ抜け、一関、平泉、水沢、盛岡、秋田と、奥の細道の逆ルートである。

「此線には優秀なヤマト族を代表する美人系がある」と先生は書き、「金沢美人」「新潟美人」「秋田美人」「南部美人」を挙げる。大崎の手前の鳴子温泉に鬼首という地があり、地元の人が「鬼首には美人が多い」と話していた。「ウソ!」と驚くと、「お盆にござれ、みな帰省してくる」。そう言えば、かつて仙台は「三大ブ〇」の町といわれた。かつて、である。

「南部美人」という伝統の銘酒がある。大谷の水沢はぎりぎり伊達藩だが、菊池の盛岡は南部藩、佐々木の故郷も日高見の端で、水沢は隠れキリシタンの後藤寿庵や支倉常長の臨終の地。この辺には隠れキリシタンの遺跡が多いのだ。中目先生はこうも書いている。

「義経が平泉に逃げたのも、難を外国にさけたのであった」(傍点筆者)

 優秀な大和族がもたらした異文化──美人、銘酒、キリシタン、そして新幹線で戻った野球の指導者……大谷翔平は「日高見の王子」ということにならないか。

 中目先生は近所の悪ガキに恐れられていた。私も屋敷の庭の大きな池に入ったホームランボールを拾いに忍び込んで、杖で追い回された。いまなら、この大谷の謎解きに大きくうなずくだろう。

岩手のもやしっ子がパワーでメジャーリーガーを圧倒するまで

 1994年、岩手の盛岡は真夏日が48日間もあった。

 大谷は7月5日午後9時6分、その盛岡から50キロほど南に下った奥州市水沢で産声を上げた。

 体重は3400グラム。赤ん坊としては大きい方だった。生まれたての赤ん坊は通常、顔がくしゃくしゃだが、産婦人科の看護師は「ずいぶんとしっかりした顔つきのお子さんですね」と驚いた。大谷が生まれた直後あたりから水沢も真夏日が続き、家のエアコンはつけっ放しだった。

「翔平」という名前の由来は源義経だ。父親の徹さんはもともと「翔」の字が気に入っていた。羽ばたくというイメージがあって、京の五条の橋の上で弁慶の攻撃をかわした身軽な義経と重なること。さらに大谷の生まれた水沢から程近い平泉は、義経が自ら命を絶った場所であることから、平泉の「平」の字をもらって翔平と名付けたという。

 徹さんは元社会人野球の選手。黒沢尻工(岩手)時代は甲子園を目指し、三菱重工横浜では外野手としてプレーした。三菱重工横浜の野球部には徹さんも含めて高校出身の同期が4人。そのうち2人はプロ入り、ひとりは阪神の村山実監督時代に活躍した中野佐資だ。徹さんもプロが目標だったものの、志半ばで断念。故郷の岩手に戻って以降は、自動車のボディーメーカーに勤務、昼夜2交代制で車体を造る過程のラインにしばらく携わっていた。

 母親の加代子さんはかつて、バドミントンに打ち込んだ。中学3年時に神奈川県代表メンバーに選ばれ、全国大会へ。団体女子の部で準優勝した。決勝で敗れた相手は92年のバルセロナ五輪に出場した陣内貴美子のいた熊本県。このときの全国大会決勝を含め、同学年だった陣内とはこの後も何度か対戦。卒業後はインターハイの常連校だった横浜立野高に進学した。

■カビだらけの弁当

 両親の血だろう。大谷は幼少期から運動神経がよかった。

 幼稚園から小学4年生までスポーツクラブのスイミングスクールに。姉体小5年のとき、小学校代表で水沢区内の記録会に参加。バタフライと平泳ぎに出場して、平泳ぎは3位だった。陸上でも水沢区内の記録会に出場、5年時は200メートルで3位、6年時は80メートルハードルで6位に入賞した。「他の生徒たちは顔をくしゃくしゃにして懸命に走っているのに、大谷は流して走っているように見えるんです。けれども、ダントツに速く、他の生徒をゴボウ抜きです」とは中学時代の担任。

「流して走っているように見える」のはいまも変わらない。なのに速いのだ。

 小さいころは外で遊ぶか寝るかどちらか。幼稚園で友達と遊び、夕方帰ってくると居間のソファの上で眠りこけた。リトルリーグから帰ってきてもコテッ。とにかくよく寝る子だった。

 寝る子は育つという。体は幼稚園のころから常に大きな方。それでも飛び抜けて大きいわけではなかったが、中学に入ってから背丈はぐんぐん伸びた。牛乳が好きで、毎日1リットル飲んだことも大きかった。中1で166センチだった身長は、3年間で20センチ伸び、卒業時には186センチあった。

 ただし、食は細かった。育ち盛りながら、中学時代、白飯は茶碗に1杯で十分。背は伸びても、もやしっ子だった。

 進学した花巻東高(岩手)には「食事トレーニング」がある。ノルマは1日にどんぶり飯10杯分。食が細い大谷にとっては苦痛だった。練習試合の昼食は、仕出屋の弁当。余った分は投手が食べることになっていたが、食べ切れないからといってゴミ箱に捨てるわけにはいかない。寮の机の引き出しにしまったままにして、カビだらけにしたこともあった。

ダルよりすごい体

 迎えた2年夏、県大会の前にお尻と太ももの付け根に痛みが走った。いつになっても痛みは消えない。診断の結果は「左股関節骨端線損傷」。体が成長し切らないうちは残っている骨端線が損傷していた。それが判明して以降、打つことはできたが、投球練習は禁止された。その間も食事トレは続けたため、翌年の春のセンバツ出場時のガイドブックには「細身の体も、昨夏より体重が10キロ増えた」と書かれている。

 中学時代、身長は急激に伸びたものの、体が出来上がっていたわけではなかった。骨端線が体に残っているうちは、まだ成長途上。医者には「体のあちこちにまだ、骨端線が残っている。本当の意味で体が出来上がるのは23、24歳かもしれない」と言われた。

 15勝を挙げて最多勝を獲得したプロ3年目の2015年1月、水沢の成人式に出席した当時20歳の大谷は、中学の同級生に「オレ、まだ(身長が)伸びてるわ」と打ち明けている。

 プロ入り後、体が徐々に出来上がりつつあるのに並行して、大谷は人一倍、ウエートトレーニングに力を注いだ。プロ3、4年目、そのむき出しの上半身を見た球団職員のひとりは「同時期のダルビッシュよりすごい体をしてますよ」と仰天。試合前の打撃練習では当時、日本ハムの主砲だった中田翔よりも打球を遠くに飛ばしていた。

 プロ4年目の16年11月、侍ジャパン日本代表メンバーとしてオランダとメキシコとの強化試合に出場。オランダ戦で放った打球は、東京ドームの右翼方向の天井に入る二塁打に。プロ野球の統一球より重たいメジャー公認球を、日本選手のだれよりも遠くに飛ばしていたのが大谷だった。

昨年6月のマリナーズ戦で放った16号本塁打の打球速度は時速約190キロ。メジャー5年目にして最も打球速度の速い本塁打だった。4月には自己最速を更新、両リーグを通じて3位となる約191.7キロの二塁打を放った。

 ストレートの平均球速は約156.6キロ。走ってはメジャーでも走力がトップクラスの選手がはじき出す秒速9.14メートルを2度マークしている。

 193センチ、95キロ。かつての「もやしっ子」は義経のように身軽なだけではない。屈強なメジャーリーガーの中でも見劣りしない肉体をもち、打っても投げても走ってもトップクラスの数字をたたき出すパワーを備えた選手に成長した。

■尻回りは去年の1.5倍

「ビールの1杯目くらいはおいしいと思う」とは本人。酒は飲めば飲めるようだが、「(オフに)増量しているときは飲まないようにしている」という。イチローにしても松井秀喜にしても、現役時代から食べ物にはうるさかった。けれども大谷は、自分で取り組んでいるトレーニングを犠牲にしてまで、「好きなものを食べたいとは思わないし、そういう感じで食事はしていない」とか。

 メジャー移籍後は以前にも増して、食事やトレーニングに関してストイックになった。ひとり暮らしだからだろう。アナハイムの自宅には栄養士の作った料理が冷凍保存されていて、それを解凍して食べることが多いそうだ。洋服を着てても分かるほど筋骨隆々。二の腕なんか、女性の太ももくらいある。特に今年は下半身を重点的に鍛えたようで、「尻の回りは去年の1.5倍ほどデカくなったんじゃないか」とは現地特派員。栄養士の指導の下、良質のタンパク質やプロテインを摂取しながら、シアトルのジムなどでみっちり鍛えた成果だ。