· 

平安〜鎌倉の人も排便後にチリ紙で尻を拭いていた…お盆にゆかりの「餓鬼草子」国立博物館収蔵作が面白すぎる 「畜生道の下」「地獄道の上」の世界に住む鬼が庶民のうんちを狙っている PRESIDENT Online 2023/08/13 11:00 鵜飼 秀徳 浄土宗僧侶/ジャーナリスト

「施餓鬼(せがき)」という不思議なお盆の行事

お盆の季節に入った。全国各地では、先祖供養や送り火などのお盆の行事が盛況だ。その中で「施餓鬼せがき」と呼ばれる、不思議な行事があるのをご存知だろうか。

この時期に亡者の「餓鬼」を救済する目的で、地域の寺で実施されることが多い。餓鬼の様子がリアルに描かれているのが、国宝の絵巻物「餓鬼草子」(平安時代)である。そこで、餓鬼草子をもとに、当時の庶民の葬送風景を紐解いてみたい。

本稿は拙著『絶滅する「墓」 日本の知られざる弔い』(NHK出版新書)を基に、加筆・再編集した。

餓鬼とは、栄養失調で腹がぽっくりと出て、飢えと渇きに苦しみながら、口から炎を吐く、亡者のことだ。仏教でいう死後の輪廻りんね、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の下から2番目の世界に住むとされる鬼の一種でもある。

お釈迦様の弟子である阿難あなん尊者が、瞑想めいそうをしていた時のこと。にわかに、餓鬼が現れて「われわれ無数の餓鬼に飲み物や食べ物を施せば、餓鬼たちは苦しみから解き離れて天界へと生まれ変わることができ、おまえも延命することができる。しかし、それができなければ、3日のうちに絶命して、おまえも餓鬼道に堕ちてしまうであろう」と、無理難題を押し付けてきた。

阿難尊者がお釈迦様に助けを求めたところ、「人々が餓鬼に飲食を施し、呪文などを唱えるなどすれば、多くの餓鬼は救われ、天界に生まれ変わることができる」とアドバイスして、阿難尊者は難を逃れることができた。そうして、仏教思想のひとつである「抜苦与楽ばっくよらく(=苦を取り除き、楽を与える)」の実践として、人々の間で施餓鬼会が広まっていったと考えられる。

平安〜鎌倉期の人も排便後、紙で尻を拭いていた

餓鬼の世界を生き生きと描いたのが、餓鬼草子だ。現存するのは東京国立博物館蔵の旧河本家本(全長380cm)と、京都国立博物館蔵の旧曹源寺本(全長538cm)である。

全体を通して、平安〜鎌倉期の庶民の生活を窺い知ることができる。例えば、当時の排便の様子なども描かれており、実に面白い。つぶさに見ると、便の近くにチリ紙が落ちている。当時の庶民も排便後、紙で尻を拭いていたのである。

旧河本家本(東京国立博物館蔵)の、ひとつの部分に着目した。庶民の埋葬の場面である。そこには墓場に現れた餓鬼が墓を暴き、人肉や遺骨を貪り食う姿がユーモラスに描かれている。注目すべきは、仏教由来の石塔墓が、みてとれることだ。中世の人々の墓や埋葬がどのような形態であったか、を知ることのできる稀有な資料がこの餓鬼草子でもある。

庶民の葬送は8世紀ごろ、京都に都が遷されてから、次第に広がりをみせていったと考えられる。この頃、天皇をはじめとする支配階級の墓が、洛外の寺院境内に積極的に造られはじめる。これを「陵寺」といった。

たとえば、851(嘉祥4)年に仁明天皇の菩提ぼだいを弔うために、陵墓に隣接する地に平安宮清涼殿の建物を移築して造られた嘉祥寺(伏見区深草)などである。

当時の平安京は人口の増加とともに、遺体の処理が大問題になっていた。しかし、洛中には墓はつくられず、郊外が葬送の地に選ばれた。今でも地名として残る鳥辺野とりべの(京都市東山区)、蓮台野れんだいの(同北区)、化野あだしの(同右京区)の3カ所である。

いずれも葬送を連想する地名といえる。鳥辺野は、遺体をついばむ烏などを連想させる。餓鬼草子の中にも、そんな荒涼とした埋葬地の様子が描かれている。

蓮台野の「蓮台」とは仏が座る台座のことで、土葬用の棺桶を置いて引導を渡すための台座を指していう場合もある。

化野の「化」は、「空」や「儚さ」を表す仏教用語である。当時の葬送の情景は、現代にもハッキリと見ることができる。

鳥辺野周辺は、大谷本廟(大谷墓地)や大谷祖廟(東大谷墓地)など日本を代表する大型霊園や、火葬場の京都市中央斎場などが点在する葬送の地として、現在に受け継がれている。また、蓮台野は別名「千本」という地名にもなっている。その由来は蓮台野へと向かう葬送の道に卒塔婆千本を立て、死者の魂を供養したからだといわれている。

蓮台野の墓碑としての石仏は後世、掘り出されてまとめて祀られた。それが上品蓮台寺(北区)などに集められている。また、化野でも地域に点在する石仏は、明治時代になって化野念仏寺に集められた。

吉田兼好『徒然草』に見る各地のかつての葬送風景

京都市内に散見される石仏のなかには平安期のものも少なくなく、かつての葬送の風景の断片をみることができそうだ。吉田兼好が著した随筆集『徒然草』にはこう書かれている。

「あだし野の露、鳥辺野の煙」

「化野の露」は庶民のための儚い埋葬つまり土葬を、「鳥辺野の煙」は上層階級の火葬を指していると考えられる

いずれにせよ、餓鬼草紙が指し示すように平安末期頃から、一部の有力者のなかで石の墓(石塔)が建立されるようになった。一方で庶民は土葬した上で、せいぜい木製の卒塔婆を立てた程度の墓だと考えられる。

石塔は、時代や地域によってその形態は様々である。中世には五輪塔、宝篋印ほうきょういん塔、無縫むほう塔、笠塔婆かさとうば板碑いたびなど、さまざまな造形のものが出現している。

先の餓鬼草子には五輪塔や角柱塔、傘塔婆が確認できる。

当時の墓としてメジャーな種目であった五輪塔は、今なお需要がある石塔だ。五輪塔は一見すると、串を刺したおでんのような形状をしている。真言密教由来で、5つのパーツから成る。

この世の構成要素である「五大」すなわち、上部から「空・風・火・水・地」を表して造形されている。五輪塔の最初は弘法大師空海だという説もあるが、確認はされていない。

銘のある日本最古の五輪塔は、岩手県平泉の中尊寺釈尊院墓地にある1169(仁安4)年建立のものだ(重要文化財)。総高149cmで、でっぷりとした風格を湛えた造形である。被葬者は定かではない。

平安末期以降に石塔が次々と建立されていったことで有名なのが、高野山(和歌山県高野町)である。高野山は言わずと知れた弘法大師空海が開いた、真言密教の聖地だ。その最も神聖な区域、奥之院には弘法大師が835(承和2)年に入定した御廟がある。


土葬の現在から、肉体と魂を分けて埋葬する「両墓制」、沖縄の風葬やアイヌの男女別葬など、各地の知られざる弔いの形を明らかにしながら、日本人がいかにして死と向き合ってきたかを問いなおす。

先述のように、京都にも墓標としての石仏や石塔が数万体あるとみられており、それが地域のそこここで祀られている。京都の人々はそうした石仏を一様に「おじぞうさん」と呼んで親しみ、年に一度は「化粧」と「よだれ掛け」を新しくする。

そして、毎年お盆の時期には、おじぞうさんの前で子どもを集めた催し物「地蔵盆」を開いている。地蔵盆は「講(信仰を同じにする集まり)」の一種である。京都の地蔵盆は、市内の町内自治会の79%(2013年京都市調査)ほどで実施されているという。この日ばかりは、キリスト教や新宗教の家庭をもつ子どもも、みな一緒になって集い、数珠回しをしたり、ゲームをしたりして一日を過ごす。

読者の皆さんも中世の葬送風景を、今に伝えるアイテムとして、ぜひ、地域の路傍の地蔵や石塔に注目してほしい。日本の土葬や墓の歴史をもっと詳しく知りたい方は、拙著『絶滅する「墓」 日本の知られざる弔い』(NHK出版新書)をぜひ、手に取っていただけば幸いである。