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「ここが焼け野原になったら、ただちに戻り、敷地の周りに杭を打て」…五反田出身の作家に残された「祖父の教え」と、品川を襲った「ドーリットル空襲」

戸越銀座で生まれ育った作家・星野博美氏が、祖父が残した手記をとおして、家族の来歴、工場密集地帯だった五反田近郊=「大五反田圏」とその土地を襲った戦火を描いた話題のノンフィクション『世界は五反田から始まった』(ゲンロン刊)。本年度の講談社本田靖春ノンフィクション賞にもノミネートされた本作から、一部を抜粋してお届けする。

「池田家だけが残った」

ここが焼け野原になったら、ただちに戻り、敷地の周りに杭を打て──。

幼い頃、祖父に言われたことを私は家訓として受け止めてきた。これまでそんな事態が起こらなかったため、守らずに済んだ家訓ではあるが。

この話は、様々な要素を含んでいる。まず、ふだんは忘れがちだが、わが家を含む大五反田一帯が、焼け野原になったという事実。にもかかわらず、幸いうちからは一人も戦死者が出なかったこと。うちでよく語られる話に「このあたりでは池田家だけが残った」というものがある。「池田さん」は、わが家と戸越銀座商店街のちょうど中間あたりに位置する、地主ではないが、いまでも比較的大きな家だ。焼け野原に一軒だけ家が残っている光景は、「一帯が焦土と化した」と言われるより、逆にリアルに響いたものだった。

また祖父は、「杭を打て」の理由として「どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいる」ことを挙げたが、その世知辛い感じは、その時点でここがすでに、余所者がひしめきあって暮らす密集地域だったことを物語っている。誰もが顔見知りの祖父の故郷、岩和田では、ありえなかっただろう。

ところが、だ。最近家族に確認したところ、「杭を打て」という話は誰も聞いた覚えがないというのである。私はふだんから家族にホラ吹き呼ばわりされることが多いが、今回も作り話を疑われてしまった。

祖父は筆者だけに話した?

聞いた確率が最も高い父は、「まったく記憶にない」。ここが焼け野原になったのを見ていないのか、と問いただしても、「見てない」。そうだった……戦争が激化することを予測した祖父は、埼玉県の越ヶ谷に家を買って妻子をそこに住まわせ、越ヶ谷と戸越銀座を往復しながら工場を続けていたのだ。

ということは、「池田家だけが残った」という話も、父が実際に見たのではなく、それを目撃した唯一の人物、祖父の記憶だったことになる。なぜ「池田家」は語り継がれ、「杭を打て」は記憶から消え去ったのか? 謎は深まるばかりだ。

私と一緒に、祖父から花札とサイコロの手ほどきを受けた次姉は覚えていないだろうか。

「メチルだけは飲んじゃいけねえ、は覚えてる。目がつぶれる、って怖かったから。おじいちゃん、お酒が入ると必ず、メチルメチル言ってた。よっぽどメチルが怖かったんだね。でも『杭を打て』は記憶にない。あんたが勝手に作り出したんじゃない?」

と次姉は言う。ホラ吹き呼ばわりである。「杭を打て」などという話、実際聞いていなければ、どうやって捏造するのだよ……。

みんな聞いたけれど忘れたのか、あるいは祖父が私にだけ話したのか? 想像の域を出ないが、晩年の祖父と過ごす時間が最も長かった人間が私だったため、ぽろぽろといろんなこぼれ話が出たのではないか。そして、たまたま記憶力の旺盛な年齢だったから覚えていたのではないか、と思う。

ドーリットル空襲

それはさておき、この地域が空襲にさらされたことは史実である。

太平洋戦争中、現在の品川区にあたるエリアが初めて米軍から空襲を受けたのは、一九四二年四月十八日のドーリットル空襲だった。前年の十二月八日に日本軍がハワイの真珠湾を急襲したことはあまりに有名だが、その四か月後、米軍が初めて日本本土に実施した爆撃、それがドーリットル空襲である。米軍の航空母艦から飛び立った十六機のB-25は東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸などを奇襲し、その後は中国の蒋介石支配地域(一機はウラジオストック)へ向かった。

この時、品川エリアで空襲を受けたのは、大井関ヶ原(現在の東大井六丁目)、大井滝王子(大井五丁目)、東品川(天王洲界隈)、西品川(下神明界隈)だった。特に東品川の東亜製作所、大井関ヶ原の芝浦マツダ工業、そして西品川の国鉄大崎被服工場の被害が大きかったという(川上允著、「品川の記録」編集委員会監修『品川の記録 戦前・戦後』)。

わが家は、この時の空襲では焼けていない。しかしふだんなじみ深い地域、特に下神明や東品川界隈が、日本本土で最初に米軍の空襲を受けた場所だといまになって知り、なかなか衝撃を受けている。

ここが一大工業地帯だったからだろう。

日本の戦争責任を追及されて、「祖父は戦争に行ってないから」と言い訳はできない…五反田出身の作家が「うちの町工場も戦争に加担していた」と思うようになるまで

「大五反田」の歴史

ここでいま一度、大五反田の歴史についておさらいしておきたい。『品川の歴史』(東京都品川区教育委員会)によると、大正初期までこのあたりは、目黒川沿岸に広がる水田地帯と、北側の台地(池田山)に広がる旧大名屋敷、そして西側は平塚村へと広がる畑地帯からなる静かな近郊農村だった。

景観が急変するのは大正四(一九一五)年頃のことだ。目黒川流域の平地に大小数多くの工場が建つようになった。この地が選ばれた理由は、目黒川の水運によって海と直結し、近くに大崎貨物駅があった、つまり陸水運の交通が至便だったこと、田畑が工場敷地として転用しやすい状態だったこと、そして土地が廉価だったことが挙げられる。

なぜこのタイミングで急変貌を遂げたのか?

<第一次大戦の勃発によって、現品川区地域の近代工業も新しい発展の段階を迎えた。>

と『品川の歴史』はさらりと書く(一九一頁)。

第一次世界大戦の波に乗って変貌

大五反田は第一次世界大戦の賜物だったのか! 第二次でなく、第一次であるよ……。

<現在の品川区地域で大正七年に工場二〇一を数えたが、その半数近くが第一次世界大戦下の創業であった。大戦による好況、工業ブームの結果であることはいうまでもない。総工場数のうち、業種では機械・金属・化学などが七〇%以上を占め、それは日本経済の重化学工業の芽ばえを示していた。>(一九二-一九三頁)

日露戦争勃発の前年、明治三六年に外房の漁村に生まれ、大正五年に十三歳で上京した祖父は、この地域が第一次世界大戦の波に乗って一大工業地帯として変貌を遂げる様子を、リアルタイムで見ていたのだった。

これらの工場群は、地域的に三つのグループに分けられるという。第一グループは目黒川沿いに並んだ化学・窒素系工場、鉄工所など、原燃料や製品が重量物資で、目黒川の水運を利用した工場群だ。第二グループは大崎貨物駅を中心に立地した、機械器具工場群。そして第三グループは、目黒川北の旧御成街道沿いに立地した電気・金属系工場群。

この時期、現在の品川区域に工場が進出した企業を挙げてみると、官営の品川硝子、品川白煉瓦、日本酸素、東洋酸素、日本製鋼、東洋製罐、藤倉合名会社、明電舎、荏原製作所、沖電気、園池製作所、日本精工、日本光学、三共製薬、星製薬、日本ペイント……と、今日にまでつながる企業が少なくない。

そして昭和初期に入ると、これらの中核工場の隙間に多数の下請け的な小工場が乱立し、目黒川を遡って上大崎方面にまで広がっていった。

自家用車はまだなく、仕上がった金属製品は、大八車に載せ、人力でお得意さんの工場へ運んだ時代である。当然ながら、親工場やお得意さんからそう遠い所には住めない。この地域はいうなれば、「工業」という名の王が君臨する城下町のような、特殊な様相を呈していたのである。

祖父が戦争に行かずに済んだ理由

さて、祖父が戸越銀座に住居と工場を構えたのは昭和十一(一九三六)年、三三歳の時だった。満洲事変が昭和六(一九三一)年に起き、すでに相当きな臭くなり始めた時代である。世代としてはいつ徴兵されてもおかしくなかったはずだが、祖父は一度も戦争へは行かなかった。祖父は酔うとよく、「醤油を飲んで青い顔をして行ったら徴兵検査に落ちた」という話をしたものだったが、事実は少し違う。徴兵検査を受けた大正十二(一九二三)年五月一日の様子を手記に書き残しているのだ。

私が「祖父の手記」と呼ぶものは、祖父が死ぬ前に書き留めた便箋の束で、父が読まずに保管していたところ、いまから四半世紀ほど前に私が受け継いだ。それを解読してワープロで清書するのは一苦労だったが、祖父の想定より死期が早かったため、A4に印刷して二四枚しかない、短いものだ。

右眼は良いが左が乱視であったので遠くはぼんやりして見えなかった。私はもう一ぺん眼の所へ行って来る様言われた。アン室でよく調べられた。悪いものは悪い、とうとう第二乙種といふ事であったので兵役はなかったのです。それ迄めがねはかけなかったが検査あとめがねをかける様になったのです。

不合格の直接的な理由は、視力だった。

加えて祖父は十六歳の時、粉塵舞うバルブ工場で働いたことで肺浸潤を患い、一年間の入院生活を送ったことがあった。レントゲンで肺に影くらいはあったかもしれないし、醤油も多少は飲んだのかもしれない。さらに、戦争が激化した頃にはすでに四〇代に入っていた。様々な条件が重なりあい、祖父は戦争に行かずに済んだ。当時の日本では、相当幸運なほうだったというべきだろう。

私は長いこと、祖父が戦争に行かずに済んだことを素直に喜んでいた。

戦争で死ななくて、よかった。

 

戦争と無縁ではなかった

戦地で人を殺さずに済んで、よかった。

ずっとそう思ってきた。家族の感情としてそう思うこと自体に、あまり罪はなかろう。

しかし東アジアの人たちと関わるようになってから、それでは済まないことを思い知らされた。

一九八六年に香港へ留学していた時、私はよく日本の戦争責任を追及される場面に出くわした。香港は一九四一年に真珠湾が爆撃された同日、十二月八日に日本軍に奇襲され、同月二五日に英軍が降伏した。そして一九四五年八月十五日に日本が降伏するまでの四年弱、日本に占領されたため、幼少期に日本軍による蛮行を目撃した人も少なからずおり、反日感情が大変根強かった。寮父さんや寮母さんの機嫌が悪いと──私は品行不良な留学生だったため、彼らの機嫌を損ねることがたびたびあった──、決まって日本軍の話を引き合いに出された。当時は理不尽だと思っていたが、中国や台湾を頻繁に訪れるようになってから、変化が生じた。

日本の領土的野心が、どれだけ多くの人の命を奪い、人生を破壊したかいうまでもなく、東アジアではそれが国を分裂させ、無数の家族を離散させることにつながった。その末裔の人たちと向き合う時、「いや、祖父は戦争に行ってないから」という言い訳をするわけには、まったくいかなくなった。

しかも日本の工業の裾野を支えていた以上、うちの町工場が戦争と無縁でいられたはずがない。

うちも、戦争に加担していたのである。

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