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沢村忠 真空飛び膝蹴り、キックの鬼、不滅のスーパースター、不屈のサムライスピリット、そして失踪、その伝説に迫る

沢村忠
本名:白羽秀樹
1943年(昭和18年)1月5日、満州新京出身
法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)ではラグビー部(ウィング)
日本大学(芸術学部映画科)では剛柔流空手道部に所属し3段
「蹴りの白羽」と呼ばれ全日本学生空手選手権優勝など約60戦無敗
キックボクシングでは241戦232勝(228KO)5敗4分け
(実際には500戦以上を戦っている)
東洋ミドル級、東洋ライト級チャンピオン
「キックボクシング」の立ち上げメンバーでありながら
タイでムエタイのチャンピオンと対戦し引き分けたり
必殺技「真空飛び膝蹴り」など派手な技でのKOも多く
キックボクシングの人気の火付け役となった
しかしそういった華やかさと対照的に
侍のような男らしさと不器用さを持った人であり
引退の仕方や引退後の人生などはかなり感動的で
その人間性こそ最高の魅力となっている

空手の世界では無敗

父は満鉄(南満州鉄道株式会社、かつて満州国に存在した日本の特殊 会社)で仕事をしていた
沢村忠は
姉と兄に続いて3番目の子供として「新京」で生まれ
日本が敗戦後、引き揚げ者として日本に帰った
その帰国は悲惨を極めたが幸いなことに家族全員が帰国できた
「引き揚げ者」とは
第2次世界大戦までに
台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地、
日本から多数の入植者を送っていた満州、
そして内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で
日本軍の敗北に伴って日本本土に還った者を指す
北緯38度線以南の東南アジア、台湾、中国、朝鮮半島などからの引き揚げは比較的スムーズだったが
北緯38度線以北のソ連や満州、朝鮮半島では引き揚げが遅れた
とりわけ満州から混乱の中、帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め
食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も少なくない
現在に至っても中国大陸で親子生き別れ、死に別れとなった中国残留日本人孤児などの問題が残っている

祖父は中国唐手(トウテ)の正師範

囲炉裏にくべる薪がなくなると白羽秀樹(後の沢村忠)の祖父は手刀(チョップ)で裏山の木を折って薪を取ってきた
祖父は中国唐手(トウテ)の正師範だった
白羽秀樹は枯れ木ではない生木を素手で折れるということに感動した
唐手は
中国の唐の時代に広まった日本の空手の源流となる武術である
白羽秀樹は唐手(とうで)に夢中になり懸命に練習に取り組んだ
5歳ごろから祖父直々の指導を受け始めて以来、15年間、マンツーマン指導を受けた

全日本学生チャンピオン

日本大学に入学すると白羽秀樹は空手部に入部し3段まで取得
公式戦では60回以上戦って負け無し
当時の学生空手界で白羽秀樹という名は有名だった
「法政一高、日大へと進学した私は
子供の頃からストリートファイトを含め1度も負けたことはありません
日大3年で全日本学生チャンピオンになり空手の世界では無敗でした」
(沢村忠)
しかしある日を境に人生が一変する
野口修との出会いである

野口修

 

キックボクシングを創り、沢村忠を育てた人

 (1700056)
野口修は、
東京都文京区出身で
父親は元プロボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者のライオン野口
帝拳プロモーション会長であり日本プロボクシング協会初代会長でもある本田明に可愛がられ
プロボクシング界でレフェリーおよびプロモーターとして活躍した後
日本キックボクシング協会を設立し
沢村忠というスーパースターを世に送り出すことになる人物である

 

五木ひろしの生みの親

 (1700067)
また野口修は親交のあった作詞家:山口洋子のすすめで歌手の三谷謙と契約をしたこともある
三谷は「五木ひろし」へ改名し
『よこはま・たそがれ』が発売され再デビューを果たした

ボクシング界にも大きく貢献

 (1700066)
昭和30年代、
ボクシングは人気を集め
フジテレビ、日本テレビ、TBSなど民放各局はボクシングをレギュラー番組として放送した
しかしそのマッチメイクは全て日本人同士の対戦だった
「このままではいずれファンにも飽きられてしまう」
そう感じた野口はNET(現テレビ朝日)に日本人対外国人の試合を提案した
だがこれはあっさり却下された
外国から選手を呼んでギャラを出していては制作費が足りないというのだ
一番組の制作費はだいたい40万円前後が相場だった
「わかりました
では私は25万で引き受けましょう」
そんな金額で出来るわけがないと誰もが思ったが、
いったん口に出した以上引けない
野口は懸命に頭をひねった
試合会場を使用料5万円の後楽園の卓球センターから
1万円で借りられる浅草公会堂へ舞台を移した
浅草公会堂で行われた国際試合は毎回超満員で大変な盛況であった
そのうち他局からも
「選手を貸して欲しい」
と打診が出てくるようになり
野口は選手を貸し出しながら
東南アジアを中心に海外選手の発掘に出かけるようになった

タイ式ボクシング(ムエタイ)との出会い

 (1700312)
中でもタイと特に太いラインが確立出来た
タイにはムエタイ(タイ式ボクシング)と呼ばれる格闘技があった
野口はパンチ・キック・膝蹴り・肘打ち、首相撲という幅広い打撃技を含むこの格闘技に興味をそそられた
さっそくボクシングの前座のエキビジョンマッチとしてタイ式ボクシングの試合を浅草公会堂で実現させた
殴るだけのボクシングに蹴るという要素が加わったムエタイが観客の目にどう映るか不安はあったが
観客の反応は悪くはなかった
タイ式ボクシングだけの試合を行ってみたが
こちらも観客は楽しんで見てくれたようで悪い感じはしなかった
手応えをつかんだ野口は、
日本人とムエタイの試合を実現させてみたくなった
日本人でムエタイとかみ合うのはやはり空手であろうか

極真空手家をムエタイにチャレンジさせる

 (1700275)
野口は極真空手の大山倍達を訪ね相談を持ちかけてみた
大山はあまり乗り気でない様子だったが野口は熱意で押し切った
そして黒崎健時、中村忠、藤平昭雄の3選手を借り受けた
野口と3人の選手はタイに渡った
ムエタイにはルンピニー(陸軍系)とラジャダムナン(王室系)の2大スタジアムがあり
彼らはバンコクでルンピニーの大物である陸軍大佐の家に1ヶ月滞在してトレーニングを積み試合に臨んだ
国技であるムエタイに日本の空手家が挑むということで
現地の一部では殺伐としたムードも起こった
街に「空手の奴らなど墓場送りにしてやる」などと書かれたポスターも貼られたという
ルンピニースタジアムに1万5000人の観客を集めて空手対ムエタイの試合は始まった
3人の極真空手家は壮絶な覚悟で戦った
黒崎はヒジ打ちを食らって顔面を切って敗れた
しかしその内容は壮絶なものだった
そして中村忠は強烈なパンチでKO勝ち
藤平もKO勝ち
ルンピニースタジアムの観客は3人の日本人の強さを認め賞賛の拍手を送った
翌日の新聞も大きくとり上げた

命名「キックボクシング」

 (1700543)
帰国後、野口はムエタイを日本はもとより、いずれは世界中に広めたいという構想を持った
だが日本の相撲と同じく国技であるムエタイは少し古風な習慣やルールがあるし
名前もムエタイやタイ式ボクシングではアピール度が弱い
世界に羽ばたく格闘技の名前として何かいいものはない
あれこれ考え
既に国際的に浸透しているボクシングという名称はどうしても使いたい
蹴りのあるボクシング・・・・キックボクシング!!
これなら世界中に通用するし何よりも分かりやすい
こうして日本キックボクシング協会を設立して今後この競技を日本に世界に広めて行こうと思った
だがこの「キックボクシング」の名称はボクシング界から猛反発を食らった
そのようなわけのわからない競技にボクシングという名前を使うのはボクシングに対する冒涜だというのだ
理事会で散々責められることとなった
野口は日本ボクシング協会の常任理事を務めており
何よりもこれまでにボクシング界に多大な貢献をしてきたという自信があった
「キックのあるボクシングだからキックボクシングなんだ
この名前なら海外でも通用する
この名称だけは妥協するわけにはいかない」
と反発した
そのうち
「どうしてもそのような競技をつくるのならボクシング界から除名する」
という意見まで出た
野口も頭に来て
「何が除名だ
戦中戦後のボクシング界の創設には私の父親が多大な貢献をしている
戦後は私が海外に目を向け選手を発掘し、国際試合も実現した
東洋タイトルマッチも行われるようになり選手も世界に挑戦出来るようになったんだ
ではそのパイプ役を努めたのは誰なんだ
俺以外に誰がいるというんだ
俺以上に貢献してきた人間がこの中に1人でもいるというのか」
シーンとなった
実際、野口の言う通りであった
理事会は野口の言い分を認め
野口は常任理事の座を元日本フライ級チャンピオンであり自分の弟でもある恭に譲り
自分はボクシング界から引退とした
そして野口は安藤嘉章を会長に立てて日本キックボクシング協会を設立した
(現在、日本キックボクシング協会は日本キックボクシング連盟に統合される形で解散)

地上最強の格闘技は空手です

 (1700306)

日本キックボクシング協会は旗揚げ興行として
タイから選手を招き「空手対キックボクシング」と銘打った興行を企画した
だが日本側の選手がなかなか決まらない
全国をまわって話を持ちかけてみたが断られた
「相手の選手にケガを負わせるといけないので」
などと大口を叩くものもいたが多くは弱気になっていた
そんな時、知人の紹介で空手の学生チャンピオンだった白羽秀樹を紹介された
当時、白羽秀樹は日大2年生ながら全日本選手権で優勝し空手界期待のホープだった
野口はさっそく東京の飯田橋の喫茶店で白羽と待ち合わせをした
白羽は礼儀正しく挨拶した
白羽が席につくと野口は一気にしゃべり始めた
「まさか、僕をボクサーにしようというんではないでしょうね」
「いや
今新しい仕事をしています
タイ式ボクシングを日本で育てようと思いましてね
このタイ式ボクシングこそ地上最強の格闘技だとほれ込んでしまって」
「違います
地上最強の格闘技は空手です」
「では聞くが、君は相手を血煙あげて倒したことがあるのかね」
「馬鹿を言わないでください
空手で実際に相手をうつと生命の危険があります
だからこそ、相手の肉体の紙一重で攻撃をとめ、審判の判断で勝負が決まるのです」
「はっきり言おう
そんなきれいごとではタイ式ボクシングに勝てない」
「!」
白羽は最初はおとなしく話を聞いていたがだんだん腹が立ってきた
「君は空手が1番強いと思っているようだか、それは全くの認識不足なんだよ
しょせん空手は寸止めで実戦的でない
いくらシャドウボクシングがうまくてもそれで果たして実戦で勝てるかな?
ムエタイは近づけばヒジやヒザが、離れれば回し蹴りが飛んでくる
これと戦えば空手なんてひとたまりもないさ」
野口は白羽の実力ではなく空手そのものを否定するようなことを喋った
「どうだい?
戦ってみる気はあるかい?」
これまで打ちこんできた空手を批判されて頭にきた白羽はもちろんOKした
「いいですよ、やりましょう
俺の同僚を戦わせてみますよ」
この時、白羽の名は既に学生空手界では有名なものになっていた
もし自分が出ていって万が一のことがあれば、空手界全体に迷惑をかけることになる
「同僚を」と言ったのはそういう配慮だった
結局交渉は野口の一方的なペースで終わった
気がつけば対戦を承諾しており、白羽は完全に乗せられたという感じだった
 (1700309)

試合前日、
白羽は同僚選手を連れてタイの選手の公開練習を見に行った
全員に戦慄が走った
サンドバッグを蹴る音や重量感が、これまで見たことのないほどの破壊力だった
「あんなのとやったら殺されるんじゃないか」
出場予定選手の中で不安が立ちこめた
そして試合当日、事件が起こった
出場予定のなかった白羽以外、他の選手が全員いなくなってしまった
部屋はもぬけのカラで、夜中のうちに逃げ出してしまったのだ
野口も動揺した
「どうするんだ
試合は今日
しかも切符も売れているんだ」
「こうなったものは仕方がありません
俺が責任を取って戦います
ですが本名で出るのは困ります
リングネームでお願いします」
こうして白羽のみが出場することとなった
ムエタイに関して依然未知の部分が多いがいったんやると口に出した以上、後には引けない
大阪の難波、府立体育館で、約5000人の観客を集めてキックボクシングの旗揚げ興行は開始された

沢村忠、デビュー

 (1700550)
野口は極真空手代表としてルンピニースタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した中村忠の強さにあやかり、白羽のリングネームを「沢村忠」にした
白羽はこの名はこの1試合限りで、まさか今後自分が沢村忠を名乗り続けることになるとは思わなかった
白羽の相手はムエタイ元フェザー級チャンピオン、ラクレー・シーハヌマンだった
沢村忠は空手着にグローブをつけて初めてのリングにあがった
緊張もあってか、沢村はこの試合のことはほとんど覚えていないという
気がつけば観客からものすごい声援で、その時点で初めて自分が勝ったことに気づいたという
3R50秒、
沢村の蹴りがラクレーのノド元に突き刺さってのKO勝ちだった
 (1700566)

「やはり空手はムエタイより強い」
沢村がそう思っていたところへ野口は2戦目の話を持ってきた
1試合限りだと思っていた沢村は困惑した
しかしまたしても野口のペースに引き込まれた
「まさかあれで勝ったと思っているんじゃないだろうね
タイにはあれより強いのがゴロゴロいるんだ
まあやりたくないというならそれでもいいんだが・・
君なら勝てると思うんだが、どうかな?」
「いや、いいです
やりましょう」
これで最後、という約束で沢村は再び承諾した
相手はルンピニーの現フェザー級8位のサマン・ソー・アジソン
場所は渋谷のリキ・パレスに決まった

16回ダウン、病院送り

 (1700316)

via 8limbs.us
『空手が勝つか、ムエタイが勝つか』
この刺激的なテーマに観客は超満員だった
「デビュー戦をKO勝ちし2戦目に運命のときを迎えます
相手はタイの強豪サマン・ソー・アディソンです
私は前2戦同様、空手の誇りを胸に秘め道着でリングに上がりました
今度も負けるわけがない
空手が世界最強と信じていたからです」
(沢村忠)
しかしリングに上がった沢村はアジソンの雰囲気に圧倒された
「なんというか、底なし沼のように、
どろんと鈍い底しれぬ殺気をたたえた目」
ゴングが鳴った
沢村は先制攻撃をしかけた
しかしアジソンは前回の相手とはまるで違った
沢村は1Rから押された
2R、
セコンドが頭からかけた水が空手着に染み込んで重くなってしまった
 (1703442)
3R、
アジソンはスパートをかけた
圧倒的な数のキック、パンチが沢村に飛んだ
アジソンの右ハイキックでダウンした沢村は
その後、ほぼサンドバッグ状態となった
見ていて残虐とも思えるようなシーンの連続だった
だが沢村は倒されても倒されても立ちあがった
4R
リングは試合でなく屠殺場と化していた
「もう、やめさせろ!」
一方的な展開に観客が野次った
そしてアジソンの右フックで沢村がダウンした時点でレフリーが試合を止めた
4R2分53秒
沢村の食らったダウンは合計16回にも及んだ

ハジマリ

 (1700554)

沢村は担架で退場し病院直行となりそのまま入院した
本人も試合の記憶は途中から消失していた
奥歯が5本抜け
打撲37箇所
出血13箇所
ヒジ打ちを食った後頭部は陥没していた
「4R2分53秒、私のKO負けです
全身16ヶ所が破壊されていました
頭蓋骨陥没、歯は7本、肋骨は3本折れていました
リングからそのまま病院に直行でした」 
(沢村忠)
高熱が1週間続き
頭には継続的に激痛が走った
半殺し状態だった
ベッドでうめきながら沢村は空手とタイ式の違いについて考えた
1  
空手は一撃必殺だけにその一撃に全力を集中する
だがせっかくの一撃必殺もめまぐるしいタイ式のスピードについていけない
2  
空手の試合では攻撃を相手の紙一重で止めるため、殴られることに慣れていない
したがってタイ式ボクサーより当然もろい
3  
したがって空振りで疲れ攻撃されて弱ってくると一撃必殺の力も失われていく
野口は再起は無理だろうと思った
それどころか沢村の体は日常生活に支障がないほどに回復するのだろうか
そして戦わせたことに対して自責の念に苛まれいたたまれない気持ちとなった
せめて戦いをねぎらってやろうと病室を訪れたとき、沢村から驚くような言葉を聞いた
「もう1回やらせて下さい」
「よく言ってくれた
実は私は君の空手ならタイ式の一流とやっても互角に戦えると考えていた
ところが完全に敗れた
私は今更ながらタイ式の強さに惚れ直した
しかし君の根性にはもっとほれたぞ」
沢村はあれだけやられてもまだ戦う意志があった
このままで終わってたまるかという気持ちがその後の沢村忠を生み出すことになる

片まゆ毛、鼻ひげ

 (1700558)

約1ヵ月後、沢村は退院し、長野の八ヶ岳山中にこもった
昔の武者修行侍のように完全に世間の生活から離れることで全てをタイ式ボクシングにかけた
目的はキックの練習はもちろんだがメインは精神鍛錬だった
人のいない山奥で夜を明かし孤独と恐怖に耐えることで精神が成長すると考えたのである
狂人じみた特訓を続ける沢村であったが強敵は深山の夜であった
我慢できない孤独感が彼を襲った
(ううう、さびしい
ネオンまばゆい銀座の雑踏
人間が無性に恋しい)
(うおお、もうたくさんだ
東京に帰る
夜があけたら山を下るんだ)
しかし朝になって思い返す
(帰ってどうなる
みじめな負け犬に成り下がるだけだ
男として、ダメになるだけだ)
沢村は人恋しさに山を降りて行かないように片方の眉毛だけを剃り落とした
(これでいい
この顔ではとうてい人前には出られん
眉がそろうまでいやでも山中で特訓を続けるほかない)
約2週間の山籠りを終え沢村は山を下った
野口修と沢村忠

野口修と沢村忠

下山した沢村は野口宅で合宿生活に入った
野口は精悍になった沢村を見て満足した
「そうだ
そのひげをそる時、鼻ひげだけ残すといい」
「え、この若さで鼻ひげですか」
「鼻の下の髭は試合中に鼻血が出たとき、血が口へ流れ込むのを防いでくれる」
こうして鼻ひげ顔の沢村忠が誕生した
「キックボクシングを世間に広めるためには、
選手育成はもちろんのこと、
テレビで放映してもらうことが不可欠」
そう考える野口はしょっちゅう沢村を連れてTBSへ出かけ営業活動にいった
キックボクシングの説明をし
沢村対サマン戦のビデオを放送して欲しいとアピールした
最初は相手にされなかったが
1年半もの活動の結果、
ついに森副部長が興味を示し
自分が手がけていた番組「サンデースポーツ」の中で沢村対サマン戦を紹介
こうして初めてキックボクシングが公共の電波で放映された

超人的な特訓

 (1701928)

「タイ式とは違う一撃必殺の空手の威力が
タイ式のスピードとタイミングの上に乗ればいいんだ」
空手家からキックボクサーとなるべく沢村は本格的にトレーニングを開始した
全身を武器とするため自ら様々なトレーニング方法を考え出し超人的な特訓に取り組んだ
みぞおちの急所を守るため15kgくらいの鉛の玉を何度も腹で受け止める「腹筋鉛玉落とし」
野球のバットで腹をバットで30回くらい連打で殴ってもらいパンチに耐える不死身の体に鍛える「バットめったうち」
車のタイヤを天井からぶら下げそれを反動をつけて腹で受け止める「タイヤショック」
指の力を鍛えてパンチの力を増す「2本指腕立て伏せ」
コンクリートの柱におでこをたたきつけ頭突きの威力を増す「頭蓋骨固め」
足のバネを鍛えるための「鉄げたランニング」
 (1705384)
むこうずねは弁慶でもうたれると泣くほどの急所だが、
スリコギを使ってスネを叩く「泣かずの弁慶特訓」では
叩くたびにスネは腫れ上がっていった
それでも我慢して叩いているとだんだんと痛みもなくなり腫れもしなくなった
スリコギでは役不足になり
牛乳ビンを使うようになり
半年もするとビール瓶をスネで叩き割れるようになった
そしてビール瓶を克服すると今度はコーラのビンを使うようになった
そのころの野口ジムのタイ式の日本選手は沢村1人だけで
あとはタイ人選手が4人いるだけだったが
沢村はその4人を練習で血祭りにあげた
ジムにあった急所図

ジムにあった急所図

次の段階として沢村は90日間のビザを取得して1人タイへ向かった
そして知人の紹介でタイの富豪の家に住みこみの使用人として働きながら本場タイの技を学んだ
「タイのルンピニ系のジムは陸軍が統治していました
私は軍の将校の家に下男として登録され訓練に明け暮れました
軍には徴兵で集められた優秀なボクサーが何人もいました
練習にはこと欠きません
日本人の練習生は彼にとって良い標的でした
激しい訓練で私は空手からキックボクサーとして変身していったのです」
(沢村忠)
沢村忠の帰国後、
野口修氏はキックボクシングのコミッションを立ち上げ
選手の募集と育成に着手した
ボクサーで名乗り出る者はなかった
野口は日本中の空手家に声をかけ選手をかき集めた
帰国後、沢村は一気に9連勝した
しかも9人中8人が強烈な蹴りをくらって肉離れを起こした
人間凶器となった沢村に野口はある話をもちかけた
「本場タイ国のチャンピオン級と勝負する気はあるか?
これを東洋ミドル級タイトルマッチにし、お前が勝てばチャンピオンだ」
「しかし、チャンピオンは本場タイで決めているんでしょう」
「ああ
タイ式のチャンピオンはな
だがキックボクシングのチャンピオンはまだ決まっていない」
「え、すると」
「そうだ
いよいよ日本におけるタイ式ボクシングをキックボクシングの名のもとにスタートさせることにした
それにはタイ国一流に勝たなければファンは納得せん
自信はあるか」
「怖いです
しかし、死んでもやります」

いいファイトをすれば必ずお客さんはつく

 (1700567)
沢村がサマン・ソー・アジソンに惨敗した悪夢の日からほぼ1年
東京新宿体育館でキックボクシング発足記念発表会の試合の日が来た
新宿体育館は超満員となった
メインイベントはモンコントン・スイートクンvs沢村忠の東洋ミドル級王座決定戦
試合前、沢村はスイートクンがタイでソー・アジソンに勝っていることを知って驚く
「本当ですか、会長」
「その通り
そのくらいの大物の勝たなくては、新生キックボクシングのチャンピオンとして日本では認めてくれん」
そして試合開始
余裕綽綽のモントーコンであったが、沢村は互角に渡り合う
あせりはじめるモントーコンに対して精神的に優位に立つ沢村
そして沢村の飛び蹴りがモンコートンの胃をえぐる
リングサイトで見ていた寺内大吉は
「タイ人の黒い肌がそこだけ一瞬色を失った」
と表現した
結果は3R、沢村のKO勝ち
これで悪夢の敗戦から復活後10連勝
キックボクシング東洋ミドル級チャンピオン沢村忠が誕生した!!
 (1700568)
それはまた日本キックボクシング界の夜明けでもあった
この試合は「サンデースポーツ」の中で放送された
ただ試合10日後に放送される録画放送ではあったが従来の扱いに比べれば格段の進歩だった
とはいえ、まだ経営は苦しかった
この頃、沢村は日本橋の穀物取引関係の会社に勤めながらジムに通った
まだまだキックで生活が出来るには遠く及ばなかった
会場設営、ビラ配り、ポスター貼り、切符売り・・・
全て沢村を含めた選手とスタッフが全員で行っていた
野口は沢村に言う
「これからが大変だ
今日からは追う立場から追われる立場
追われる立場が追う立場より数倍厳しいことはすべてのスポーツのチャンピオンが認めている
お前の王座を狙って次々に本場タイ式の強豪が日本を襲ってくる
これに打ち勝つのは人並みの業ではダメだ
お前だけの必殺技を身につける必要がある」
沢村は自分の必殺技は何であるか考えて、足技であると思った
「タイ式ボクシングは400年の歴史がある
マットの上だけの技ではとてもタイ式においつけぬ
だが僕独自の足のバネによる空中からの攻撃
これこそ歴史にみがかれたタイ式を破る強烈な武器になる」
沢村は飛び蹴りを意識して出すのではなく無意識に出せるように徹底して反復練習した
ある日、野口は気合をこめてキックの練習を繰り返す沢村をみていた
そして沢村の体が引力の法則に逆らって一瞬ピタリと空中に停止するのがみえた
「沢村よ
俺は見たぞ
蹴る寸前、確かにお前の体が一瞬、空中で静止した
あたかもそこが真空地帯になったように
ひょっとするとこれが必殺技の手がかりかもしれん
ただの飛び蹴りでは必殺技にならん
なぜなら敵も蹴られそうな急所を予測して防いでしまうからだ
しかし一呼吸おいて、空中からの蹴りを敵に見舞うことが可能だとしたらどうなる?」
沢村は真空飛び蹴りの開発についてこう語っている
「引力の法則に逆らって人間の力で空中に真空を作る
この途方もない夢の実現のために
僕がまずヒントにしたのは、走り幅跳びの選手だった
走り幅跳びの選手はそのジャンプが頂点に達したせつな、
そのまま落ちてしまうところをもう一息、空中で両足をバタバタやることにより、
滞空時間とジャンプ距離を伸ばす
このせつな、彼らも引力の法則に逆らい真空地帯を作り出している
それを僕もやってみようと思ったんです」
足のかわりに両手をバタバタさせて真空状態を作ろうと特訓を繰り返す沢村
それを見て周りの人間は沢村を狂人扱いした
特訓を繰り返す間にも試合は行われるが客の入りはまばらだった
沢村はKO記録を重ねていくが、本場タイでは沢村の存在を本気に取り扱っていなかった
金のなかった沢村は
犬のえさを食べ
23円の銭湯代がなくて猛練習のあと頭から水道の水をかぶった
そして沢村は特訓の結果、膝蹴りが有効であることに気づいた
「幻の必殺技は真空飛び蹴りではなくて真空飛び膝蹴りだったのだ
確かに足の振り幅の大きいつま先蹴りはかわせても、振り幅の少ない膝蹴りはかわせん」
まず敵の頭上より高く飛び上がっておく
このとき最初から膝を曲げていては膝蹴りがくると敵に防御されてしまう
まっすぐ飛び上がり敵の頭上で右膝でいくか左膝でいくか決めるのだから防御のしようがない
助走なしてこの高さまでジャンプすることは沢村以外の選手は真似ができない
膝が敵の顔面の位置になるまで下降し、右でいくか左でいくか決めながら、完全に相手の隙を見極めることができる
まさしく真空だった
 (1700573)
「歴史的にみて1年対500年なのです
日本の武道では手や足を使っても最強のヒザは活用したことが無いのです
手、足で対抗できてもこれでは勝てません
しかし空間を蹴り、重力とひねりで相手にヒザをぶつける
これはタイにはありませんでした
蹴るときには常に軸足が地に着いている
これが常識です
でも常識を守っていれば勝機はないのです
私は空を飛びました
”真空”がついたのは当時のアナウンサーの石川顕さんか解説の寺内大吉さんが命名したのでしょう
いずれにしてもこれが私の勝利の方程式になったのです
偶然ではなく
勝つための必然だったのです」
(沢村忠)

バイヨク・ボーコーソー

 (1701926)

沢村が血みどろで真空飛び膝蹴りに取り組んでいるころ
野口も新生キックボクシングの発展のため血を流していた
テレビ局に毎日のように姿を現した
「粘りますよ
いくらでも
わがキックボクシングを毎週テレビで定期放送していただくまでは」
そして野口は沢村に言った
「お前の真空飛び膝蹴りでテレビ局と勝負してくれ
今度テレビでキックの試合が放送される
その試合でお前はジャイアント馬場にもファイティング原田にも負けないキックの威力を真空飛び膝蹴りでテレビ局に示すのだ」
「そして一気にキックを定期放送に持っていくわけですね」
「む、久しぶりにすごい大物を本場のタイから呼ぶぞ」
 (1702188)
そして沢村と野口は対戦相手のバイヨク・ボーコーソーを出迎えに羽田空港に行った
バイヨク・ボーコーソーは、以前沢村を16回もダウンさせたサマン・ソー・アジソンをやぶっていた
「ボーコーソーはどんなタイプの選手なのですか?」
「不死身の鉄人
その一言に尽きる
本場タイでも不死身ぶりにかけては、ボーコーソーの右に出る選手はおらん」
「つまり、俺の真空飛び膝蹴りが一番通じにくい男」
「そういうこと
敵が不死身であればあるほど、これを倒したとき、真空飛び膝蹴りの威力は光り輝く」
記者会見でボーコーソーは報道陣に愛嬌をふりまいた
そしてコーラ瓶を腕にはさんでへし折るパフォーマンスを見せた
試合当日、浅草公会堂は超満員だった
王者:沢村vs挑戦者:バイヨク・ボーコーソー
1R
沢村の先制攻撃がことごとく命中するが、ボーコーソーの顔から笑顔が消えない
2R
沢村は投げ技をボーコーソーに仕掛けるが、まったくきかない
次第に沢村は窮地に追い込まれていく
(のるかそるか、失敗を恐れている男に勝利はない)
そして気合とともに空中に飛び上がる沢村
ボーコーソーの顔からスマイルが消えた
(左に隙あり)
沢村は右膝をボーコーソーの顔面にヒットさせた
ボーコーソーはたまらずダウンしてテンカウントを聞いた
沢村は劇的な飛びヒザ蹴りで見事タイトルを守った
「よくやった、沢村
だが俺は喜びの今よりも厳しい明日を見る主義だ
男はそうありたいと思う
ボーコーソーを倒したこの瞬間から、本場タイ式ボクシング界はお前を大敵として認めた
打倒沢村に総力をあげてぶつかってくるぞ」
「望むところです」
この試合はTBSのサンデースポーツで放送され
テレビ中継の視聴率22%だった
真空飛び膝蹴りと共にキック人気は急上昇していった

「八百長じゃねえか」

名前が売れるとジムに道場破りが現れるようになった
ボクサー、合気道、空手、喧嘩屋、柔道・・・
20人以上の道場破りが来たが
沢村相手に1分もった男はいなかった
沢村は21連勝し11度目の東洋タイトルの防衛に成功した
しかし野口の顔は渋かった
「キックの人気が盛り上がっているのに
まだいっこうにテレビ局は毎週放映するとはいってこない
なぜなのか私には理由がわからん
沢村の真空飛び膝蹴りの一撃必殺のスリルは
ジャイアント馬場の32文ミサイルキックにもおとらんと思うが」
親しい記者がいった
「ジャイアント馬場が倒す外人プロレスラーは1流ぞろいだ
ちゃんと本場アメリカから情報がはいるからねえ」
「それでは沢村が倒すキックボクサーは一流でないと君はいうのか? 」
「そうはいいません
ただね、2流3流をつれてきて1流だ、殺し屋だと凄みをつけることもできるという話しでさ」
その後も悪評は野口の耳にちらほら入ってきた
「タイの選手があんなに簡単に負けるわけがないじゃないか
相手が手を抜いているのかも知れない
タイでやったらああはいかないさ」
「八百長じゃねえか」
 (1703405)

via ganref.jp
野口は頭に来た
しかし同時に記者の言うことも確かに一理あると思った
結局、実力を証明するためにこちらからタイへ乗りこみ敵地でチャンピオンと戦うしかないと結論した
「タイ式ボクシングはタイ国だけのもの
情報もはいらん
沢村が勝ちすぎると変にかんぐる島国根性の人間もおる
そこでだ
誰にも文句を言わさぬ日本キックボクシング界の運命をかけた大勝負をたったいま私は決意した
こちらからタイ国に殴りこみをかけるのだ」
「僕は東洋チャンピオンになっても、
真空飛び膝蹴りを編み出しても
決してスター気取りで浮かれていない
いや、浮かれるほど甘くないんだ
キックの人気は相変わらずパッとしないのだから
テレビ放送は月1回だけ
チャンピオンになっても僕の試合場は1000人しかはいらない浅草公会堂だ
試合のリングは僕や遠藤マネージャーが自ら素人大工で組み立てる
切符は友人や知人を頼って売り歩くんです
キックを知らない相手に身振り手振りで説明しているうちに惨めで悲しくなる
苦労のあげく血で血を洗う命がけの試合をやって僕が手にするファイトマネーは最高で3万円
それも一ヶ月に一度試合があればましなのだから東洋チャンピオンの収入は工員さんや店員さん以下だ
僕は愚痴をこぼしているんじゃない
決して派手なスター気取りでキックをやっているんじゃない
こうなったら絶対に負けんぞ」

タイでチャンピオンとタイトルマッチ

 (1703437)
野口は沢村を含めた数人の選手たちを連れてタイへ渡った
バンコクの空港に降り立ち、沢村が歩き出すと、一斉にフラッシュがたかれた
「有名人と一緒に乗り合わせたんだな」
沢村はそう思ったが
記者が自分を取り囲んだのを見て唖然とした
タイでは母国の英雄が異国の挑戦者を受けるということで大変な騒ぎになっていた
タイ国の国技であるタイ式ボクシングはタイのどの町にもジムがあるほど盛んで
プロ選手の数はなんと3000人いると言われている
相撲をとったことのない日本人がいないようにタイ式ボクシングをやらないタイ人もいない
タイの地を踏んだその夜、野口と沢村はさっそく本場の試合を見物に行った
「凄い
超満員だ
ああ、日本のキックの数100人の客とくらべてあまりに差がある
それに、試合内容も日本の試合とは迫力が違う」
沢村を本物ではないとする者たちを見返すためにタイに来たのだ
野口はチャンピオン以外はガンとして拒否した
そして対戦相手はポンチャイ・チャイスリアと決まった
燃えるトカゲの異名をとるタイ国ライト級チャンピオンである
 (1703440)
ルンピニースタジアムは
1万5000人の観客を集め
リングはまだひっそり静まり返っていた
まさに嵐に前の静けさだった
まず沢村が入場
予想したほど野次は聞こえない
試合の賭け率は8対2でチャイスリア有利
沢村の惨敗は決定的と信じられていた
タイの軍楽隊が演奏する「勇者の門出」というメロディが場内に流れた
この曲はタイ式ボクシングでチャンピオンの試合だけに許されるもの
そしてトカゲのガウンを着たチャイスリアが入場
女性が自分の子供をチャイスリアに差し出す
「この子を抱いてやってください
坊やがあなたのように強く偉大な男に成長することができますように」
その様子を見つめる沢村と野口
「まさに国家的英雄ですね」
「うむ
タイ国では国王につぐ尊敬の的は、このチャイスリアかもしれん
その国王の今夜はこの試合を観戦するという」
「え」
「頑張りがいがあるぞ
いやでも日本のマスコミはデカデカと報道せざるをえまい」
沢村はチャイスリアの目に威圧された
「これほど凄みのある人間の目に初めてぶつかった
そのくせ下品でない凄み
219戦無敗205KOというキャリア通りの負けを知らない王者の目だ」
 (1703445)

試合開始
第1Rは互角の立ち上がり
第2R
チャイスリアは回し蹴りで沢村の太ももを攻撃
そして太ももと膝を攻められた沢村は崩れるようにダウン
必死で立ち上がる沢村
脚は蹴りまくられ、充血し、青黒く腫れ上がっている
沢村は意地で第2R持ちこたえた
第3R
沢村は打ってくるチャイスリアの出鼻で右膝を直角に曲げ、飛び上がらんとするポーズを取る
ビクッとするチャイスリアに沢村は前蹴り1発
真空飛び膝蹴りをフェイントにした奇襲だった
たまらずダウンするチャイスリア
かろうじて立ち上がったチャイスリアに沢村は肘打ちの嵐
ここで第3R終了
第4R
前半は沢村が有利に攻め
後半はチャイスリアが盛り返した
最終第5R
死闘を繰り広げる二人はまったく同時にダウン
ダブルノックダウン
しかしあくなき両雄の敢闘精神は倒れてもなお組みあいたたきつけあった
血しぶきがリングサイドに飛び、記者のメモを濡らした
そして試合終了
2人は泣きながら抱き合った
「日本のキックボクシングは素晴らしい
私が保証する」
「タイ式ボクシングもさすがにすごい
この体で教えてもらった」
そして試合は引き分けに終わった
素晴らしい試合内容に感動して拍手を贈るタイ国人
タイ国王も拍手している
拍手しているタイ人の多くは8対2の賭け率なので損しているはずである

ゴールデン進出

 (1703879)

沢村が男がタイのチャンピオンとタイで戦って引き分けたということを快挙として日本のメディアも扱った
そして日本に戻った沢村たちに嬉しいニュースが飛び込んだ
毎週月曜日PM7:00から30分間、TBS系全国32局ネットで
沢村をエースとする野口プロモーション系のキックボクシングのテレビレギュラー放送がスタートすることになったのだ
沢村と野口は男泣きに泣いた
「テレビの定期放送が決定した
毎週月曜日夜7時のゴールデンアワーだ」
「よかった
これでキック界にも春が来た」
そして沢村の次の相手は
アメリカ・ミドル級チャンピオン:ジミー・ゲッツだった
ジミー・ゲッツはボクシング出身で、そのうえ空手も柔道も有段者だという
しかし試合はあっけなく終わった
2R2分05秒
ゲッツは沢村の右回し蹴りを左腕でブロックしたが
その左腕が骨折し顔を歪めてマットに崩れ落ちた

日本プロスポーツ大賞、殊勲賞

 (1705051)
沢村人気は爆発した
地方の試合が増え始めた
翌年は年間で48試合が予定された
映画、ドラマ、クイズ番組などの出演が相次ぎ、芸能人なみの分刻みの生活となった
沢村はサインを求められると時間の許す限り1人1人にサインした
地方興行に出たとき宿舎に帰ってくると色紙が1m近くも積み上げられていることもあったが、
沢村は代筆を使わず全て自分でサインをした
キックの沢村
プロ野球では巨人がV4を達成し長嶋、王が人気を集めた
大相撲の大鵬、
サッカーの釜本
など
スポーツ界は軒並みスーパースターが活躍していた
そんな中、日本プロスポーツ大賞で沢村は殊勲賞を受賞した
キックボクシングは、野球・相撲・プロレス・プロボクシングに続く第5のプロスポーツと宣伝された

ハードスケジュール

 (1703447)

遠藤マネージャーがいった
「王や大鵬を上回るキックの鬼、沢村忠の人気だって」
「遠藤、そんなものオーバーでもなんでもない
この野口がキックに託す夢はそんなちっぽけなものではない
そのためには沢村よ
貴様にとって最大の強敵と戦ってもらわねばならんぞ」
「最大の強敵?」
「それはお前のスケジュールだ
12月21日札幌
12月26日仙台
・・・・・・
日本全国縦断興行だ
キックのような激しいスポーツでこんなスケジュールでやった男はおらん
前人未到だ
だがキックの大きな発展のためにやらねばならん
テレビでしかキックを見たことのない地方の人にお前の生の試合を見てもらうことが我々の使命なのだ」
「わかりました」
「苦しいぞ
試合のほかにテレビドラマのゲスト出演もしてもらわねばならん」
「僕の命を存分に使ってください」

沢村はとにかく試合数が多かった
そして試合の合間に「喉自慢大会」や大阪の毎日放送の杉良太郎の主演番組「けんか太郎」にゲスト出演
試合が終わるのは夜9時
そのあとで地方の有力者との懇談会が待っている
キックがレギュラー番組化してからは
ほぼ毎週1回試合が組まれ対戦相手も大量に必要だった
ランキング入りしている選手やチャンピオンと戦えばそれなりに視聴率もアップし、観客動員数も増えるが、
そのような選手は少ない
必然的にランキング外の選手や格下の選手も引っ張ってこなければ対戦相手が足りない
「沢村があれだけ連戦をこなせたのは、マッチメイクの巧みさによるものだ
相手の中には、全力で戦わなければ勝てない相手もいれば、スパーリング程度の感覚で倒せる相手もいる
対戦相手に強弱をつけて、それらをうまく組み合わせていくのがプロモーターの腕だ」
と野口が語ったこともある
沢村の試合はとにかく面白かった
最初は劣勢になり、ダウンを奪われたりもするが
最後はバネのようなハイキック、真空飛びヒザ蹴り、飛び前蹴りで劇的に勝った
相手はマウスピースをゆっくり口から出しながらダウンした
こうして沢村の連勝記録は伸びていったが練習不足と試合の連続でコンディションは悪化していった

丸めたパンフレットで叩かれスリッパで叩かれボロクソに言われて退場

 (1705406)
横浜文化体育館
対戦したカンワンプライ・ソンボーンは沢村にとっては弱い部類に入る選手だった
前年11月に対戦した時には真空飛びヒザ蹴りのKOで勝っていた
だが、この日の沢村は何か違った
身体が重い
パンチにもキックにもいつものスピードがない
逆に相手に何度もカウンターを喰らう
そして真空飛膝蹴りを1発も出さないまま
結果は5R判定負け
「馬鹿野郎
やめちまえ」
罵声が飛んだ
丸めたパンフレットで叩かれ
スリッパで叩かれ
こんなにボロクソに言われて退場するのも初めてだった
負けた原因ははっきりしていた
休みもない
練習時間もない
明らかに過密スケジュールが原因だった
連勝は31でストップした
この後沢村は、2週間ほど休みをもらい、
精密検査を受け
伊豆の土肥の海岸地帯でキャンプをはってトレーニングに集中した
そこへ野口がやってきた
「お前の姿が見られん東京のキックボクシングはまるで火が消えたようだ
やはりキックすなわち沢村忠なんだ
このへんで東京に戻り再起第1戦といかんか
ただしぐっと手ごわい相手でないとファンの信用は回復できんぞ」
「これで負けたらファンから見切りをつけられるでしょうね」

フライング・ドロップ回し蹴り

 (1705385)
その復帰戦は名古屋の金山体育館
相手はタノンスク・キットヨーテン
18歳のタノンスク・キットヨーテンは沢村のいなかった日本のリングで日本選手たちを総なめにした
タイでもチャイスリアと同じ、もしくはそれ以上の力の持ち主と言われているという
タノンスクは沢村と死闘を繰り広げたポンニット・キットヨーテンの従兄でポンニットから真空飛び膝蹴りの弱点を教わっていた
そして試合開始
沢村は強烈なパンチの持ち主であるタノンスクに真空飛び膝蹴りをお見舞いした
タノンスクはガードをがっちり固めて、飛び膝蹴りを受け止めた
沢村はジャンプすることでタノンスクのキックを殺し
あせって前蹴りを繰り出すタノンスクの顔面に沢村の回し蹴りが炸裂した
沢村の第2の必殺技であるフライイング・ドロップ回し蹴りだった
「真空飛び膝蹴りというただ1つの必殺技では相手にマークされるから
長い年月の間ではどうしても威力が弱ってくる
しかし必殺技が2つになれば臨機応変、
相手選手はどちらでも攻撃されるか見当づかず、
再び真空飛び膝蹴りの威力もよみがえるだろう」
試合後、沢村は宣言した
「もう負けませんよ」
実際それから連戦連勝でKO勝ちを積み重ねて行く
カンワンプライに止められた31連勝には、約半年で追いついた
また、キックの試合は必ず録画放送で行われた
流血など凄惨なシーンをカットし編集してから放送したいとのテレビ局の意向によるものだ
 (1705386)
しかし、いつも放送時間内に沢村が勝つものだから(録画だから当たり前なのだが)
「よく出来たショーだ」
と思っている人もいた
実際、地方に行くと
「今日は沢村さんが何分ころに出てきたから、何Rで勝つな、とだいたい分かるんですよね
よく出来ていますね」
などと言われたこともあった
沢村は八百長呼ばわりされることを嫌った
「冗談じゃない
怪我を隠し、相手が誰であれ、試合前は緊張していつも真剣勝負をしているのに」
勝ち続けることが逆に自分が疑われることになるとは
これほど悲しく腹立たしいことはなかった
やがてキックボクシングは3階級から7階級制へと変わった
体重制限を増やして7人の日本タイトルと東洋タイトルが誕生した
沢村は13度も防衛したミドル級からライト級に転向
そして東洋ライト級のチャンピオンとなった

キックの鬼

 (1705391)
テレビで沢村を主人公としたアニメ「キックの鬼」が放送を開始
沢村人気は子供たちの間にも浸透していった
あるとき試合で真空飛び膝蹴りをしたとき、
ファンから
「手抜きするな」
と野次られたという
アニメでは真空飛び膝蹴りの時、高く飛ぶが、
実際はそこまで飛ばないため、そう思われたのであろう
沢村は雑誌社の取材で動物園でライオンと対決したこともあった
「オリの中のライオンと戦えるかという設定でした
もちろんライオンは戦う気もありませんし、間にはオリがあります
今考えてもばかばかしい取材です
私はライオンに視点を定め全身から気を発しました
臍下丹田からでる息吹は猛獣といささかも変わりません
今でも当時と変わらぬ気を発散することは可能です
ライオンは振り返り、殺気を込め戦いの姿勢をとりました
私は別に驚きもしませんでしたが、雑誌のスタッフは腰を抜かさんばかりの興奮でした」

金に執着なし

 (1705062)
この頃の沢村のファイトマネーは1試合50万円くらいだった
平均的な初任給が3万円くらい
総理大臣の給料が90万くらいという時代にそれだけの収入があった
いつもつかんで帰る激励賞は多い時には50本を超え、1本の中身は数万円
それに加えてレコードの印税や映画やテレビの出演料などが加わった
これだけ収入があっても沢村にはほとんど貯金がなかった
好きな車は7台所有し
お中元やお歳暮、
後輩たちへの面倒や援助
自分の誕生パーティで出席者に大量のプレゼントを贈ったり
大量に入ってきた金も大量に使ってしまった
「武人が金に執着するのは醜い」
という考えを持っていたようである
「試合が終わると私はいつもミイラでした
手も腕もすねも腿も腹さえも腫れ上がりジーンズははけませんでした
ぐるぐると全身にテープを巻き、加熱し、腫れ上がらないように安静を保つ毎日でした
そしてまたリングに上がったのです
私の許には何十人もの選手がいました
そして決して1人では戦えないのです
トレーナーからコーチ、練習相手からスタッフまで大勢の人の助けがあってリングにのぼれるのです
当時私の試合3試合でマンション1戸が買えると言われていました
しかし私のファイトマネーは多くの選手達の生活を支え
更に問題を起こすことのないよう、そして欠かすことのないスタッフへの感謝のために消えていきました
今でもあの時こうすればなんて考えることはありません」
(沢村忠)
沢村は
日本に2台しかないシボレー・コルベットの所有したが
もう1人の所有者だった大場政夫が事故死したため沢村も手放した

因縁のパナナン・ルークパンチャマ

 (1702190)
パナナン・ルークパンチャマ戦では
ファンは衝撃の光景を目撃することになる
4R0分56秒
沢村より身長3cm体重10kg上回るパナナン・ルークパンチャマは
沢村がジャンプした瞬間、パナナンの右ストレートが沢村のアゴを打ち抜いた
 (1702194)
沢村はそのまま背中から落ちて後頭部を激しく打った
沢村はタンカに乗せられて退場
それから30分意識不明になった
幸い、医務室で意識は回復
すぐさま、パナナンへの雪辱を誓った
連勝は134、3年3ヶ月で止まった
沢村はパナナンとの対戦で
初戦はは判定勝ちで勝ったものの連続KO記録を止められ、
2戦目は壮絶なKO負けで連勝記録を止められここまで1勝1敗
「同じ相手に続けて負けるわけにはいかない」
そう言い聞かせた3度目の対決では
2R
パナナンが右回し蹴りを放った瞬間
沢村は右フックをパナナンの顔面に叩きつけた
パナナンはこの一撃でマットに沈み、
沢村のKO勝ち

野口キックボクシングジム襲撃事件

 (1705075)
野口プロモーション((本社:東京都目黒区)は
野口修社長の実弟:恭をコーチ役としてバンコク市内の目抜き通りに「野口キックボクシング・ジム」を開設した
日本選手16人を呼び近代的な設備のジムで練習させ
それを見物しつつお茶を飲む喫茶店の施設を備えた派手な店構えだった
野口キックボクシングジム開設翌日
タイの代表的な大衆紙「タイ・ラット」紙は
「野口ジムは神聖なタイの国技を冒すものだ
タイ・ボクシングという名前を使わないことは日本製のキックボクシングを押し付けようとするもので悪質な経済侵略だ」と
「ジャップ」という言葉まで使って激しい反対キャンペーンを始めた
「野口キックボクシングジム」が
「タイボクシングジム」ではなく「キックボクシングジム」であったことに
「タイの国技を汚すもの」と一部タイ世論の強い反感を買い
同ジムにピストル弾3発が打ち込まれた
高校生と見られる一団の抗議デモが野口キックボクシングジムに押し寄せ大ガラス1枚が割られた
さらに夜には
日本・タイ対抗のキックボクシング試合が行われた市内のラーチャダムネンボクシングスタジアムで
野口社長がタイボクシング関係者の1人に顔面を殴られた
野口社長に「殺す」「日本の犬」など激しい文面の脅迫状が届られた
タイの代表的な大衆紙「タイ・ラット」紙は
1面に「Go Home、野口!」と野口社長の写真入りで書きたてた
野口社長はタイ側のプロモーターと一緒に会見した
「名前もタイ・ボクシングに変える
タイとの親善が目的なのだから・・・」
紛争の発端となった問題の「野口キックボクシングジム」の大きな看板がすべて外され
ガラス張りの公開練習場の使用も中止されジムは閉鎖となった
野口修社長は10月18日午前、バンコクを離れ、香港経由で10月19日夜帰国した
「野口キックボクシングジム」は
1972年10月9日に開店したばかりのタイ大丸デパートを中心とする商店街「ラチャダムリ・アーケード」の一角を占めていたが、
1972年10月18日に「タイ大丸に爆弾をしかけた」と脅迫電話がバンコクの警察にかかっている
(さらに1972年11月にはタイ全国学生センターにより全国的な日本製品ボイコット運動が進められ
日本の経済進出に対する抗議の運動が高まっていくことになる)

日本プロスポーツ大賞、大賞(内閣総理大臣賞)

 (1705432)
野球界では巨人がV9を達成
王貞治が3冠王となった
そして沢村は日本プロスポーツ大賞、内閣総理大臣賞を受賞した
「当時最後まで選考に残っていたのはジャイアンツの3冠、王貞治さんでした
まさか私がもらえるとは夢にも思っていませんでした
田中角栄総理から「よくやった」と声をかけられ、あの迫力溢れる声は今でも耳に残っています
翌年、王選手が授賞し、大賞盃を渡しました
嬉しいというより、キックの世界に栄誉が与えられたのが感動でした」

限界説

 (1705058)

その後も沢村は勝ち星を積み重ねて行ったが
パンチやキックで試合を決めることが多くなり
真空飛びヒザ蹴りでKOする試合は少なくなった
元々難易度が高くそうそう出せるものではなかった
全盛期の沢村は、
パンチにはパンチで応戦し
キックにはキックで応戦し
見せ場を作ってから相手を仕留めるということも出来た
実力差があってこそ出来ることであった
だがそのような余裕がだんだんと無くなり決められる時に一気に決めてしまうようになった
それが派手な技ではなく、地味な小技であっても見せることより勝利を優先するようになった
沢村は
「格闘家のピークは27歳まで」
という考えを持っていた
実際その年齢になってみると
所属している目黒ジムでは600人の選手が所属し
全国16のジムの選手は2000人を超えていた
沢村がいなければ興行もテレビも成り立たない状態で
とても引退を口に出来る状態ではなかった
「とにかく俺は30歳までは頑張る
だからみんなも早く看板選手になれるよう頑張ってくれ」
そう言い続けながら30歳になった時も同じ状況で
キック人気は依然沢村1人で支えているような状態だった
そして月日は更に流れ32歳になった
キックボクシングが誕生して8年が経った
しかし状況は変わらない
「いったい俺はいつまで現役を続ければいいんだ」
キックボクシングを定着させ安定した人気をいつまでもと願う沢村は焦った
全盛期に比べスタミナや技の切れ、スピードなど、明らかに落ちてきていると沢村本人もセコンドも感じるようになっていた
「足の腫れがひかないこともあると炊いた飯をタオルにくるんで足を温めることで無理矢理治していた」
とインタビューで答えている

チューチャイ・ルークパンチャマ

 (1703449)
沢村は選手生活最後の敗戦を喫した
前回負けてから、ここまで引き分けをはさみ54連勝が続いていた
相手は1階級上のウエルター級チャンピオン:チューチャイ・ルークパンチャマ
チューチャイは若干20歳であったが来日以来快進撃を続け、
日本ウエルター級の上位陣に加えヘビー級の斉藤天心をも下していた
4R
チューチャイの右ストレートにより沢村はKO負けを喫した
倒れた際に頭を打った沢村は全身を痙攣させた
リングには物が投げ込まれ大騒ぎとなった
2年3ヶ月ぶりの敗戦
そしてこれが選手生活で最後の敗戦となる
「1戦1戦
もうこれが最後だと思ってリングに上がります」

蒸発

 (1705313)
沢村は1階級上のウエルター級のチュンポン・ムアンスリンを1R35秒KO
沢村は野口社長と2人で話した時、とうとう引退の意思のあることを伝えた
これまでスケジュールに関してもファイトマネーに関してもほぼ全ての面で黙って受け入れてきたが
引退に関しては自分の意見を強行に主張した
TBSが放送を開始して9年
放送回数はちょうど400回目となっていた
沢村はシンハオ・ソールークピタクを3RKO
東洋タイトルを防衛した
ファンにとってはいつもの光景でだった
しかし沢村はいつもとちょっと違った
試合の終わった後、4つのコーナーを順々にまわっては深々と頭を下げてまわったのである
その後の沢村のスケジュールは
後楽園ホールで数試合行って、その後は地方興行に出ることになっていた
最後は鹿児島で試合を行い
大阪へ帰って大阪府立体育館で試合をし
これで今回は一区切りというスケジュールとなっていた
沢村は大阪府立体育館に出発する前に鶴巻サブマネージャーを呼び止めた
「ねえ、鶴さん
俺さすがにもう疲れた
今日で辞めるよ」
鶴巻はびっくりして言葉もなかったがしばらくして
「ジョーさんが辞めるなら俺も」
と答えた
沢村はこの日、ダビチャイ・ルットチョンをKOで下した
そしてこの日を境に完全に消息不明になった
この後は全くの行方知れずで誰も連絡を取ることが出来なくなった
野口プロモーションは「怪我を治すための休養期間」と発表した
世間ではいろいろな噂が出始めた
「野口社長に頭にきたので逃げた」
「頭がおかしくなって富士山麓の精神病院で両手両足を鎖でつながれ犬の格好をしてご飯を食べている」
「刑務所に入っている」
「死んだ」
「廃人になった」
「裏社会で用心棒になっている」
など様々な憶測が飛んだ
沢村が蒸発して1年3ヶ月の月日が流れた時、
突然、野口をある男が訪ねて来た
「社長、お久しぶりです」
そう挨拶をしたその男は、髪型や雰囲気はすっかり変わっていたが、まぎれもなく沢村だった
野口は再び現れた沢村に対しスーパースターの引き際としてファンの前で正式に引退式を行うことを決定した

引退式

 (1703450)
後楽園ホール
再び沢村が現れたこと、引退式を行うことになったことなど、多くのスタッフは半信半疑だった
当日の会場も「本当に来るんだろうか」という雰囲気だった
しかしその日後楽園ホールに現れたのは間違いなくかつてのキックの帝王、沢村忠だった
リングに上がり、観客に向かって深々と頭を下げ、マイクを取って別れのメッセージを綴った
「キックボクシングファンの皆さん、長い間本当にありがとうございました」
わずか2分弱のメッセージであった
その後テンカウントゴングが打ち鳴らされ静寂な雰囲気の中、沢村の引退式は終了した
関係者からは、
「あれだけの名声を捨てるのはもったいない」
「引退後もキックの世界にとどまり、後進の育成に当たってくれ」
と説得された
それらの誘いを丁重に断り、キックの世界から完全に決別し
また新たな人生を一からスタートさせた
沢村引退後のキックボクシングは富山勝治をエースに起用したが
スーパースターの抜けた穴を埋めることができず
キックボクシング中継は数年後に打ち切られた
キックボクシングブームは沢村と共に始まり沢村の引退と共に幕を閉じたのである
沢村の公式戦の通算成績は241戦232勝(228KO)5敗4分け
非公式戦を含めると500戦以上ともいわれる
現役10年で約7日に1回戦って500戦
5R とはいえ生身で殴り合って蹴り合う試合に短期間で体をつくり直すわけである
驚異的な数字である
まさに沢村は昭和40年代の日本の高度経済成長とともに現れたスーパーヒーローだった

「キックボクサー、沢村忠と呼ばれるより人間、沢村忠と紹介されたい」

 (1705446)
沢村は引退してから自動車修理工場を経営している知人に頭を下げ就職させてもらった
そこで数年間経験を積んでから独立した
現在は、自動車の修理販売業を営む傍ら、子供達に空手を教えている
パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの取締役でもある
沢村は引退してから1、2度マスコミの取材も受けており、
引退から20年以上経って、1度だけテレビに出演したこともある
取材に対してこう語った
「引退後、「酒で身を持ち崩した」「死亡した」という説が出回った
こっちが子供みたいに怒っていちいち(雑誌の出版社に)電話して『無礼者』とか言ったってしょうがないですからね
そういえば蕎麦屋で飯食ってたんだけどキックの話がでるじゃない
そこのおばあちゃんが『キックと言えば、あの沢村って死んだんだってね』と言われて『そうですね』と答えたんだけど、
店を出てから、ふたりで笑い転げましたね
キックの世界にいる時は人一倍練習も積み
最初は27歳くらいが限界と思っていた選手生活も結局34歳まで続けました
僕がいなくなれば日本キックボクシング協会に登録している2000人の選手が試合出来なくなってしまいますからね
その結果、完全燃焼でした
現役時代は過密日程で満身創痍で、常に眠りも浅かった
それが限界まで戦い抜いてようやくそこから開放されたのです
僕は昔から武士道的な生き方にあこがれていて、『立つ鳥、後を濁さず』ということは常に考えていました
キックボクシングで自分なりに全てをやり尽くしたことは自分にとって最高の勲章なんですよ
だからこそ、そっとしまっておきたかったし、とても改めて引っ張り出す気にはなれなかったんです
思い残すことのないキックの世界からスッパリ身を引き、新しい人生を一からスタートさせようと思ったんです」
沢村忠はキックの鬼として、そして伝説の男として生きることを望んではいない
しかしいつも武道家として侍として生きつづけることを願っている
まさに本物の男なのである
沢村忠の本質がここにある
「キックボクサー、沢村忠と呼ばれるより人間、沢村忠と紹介されたい」