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力道山よりもデビューは早かった 「日本初の女子プロレスラー」猪狩定子さんが闘ったもの 7

 日本の女子プロレスは、実は力道山がデビューした1951年の「プロレス元年」より前から存在していた。「日本初の女子プロレスラー」と称される猪狩定子さん(91)=東京都台東区=は、戦後間もなく、兄たちと興行で日本各地の進駐軍キャンプを回り、女子プロレスの草創期を築いた。その時代を研究する神戸女学院大学の瀬戸智子准教授(49)=歴史学・ジェンダー研究=は「『強い女性』に対する期待や軽蔑、性的興味などさまざまな見られ方があった」と指摘する。

兄たちとプロレスショーをしていた頃の猪狩定子さん(左)=1951年、東京・横田基地(提供)

(小谷千穂)

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 自身のプロレス人生について、猪狩さんが浅草の自宅からオンラインで語ってくれた。

 兄7人がいる8人きょうだいの末っ子として生まれ育った。学校では「女の子らしくしないとダメ」と言われたが、家では性別に関係なく、相撲や柔道、ボクシングに励む兄らに囲まれ、たくましく育てられた。子どものころから体格が良かったという猪狩さん。「近所の同級生らとけんかしても、無敗だった」と、いたずらっぽく笑う。

 プロレスを始めたのは48年、16歳のころだった。「食べるためだった」と猪狩さんは言い切る。太平洋戦争が終わってから3年。両親はなかなか仕事が見つからず、子どもらも働かなければならなかった。

 一番上の兄が戦前、海外で女性が闘うレスリングを見たといい、兄妹3人でプロレスのショーをすることに。長兄は「パン猪狩」、7番目の兄は「ショパン猪狩」、猪狩さんは「リリー猪狩」として、日本各地の進駐軍キャンプを回った。

 ショーでは、ジャズバンドの生演奏をバックに、コミカルにプロレスやボクシングを披露した。猪狩さんが対戦相手のショパン猪狩の顔面にパンチを入れ、投げ飛ばす。しまいに審判役だったパン猪狩も殴ってダウンさせる。米兵たちは大盛り上がりだったという。

 女性への偏見が根強い時代で、当初は批判にもさらされた。水着姿でのショーが勘違いされ、わいせつ物陳列罪で摘発されたこともあった。観客から罵倒されたり、牛乳瓶を投げられて後頭部に当たって負傷したりした。猪狩さんは「何を言われても、自分がしたいと思えることをしていたから、堂々と闘えた」と振り返る。

 50年代になると認知度が上がり、女性の選手が増え始める。劇場で、女性同士の試合ができるようになった。54年11月にはアメリカから選手が来日して「世界女子プロレスリング大試合」が催された。神戸市の王子体育館や東京の蔵前国技館など全国4カ所を回り、猪狩さんも前座で登場。人気に火がつき、国内で女子プロレス団体が乱立するようになった。

 猪狩さんは、59年にプロレスを引退した。その後、女性お笑いトリオを結成し、浅草松竹演芸場に出演。兄ともども、コメディアンとして長く活躍した。「お客さんから『よかったよ』との言葉を聞きたくて、ずっと続けられた」

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 女子プロレスの草創期について研究する神戸女学院大の瀬戸准教授は「当時の世論には、『痩せている』『弱くておとなしい』といったステレオタイプの女性像が強く染みついていた」と強調する。

 当時の女子プロレスを取り上げたメディアを分析したところ、男性ライターの感想には、性的対象としての記述が多く、お色気のストリップとして見る傾向があった。一方、女性たちの「胸がすーっとする」という受け止めからは、期待や憧れが感じられたという。

 東京出身の瀬戸准教授は、米ニューヨーク市立大学とシカゴ大学の大学院で10年ほど日本の近代史を研究。韓国の大学を経て、昨年4月から神戸女学院大の文学部英文学科で教壇に立つ。

 猪狩さんとは約20年前、一時帰国した際に友人を介して出会った。最初は飲み友達だったが、話を聞くうちにパワフルな猪狩さんの体験に興味を持ち、50年代の女子プロレスを研究することに決めた。

 瀬戸准教授は「体格が良く、力強い女性たちの活躍は、当時の世論に対する反面教師のようであった一方で、ジェンダーの秩序を脅かす存在として、典型的なミソジニー(女性嫌悪)も向けられた。今の女子プロレスの形は、女性たちが挑戦と失敗を繰り返して築いたものだ」と分析する。

 「自分は『女』だと意識してやっていた訳ではない」と猪狩さん。90歳を超え、現役さながらのファイティングポーズをカメラに見せる元レスラーに、若い世代に伝えたいメッセージを聞いた。「まずは自分を愛することが大切。自信を持って、自分の行動に責任を持って進みなさい」