· 

南西沖地震30年 奥尻が原点 泉谷しげるさん「お前ら募金しろ」

 1993年7月に発生した北海道南西沖地震後、津波による甚大な被害を受けた奥尻島を救うため、「お前ら募金しろ」と全国の街角に神出鬼没に現れ、ギターをかき鳴らして熱唱。60年代後半に流行した「フォークゲリラ」の手法で救援金を募ったミュージシャンがいた。泉谷しげるさん(75)だ。島民は今も、あのころの泉谷さんの姿が心に刻まれている。【真貝恒平】

 93年7月12日、津波と猛火に襲われた奥尻島の惨状をテレビで見た泉谷さんは「何かできないか」と自問自答を繰り返した。そして、それは「何かしなければ」という思いに変わった。気がついたら、ギター一本を抱えて街頭に出ていた。「救済というよりも、本当に衝動的だった。冷静さを失っていたね」と振り返る。

 泉谷さんは71年にレコードデビュー。吉田拓郎さん(77)、井上陽水さん(74)らとともにフォークブームを巻き起こした。映画やテレビにも出演し、歌手活動だけでなく、個性派俳優として幅広く活躍する。

 「一人フォークゲリラ」を始めた当初、仕事の関係者はそろって難色を示した。それでも「自分の中に起きた衝動のまま、とにかくやってみたい」と周囲を強引に納得させた。世間の逆風も覚悟の上だった。「『偽善者』『売名行為』だと呼ばれても構わない。一日一偽善、結構じゃないか」。迷いはなかった。

 街頭でのゲリラライブは思わぬ出会いをもたらした。ファンが集まるコンサート会場と違い、自分を知らない人も立ち止まる。聴衆に悪態をつきながら挑発する。そこに緊張感と新鮮さがあった。当時は40代半ば。聴衆の前に立つ裸の自分に、忘れかけていたデビュー当時の気持ちがわき上がってきた。「『奥尻を救え』と叫んだが、自分を救済しようとしていたのかもしれない」

 泉谷さんの活動は同世代や後輩のミュージシャンたちを刺激した。盟友の忌野清志郎さん(2009年死去)、小田和正さん(75)、桑田佳祐さん(67)らが加わり、札幌市で「奥尻島救済コンサート」を開催するなどし、一人フォークゲリラは瞬く間に大きなうねりとなった。

 そして、集まった救援金を持って島に渡り、小学校などでミニライブを開催。島民と親交を深めた。あれから30年が経過したいまも、泉谷さんの姿は島民の記憶に残っている。当時、奥尻町立稲穂小(03年閉校)の教諭で現在、町立青苗小校長の工藤崇さん(54)は「みんなでバーベキューをしたときに声をかけてもらった」と懐かしげに語る。工藤さんは当時、小学校教諭の初任地として奥尻町に赴任したばかりだった。「新米教師で津波を経験し、一人で心細かったときに励ましてくれた。こわもてのイメージだが、本当に心が温かい人だった」と笑顔を見せる。

 稲穂小の児童たちに泉谷さんが送った手紙がいまも島に残っている。「すばらしい笑顔は私めの宝もののように今も胸の中で輝いてますよ みんながこれからも元気で育つことを心より期待します」

 地震の発生から30年がたった島で泉谷さんの活動を振り返る動きがある。10日から奥尻島津波館で、泉谷さんが寄贈したギターやミニコンサートの写真パネルなどを展示する。企画した奥尻町教育委員会の稲垣森太学芸員(40)は「あの震災は悲劇だったが、泉谷さんは当時の島に光を当ててくれた。30年がたったいま、震災を風化させないためにも、あのとき、被災者支援に奔走し、来島して島民を励まし続けた泉谷さんの活動を振り返るのがいいと思った」と話す。

 泉谷さんの活動は、北海道南西沖地震の2年後に発生した阪神大震災(95年)、11年の東日本大震災、16年の熊本地震などの被災地で続き、歌の力で励ました。泉谷さんは「振り返ると奥尻が原点だった。社会貢献というのは難しく、いまも悩み続けてるけれど、あの奥尻があったからこそ、いまの自分がいる」と言葉に力を込める。

 取材の最後、泉谷さんは奥尻島へのメッセージを語った。「奥尻は大変な島ではなく、本当に素晴らしい島。ぜひ、島に遊びに行ってほしい。島のみなさん、また会いましょう!」