
その外人さんは、当時、この会社の社長、ビル・ゲイツでした。
大の日本好きであるビル・ゲイツは、 マイクロソフト社の中で、いつも日本の作務衣を着ているそうです。
他の社員さんたちは、重役も平社員も、みんな背広にネクタイです。
ビルの中で、ビル・ゲイツひとりが作務衣を着ています。
そしてどこに行くにも、 常にビル・ゲイツには、二名のボディガードがついています。
トイレに行くときは、ボディガードは、トイレの入り口前に立ちます。
だからそのとき、ビル・ゲイツは、 ひとりでトイレのドアを開けて入って来たのです。
ほんの、ひとこと二言の会話でした。
トイレで鉢合わせし、ヒゲソーリーと冗談を言ったなどというのは、 誰でもすぐに忘れてしまうような、ほんの些細なできごとです。
ところが、それから間もなくして開かれたクリスマスイブの社内パーティで、 おばちゃんは突然、パーティーに参加するようにと内線電話で呼ばれました。
仕事中だし、他の掃除のおばちゃんたちもいるしと断ると、 しばらくしてまた内線がかかってきました。
「清掃係の女性全員、参加してください、 ビル・ゲイツ社長からの直々の依頼です」というのでした。
やむなくおばちゃんは、当日出社していたおばちゃんたち全員を呼び、 みんなでパーティ会場に行きました。
おしゃれなんてしていません。
普段の作業衣のままです。
こわごわと会場に入って行くと、そこにはたくさんの社員さんがいました。
ビル・ゲイツもいました。
普通の社員さんだって、ゲイツと直接会話なんて、なかなかできません。
そのビル・ゲイツが、おばちゃんを見つけると、 とっても嬉しそうな顔をして、よく来てくださいました、 とおばちゃんを抱きかかえんばかりに歓迎しました。
そしてみんなにも、このおばちゃんはすごい日本人で、 自分が大好きな人ですと紹介してくれました。
一緒にいた他の掃除のおばちゃんたちにも、 ビル・ゲイツが単なるおべんちゃらではなく、 本気でこのおばちゃんを尊敬し、親しみを込めていることがわかったそうです。
それほどまでにビル・ゲイツはおばちゃんを歓迎しました。 掃除のおばちゃんたちというのは、 会社の中ではいわば縁の下の存在です。
トイレで出会っても、廊下ですれ違っても、 その存在自体が意識すらされません。
けれど日本びいきのビル・ゲイツは、 どんなに汚い仕事でも、どんなに辛くても、 何十年でもそれを誠実に行い、 しかも「ヒゲソーリー」というくらい、 ユーモアとウイットを忘れず、堂々と自らの仕事に精を出す。
そんな本来の日本人の典型を、彼女の中に見いだしたのです。
作務衣を着て、日本が大好きなビル・ゲイツには、 彼女が誠実に毎日の清掃をしていること、 自分の仕事に誇りを持って生きていること、 そして彼女が胸を張って堂々と生きていることを、瞬間に見抜いたのでしょう。
だからこそ彼の心の中に、彼女への尊敬の念がわき起こり、 トイレであった小さなその事件を忘れず、 パーティに全員を招待したのです。
世界を知る大人物のビル・ゲイツが、 日本でただひとりの信頼できる友人とまで称したこのおばちゃん。
彼女は、現在ではご主人の収入などで、 働かなくとも十分生活していくだけの収入があります。
けれど彼女は言います。
「働かないと体がなまるし、 働くことで毎日人様のお役に立てれることが とっても嬉しいのです」
やはり、仕事に誇りを持つ人は、生涯現役の志ですね。

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