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暴走族の撮影中にまさかのトラブル。総長からは「避難してください」、“モンスター先輩”の乱入にゾッ

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は休刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。

暴走族の取材は「命がけ」

 30年以上前、月刊誌として発刊されていた頃、編集部の主な仕事は全国各地の暴走族を取材・撮影することでした。多い時には、月2~3回は飛行機に乗っていましたね。本物の「暴走族」の取材に行くわけですから、現場でのハプニングは日常茶飯事……というか、何度も怖い目にあっています。  いま振り返ってみれば、笑える部分もありますが、ある意味「命がけの取材」と言っても過言ではなかったと思います。今回は、当時の撮影現場で起きた「ゾッとする」ようなエピソードをお話しましょう。  

撮影中に「モンスター先輩」乱入!

 その日は、都内近郊の有名暴走族チームの撮影でした。チームの人数は40~50名ほどで単車も20~30台は集まっているということだったので、当時の編集長と私、カメラマンの3人で納車したばかりの私の車に乗って現場へ向かいました。  撮影現場は都営住宅が密集する団地に隣接した木々が生い茂る公園の駐車場。我々が到着すると、すでにほとんどのメンバーが集まっていました。  私はすぐさま頭(総長)の子と話をして、単車をきれいに並べてもらい、1台1台写真を撮り始めました。しばらくすると、遠くの方からやたらに大きい爆音を立てて1台の車が暴走してくるのです(確か車種はクラウンだったと記憶しています)。  その車が見えてきた瞬間、暴走族のメンバーがこう叫びます。 「やべぇ! モンスター先輩だ!」  すると、それまでのインタビューでは「喧嘩上等いつでもこいや~!」と言っていたはずの屈強な漢たちが、蜘蛛の子を散らすように猛ダッシュで逃げていったのです。  取材班は当然、意味も分からずに棒立ち状態でした。

「編集部の方々はいったん避難してください」

 

 

 ただ、彼らがそこまでコワがる人物がこちらに向かってきているということは、相当まずい状態であることは間違いありません。チームの総長と何人かの幹部が「俺たちはツラが割れているんで逃げると殺されかねないのでここに残りますが、編集部の方々はいったん避難してください!」と言います。  私たちにも命の危険が迫っているということなので、素直に「はい!わかりました!」と一心不乱に逃げたのです。建物の影から先程の撮影現場を覗いてみると、なんとおぞましい光景が……。 

 

おぞましい光景にゾッ…

「テメ~ら、なにオレに黙って撮影やってんだコラぁ~~!」  先ほどの「モンスター先輩」が鉄パイプを両手に持ち、その場に残ったチームの幹部メンバーたちを殴ったり蹴ったりしはじめたのです。「ボコッ!ボコッ!」という鈍い音があまりにもリアルで、今でも記憶に残っています。  余談ですが、彼らの暴行現場には納車したばかりの私の車があり、「もしも壊されたらどうしよう」というのが、いちばんコワかったかもしれません(苦笑)。  モンスター先輩が「オメ~ら、わかったかコラ!」と叫びます。  総長以下の数人の幹部たちが「押忍!すいませんでした!」と返事をした後、モンスター先輩は爆音とともに去っていきました。

自分を犠牲にして仲間たちと編集部を守った総長

 

 

 我々が戻ると、総長たちが「迷惑かけてすいませんでした」と言って苦笑いします。 「あの人は先輩で、今ヤクザなんですけど……薬物中毒でちょくちょくこういうことがあるんスよ……。でも、総長が逃げちゃうとチームの奴らがマズいんで、話つけました」  私は“この人の根性半端ないな~”と感心しながらも、改めて“暴走族の総長の責任”の重さを目の当たりにしました。  それから撮影を再開したわけですが、もしもあのときに総長が「編集部の方々はいったん避難してください」と言ってくれなかったら……モンスター先輩に取材班が捕まっていたら……思い出すだけで震えてきます。  読者の皆さん、雑誌の編集者って大変でしょ?(こんなに危険な思いをする雑誌はなかなかありませんけどね……)  ということで、暴走族は、決して肯定できる集団ではありませんが、自分を犠牲にしてもチームのメンバーや編集部のスタッフを守ってくれた総長には今でも感謝しておりますね。

倉科典仁(大洋図書)
伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』をはじめ、改造車だけを扱うクルマ雑誌『VIP club』や特攻服カタログ『BAMBO』、渋谷系ファッション雑誌『MEN’S KNUCKLE』など、数々の不良系雑誌の編集長を務めて社会現象を起こす。現在は、大洋図書発行の実話誌『実話ナックルズ』のYouTubeチャンネル「ナックルズTV」や、ギャル男雑誌『men’s egg』をWebで復活させたYouTubeチャンネル「men’s egg 公式」のプロデューサーとして活躍中。

「ヤンキー用語」の意外と知らない意味とルーツ。ヤキ、根性焼き、赤テープ etc.

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は休刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。

 暴走行為(共同危険行為等)は決して許されるものではありませんが、時を経て、編集者として今振り返る「暴走族」の姿とは……。

ヤンキー用語の意外なルーツとは?

 

 

 読者の皆さんの中で、若かりし頃によく使っていた言葉ってありますか? 例えば「ナウい」や「ヤング」、「マブい(いい女)」など。今や死語になってしまっていますよね……。かつてヤンキー(暴走族、ツッパリ、不良少年少女)たちが使っていた、いわゆる「ヤンキー用語」にも実は面白いルーツがあります。  今回は以前、私がプロデュースするYouTubeチャンネル「ナックルズTV」にて“ヤンキー界の重鎮”こと岩橋健一郎氏に解説していただいた「ヤンキー用語の意味とルーツ」をご紹介したいと思います。昭和の時代のヤンキーたちは発想豊かと言うか、ついつい「なるほど」とうなずいてしまうような面白さがあります。  

ヤンキー用語①「ヤキを入れる」

「ヤキを入れる」は比較的ご存じの方も多いと思います。「根性のないヤツを殴る蹴るなどする」というニュアンスなのですが、肝心の「ヤキ」という言葉はどこから生まれたのかと言うと、皆さんは「刀鍛冶」ってご存知でしょうか?  ちょうど「鬼滅の刃」で刀鍛冶の里編が放送されているので、なんとなくイメージできるかもしれません。 「刀を作る工程で、鉄を火で炙ってそれを叩いてはまた炙り……ということを繰り返しながら完成させていくわけですが、この工程で鉄はどんどん硬くなり、強くなっていくわけです。まさに、その工程が元になった言葉がヤキ。ナヨナヨしている後輩などを叩く(殴る)ことで強くさせる」(岩橋氏、以下同)  諸説あるとは思いますが、うなずいてしまうのは私だけでしょうか。もちろん、今も昔も暴力で教育することは決して許されないのですが……。

ヤンキー用語②「根性焼き」

 今となってはあまり見られないものですが、岩橋氏はこう言います。 「根性焼きは“タバコの火を腕などに押し付けること”という解釈をしている人も多いが、実はその始まりはヤンキーたちの“根性比べ”だった。どちらが熱さに耐えられるかを競っていたんです。  もともとは、火がついたタバコを押し付けるのではなかった。それでは一瞬で終わってしまいます。葉っぱの部分を吸い終わったあと、フィルターを剥き、それを腕や手に乗せて相手と同時に火をつけるわけです(簡単に言えば“お灸”をする状態)。  そして、ジワジワと燃えていくフィルターの熱さにどちらが最後まで我慢できるかという根性比べをする。火傷の痕が残るので、それを根性焼きと呼んでいた」  まさに、その時代のヤンキーにとっては「男の勲章」とも言えるものだったのだと思います。現在は「入れ墨」や「タトゥー」を入れている若者も少なくありませんが、昭和の時代のヤンキーたちは、かなり原始的なやり方をしていたわけですね。

ヤンキー用語③「バラチョン」

 

 

 バラチョンは、いわば暴走族用語なのですが、暴走族の改造のひとつで、マフラーの音を大きくする方法です。  お金がある暴走族は「集合管」という大きな音がするマフラーを買い、なおかつその中に入っている消音器も取り外し「直管(音を消す装置が全くない状態)」で走っていたのですが、お金がない若い暴走族たちは、エンジンからマフラーに排気ガスを送る「エキパイ(エキゾーストパイプ)」を直接外し、音を大きくして走っていたそうです。  2気筒エンジンや4気筒エンジンのパイプをバラバラに外して直管にすることから「バラチョン」という呼び方をしていたとのことです。  実際その状態でエンジンをかけると文字では表現しにくいですが「バラチョン」的な排気音にも聞こえていたので、そういった意味でも「バラチョン」というネーミングになったのかもしれませんね。

ヤンキー用語④「赤テープ&白テープ」

こちらはヤンキー界には欠かせないアーティスト「横浜銀蝿」の楽曲の中の歌詞にも登場する言葉で、喧嘩をやる・やらないを示す「意思表示」に使っていたものだということです。 「当時、ツッパリ学生(ヤンキー)たちの間で流行っていたルール的なもので、学生カバンの持ち手の部分に、赤いビニールテープや白いビニールテープを巻き付けて、赤は“喧嘩売ります”、白は“喧嘩買います”という意味があったんです(※赤白どちらが売ります・買いますかは定かではない)。女の子でもやっている子がいましたが、多くは男の子でした」  

ヤンキー女子がカバンに絆創膏を貼っていた意味とは?

「カバンといえば、女の子はどちらかというと、カバンの表に斜めに絆創膏を貼る子が多かったです。その意味としては“私はもう傷物です”、つまり“もう処女ではありません”ということ。当時のヤンキー少女たちは、いつまでも処女であることに抵抗を感じていたんじゃないかと思います」  早熟であることにステイタスを感じる子も少なくなく、“私はもうガキじゃない”ということを主張したかったのでしょう。その頃に大ブレイクしていた中森明菜さんの曲「少女A」において、ちょっと不良っぽい演出が女の子たちにウケていたのもそういった背景があったからかもしれませんね。

ヤンキー用語⑤「年少リング」

 

 

 年少は少年院のことで、「年少リング」とは簡単に言えば「私は少年院に入

ってました」というサイン。指に筋彫りでラインを入れたりするのですが、中には「点(ドット)のようなものを入れる人もいたそうです。 「当時の不良少年の間では、少年院に入っていた子は周りから一目置かれ、“不良の勲章”という考え方がありました」  80年代においては、少年院に入って出てきた不良少年は「オーラが違う」、貫禄すら感じられるほどだったと言います。さらに岩橋氏は、こう付け加えます。 「海外の映画で『パピヨン』という作品があって、刑務所で蝶の入れ墨を入れられるシーンがあるのですが、その映画の影響も大きいのではないか」

 さて、どれも諸説あるとは思います。暴走や喧嘩、犯罪などの行為は、私としては、もちろん容認できませんが、昭和のヤンキーって、今と比べると、どことなくユニークで、熱くて、ほんのりと笑える、そして血が通っているようにも思えるのですが……あまりリスペクトするとクレームが来るかもしれないので、今回はこんなところで失礼いたします。 <文/倉科典仁(大洋図書)>

レディース総長は「まるで“宝塚”の花形だった」ヤンキーではない女の子が、総長に憧れていたワケ

 こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は休刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。  暴走行為(共同危険行為等)は決して許されるものではありませんが、時を経て、編集者として今振り返る「暴走族」の姿とは……。

レディース総長に届く大量のファンレター

 当時、レディース総長たちは「芸能人」級の人気だったと言っても過言ではありません。  私が編集部員をやっていた頃(平成の初頭)、読者からの手紙やハガキなどがたくさん送られてきていました。多いときで、1日に大きめのダンボール2箱分。  今のようにスマホやSNSはありませんでした。携帯電話はデカくて重く、本当にごく一部のお金持ちの人しか持ち歩いていません。そんなアナログな時代なので、ティーンズロード編集部には「友達募集」「投稿写真」「悩みごと」等々のコーナー宛に大量の郵便物が届くわけです。  編集部員は出社すると、まずは大量の郵便物をコーナーごとに分け、全てに目を通します。正直その作業だけで、一日の仕事が終わってしまうこともしばしば……。でも、読者たちが一生懸命に書いて送ってくれるものなので、編集部員たちも全員必死で読んでいたのを覚えています。

当時は「まるで“宝塚”の花形」

 編集部に送られてくる尋常ではない量のファンレターを、私たちは各チームの総長たちに転送していました。送られてきたファンレターは基本的に編集部で一度開封し、危ないものが入っていないかを確認してから本人たちに送ります。  さて、いったいどんな内容の郵便物がきていたのか?  大半を占めていたのが、雑誌に載った有名レディースチームの総長やメンバーたちの「似顔絵」を書いたハガキです。    それも驚くことに似顔絵を書いて送ってくれる読者の80%が女性読者。次のようなコメントが付けられていました。 「〇〇さんのような気合の入ったレディースになりたいです!」 「チームに入れてください!」 「私も〇〇さんのようにケンカが強くなりたいので弟子にしてください」  その人気は、まるで“宝塚”の花形です。確かに、ティーンズロードに掲載されたチームの総長たちは、喧嘩や暴走において達人というだけではなく、ルックスでも存在感を光らせていました。  

ルックスでも絶大な存在感、カリスマモデル級の影響力

 そんなレディース総長たちのビジュアルに憧れを抱いても不思議ではないのですが、カリスマモデル、ファッションリーダーのようでもありました。 「〇月号の雑誌に出たときの〇〇さんのアイシャドーの色がとても素敵で私もお揃いにしたいのですがどこに売ってるのですか」 「〇〇さんのネックレスと同じものをつけたいので買ったお店を教えてください」  

ヤンキーではない読者が、“主人公”を見る目で勇気をもらっていた

 読者のなかには、今で言うところのアイドルの“推し”を見るような感覚でレディース総長に憧れていた人もいます。 「〇〇さん愛してます……」 「一度でいいから会いたいです」 「〇〇さんの地元まで行きますから一度でいいのでご飯を一緒に食べてもらえませんか」  ただ、追っかけも行き過ぎてしまうと、電話番号を調べて何度も電話してきたり、家まで押しかけてきたり、そんなことも珍しくなかったようで……。  ともあれ、じつは似顔絵やファンレターなどを送ってくる読者の大半は、同じレディースをやっているような女の子ではなく、なぜか「オタク」的な性格の子たちが多かったんです。漫画やドラマに出てくる“主人公”を見るように、喧嘩や暴走をしているレディースたちの姿を自分に投影させて、どこか勇気をもらっていたのではないかと思います。

あの頃、確かに存在していたレディース暴走族

 レディース暴走族という集団の行動について、決して正当化できるものではありませんが、彼女たちが全国の女性読者たちに勇気を与え、憧れまで抱かせていたことは紛れもない事実です。当時、まさにヤンキー界の「宝塚」だったのではないでしょうか。  迷惑行為について、なにかと厳しい令和において、レディースたちは姿を消してしまいました。今となっては、映画やドラマでしか見られない物語が、昭和、そして平成の時代においてはリアルに存在していたのです。 <文/倉科典仁(大洋図書)>