【女子レスラー名鑑】小倉由美 アイドル的人気誇ったゴンゴン タッグでもシングルでも地位確立

デビュー当時の小倉。相手にレッグロックを仕掛ける

 1980年代中盤の全日本女子プロレスでアイドル的人気を誇ったのが「ゴンゴン」のニックネームでファンから愛された小倉由美だ。

 160センチと小柄な体ながら勝ち気なファイトは見る者を引き付けた。デビューは83年。入門して間もない時期にそのルックスがテレビ関係者の目に留まり、TBS系ドラマ「輝きたいの」にレギュラー出演を果たすという異例の抜てきを受けた。

 86年からは同じくアイドル的人気を誇った1年下で空手ファイトを得意とした永堀一恵と「レッド・タイフーンズ」を結成。同年2月には新設された全日本タッグ王座決定戦でブル中野、コンドル斉藤を破り、初代王者組となる。

 87年4月には宇野久子(現・北斗晶)、堀田祐美子からWWWA世界タッグ王座を奪取。「ポスト・クラッシュ」の1番手に躍り出た。この試合ではセカンドロープからのパイルドライバーで宇野が頸椎を骨折。引退寸前の長期欠場に追い込まれる有名なアクシデントも起きている。

 レッグラリアート、ブリッジの利いたジャーマンなどを武器に88年1月にはブル中野を破り、全日本シングル選手権を奪取。シングルプレーヤーとしての地位も確立した。相棒の永堀は88年5月にわずか4年のキャリアで引退したが、その後はパートナーを小松美加に代えて「カルガリー・タイフーンズ」を名乗ってタッグ戦線で活躍した。

 88年8月には堀田祐美子、西脇充子の「ファイヤー・ジェッツ」から、WWWA世界タッグ王座を奪取して再びタッグの頂点に返り咲くも、89年3月にクラッシュギャルズに王座を奪還されて、世代交代を阻まれた。90年12月には同期のブル中野と引退試合を行い、リングに別れを告げたが、91年3月に覆面レスラー「ハイパーキャット」として復帰。約1年間、活躍した。

 翌年に再度引退すると2004年に老舗天ぷら店の2代目と結婚。3人の子供にも恵まれ、美人のおかみさんとして店を支えている。

【女子レスラー名鑑】ルチャ殺法で新風を巻き起こしたトミー青山とルーシー加山の「クイーン・エンジェルス」

ビューティ・ペア全盛期に全日本女子プロレスが次なるスターにと期待をかけて結成されたのが、トミー青山とルーシー加山のクイーン・エンジェルスだ。当時では珍しいメキシコ仕込みのルチャ殺法で女子プロレスに新風を送り込んだ。
角度の高いフライングネックブリーカーを決める加山(左)

 いずれも1977年入門。青山(本名・冨高千賀子)は中京大学で陸上五種競技の選手だったが、大学を中退して全女に入門。身長170センチ(公称)の恵まれた体格と抜群の運動神経を誇った。

同期の加山(本名・漆原幸恵)は全女が開催した第1回オーディションで2000人の応募者の中からトップで合格。卓越したプロレスセンスに恵まれていた。同期には後のジャガー横田がいた。2人とも本名で同年にデビュー。加山は池下ユミのパートナーに抜てきされ、2代目ブラック・ペアのメンバーとしてヒールで活躍。それぞれ別の道を歩んだ。

 大きな転機となったのは2年目。2人は海外遠征に抜てきされ、全女選手では初めてメキシコに遠征する。新たにリングネームをトミー青山&ルーシー加山として「クイーン・エンジェルス」が誕生した。

 メキシコでは約半年間、空中殺法やルチャのテクニックを学んだ。当時は新日本プロレスの初代タイガーマスク・佐山聡もメキシコ修行中だった。2人は78年8月9日、日本武道館の全女10周年記念大会に凱旋帰国を果たすと、ナンシー久美、ビクトリア富士美組のゴールデン・ペアを破り、いきなりWWWA世界タッグ王座を獲得して一気にトップチームとなった。

 青山は79年9月にレイラニ・カイを下しハワイアンパシフィック王座(後のオールパシフィック王座)を獲得。シングル選手としてもジャッキー佐藤に次ぐナンバー2に。2人はレコードデビューも果たし人気を集めたが、ビューティほどの旋風は起こせず、80年8月には青山が右ヒザ負傷のため引退。チームはわずか2年で解散。81年4月には加山も引退した。

 それでもメキシコ仕込みのルチャ殺法は玄人好みのハイレベルなもので、時代が早過ぎたのかもしれない。活動期間は短いが記憶に残るコンビだった。(敬称略)

【女子レスラー名鑑】ジャガー横田を丸刈りにした「悪の覆面王者」ラ・ギャラクティカ

1970年代から80年代の全日本女子プロレスで“悪の覆面王者”としてジャガー横田と激闘を展開したのがメキシカンのラ・ギャラクティカだ。
ジャガーに勝利して丸刈りにするギャラクティカ。ジャガーは堂々丸刈りになった

 77年に初来日。当時はビューティ・ペアが大ブームを起こしていた時期で存在感が薄かった。81年にはラス・ギャラクティカス(1号&2号)の“宇宙覆面コンビ”で再来日。2号と決裂した後にラ・ギャラクティカとなる。155センチ、60キロの小柄な体形ながら、卓越したプロレスセンスとスピードを誇り、メキシコの関節技(ジャベ)と空中殺法を駆使して、メキシコでもUWA世界女子王者に君臨した。

ギャラクティカが一気に日本でブレークしたのが、83年5月7日、川崎市体育館で行われたジャガーとの「WWWA世界シングル選手権&マスカラ・コントラ・カベジェラマッチ」だ。遺恨がピークに達した両雄は日本初の試合形式で決着戦に臨んだ。ジャガーが負ければ髪の毛、ギャラクティカが負ければ覆面を奪われるという、メキシコでは定番の遺恨決着マッチだったが、初めて見る日本の女子プロファンには刺激的すぎた。

 しかも全女の至宝・赤いベルトをかけた王座戦となれば、盛り上がらないはずがない。試合は“怪物”モンスター・リッパーが何度も乱入し、ギャラクティカが最後はダイビングセントーンで勝利を決めた。ジャガーはファンが号泣する中、堂々と丸刈りとなった。純粋な「髪切りマッチ」はここから2年後の長与千種対ダンプ松本(85年8月大阪)まで待たねばならなかった。

 しかし6月のリターンマッチではジャガーがジャーマンスープレックスで勝利。ベルトを奪還するとルールを無視してギャラクティカのマスクを剥いでしまった。「女の命」を奪われた恨みは深かったということか…。

 

84年9月にはジャガーのWWWAシングルとギャラクティカのUWA世界女子をかけた2冠戦でジャガーが勝利する。ジャガーはリマッチからWWWA王座を4度防衛して85年12月に引退。両者の激闘は全女を支えた黄金カードであり、母国に戻ったギャラクティカは50歳を過ぎても素顔のパンテラ・スレーニャとして活躍。女子プロ史に残る覆面レスラーだった。

【女子レスラー名鑑】ジャガー横田 〝無敵の女王〟は61歳の今も現役

ビューティ・ペアが解散した後に“無敵の女王”として全日本女子プロレスを支えたのが、ジャガー横田だ。 

 1977年6月28日大田区体育館の高橋真由美戦でデビュー。身長160センチながら卓越したプロレスセンスと強気な性格でメキメキと台頭。全日本ジュニア王座、全日本シングル王座を獲得して順調に成長を続けた。81年2月にはデビューわずか4年足らずで当時の王者ジャッキー佐藤を強引な押さえ込みでフォール。全女の至宝WWWA世界シングル王座を奪取して、世代交代を見事に完遂させた。

この時期、団体はビューティが去った後の危機に面しており実力派のジャガー、アイドル派のミミ萩原、急台頭したデビル雅美の3人が中心となって全女のリングを支え続けた。ジャガーは女子プロで初めてジャーマンスープレックスを使った先駆者であり、クロスアーム式ジャーマン(ジャガー・スープレックス)もジャガーがオリジナルである。
WWWA世界シングル王座のベルトを巻くジャガー

 まさにストロングスタイルの見本のようなスタイルで2度のWWWA世界シングル王座戴冠を果たし、通算最長記録となる4年9か月を記録。伝説となった83年5月7日、川崎市体育館でのラ・ギャラクティカとの女子プロ史上初の髪切りマッチ(マスカラ・コントラ・カベジェラマッチ)では、敵軍セコンドの乱入もあってダイビングセントーンで敗退。ベルトを失い、ファンが号泣する中、丸坊主となった。

 86年2月15日川崎では肩の負傷を理由にデビル雅美と引退試合を行い、テレビ解説者やコーチ役で団体を支えるも、95年1月4日後楽園で正式に復帰。95年12月からは吉本興業が運営する「吉本女子プロレスJd‘」で選手兼コーチとして旗揚げから参戦。98年12月26日有明で2度目の引退に踏み切る。

 その後に再復帰を果たして2011年10月に井上京子率いる「ワールド女子プロレス・ディアナ」に入団。現役最古参女子レスラーとして、各団体で活躍を続ける。2度の引退を経ながらも実に45年以上も現役を続けており、現在61歳。まさに女子プロ界の“鉄人”だ。04年には7歳年下の木下博勝医師と結婚。一人息子も高校生にまで成長した。現在はプロレスと並行し、ワイドショー出演やSNSでの情報発信などで人気タレントとしても活躍中だ。 

【女子レスラー名鑑】「最強外国人レスラー」モンスター・リッパー デビュー戦でビューティ・ペアに圧勝!

1960年代から80年代の全日本女子プロレスには多くの外国人選手が来日し、リングを盛り上げた。中でもビューティ・ペア(マキ上田、ジャッキー佐藤)が解散した後の全女マットで大暴れして“最強外国人”と呼ばれたのが“怪物”モンスター・リッパーだ。
驚異のパワーで立野を軽々とリフトアップする

 カナダ・カルガリー出身で地元のスタンピード・レスリングで幼少時からプロレスラーを目指していたが、当時の松永高司会長が、写真1枚を見ただけで170センチ、120キロという超ド級の肉体に目をつけてスカウトしたという。モンスター・リッパーのリングネームで79年1月に全女デビュー。何とマミ熊野と組んでビューティ・ペアに圧勝する快挙を演じた。結局、ビューティは同年2月に解散している。

 怪物の快進撃は止まらず、同年7月31日にはジャッキーから全女の象徴であるWWWAシングル王座を獲得。ジャッキーとは同王座を巡って、何度も激闘を展開した。同時にメキシコでもラ・モンステルのリングネームで活躍。日本ではジャガー横田の時代に移行すると、横田のWWWAシングル王座に挑戦して名勝負を展開した。

 まさに“不沈艦”スタン・ハンセンを女子選手にしたようなブルファイターで、80年代にはデビル雅美とのチェーンデスマッチ、ブル中野との金網デスマッチなど壮絶なファイトを敢行した。87年12月にはカルガリーで初代IWA世界女子王座に君臨。翌年9月には同じくカルガリーで長与千種に敗れて王座から転落した。一時はジャパン女子に参戦したが、91年からは全女に戻りブルやアジャ・コングらと抗争を展開した。

 息の長い選手で95年にはバーサ・フェイのリングネームでWWF(現WWE)にも参戦。ヒールとして活躍して95年8月にはアランドラ・ブレイズからWWF女子王座を獲得。その後はWCWでも活躍した。「日本で育って米国で大物になった選手」の典型だったが、惜しくも2001年に40歳の若さで亡くなった。外国人選手で唯一、日本の女子プロレス殿堂入りも果たしており、昭和のファンには忘れられない外国人選手だった。

【女子レスラー名鑑】元祖「女帝」ブル中野 正統派から突然の極悪同盟へ強制加入

 全日本女子プロレスで“女帝”の異名を取り、日本人として初めてWWF(現WWE)女子王者に輝くなど1980年代中盤から90年代までに黄金時代を築き上げたのがブル中野だ。
83年、新人王戦の中野恵子

 中学卒業後の83年に全女入門。同年9月にデビューし、新人王トーナメント優勝、翌年には全日本ジュニア王座を獲得するなど正統派として成長していった。しかし大きな転機が突然に訪れる。

 85年当時、クラッシュギャルズとの抗争で日本中の憎悪を集めていた“極悪女王”ダンプ松本率いる極悪同盟に強制的に加入されたのだ。ダンプがブルの才能に目をつけた結果だった。同年2月には本名の中野恵子からブル中野に改名。髪をビジュアル系ロック風に染めてヌンチャクを振り回す凶悪ファイターに転身。極悪のクレーン・ユウが引退すると、ダンプの右腕としてクラッシュと激烈な抗争を展開した。

 プロ意識の塊だったブルは、体重を100キロ超まで増やし、髪の毛をモヒカンにする。88年にダンプが一度引退すると、新ユニット「獄門党」を結成。グリズリー岩本、アジャ・コング、バイソン木村らを配下に、ヒールながら全女のトップレスラーとなった。現WWEのアスカは“女帝”と呼ばれるが、最初に“女帝”と呼ばれたのはブルだった。

 クラッシュやダンプが引退すると、ヒールやベビーといったジャンルを超越してブルは完全に団体の顔となる。90年1月には西脇充子との決定戦を制して“赤いベルト”WWWA世界シングル王座を獲得。1057日の同王座史上最長保持記録を樹立した。

 後にアジャとは袂を分かつと、90年11月14日横浜での金網デスマッチで激突。金網最上段からダイブしたギロチンドロップは、いまだに伝説として残る。

 92年11月にアジャに敗れて赤いベルトを失うと、93年から米WWFに遠征。アランドラ・ブレイズと抗争を繰り広げ、日本復帰後の94年7月東京体育館では神取忍とチェーンデスマッチで死闘を展開。同年11月20日全女東京ドーム大会では、ブレイズから日本人として初めてWWF世界女子王座を奪取した。

 その後、96年から再び米国へ。まだ全盛期だった97年、左ヒザ靱帯切断で無念の引退となった。引退後は飲食業に進出し、約40キロの減量にも成功すると現役時代とは別人のような“美魔女”に大変身。自身のユーチューブや芸能界でも活躍中だ。

【女子レスラー名鑑】ダンプ松本 史上最凶のヒール 長与千種との髪切りマッチは伝説

【女子レスラー名鑑(全日本女子プロレス→フリー)】 1980年代にクラッシュギャルズとの抗争で、日本全国を熱狂させ“極悪女王”の異名をとり、史上最凶のヒールと呼ばれたのがダンプ松本だ。

 1960年11月11日、埼玉・熊谷市出身。中学のころからビューティ・ぺアに心酔し、女子プロレスラーを志す。最愛の母親に家を建ててやりたいという夢と同時に、放蕩を繰り返し母親に苦労をかける父親を「殺したい」という壮絶な理由もあった。クラッシュとは同期で営業担当などを経て80年8月8日田園コロシアムでデビュー。当時は個性に欠けた一選手だったと本人は振り返る。

 実際の性格は温和で先輩たちの壮絶ないじめに遭ったエピソードは有名だ。不遇の時代が続くも、83年にヒール転向。84年に本名の松本香からダンプ松本に改名して金髪とどぎついメークを施してクレーン・ユウと「極悪同盟」(後にブル中野も加入)を結成するや一気にブレークする。

 凶器攻撃や反則などなんでもありの極悪ファイトでクラッシュと壮絶な抗争を展開してファンからは「日本で一番殺したい人間」とまで呼ばれた。実際、空き巣に入られたり、暴漢に刺されそうになったり、実家にクラッシュファンが押しかけたりと命の危険を感じたことは何度もあったという。

 特にカリスマ的人気を誇った長与千種との伝説の髪切りマッチ(85年8月大阪)で長与を坊主にすると、会場は暴動状態に。極悪同盟のバスを500~600人のファンが取り囲んで揺らすという騒動にまで発展した。ダンプは「警備員にまで殴られるし、あの時は本当に殺されると思った」と述懐する。

86年にはブルとのコンビで米国WWF(現WWE)に参戦。ニューヨークのMS・Gにも登場するなどトップヒールとして日米で活躍したが、会社側との人間関係が原因で88年1月、会社側に無断で引退を電撃表明。2月22日大田区総合体育館で同期の大森ゆかりと組んでクラッシュと「引退特別試合」を行い、延長戦では長与とコンビを組むサプライズもあった。同年2月28日、地元の埼玉・熊谷で弟子のブル、コンドル斎藤との変則マッチがラストファイトとなった。

 引退後は芸能界で活躍したが、2003年、会社側になかばダマされるような要請により現役復帰。全女で「極悪同盟」を復活させて、他団体にも進出した。06年から自主興行「極悪血祭り」を開催して現在に至る。15年5月23日大田区ではTARUと組んで大仁田厚、長与を相手に史上初の男女混合電流爆破タッグデスマッチにも挑んだ。

 20年には史上初の「還暦現役女子レスラー」となり、62歳の現在も大暴れを続けており「グレート小鹿(大日本プロレス会長=80)の年齢を超えるまで現役を続けるぜ!」とますます意気盛んだ。

【女子レスラー名鑑】元祖〝アイドル〟キューティー鈴木 尾崎魔弓に一方的にやられ大人気に

【女子レスラー名鑑(ジャパン女子→JWP)】 1990年代に屈指のアイドルレスラーとして人気を集めたのが、キューティー鈴木だ。強さはなかったが、卓越したルックスで相手の攻撃に耐える姿は男性ファンをトリコにした。
尾崎のコブラツイストに苦悶の表情を浮かべるキューティー。やられっぷりのよさが人気を呼んだ

 1969年10月22日埼玉・川口市出身。中学卒業後に全日本女子プロレスのテストを受けるも不合格。高校卒業後の86年3月、尾崎魔弓(現OZアカデミー)と旗揚げしたばかりのジャパン女子のテストに合格し、同年9月19日徳島のプラム麻里子戦でデビューした。


 当時は尾崎との抗争(というより一方的にいじめられる)が人気を呼び、注目を浴びた。89年に「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に出演すると人気が爆発。週刊誌でも表紙になり、テレビ、グラビアと次から次へと芸能の仕事が舞い込んだ。引退するまで出版した写真集は14冊にも及んだが、当時の月給は10万円にも満たなかったという。

 ジャパン女子は放漫経営がたたって92年に崩壊。JWPとLLPWに分かれ、キューティーはJWPを選択した。「人数が少ない分、責任感ができた。ジャパンの時は広告塔という気持ちでしたが、JWPでは自分の中でも『私がやらなくちゃ』という気持ちになった。プロレスラーとして自覚と責任感が出てきたと思います」と数年前に語っている。

 JWPでは弱々しいキャラから一転して実力も兼ね備えた「団体の顔」にまで成長を遂げた。93年には空前の女子プロ対抗戦ブームが訪れ、94年には米WCWに遠征して尾崎と組み、ブル中野、北斗晶組と対戦した。「私は積極的に対抗戦に出場してはいなかったのですが、とてもいい時代だったと思う」と述懐する。

 この時期から団体内でトップだったダイナマイト関西やデビル雅美に標的を定める。シングル王座には手が届かなかったが、パートナーを変えつつもJWP認定タッグ王座を5度獲得した。

 念願だった20代での引退を申し出るも、97年8月15日広島で盟友のプラムが試合中の事故で急逝。会社のために引退を先延ばしにする。結局29歳の98年12月27日後楽園で引退。引退後は芸能活動を経て2005年5月に結婚。現在は2人の男の子の母親として幸せな生活を送る。“元祖アイドルレスラー”は、記録より記憶に長く残る華やかな選手だった。

【女子レスラー名鑑】北斗晶 2度の壮絶ケンカマッチで神取忍に感じた〝憎悪に近いもの〟

【女子レスラー名鑑(全日本女子、ガイア・ジャパン)】1990年代にファンを熱狂させた空前の女子プロ対抗戦ブームの中で、カリスマ的存在となり、名実ともにトップに立ったのが、現在はタレントとして活躍する“鬼嫁”こと“デンジャラス・クイーン”北斗晶だ。
4月の初戦でキックを神取(左)に見舞う北斗

 1985年6月にデビュー。新人としては異例の連戦連勝を記録して、86年には全日本ジュニア王座を獲得する。87年には試合中に首の骨を折るアクシデントで引退の危機に直面するも、不屈の闘志で88年に復活。リングネームを本名から北斗晶としてみなみ鈴香との「海狼組(マリンウルフ)」で活躍。WWWAタッグ王座を獲得した。

 90年代に入るとヒールに転向。三田英津子、下田美馬らと「猛武闘賊(ラス・カチョーラス・オリエンタレス)」を結成し、ヒールながら爆発的な人気を獲得した。93年から対抗戦ブームが訪れると“ミスター女子プロレス”こと神取忍(現LLPW―X)と2度にわたる死闘(93年4月横浜、12月両国)で女子プロ史上に残る壮絶な“ケンカマッチ”を展開。1勝1敗の五分に終わったが、この2戦は今でも伝説として語り継がれる。

 94年11月には最初で最後の全女東京ドーム大会でメインに立ち「V★TOP WOMAN 日本選手権トーナメント」でアジャ・コングを下して優勝。不思議と全女の至宝で“赤いベルト”WWWAシングル王座とは縁がなかったものの、名実ともに女子プロ界の頂点に立った。

 最近になって北斗はワイドショーで「神取のことが大嫌いで仕方なかった。ドームの廊下でもケンカした」と語っているが、神取は「あれ? 仲は悪くなかったけどなあ」とケロッとしている。これは多分に「都合の悪いことは記憶から消す」ミスターの性格によるものと思われる。憎悪に近いライバル心がなければ、あそこまでの死闘は成り立たなかっただろう。


 対抗戦ブーム後も「レイナ・フブキ」として海外でも活躍。フリーを経て96年には長与千種率いるガイア・ジャパンに移籍し、02年4月に引退した。95年には当時、新日本プロレスの佐々木健介と結婚。“鬼嫁”として引退後も健介のマネジャーとして裏から表まで健介が独立後の「健介オフィス」を支え、時には試合も行った。

 同時にタレントとして大活躍。15年には乳がんを患うも克服。主婦層を中心に支持を集め、ユーチューブの登録者数は30万人にも及ぶ。2児に恵まれ長男は昨年5月、女子プロレスラーの門倉凛と結婚。現役時も引退後も大成功した数少ない女子レスラーである。

元祖アイドルレスラー52歳キューティー鈴木 引退から24年…今明かす「引き際の美学」

【直撃!エモPeople】現在の女子プロレス界はビジュアル化が進む一方で、多数の人気選手が存在する。団体数が少なかった時代に「元祖アイドルレスラー」として圧倒的人気を誇り、一時代を築いたのがキューティー鈴木(ジャパン女子→JWP=52)だ。活動期間は13年間と短く1998年12月に29歳で引退。現在は2人の息子の母親で、専業主婦として平穏な生活を送る。史上最多となる14冊もの写真集を出した希代のアイドルレスラーが「引き際の美学」と現在の生活について語った。

 現在は夫と高1、小5の息子との4人家族で専業主婦として日々の生活を送る。長男は今春、都内の第1志望校に見事合格。サッカー部に所属する。「平凡ですが幸せといえば幸せなんですかね。朝起きたらお弁当を作って家族に『いってらっしゃい』を言って、掃除をして買い物をして…結構あっという間に1日が終わる。私には向いていると思います」と、キューティーは「美人ママ」の表情で語った。

 中3の夏に故郷の埼玉・川口市で全日本女子プロレスを見たのがキッカケでレスラーを志す。「見た瞬間にこれしかないと思った。私は大森ゆかりさんが好きだったんですが、同じ世代の子たちがリングに上がるのを見て刺激を受けた」

 中3と高1でオーディションを受けるも不合格。そんな時、ジャッキー佐藤が新団体・ジャパン女子プロレス(1986~92年)を旗揚げすると聞き、オーディションを受けて合格。高校を中退して夢だった女子レスラーへの道を踏み出した。

「尾崎(魔弓=OZアカデミー)が同い年で一緒に寮に入ったんですけど、トントン拍子だっただけに直前で怖くなった。年齢も出身地もバラバラ。最初は人間関係はキツかった。いじめはなかったけど、24時間一緒ですからケンカは絶えない。最初は20人いたのが10人ほどに減った。練習もキツいし部屋も狭い。6畳に3段ベッドがあって6人。ストレスはたまりますよね。一番年下だからつらかった」

 旗揚げにはAKBプロデューサーの秋元康氏が協力し、選手にリングネームをつけた。「私は『キウイ鈴木』『アップル鈴木』そしてキューティー。どれも嫌だったので『どれでもいいです』と会社の人に言って、キューティーになったんです」

 86年9月19日徳島で同期の故プラム麻里子(享年29)戦でデビュー。一選手として試合を続けていたが、3年後に転機が訪れた。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に出演すると人気が爆発。CDデビューも決まり「週刊ヤングジャンプ」の表紙に抜てきされ、初のイメージビデオも発売される「幸運」が一時期に重なったのだ。

「私自身は何が何だか分からない。元日しか休む日もなく、仕事をしていました。でもお金は入ってこない。最初の写真集のギャラは15万円。次の写真集の撮影でフィリピンに行くので10万円前借りしたら、次の月は給料が出ずに逆にお金を払いました。会社の宣伝だと思ってやっていたんですけどね(笑い)」。ちなみに当時の月給は10万円にも満たなかったという。

 ジャパン女子は放漫経営がたたり92年に崩壊。JWPとLLPWに分かれ、キューティーはJWPを選択した。「人数が少ない分、責任感ができた。ジャパンの時は広告塔という気持ちでしたが、JWPでは自分の中でも『私がやらなくちゃ』という気持ちになった。プロレスラーとして自覚と責任感が出てきたと思います」と振り返る。

 JWPでは団体の顔となり、93年からの対抗戦ブームを経験。94年には米WCWに遠征して尾崎と組み、ブル中野、北斗晶組と対戦した。「怖かったけど、ブルさんは米国のプロレスをよく分かっていて格好よかった。身を任せてプロレスができた。対抗戦は積極的に出たほうではなかったけどいい時代でした」

 それでも「20代のうちに引退したい。30歳過ぎてキューティーというのもどうかと思った」という信念から、97年には「タイミングは会社に任せますから引退したい」と伝えた。ここで予想外の事故が起きる。同年8月15日広島で盟友のプラムが試合中の事故で亡くなったのだ。

「試合後、リング上でいびきをかいて寝ていた。叩くと起きる選手もいるんですけど起きなくてそのまま救急車で運ばれて…。亡くなるなんて思わなかった。その日は新幹線で一緒に広島まで行って、普通だったんですよ。麻里ちゃんが亡くなって『やっぱり元気なうちに辞めよう』と考えるようになった。20代では人の死ってそんなに間近になかったし、初めてだった。麻里ちゃんのお父さんやお母さんが悲しむ姿を見て親不孝しちゃいけないなと思いました」

 結局、翌98年12月27日後楽園で引退。05年に飲食店や格闘技のジムを経営していた男性と結婚。現在に至る。長男が受験を終えたばかりだが「下の子はかわいいんですけどわがまま。今、小5で受験が待ってますけど、2回目だから気が楽です。お兄ちゃんの時はコロナ禍で学校説明会もなかったので、下の子は早くから動きます」と母親の表情で語った。

 元祖アイドルとして女子プロ界には「プロ意識が強くて個性的な子が多い。知らない人が見る機会があれば絶対面白いと思う。もう一度、女の子が目標にする職業になってほしいし、テレビもついてほしい。10の嫌なことがあっても1つのいいことがあれば報われた気持ちになる。私はいい職業に出会ったと思います」と提言。往年の美しさが残る笑顔で業界の発展に期待を寄せていた。

 ☆きゅーてぃー・すずき 本名・原嶋由美。1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ。86年に市立川口女子高を中退し、ジャパン女子プロレスに入団。86年9月19日徳島のプラム麻里子戦でデビュー。14冊の写真集、イメージビデオ、テレビ出演などでタレントとしても大人気となる。92年4月3日、JWP女子プロレスの旗揚げに参加。98年12月27日、後楽園ホール大会で引退。引退後の2005年に結婚。

【東京女子】SKE48荒井優希 7・8打倒・沙希様へ胸中激白「新人賞をやりたいです!」

 思い出の地で最愛のパートナーを――。東京女子プロレスに参戦するアイドルグループ「SKE48」荒井優希(25)が、初遭遇となる沙希様との一戦で、赤井沙希(36)との〝令和のAA砲〟復活を狙う。

 7月8日の東京・大田区総合体育館大会では上原わかなと組み、「NEO美威獅鬼軍」の沙希様、メイ・サン=ミッシェル組との対戦が決定。「美しいし優雅だし、強くて頭もいいじゃないですか。ただ、初遭遇なので私たちのこともあまり知らないんじゃないかと思うので、暴れ回りたいです」と決意を述べた。

何より気になるのは赤井とは別人ながらも、うり二つと言われる沙希様の存在だ。11月に現役を引退する赤井とは1月にタッグを組んだのが最後で、引退までの再共闘を目指している。この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
赤井沙希(左)と荒井優希の「AA砲」

「美威獅鬼軍が出られる時は赤井さんもよく会場にいらっしゃるし、この試合を見ているかもしれません。だから、一人になってもここまでやってきたんだよというのを赤井さんに届けたいです。前と違った荒井と組んで、また違ったAA砲になるんじゃないかと希望を見せたら、またやってくれるんじゃないかなって。そのためにも沙希様に勝たないと」

 くしくも決戦地は昨年7月9日にAA砲でプリンセスタッグ王座を初戴冠した大田区だ。「思い入れがある会場。赤井さんとお別れしてから新人賞(顔面への二段蹴り)は一度も使ってないので、赤井さんに届ける新人賞をやりたいです!」。荒井の目は本気だ。

【北斗晶連載#6】入門のために高校中退しようとしたら祖父が「あんなのストリップだろ」

【デンジャラスクイーンの真実#6】1984年。私は全日本女子プロレスの「練習生制度」を利用して練習生になりました。そこに通えば女子プロレスラーになれると思っていた人がたくさんいたのですが、結局は全女の金儲けです。練習といっても、見てもらえるというより、自分たちで体を動かした感じです。今でいうスポーツジムですね。
クラッシュギャルズの長与千種(右)とライオネス飛鳥

 当時はクラッシュギャルズ(※)がビックリするくらい人気で女子レスラーになりたい子がたくさんいました。同じ夢を持った子がこんなにいるんだって、ビックリしましたよ。前回のオーディションに落ち、その前の年も落ちたという人もいて。だから予備校みたいな感じなんですけど、みんないろいろな情報を持っているんです。

 その中で「高校に通っていたら落とされるよ」って話を聞きました。これ、実は本当だったんです。オーディションの時にものになるか分からないから「高校に通った方がいい」って言われるんです。受かっても夜逃げする人が多いし、10人合格しても1~2人しか残らない世界なので。「高校出てから来れば」と言われても、そのときは18歳。18歳は“お年寄り”だから受からないんです。15~16歳くらいの子が欲しいわけですから。

 だから「高校を辞めてきました」という覚悟を見せなきゃいけませんでした。実際に辞めるとなったとき、父方のおじいさんに殴られました。「バカ言ってんじゃない。あんなのストリップだろ! ブラジャーとパンツ同然だ!」って。女子プロレスはそういう見られ方だったんです。

 今では信じられないかもしれませんが、うちは大きな農家だったので高校を出れば、他の大きな農家が私のことを欲しがるんです。政略結婚じゃないですけど、お見合いの話がきて安泰な生活が待っていました。農家は食いっぱぐれがないし、幸せな人生を送ってほしいという気持ちだったと思いますが、祖父がそんなでは母親も承諾書を書けません。でも、最終的には母親が書いてくれたんですけどね。

 三郷のセブン―イレブンで時給500円のアルバイトをしながら目黒の道場に通いました。85年1月のオーディションに応募したのですけど、往復ハガキの返信がない。つまり、書類審査を通ったという通知が来ないということです。

 それで、練習生のコーチをしていた柳みゆきさんに「ハガキが来ないんです」と連絡したら「今までに見たことがない応募数で漏れている人がたくさんいるから会場においで!」って。後から知ったんですが、柳さんは私のことを「あれはいい。スターになるから取った方がいい」と言ってくれていたみたいです。
 年が明けた85年1月15日、私はオーディション会場となった河田町(東京・新宿区)のフジテレビに行ったのですが…。

 ※ 日本中を熱狂させたライオネス飛鳥と長与千種のコンビ

【女子レスラー名鑑】ビューティ・ペア 元祖‼歌って戦うアイドルコンビ

【女子レスラー名鑑(全日本女子プロレス)】1980年代のクラッシュギャルズ大ブームも、この人たちの存在がなかったらありえなかっただろう。「歌って戦うアイドルコンビ」の先駆者として70年代に一時代を築き上げ、全国の女子中高生から圧倒的な支持を集めたのがマキ上田、ジャッキー佐藤のビューティ・ペアだ。
ジャッキー(右)とマキのコンビは無敵を誇った

 2人は76年2月24日からビューティ・ぺアを名乗り、その日に行われたWWWA世界タッグ王座戦でマッハ文朱、赤城マリ子組から王座を奪取する。歌って戦うアイドルレスラーとして全国区的人気を得ていたマッハが76年春に引退すると、全女はこの2人に会社の命運をかけることになる。

 人気が定着するまではやや時間を要したが、11月に「かけめぐる青春」でレコードデビューすると、80万枚を売り上げる大ヒットに。同時に全国の女子中高生を中心に一大ブームを巻き起こし、悪役チームのブラック・ぺア(池下ユミ、阿蘇しのぶ)らとの抗争で人気を呼んだ。

 76年6月にはマキがジャンボ宮本からWWWA世界シングル王座を初奪取。77年11月には全女初の日本武道館大会が実現し、メインではマキのWWWAシングル王座にジャッキーが挑む同門対決が実現。激闘の末、60分時間切れ引き分けとなるも判定でジャッキーが王座奪取。エースとして君臨することになる。

 その後もヒット曲を連発して選手層も厚くなるのだが、人気に陰りが見え始めた79年2月、3度目の武道館大会でジャッキーのWWWA王座にマキが挑戦。この試合は「敗者引退」という過酷なルールで行われ、実に48分7秒の激闘の末、ジャッキーが勝利。マキは現役を退き、わずか2年で名コンビは終えんを迎えた。

 ジャッキーも新たな世代の台頭により、81年5月に一度引退。86年8月には新団体ジャパン女子で復帰するも、87年7月に神取忍との壮絶なケンカマッチに敗れ、翌年3月に引退した。その後はスポーツ指導で活躍したが99年8月に胃がんのため、41歳の若さで惜しくも亡くなった。

 一方のマキは引退後、芸能活動を経て飲食業に転身。現在は浅草の釜めし屋の女将として店を支える。最近では「令和のビューティ・ペアを目指す」と公言するスターダムの中野たむとなつぽいに、本紙紙上で貴重なアドバイスを送っている。

 マッハという先駆者はいたが、ビューティ・ペアは歌って戦うコンビとして、間違いなく女子プロ史に残るパイオニア的存在だった。 

【女子レスラー名鑑】ライオネス飛鳥 アイドルと最凶ヒール 2つの顔で時代を築く

【女子レスラー名鑑(全女、ガイア)】“史上最大のカリスマ”長与千種とのクラッシュギャルズで、1980年代に熱狂的な女子プロブームを巻き起こしたのがライオネス飛鳥だ。
復帰後、ヒールになると理不尽大王・冬木とも互角以上に戦った

 63年7月、埼玉・蓮田市出身。高校を中退して80年5月に全日本女子プロレスでデビュー。いわゆる「80年組」では突出した存在で、デビュー3か月でメインに抜てきされ、82年7月には全日本選手権を獲得。何でも器用にこなす才能に恵まれていたが、やがて壁に当たる。そこで同じく伸び悩んでいた長与と83年8月にクラッシュギャルズを結成。打撃を中心としたファイトで、やがて爆発的人気を得た。

 84年8月にWWWA世界タッグ王座を奪取。ダンプ松本率いる極悪同盟との抗争は日本全国を沸かせた。長与は後に「飛鳥がピッチャーで私がキャッチャー。やられてやられて飛鳥が助けに入るパターンが人気の要因になった」と明かし、飛鳥も「私は攻撃型で千種は受けのタイプ。奇跡的な組み合わせだった」と語っている。まさに驚異的な化学反応だった。

 86年夏ごろから約2年間、スランプに陥るも、88年8月に長与からWWWAシングル王座を奪取して復活。89年5月に長与が引退後、飛鳥も同年8月に引退し、クラッシュの時代は終焉を迎えた。

 しかし94年に復帰するとヒールとして各団体で大暴れ。95年にはWWF(現WWE)にも登場した。97年にはイーグル沢井、シャーク土屋との「平成裁恐猛毒GUREN隊」で暴れ回り、東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」女子プロ大賞を獲得。同年7月には理不尽大王こと冬木弘道と日本初の男女シングルマッチにも挑んだ。ちなみにこの試合は邪道、外道、冬木の3人がかりのひきょうなスーパーパワーボムで敗れたが、隠れた名勝負だった。

 98年12月からは長与のガイアに参戦。99年4月と9月には長与と2度にわたる死闘を展開。飛鳥はこの年、単独で2度目の女子プロレス大賞を獲得した。翌2000年5月には「クラッシュ2000」で長与と再合体。飛鳥の第2期黄金期でもあった。

 その後も活躍を続けるが首の故障により、05年4月にガイアで2度目の引退。全国区的アイドルと最凶のヒール、いずれも実力を備えた2つの顔でトップを取った希代の名選手だった。

【女子レスラー名鑑】マッハ文朱 すべてを変えた超逸材 リング上で歌うスタイルの元祖

174センチの長身とルックスはアイドルそのものだった

 この人が存在しなければ、後のビューティ・ペアやクラッシュギャルズの熱狂的ブームは絶対に存在し得なかった。女子プロレスに「アイドル」「歌」という概念を持ち込んだパイオニア的存在がマッハ文朱である。

 1959年3月熊本県出身。174センチという長身と抜群のルックスを誇った。元々は歌手志望で13歳の時に日本テレビ系「スター誕生!」に出演。決戦大会であの山口百恵とスターの座を争ったのは有名な話だ。運動神経も抜群で、中学時代にはバレーボール部とバスケットボール部の顧問が“争奪戦”を展開したとの逸話も残る。結局、どちらの部にも入らなかったが、早くから高校のバレー部からスカウトされるなど有名な「スポーツ万能少女」だった。

 中学では合気道に熱中。卒業時には3段まで昇格。海外から師範として招かれたというから恐れ入る…。実は親戚の影響でプロゴルファーを目指していたが、雑誌の広告を見て15歳で全日本女子プロレスに入門した。

 超逸材の登場で全てが変わった。全女の人気は74年夏のマッハデビューと同時に急速に上昇した。何とデビューからわずか8か月目、75年3月にはジャンボ宮本から16歳0か月で“赤いベルト”WWWAシングル王座を奪取。この記録は全女解散まで破られず、永遠に残る金字塔となった。

 さらに同年4月には赤城マリ子とのタッグでWWWA世界タッグ王座を獲得。名実ともに全女の看板選手となった。同時に歌手としても活躍。75年3月には「花を咲かそう」で歌手デビュー。従来にはなかった試合前にリング上で歌うスタイルを確立させ、ファン層を若い女子中心に変換させてしまった。現役時代のシングルは2枚のみだったが「花を――」は40万枚のヒットを記録。女子プロ界に革命を起こし大ブームを巻き起こした。

 若くして頂点を極めてしまったためか、76年にわずか2年8か月のキャリアで引退。芸能界へ転身して現在も活躍を続ける。活動期間こそ短かったが、その後に起きるビューティ、クラッシュら空前の女子プロブームの礎を築いた歴史的功労者だった。

ライオネス飛鳥がプロレス界に緊急提言「ファンが求める過激さではなく、楽しみ方を提供すべき」

「頸髄損傷」を負ったゼロワンの大谷晋二郎(49)を支援する「何度でも立ち上がれ! 大谷晋二郎応援募金」が設立されることが28日に発表され、元女子プロレスラーのライオネス飛鳥(58)がプロレス界に緊急提言した。

 大谷は10日の両国国技館大会で杉浦と対戦。コーナーにジャーマンで投げられた直後に動かなくなり救急搬送された。「頸髄損傷」と診断された大谷には全国のファン、関係者から多くの支援の声が届き、家族・親族と関係者の協議の結果「大谷晋二郎応援募金」が開設された。

 この日の発表会には同募金の応援団長に就任したジャガー横田とともに、飛鳥も出席。「大谷選手はとても良い方で、プロレスに対しても真摯な思いがある方。このようなことになって残念に思いますが、必ず立ち上がってくれると私は信じております」とエールと送るとともに、募金を呼びかけた。

 その一方で飛鳥は今回の事故を受けて「引退した身ですが、私が思うには選手の方々には、プロレスをもう一度見直すべき時なのではないかなと思います」と思いを明かした。「このようなことは絶対に起きてはならないことであり、アクシデントはつきものと私も思っていますが、そのアクシデントをゼロに近い状態にもっていくのがプロの定義なんじゃないかと思ってます。そのための練習であり、プロと言う名のもとにやっていくものなのじゃないかと思うんです」と、再発防止への徹底が必要と説いた。

 さらに飛鳥は「ファンが求めている過激さを提供するのではなく、自分たちのプロレスをお客さまに楽しんでもらう方向に持っていくべき時なのではないかと思います。それを大谷選手が教えてくれてるのではないかというふうに私は思っております。勝手な意見かもしれないですけど、選手の皆さんに考えていただければと思います」と提言。攻防が多様化する現在のプロレスを、一部では〝過激化〟していると見る傾向もある。大谷のような大きなケガを負う選手が出てくるたびに議論が巻き起こっており、今後もさまざまな声が上がりそうだ。

【ゼロワン】大谷晋二郎が強い決意 「またこの素晴らしき世界〝プロレス〟に帰ってくるんだ!!」

 頚髄損傷でリハビリ中のゼロワン〝炎の戦士〟大谷晋二郎(50)が、奇跡の復活に向けて強い決意を示した。

 7日に自身のツイッターを更新し「やっと辿り着いた約束の地は優しさとあたたかさに包まれていた 久し振りに会うプロレスラーの皆さんの顔 そして ご来場下さったお客様一人一人のお顔が神々しく感じた」とつづった。

 前日は押忍プレミアム興行(ベルサール高田馬場)に来場。大「大谷コール」で迎えられる中、昨年4月の負傷以来となる選手、ファンとの対面を果たした。

 さらに大谷は「またこの地に帰って来たい! もっと前進してもっと強くなって またこの素晴らしき世界〝プロレス〟に帰ってくるんだ!!(すべて原文ママ)」と記した。

【ゼロワン】ウナギ・サヤカ 今夏『火祭り』出場か 大谷晋二郎が推薦「男も女も関係ない」

 お騒がせ女子プロレスラーのウナギ・サヤカが、頚髄損傷でリハビリ中のゼロワン〝炎の戦士〟大谷晋二郎(50)から、毎年恒例の真夏のリーグ戦「火祭り」出場を推薦された。

 ゼロワンの親会社「ダイコーホールディングスグループ」が主催する押忍プレミアム興行(6日、東京・ベルサール高田馬場)で行われた「大谷晋二郎応援大会」に出場したウナギは、自称「女子プロレス界の人間国宝」高橋奈七永(44)とシングルマッチで対戦した

序盤からエルボーで攻め込むも、強烈なラリアートでねじ伏せられる。それでも立ち上がり、ギロチンドロップで勝負に出るも効かず。最後まで食らいついたが、一歩及ばずジャパニーズ・オーシャン・クインビーボムで3カウントを献上した。

 高橋に敗れたものの、試合前には思わぬチャンスを得た。この日リハビリ中の大谷が来場し、1年ぶりにファンの前に姿を現した。バックステージではウナギが大谷に駆け寄り「私も大谷さんのように熱さをリングで出せるように生きていきたいと思います」と涙ながらにあいさつすると、大谷から「プロレスに男も女も関係ない。初めて会ったけど、あなたのその表情、目を見て、僕はすこぶるあなたの試合を見てみたい。熱い試合をお願いします」と期待を寄せられた。

大谷(右)の話に聞き入るウナギ・サヤカ

 ウナギは昨年11月にゼロワンのリングに乱入してから、定期的に参戦している。ウナギの動向を聞きつけた大谷から「ゼロワンのリングでこれから何をやりたいんですか?」と問われるとウナギは「大谷さんの熱量を超えられる、新しいプロレスを作りたいです」と力強いまなざしで返答。

 すると、大谷から火祭りへの出場を提案され「僕はあなたが火祭りに出たら面白いと思います。ただ、女だからという言い訳は通用しませんよ」とほほ笑みかけられると、ウナギは「ありがとうございます。ぜひやらせていただきたいと思います!」と参戦を熱望した。

 ウナギの出場が決定すれば、火祭り史上初の女子出場となる。プロレス界を席巻する傾奇者(かぶきもの)が、火祭り刀奪取へ乗り出す。