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指をつめた元ヤクザ、刺青を彫り込んだ元自衛官、前科者、逃亡中のノミ屋…『仮面ライダー』制作陣にヤバすぎる人間たちがいた理由

映画『シン・仮面ライダー』(原作・石ノ森章太郎、脚本・監督・庵野秀明)の公開と前後し、『仮面ライダー』生誕の地である東映・生田スタジオのドラマを描いた書籍『「仮面」に魅せられた男たち』(牧村康正著、講談社)が刊行された。

『仮面ライダー』制作当時、邦画界は大映の倒産危機に揺れていた。その影響は『仮面ライダー』のスタッフ集めにも影を落とす。庵野秀明も憧れた、『仮面ライダー』の制作スタジオに集まって面々は、ひと癖も二癖もある人間ばかりだった。『「仮面」に魅せられた男たち』より、当時のエピソードを抜粋してお届けする。

『仮面ライダー』生誕の“聖地”

およそ五十年前の話である――。
その日、小学五年生の庵野秀明は初めてライダーキックを見た。
空中高く舞い上がった異形のヒーローが一撃で敵を粉砕する。

少年の記憶に長く残る映像だった。

「ライダーキックのビジュアルは、スペシウム光線に対抗できるインパクトがあったんですよ。あんなの見たことなかった」(庵野秀明)

昭和、平成、令和と時代が進んだ二〇二一年四月三日、庵野秀明はみずから脚本・監督をつとめる映画『シン・仮面ライダー』の制作発表に臨み、次のようなメッセージを寄せた。

「五十年前にテレビ番組から受けた多大な恩恵を、五十年後に映画作品という形で少しでも恩返しをしたいという想いから本企画を始めました。本企画は、子供の頃から続いている大人の夢を叶える作品を、大人になっても心に遺る子供の夢を描く作品を、石ノ森章太郎先生と東映生田スタジオが描いていたエポックメイキングな仮面の世界を現代に置き換えた作品を、そして、オリジナル映像を知らなくても楽しめるエンターテインメント作品を、目指し、頑張ります」

ここで取り上げられた東映生田スタジオは、これまでマニアの間でこそ有名だったものの、公式の場でスポットが当たることはなかった。

いまでも『仮面ライダー』の初期作品を定期的に見直すという庵野にとって、そこはかけがえのない“聖地”なのである。『仮面ライダー』の放映開始から五十年を経て、第一話の撮入日(撮影開始日)に当たる二月七日には、東映生田スタジオの跡地を“お参り”したと発表している。庵野が限りなくリスペクトするヒーロー誕生の地、東映生田スタジオとはどんな場所だったのか――。

不良性感度の高い救済地

ありていにいえば、そこは聖地のイメージとは裏腹に、地獄の軍団ショッカー並みにふてぶてしいスタッフが寄り集まる“アジト”だった。アジト(アジテーティング・ポイント)とは、本来は非合法活動家や犯罪者の隠れ家を意味する。東映生田スタジオが本物のアジトでなかったのはもちろんだが、それらしい要素は十分にあった。

いうまでもなく、ショッカーは仮面ライダーに敵対する悪の象徴である。したがって悪人を本物らしく演じる役者は撮影に不可欠だった。ところが現場スタッフのなかには、実際に指をつめた元ヤクザ、刺青を彫り込んだ元自衛官、前科者、さらには使い込みがばれて逃亡中のノミ屋までいた。さながら実録ヤクザ映画を思わせる本物の悪役が、生田スタジオには何人も入り込んでいたのである。

日本を代表する映画会社の撮影所に、なぜこのようなスタッフが集まっていたのか。そのいきさつをたどっていくと、戦前から戦後にまたがるエンターテインメント業界の裏面史が鮮やかに浮かび上がってくる。

ここで一点だけふれておけば、生田スタジオは仕事の腕さえあれば本人の過去や素性を問わない解放区の側面と、映画界の就職難民を収容する救済地の側面があった。そして、このようないわくつきのスタッフを平然と受け入れるところが生田スタジオの大らかさであり、東映の社風に根ざした野性味である。

もっとも、東宝や松竹との違いを語る以前に、東映の歴史のなかでもかなり異色のスタジオではあった。岡田茂(元東映社長、一九七一年就任)が映画づくりで重視した“不良性感度”の基準で評価すれば、生田スタジオのスタッフは特待生といえるほど不良性感度良好だったのである。

「シン・仮面ライダー」に受け継がれた50年前の規格外の男たちの魂と夢。
正史では語られてこなかった仮面ライダー誕生の聖地「50年目の真実」――。
日本中が熱狂したヒーロー誕生に秘められた執念と熱狂のドラマ!

(本書の主なエピソード)
衝撃の千葉真一ビンタ事件/なぜ改造人間は消えたのか/ロケ隊驚愕の「アイドル御一行様」騒動/車椅子の子供が仮面ライダーショーを見て歩けるように/実演ショーの地方興行でヤクザと対決、決闘の連続/低予算ゆえに発案された「ライダーキック」/放映開始前日、藤岡弘の大怪我、一夜漬けのシナリオから生まれた「変身ポーズ」、そしてまたたく間に変身ブームが日本中を席巻していく……。

庵野秀明氏
「あんなにスピーディでかっこいいものはなかった。おカネがないことを逆手に取って」
「(東映生田スタジオの)魂は引き継ぎたいと思っています」

仮面ライダー誕生の地「東映生田スタジオ」とは……
「アジト=秘密基地」
そこには実際に指を詰めた元ヤクザ、刺青を彫り込んだ元自衛官、前科者、使い込みがばれて逃亡中のノミ屋ら、ショッカー並みにふてぶてしいスタッフが寄り集まった。

孤高の越境者たちが「どん底」からつかんだ革命的成功。
昭和から令和にまたがるエンターテインメント・ヒストリー!

著者について

牧村 康正
1953年、東京都に生まれる。立教大学法学部卒業。竹書房入社後、漫画誌、実話誌、書籍編集などを担当。立川談志の初の落語映像作品を制作。実話誌編集者として山口組などの裏社会を20年にわたり取材した。同社代表取締役社長を経て、現在フリージャーナリストとして活動する。著書には『「ごじゃ」の一分 竹中武 最後の任侠ヤクザ』、『ヤクザと過激派が棲む街』(ともに講談社)、共著に『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(講談社+α文庫)がある。

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コメント: 1
  • #1

    名無し (金曜日, 14 4月 2023 12:39)

    これまで、表に出せなかった話がかなり活字になっているという印象。

    昭和の「仮面ライダー」シリーズが作られた、今は無き東映生田スタジオの勃興から(実はそれ以前の黎明期にも言及している)、生田スタジオという東映の鬼っ子スタジオ(仮面ライダーを製作する、いわば秘密基地)を捨て身の覚悟で起こし、東映、大映、日活、東宝などの斜陽の映画業界から弾き出されたあらくれ者達(中には反社も含む)を1つに纏めあげて、現代にまで繋がる大ヒット番組「仮面ライダー」という「大輪の花」を咲かせた内田有作初代所長が、何故 所長職を辞したのかまでを、綿密な取材で追った実話を探る一遍。

    生田スタジオという「仮面ライダー製作者の舞台となったスタジオ」を軸にしているので、東映本社側の平山プロデューサーや脚本家陣のエピソードを拾うよりも、実際の現場が如何に回っていたかを描く事に注力しています。

    当時、助監督として生田スタジオで働いていたスタッフの協力と助言、そのネットワークを活かした取材が素晴らしい。

    惜しむらくは、生田スタジオの現場で活躍されていた方の多くが鬼籍に入られていて、取材が叶わなかった事。
    中でも1番生田の現場に近い阿部征司プロデューサーや、美術の高橋章さん、助監督だった長石多可男さんをはじめ、山田稔監督、折田至監督、田口勝彦監督、、、
    しかしながら、それ故に、これまでに出てこなかった逸話が明らかにされてもいます。

    また、当時の時代背景や、東映の社内での「生田スタジオ=仮面ライダーという作品の立ち位置」もしっかり俯瞰して描かれています。
    何より「仮面ライダー」だけを切り取って、その後の作品で続編を出版しようというような流れになっていない点も評価したい。

    所々、誤字や誤記(北海道ロケの回の該当話数の間違いなど)もありますが、この書籍を手に取る人なら直ぐにそれが誤記と判るレベル。

    内田有作さんのその後も描かれている点も、本書の着地点として良かったと思います。

    もちろん、本書に描けなかった、活字に出来なかった部分も少なからずあるのでしょうが、支障のない限り実名で、これまで表に出せなかった部分にも言及している点に好感を持ちました。