
「あのぅ、すいまっせん。 あたしにやらせてはもらえんとでしょうか。 すいまっせん。お願いします。教えてください」
僕は、あっけにとられて、医長をふりかえりました。
医長もびっくりした顔をしていましたが、 一言、「教えてさしあげなさい」と僕に指示しました。
看護師が、背の低い老婆のために、急いで足台を持ってきました。
台に上がった老婆に、僕は手の置き場所と、 力加減とタイミングを手短に教えると、 「よぅわかりました。これで良かですか?」と言って、 弱々しくはあるけれども、正確なタイミングで心臓マッサージを開始したのです。
僕が小さく頷き、 「お上手ですよ。それで結高です」と言うと、 老婆は満足そうに、なんと微笑みすらこぼして、夫に語りかけはじめたのです。
「お父さん。あんたは、なあんも自分のことができんかったけん、 あたしが、ずっと一緒におってやったとよ。 しまいにゃ心臓すらあたしが動かしちゃらんといかんごとなって、 情けなか人やねぇ。 でもね、あたしは幸せやった。楽しかった。 覚えとるね、姪浜であんたが喧嘩したときのこと……」
心臓マッサージを続けながら、夫に訥々(とつとつ)と語りだした老婆に、 救急部のスタッフたちは、呆然としました。
いったい何がはじまったのかと、 他の仕事をしていた看護師たちも集まってきたほどです。
しかし、医長は片手を振って、 スタッフたち全員に病室を出ろと合図しました。
アンビューバッグ(人工呼吸をするための器具) を押していた看護師もその場を外されました。
僕も老婆の後ろであっけにとられていましたが、 はっと気がついて、急いで外に出ました。
こうして、病室には妻と真の意味で死を迎えつつある夫だけとなったのでした。
それから10分ぐらいが経過したでしょうか。
病室のドアが開き、妻が出てきました。
そして、救急部のスタッフたち全員に繰り返し 深々と頭を下げて、老婆は言いました。
「御迷惑をおかけしました。もう結構です」
老婆の目には、涙のあとが残されてはいましたが、 しかし満足そうな微笑みを浮かべていました。
おそらく、たった今、逝ったばかりの老人もそうに違いないと、 あのとき僕は思いました。

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