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苦労は買ってでもしろ! 苦労を楽しめ!楽に生きるから一度挫折しただけで這い上がれ無くなるんだ!Apex product


苦労は買ってでもしろ、と昔の人は言いました。私も「苦労を楽しめる人間でいよう」と考えています。物事に取り組むとき「いやだなあ」「やりたくないなあ」という、マイナスのスイッチが入ることがあります。それをプラスに変えて、自分の成長のためのチャンスなんだと考えれば、楽しくなるものです。そんなに単純にスイッチを切り替えられないよ。と言われる方がほとんどでしょう。ですが、重い腰を起こして先ずやってみましょう。苦労しないで生きられるなら成功者になれるなら何も言いませんが、そう上手くいかないのが人生です。後、苦労は若いうちにしろ。とも言われます。

若い頃に大きく失敗すれば、比較的早く軌道修正できるという意味もそこには含まれているのだろうと思います。人は誰しも、親や周りの人間に色んな観念を教えてもらいながら成長します。ためになるもの、ならないもの両方です。行き詰らない人生は自分を鑑みることがなくなります。小説家、山本周五郎さんの名言にこのような言葉があります。

「人間は調子のいいときは、自分のことしか考えないものだ。自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる。」

自分の苦労を通じて、周りの苦労もわかると、当たり前だと思っていたことに一層感謝できるようにもなります。

「ああ、自分はとても幸せなんだな」と気付くことができます。だから、若いうちに「買ってでもせよ」と言うのかもしれませんね。

Apex product 吉田哲

岸見 一郎 孤独の哲学-「生きる勇気」を持つために

説明 

内容紹介

孤独感や孤立とどう向き合うべきか? どうすれば克服できるのか? 老いや死への恐れ、コロナ禍やSNSの誹謗中傷などますます生きづらくなる社会に、「救い」はあるのか? 著者はアドラー心理学を読み解く第一人者だが、NHKの「100分de名著」では三木清の『人生論ノート』やマルクス・アウレリウスの『自省録』を取り上げるなど、古今東西の哲学に詳しい。哲人たちの思索の上に、自らの育児、介護、教職経験を重ねて綴る人生論。

著者について

岸見一郎
1956年京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。京都教育大学教育学部、奈良女子大学文学部(哲学・古代ギリシア語)、近大姫路大学看護学部、教育学部(生命倫理)非常勤講師、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)非常勤講師を歴任。専門の哲学に並行してアドラー心理学を研究。ミリオンセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(以上、古賀史健氏との共著)をはじめ、『困った時のアドラー心理学』『人生を変える勇気』『アドラーをじっくり読む』など著書多数。

「将来のために今は我慢する」という考え方は間違っている…哲学者が説く「本当に幸せな人生」の過ごし方私たちは「未来に本当の人生がある」と思い込まされている

PRESIDENT Online2022/07/07 9:00
老後のためにどう備えればいいのか。哲学者の岸見一郎さんは「老後には備えないほうがいい。未来がある保証はどこにもなく、思った通りの死に方ができるとは限らない。『終活』に勤しむよりも、今できることに専念してその喜びを享受したほうがいい」という――。

これから先のことは誰にもわからない

「人生100年時代」といっても、長生きできるとは限りません。たしかに平均寿命は延びましたが、それは統計上の話でしかありません。今後、長生きする人が増えていくというのは一般論としては本当だとしても、他ならぬ自分が何歳まで生きることになるかは誰にもわかりません。

そんなに長生きするのかと思うとゾッとするという人もいますが、長生きしたい、したくない以前に、そもそも長生きできるという保証はどこにもないのですから、100歳を前提に人生設計をすることは、私にはあまり意味があるとは思えません。

そうであれば、直近のことであれ、(長生きをするとすればの話ですが)遠い先のことであれ、こないかもしれない未来のことを今、思い煩って恐れたり、不安になったりすることには意味がありません。『老後に備えない生き方』という題名の本を書いたことがあります。もちろん、備えておかなければならないことは多々あります。しかし、老後に備えるために「今」生きることの喜びをふいにしては意味がないと、私は書きました。

「未来に本当の人生がある」と思い込まされている

若い人であれば、今の人生をきたるべき本番の日のためのリハーサルだと考える人はいるでしょう。そのような人は、子どもの頃から、「将来成功するためには、今はしたいことがあっても我慢して勉強しなさい。今、頑張っておけば後で楽ができるから」というようなことを大人からいわれ、未来に本当の人生があると思い込まされてきたのです。

自分でもそう信じて疑わず、成功者として生きられると信じて、今の喜びを犠牲にしてまで一心不乱に勉強しても、その努力が報われるとは限りません。行きたいと思っていた大学に入れなかったり、大学に入ったのにコロナ禍で講義を満足に受けられなかったりというような思いがけない出来事に遭遇し、輝かしい本番の人生などどこにもなかったと気づくことがあります。

たとえ首尾よく希望する大学に入れたとしても、受験勉強の苦労は、その後の人生で経験する苦労と比べれば、大したものではありません。

「終活」に励む人は今を生きる喜びを犠牲にしている

この先何があろうと、今が本番です。先の人生のために今を楽しまない生き方を、私は好ましいとは思いません。「終活」をする人も同様です。今楽しめるのに、最期のために今生きる喜びを犠牲にしているように私には思えるのです。

誰もが死を免れることはできませんが、いつどこでどんなふうに死ぬのかは自分で決めることはできません。家族と暮らしていても、一人で死ぬことになるかもしれませんし、看取られて死ねるとしても、死ぬのは自分であって、他の人が一緒に死んでくれるわけではありません。

未来は「未だ来ていない」というより、「ない」のです。未来があるという保証はどこにもありません。少なくとも、自分が思い描いている人生になるという保証はまったくありません。

そうであれば、徒にこれから起こることを恐れるよりも、今できることに専念する。これが「今を生きる」ということの意味です。

「未来は悪い」と考える人は今を改善する努力をしない

これから先を考えて恐れたり、不安になったりするのにはわけがあります。「孤独死するかもしれない」という恐れに囚われている人は少なくありません。家族に頼らず、死んでからの諸々のことは友人に任せようという人もいますが、煩瑣はんさな手続きを引き受けてくれるような友人がいなければどうするのかという問題があります。そのようなこれから起こるであろうこと、死んでからのことを思うと不安でならない気持ちはわかります。

しかし、「不安や恐れに囚われているので、前向きに生きられない」のではありません。むしろ、「前向きに生きないために、孤独死するかもしれないというような不安に囚われている」と考えた方が、不安に囚われる真実に近づけます。

私は「未来に向けた原因論」という言葉を使うことがあります。本来、原因は過去にあるので、未来について「原因」という言葉を使うのはもちろんおかしいのですが、未来に起こることが、今の人生、そしてこれからの人生のあり方を決める原因となると考えるという意味です。

これからよいことは決して起こらないとか、今いいことがあってもどうせ長続きしない、最後には必ず何か悪いことが起こると考える人は大抵、今の状況を改善する努力をしないことを決心しています。そのように考えることで、今幸福である人は今の幸福にブレーキをかけますし、今不幸であると感じている人は、不幸の原因は未来に起きる悪しき出来事だと考えるからです。

「人生が思うようにならないのは自分のせいではない」

実際には、未来に何が起こるかはわからないので、これから起こる出来事を今の人生を前向きに生きられない原因にすることはできません。これからどうなるかもわからない人生を切り拓いていけるのは自分だけなのですが、どんな努力もしないでおこうと思う人は、これから起こる出来事はよくないことだと決めておけば、人生が思うようにはならなくても、その原因を自分のせいにしなくてすみます。

もちろん、どんなに努力しても人生が思い通りになるわけではありません。思いもかけない事態が訪れて、人生の行く手を阻むことがあるからです。

それでも、何もしないより、できることをしていけば、人生は必ず変わっていきます。たとえ不幸な出来事に遭遇したとしても、悲しみにただうちひしがれているのでなく、悲しみを梃子てこにして人生を生き抜く勇気を持つのと持たないのとでは、大きな違いがあります。

起こった出来事が本当に不幸かはわからない

不幸な出来事と書きましたが、起こった出来事が本当に不幸なのかどうかは、少なくともその時点ではわかりません。

これから人生を共にしようと思える人と出会うことなく、一人で生き、最後には孤独死するかもしれないという不安を持った人でも、誰かと出会い結婚するかもしれません(もっとも、そのことが幸福であるかもわからないのですが)。

初めから誰とも結婚しないと決めている人であれば、たとえ誰かと出会っても、その人を恋愛対象と見ないでしょうから、その人と恋愛し結婚することはないでしょう。

そうであれば、その人が誰とも出会わないとしても、それは自分で決めていることなので、それを不幸であるとはいえないでしょう。

反対に、結婚し幸福の絶頂にあると思っている人が、ある日パートナーと大喧嘩をして離婚を決心することになるかもしれません。もちろん、そんな事態は起こらないかもしれません。どんな出来事、体験もそれ自体では幸福であるとも不幸であるともいえません。結婚すれば必ず幸福になれるのでも、結婚しなければ必ず不幸になるわけでもないということです。

未来がすべてわかっていたら生きる喜びはない

この先起こる出来事が何かわからないということは不安なものですが、もしもこれから起きることのすべてがわかっていれば、生きる喜びすら感じられません。時には不幸のどん底に沈むような出来事が起こるかもしれませんが、それでも今見たようにそれが必ず不幸であるというわけではないのです。

とはいえ、起こった出来事が不幸であるとは限らないというのは、不幸の渦中にある人にいえることではありません。

私は病気になって仕事を失う経験をしましたが、病気になったおかげで学んだことは多々ありました。その意味で、病気もよい経験になったと今はいえますが、他の人に対しては病気をしてよかったとはいえません。

自分でも病気になったことをなかなか受け入れられない時に、見舞いにやってきた人から、ずっと働き詰めだったのだからゆっくり休んだらいいといわれると嬉しくはありません。

亡くなった人の人生をその最期だけで判断してはいけない

さらに深刻なケースになりますが、カウンセリングの場で自ら命を絶った人の家族と話すことがよくありました。私がいつもいうのは、亡くなった人の人生をその最期だけで判断してはいけないということです。

たしかに、家族は自殺を止められなかったことを後悔しないわけにはいきません。長く悩んでいたのに力になれなかったということはあります。相談もしてもらえないこともあるでしょうし、相談に乗ったとしても本人の決心を覆すのは困難です。まして突然の死であれば、家族といえども防ぎようがありません。そのような家族に起きた出来事に対してよかったとはいえません。

しかし、そのように亡くなった人が生涯ずっと不幸だったかといえば、そうとはいえないという話はしました。それでも、起きた結果を受け入れるためには長い時間が必要です。

事故や災害に遭った時も同じです。何もかも失うような出来事を経験すれば、それを受け入れられるまでには時間がかかります。そうできるようになる前に当事者ではないまわりの人から、起きた出来事には意味があるというような話をいわれたくはありません。

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コメント: 7
  • #1

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 07:38)

    苦労と楽しさは別にセットじゃないと思います。

    苦労しないで楽しく暮らせたら、それに越した事はありません。

  • #2

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 07:40)

    苦労はしなくていいですよ。好きな事を徹夜でやることは苦労ではないでしょ。そのような、人生を歩んでくださいね

  • #3

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 07:41)

    ダメな時はいくら頑張ってもダメ。全て空回りするか悪い方に転ぶ。

    だからそういう星廻りの時は無理せずに寝てやり過ごす。

  • #4

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 07:45)

    自分は未婚のショボいサラリーマン人生を歩んできたんですけど独り身はたしかに楽です。

    月20万くらいあれば普通に生活できます。

    でも何のために働いてるかわからないときはあります(笑)何かを背負うのも頑張るきっかけや力強く生きる為の糧になるかもと思うこともあります。

    その一方で背負うものが無ければ人に迷惑をかける可能性も減りますので自由な決断ができるメリットもあります。

    結論

    縁があれば結婚したら良いんじゃないかなくらいに思っています。

  • #5

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 07:49)

    生きていて「あの時は辛かった」と振り返ることも出来ますし、そういう時期も確かに有ります。やり過ごしたっていう安堵ですよね。しかし誰もが口をそろえて言うように人生には「波」があります。一難去ってまた一難。本当に、よくもまあ、こうれだけ次々に問題が沸いて出るものだと「感心」しますよ。誰にって感じですが(笑)

    きっとこの後も大変だと思って諦めています。

    しかし想像するに「衰え」と共に「感覚」が鈍るとしたら。恐らく辛さや苦労は「肉体的」なものだけに限定されてくると思います。精神的な苦労が残っているとしたら、それはもう「絶望」だけが残された状態でしょう。つまり大切なことは自然な形で「死」に向かって衰えてゆくことが出来るように生活をするということです。「悟る」ってことかもしれませんが、恐らく「なるようになるのさ」という心境が支配される時が人間の終焉を告げる時なんだと思います。

  • #6

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 07:50)

    たとえば、どうしても大統領になりたいと思うひとがいたとしましょう。

    そのひとが大統領になれたら、それは成功でしょう。

    どうしても、いい大統領になりたいと思うひとがいたとして、

    そのひとはいい大統領にはなれず、悪い大統領になったとしたら、それは成功ではなく失敗ですよね。

    どうしても悪い大統領になって悪いことをしたいと願うひとがいて、

    そのひとがまんまと悪い大統領になれて、しかも悪い事を達成できたらそれは失敗ではなく、成功です。

    私は毎晩、おいしくお酒を飲めたらいいなあ、と思って生きています。

    そして毎晩、おいしくお酒をいただいています。

    これは成功です。

    これをある程度続けることができたら、これは成功した人生だと思っても差し支えないと思います。

  • #7

    名無し (日曜日, 26 3月 2023 08:12)

    前半は、様々な状況から起こりうる孤独と、その孤独から起こってくる状況が、日常の具体的な場面を考察しながら取り上げられています。
    その時、自分自身も振り返らされるのが、さすが哲学者だと思います。

    そして、三木清の言葉を引用からの考察でガラッと孤独の捉え方が変わります。

    喪失感と孤独の違い。
    孤独感と孤独。
    孤独は知性に属すること。
    そして、孤独は最も深い愛に根ざしていること。

    それが他者への信頼であること。

    三木の言葉で「物を作ることによって」自信が生じ、「人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる」と引かれています。
    確かに、個性とは孤独かもしれない。

    そして、自信を持つということは、「信じてくれる人はいる」ということにつながる。
    それが無条件に信じるということなんだろう。
    「信じてくれる人がいる」ことを信じられるかどうかが本当の意味での問題なのだなあと思いました。

    そして、真に孤独でいられるのは、それができる人なんですね。

    ひとりでいられる人が、他者の存在を信じて他者と結びついていく。

    ここが孤独の本当の目的地なのだと思いました。

    最後に、もっと難しいことが出てきます。
    自分と考えを異にする相手とも結びついていると思えるまでの道のり。

    そこまでは遠いかもしれないが、この「孤独の哲学」を知っているのは違うだろうといわれています。

    個性を大切にする人に是非読んでほしい。