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ペーパーシティ 東京大空襲の記憶 PAPER CITY 80分 2023年2月25日公開  「是非、劇場でご覧ください。Apex product 」

日本人が忘れかけている東京大空襲の悲劇 3人の生存者の記憶と証言を、ひとりのオーストラリア人映画監督が見つめる

1945年3月10日午前0時過ぎ、アメリカ軍の爆撃機が東京を襲撃し、木造の家屋や多くの紙材が密集していた街に火の粉を浴びせた。日の出までに10万人以上の死者を出し、東京の4分の1が焼失した史上最大の空襲だった。この凄まじい記憶が今もなお生存者の脳裏に焼きついている。戦争や空襲の記憶が失われつつある今、未曾有の悲劇の体験を後世に残そうとする生存者たちに肉薄する。本作は東京を拠点にするオーストラリア人映画監督エイドリアン・フランシスの長編ドキュメンタリー・デビュー作。この悲劇で私たちは何を記憶し、なぜ忘れようとしているのか。ロシアによるウクライナ侵攻から1年。戦争の影がしのび込んでくる今、生存者の体験と未来への思いを見つめる。

 

2021年/オーストラリア/80分/原題:Paper City/配給:フェザーフィルム

監督:エイドリアン・フランシス

出演:清岡美知子、星野弘、築山実

with english subtitles

▶︎2023年2月25日(土)より公開

 

監督プロフィール

エイドリアン・フランシス

1974年オーストラリア生まれ。メルボルン大学、ドキュメンタリー映画専攻を卒業。15年前から東京を拠点に活動。短編ドキュメンタリー『Lessons from the Night』はサンダンス映画祭でプレミア上映、2010年ベルリン映画祭のTalent Campusに招待された。初長編映画『Paper City』はメルボルン・ドキュメンタリー映画祭では2つの賞を受賞し、さらに2つの賞にノミネートされた。

監督のことば

初めて東京大空襲について学んだ時、たった一夜で10万人もの人が命を落としたいう、言葉を失うような事実を知りました。「歴史上もっとも破壊的な空襲」であったにも関わらず、東京の街にはその跡がほとんど残されていない、ということです。生存者は生きているのだろうか。語り継ぎたくなかったのだろうか。それとも、忘れてしまいたかったのだろうか。私は生存者の方々に連絡を取ることを決めました。オーストラリア人の私は、彼らに警戒されてしまうのではないかと不安でしたが、3人の生存者の方が当時の記憶や経験を語ってくれました。

東京大空襲、直前で「超高高度・昼」から「低空・深夜」の爆撃に変更した理由

1945年3月10日の深夜、米軍の爆撃機B-29により東京大空襲が行われた。一夜にして12万人の命が失われたと言われているが、正確な数字はいまだに判明していない。実は当初、B-29は超高高度1万メートルでの飛行を想定していたが、直前になって2000メートルに変更された。「低空」かつ「深夜」になった理由を明らかにする。

 ※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。 ● 東京大空襲実行の直前に 「超高高度」から「低空」へ転換 日本への焼夷弾爆撃は、入念に準備されていた。実験を繰り返し、最も効果的に街を焼き尽くす方法まで検証されていたのだ。あとは、どのように実行するか。それだけであった。その実行役を担うことになったのが、カーチス・ルメイだった。焼夷弾爆撃を成功させるための最後のカギとなる空爆計画。航空軍の命運を握る計画の策定は、38歳の指揮官の手に委ねられた。 アーノルドから焼夷弾爆撃の指令が下ってから10日あまり。ルメイは、どうすれば日本への空爆で成果を上げられるか考え続けていた。 大きな障害となっていたのは、気象状況だった。航空軍が爆撃を行っていた11月~2月の間、東京上空の天候は、常に厚い雲に覆われていた。B-29が超高高度から目視で爆撃できる日は、ひと月に7日程度しかなく、最悪の時期は3日しかなかった。さらに、天気に恵まれた日でもジェット気流に阻まれた。超高高度から目視で行う精密爆撃は、目的地が好天候であることを前提にしており、日本にはまったくこの条件が当てはまらなかった。 B-29の使用方法を変えなければ、成果をあげられない。1945年3月上旬、ルメイは、一つの答えにたどり着く。 「私は、日本の偵察写真をすべて確認している中で、あることに気付いた。ドイツ人が防衛で使っていたような低空用対空砲火は見当たらなかったのだ。このことに気付いたとき、自分の中で“これだ”と確信した。レーダーも使い物にならないことを知っていたので、気圧などを調整することで、B-29をできる限り低く飛ばせるようにした。私たちは、高すぎる位置から爆撃をしていて、私が思うには、そのせいでB-29に負担がかかりすぎていた」(肉声テープより) ルメイが思いついたのは、B-29を低空飛行させる爆撃計画。これまでの超高高度1万メートルを捨て、2000メートル付近まで高度をさげるという思い切った作戦だった。
 低空を飛べば、B-29を苦しめていた厚い雲も、ジェット気流の影響も避けることができた。しかも、エンジンへの負担も少なくなる。エンジントラブルが減れば、多くの機体が運用でき、大部隊を編成できる。さらに、低空飛行は燃料の消費を抑えられるので、その分だけ多くの爆弾を搭載することが可能になる。  多くのメリットがある一方で、大きなデメリットがあった。敵の反撃を受けるリスクだった。  「私は、部下がどのような反応を示すのか知るために、出し抜けに何人かに作戦を説明してみた。賛成する者もいたが、大部分は『それは自殺行為だ』と反対した。特にヨーロッパで飛行経験があった者は、低空飛行に対して拒否感が強かった。大きな賭けだという人もいたが、人の命を賭けるようなことはしない。私はこの件を、みなと話し合って、あらゆる角度から考えた。そして、最終的にやれるだろうと判断して決断したのだ。計算されたリスクは取るが、賭けではない」(カーチス・ルメイ、肉声テープより) ● 日本のレーダーの精度が低く 夜間ではあまり機能せずと判明  ルメイは、情報部から“日本の戦闘機部隊は脅威を与えるほどの能力ではない”という情報を得ていた。恐れていた高射砲についても、部下たちから寄せられる報告を基に、レーダーなどの精度が劣っているため、悪天候や夜間ではあまり機能しないことがわかっていた。  ルメイは、こうした情報を基にして、リスクを最小限に抑えるために作戦は夜間に決行することにした。夜間に飛行するとなれば、編隊を組むことは不可能だったため、単独爆撃となった。編隊を組まなければ、燃料も節約できる。焼夷弾を用いた空爆作戦の方針が決まった。  「私たちは、日本に焼夷弾を使えないかと常に考えていた。唯一残された手段が焼夷弾だったからだ。そのために予備実験も行って、焼夷弾の効果についてデータを集めていた。焼夷弾爆撃を有効に行うには、400機近くで大規模に行わないと成果が上がらないことが明らかだったが、それが集まることがわかったので実行することができた」(カーチス・ルメイ、肉声テープより)  ルメイの爆撃計画は、それまで航空軍が行ってきた超高高度からの昼間精密爆撃とは、理念も方法も、まったく異なるものだった。どうしてルメイは、従来とは違う爆撃方法を決断できたのか。解任の憂き目に遭ったハンセルは、ルメイの決定について、肉声テープの中で次のように振り返っている。  「低空でB-29を使うという作戦は、完全にルメイ一人の決断だったと思う。よく質問されることだが、私が同じ決断を下していたかと聞かれれば、率直に言ってその答えは『否』である。対空防御網の十分な知識もなしに、低高度で侵入することは非常に危険で勇敢なことだと思う。そして、その決断は、結果的には正しかった」
 ハンセルは、焼夷弾爆撃をどのように実行するか、その方法についてルメイの独創性を認めていた。リスクが大きな作戦であるため、ハンセル自身にはとても決断できないことだったという。その一方で、焼夷弾を使う空爆自体は、上層部からの命令に従っただけで新しい作戦ではないと証言している。  「B-29を使った焼夷弾による都市空爆については、ルメイ自身の決断ではなかった。それは少なくとも1年以上前の基本計画において、すでに考えられていたものである。  ご存じかもしれないが、我々は実際、実験のために日本風の村々を築き、焼夷弾を試してみた。つまり、そのアイデア自体は、彼の決断よりもずいぶん前に練られていた訳で、焼夷弾を持ち合わせていたという事実は、その決断が最後の最後に下されたというわけではないということを示している。  ただ、私たちは、『実際にその作戦が行われるべきではない』ということについて合意していた。それを昼間爆撃として、バラバラに行うということは非常に危険なことであった。敵の激しい反撃に遭う可能性があったからだ。だから、もしそれを行うのならば、記憶に残るように非常に大規模に、激しく行う必要があった。当時、私が指揮していた頃には、その準備ができなかったので、焼夷弾による攻撃を先送りにしてきたのである」(肉声テープより)  ハンセルの認識によれば、当初、焼夷弾による空爆は、危険を伴うため実行するべきではないとアーノルドらと合意していたという。危険に見合った成果を残すためには、大規模なB-29の部隊を編成して実行する必要があったが、ハンセルが指揮していた時には、その準備が整わず実現できなかった。だが、ルメイが指揮するようになってから、その状況が変わったというのだ。  「ルメイが実行する3月の東京大空襲までに3つの状況が偶然発生した。1つは、大規模な攻撃を実行できるだけの十分なB-29が揃ったこと。2つは、予測されていたほどには日本の空軍が強力なものではないことがわかったこと。3つは、私たちは、どのような精密爆撃の成功も見込めない日本の天候があることを知ったこと。こういったことをすべて考慮すると、その他の手段よりずっと容易で単純、そして安全な焼夷弾による空爆作戦について肯定的な結論が出てくるのは自然なことだった」(肉声テープより)  偶然にも、焼夷弾爆撃を実行するための条件が揃ったというのだ。もちろん、そのときの現場の指揮官が、リスクを冒す覚悟を持ったルメイであったことも大事な要素の一つだったのだろう。アーノルドが切羽詰まった状況に置かれていたこともある。いくつもの偶然が積み重なった。そして、史上最悪とも言える悲劇へと向かって転がっていったのだった。

説明 

内容紹介

半世紀ぶりに発掘された米将校246人、300時間の肉声テープが語る「大空襲」の真相。
第二次大戦末期、わずか一年足らずの空爆で約46万人もの命が奪われた。すでに敗色濃厚の日本に対して、なぜそれほど徹底的な爆撃がなされたのか。最大の理由は、空爆を実行したアメリカ航空軍の成り立ちにあった。当時、陸軍の下部組織という立場にあり、時に蔑まれてきた彼らが切望するものは何だったのか。半世紀ぶりに発掘された将校ら246人の肉声テープが浮き彫りにする「日本大空襲」の驚くべき真相とは。

私は貝になりたい        
著者     橋本忍     
朝日文庫新刊         
あらすじ
理髪店を営む清水豊松には、復員後妻子と共に平和に暮らしていた。しかしある日戦犯として逮捕され、絞首刑を言い渡されてしまう。自らの無実を信じ、妻が必死に集めた200人の助命嘆願書を携え、再審に臨んだ豊松に下された最終判決とは?50年前にTVで放送された不朽の名作。初の完全シナリオ集。
両親がよくTVをみていて私は、50代で本をよんでから、横浜の映画館でみました。戦後生まれの私にとって、戦犯とは、よくしらないでしたが、当時の戦争の傷跡や人間に対する残酷な世のなかであったと深くラストには、涙です。😭

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コメント: 2
  • #1

    名無し (月曜日, 06 3月 2023 19:44)

    日本軍とアメリカ(空)軍のエゴのために46万人もの犠牲者が。
    二度と戦争を起こしてはいけない。

  • #2

    名無し (月曜日, 06 3月 2023 19:45)

    日本軍はほとんどの戦争に関する公文書を破棄しましたが、アメリカは過去の公文書がすべて残っている。公文書の取り扱いの差に、愕然とする。