何故、今だに世界の至る所で揉め事や争いごとが絶えないのでしょう。政治や宗教での自国間の争い、差別、派閥、どうして起こるのですか。アジアの仲間同士どうして普通に暮らせないのですか。誰が、考えても平和な社会が良いに決まっています。小さな子供でも理解出来る事を分別のある大人や政治家が、何故、争うのでしょう。人は何故争わなければいけないのでしょう。欲を捨て本来の裸で生まれた人間同士うまくやっていけないのでしょうか。それぞれ、己が正義と思い事を成すでしょうが、少しだけ立ち止まり、力を抜いて音楽を聴いてみてはいかがですか。きっと心に響く1曲があるはずです。そして貴方の幼い頃。そうです。純粋だったあの頃。思い出して下さい。人前に出るのもおどおどして、母親の影に隠れていた優しい子。正義の旗の元、どんな理由があっても人殺しです。無差別に殺しあう戦争が、どんなに愚かな事でしょう。本来のあなたに戻って下さい。きっと戻れます。先人がどれだけ血を流し我々に生きて伝えたかった事でしょう。だからだから、お願い致します。下記に、あげる資料・画像を見て一人でも多くの人に伝えて下さい。いかに、平和が大切で、人の命が尊いのか。本気で考えて下さい。弊社は、真剣に取り組みます。誰に非難されても、私達は訴え続けます。一生を掛けて取り組む問題だからです。是非ご賛同頂き、少しでも悲しい人を作らないようにしましょう。
平和ほど、尊いものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、
根本の第一歩であらねばならない。
【あたりまえ】
あたりまえの幸せが
ほんとはあたりまえなんかじゃなく
生きてることさえ、あたりまえじゃない!
明日があることがどんなに幸せなことか
だいすきな仕事ができる身体と心も
環境があることがどんなに幸せなことか
ちょっと疲れたら横になれる
ふかふかなベッドがあることがどんなに幸せなことか
朝起きたら、心臓が動いてて
伸びをして、深呼吸して
朝日を浴びることが
どんなに幸せなことか
何をするにも、必ず誰かの助けや支えがあることが
どーんなに幸せなことなのか。
とっくに気づいてるはずなのに
いちばん大切なことはおろそかにしがちなんだよね。
ほんとは
世界は地球は
もっともっと、愛にあふれてるんじゃないのかな
- 青空と向日葵の会 Apex product 社員一同 -
昔の富屋食堂を復元した「ホタル館 富屋食堂」でトメさんへの思いを語る鳥浜拳大さん=鹿児島県南九州市知覧町で2023年8月8日午後5時7分、取違剛撮影
「特攻の母」と呼ばれ、高倉健さん主演の映画のモデルにもなった鳥浜トメさん(1992年に89歳で死去)のひ孫拳大(けんた)さん(31)が、トメさんの戦争体験などを伝える語り部として奮闘している。亡き父の後を継いで、2年前に特攻隊員の記録を伝える資料館の館長に就任。隊員を親身に世話したトメさんや隊員のことを知ってほしいと、来館者を迎えている。【取違剛】
トメさんが鹿児島県知覧町(現・南九州市)で営んだ「富屋食堂」は太平洋戦争中、旧陸軍の指定食堂になり、近くの知覧飛行場の少年飛行兵らが通った。戦況が悪化し飛行場が特攻基地になると家財を売ってまで食材を集め、出撃を控える隊員らにごちそうを出した。隊員らもトメさんを母のように慕った。当時のエピソードの一つが高倉さん主演の映画「ホタル」(2001年)のモチーフになった。
トメさんが語っていた隊員の話を後世に伝えるため、拳大さんの父明久さんらが01年、富屋食堂を復元する形で「ホタル館 富屋食堂」を知覧町に開館した。知覧で生まれ育った拳大さんは岡山県の大学を卒業後、広島市の自動車関連会社で働いた。しかし、明久さんが体調を崩した18年に地元へ戻り、明久さんが60歳で亡くなった21年に館を継いだ。新型コロナウイルスの影響で運営は苦しいが、来館者などへの講話は100回を超えた。
拳大さんにトメさんの記憶はないが、幼い頃から明久さんからトメさんと特攻隊員のことを聞いてきた。「おばちゃん、僕はホタルになって帰ってくるよ」と言い残して飛び立った20歳の軍曹、「日本は負けるよ」とあけすけに語り「そんなことを言ったら憲兵に連れていかれる」とトメさんを心配させた少尉などのエピソードだ。
語り継がれてきた隊員らの素顔は、どこまでも人間くさかった。「(特攻隊員は)『自分たちと違う人』ではない。まだ生きて、いろんなことをしたかったと思う」。戦死した隊員の思いを想像し、平和な世の中でより強く、楽しく生きてもらいたい――。それがトメさんと明久さんから受け継いだ拳大さんの願いだ。
拳大さんは、明久さんがトメさんの味を守ってきたお食事処(どころ)「知覧茶屋」の料理長としても腕を振るう。看板は豚の骨付き肉を煮込んだ郷土料理「とんこつ」や鶏とゴボウの釜飯。昔の富屋食堂でトメさんが出していたメニューだ。「特攻隊員のことを誰にも忘れてほしくない。記憶の片隅にでも残ってくれたらうれしい」。拳大さんは、語りと味で伝え続ける。
旧陸軍知覧基地
1941年12月、大刀洗陸軍飛行学校の分校として鹿児島県知覧町(現・南九州市)に開設され、45年3月、沖縄に最も近い本土最南端の特攻基地になった。沖縄戦には九州・山口の他、日本統治下の台湾からも陸軍の特攻機が出撃し1036人が戦死。最多の439人が知覧から出撃した。
検証
ナチスは「良いこと」もしたのか?
小野寺拓也、田野大輔著
終戦記念日の日経新聞の社説で紹介された本の一つです。
このような発言を時々聞くことがあります。言った人は、ナチスという全てが「悪」と思われている存在の中にも、「良い」と思われる施策が見つけると、他人とは違うことを見つけた喜びがあるのかもしれません。
著者は、一部分だけをつまみ食いするのではなく、全体像を見ることの大切さを、例を示しながら主張されています。
例えば、少子化対策を積極的に進めたことが知られています。しかし、対象となったのは、従順なアーリア人だけ。ユダヤ人、移民などの色々な意味でのマイノリティは対象とされていませんでした。
この本のタイトルを見ると、どうしても「戦前の日本はアジアに良いこともした」と主張される方を想像します。確かに、部分的には、また結果としては良いことになった例もあったと思います。しかし、なぜ日本がアジアに進出したかの全体像を理解する必要がありますね。
どちらにしても、歴史の一部分だけをつまみ食いする危険性ですね。
『ヒロシマは昔話か─原水爆の写真と記録─』庄野直美編 新潮文庫
ヒロシマ・ナガサキの原爆の惨状を写真と記録でまとめ上げた渾身の著作。
筆者は物理学者で広島出身。8月9日に両親を案じて広島に入り、その惨状を目の当たりにした。
原爆の記録は、現在では様々な証言や映像で繰り返し接することは出来るが、具体的な原水爆の威力の数値や、その被害の予想的規模などは素人にはなかなか推し測り難い。
たとえば、水爆1メガトンの爆発力はTNT火薬100万トンのエネルギーに匹敵し、それは広島の原爆の約67倍であることや、残留放射性元素を食物や飲料水や呼吸を通して体内に取り込んだ人は、ガンマ線以外にもベータ線、アルファ線の影響を受けて、直接の被爆を受けていなくても二次被爆者となり、死の灰や黒い雨に打たれた被爆と同等となることなど、改めて恐怖を感じざるをえない。
このように核分裂、核融合のときに放出されるエネルギーの規模を俯瞰すると、改めてこんな非人間的なものが兵器として使用され、また配備されていいものなのかと声を上げたくなる!
残留放射能の人体その他の動植物への影響は長い年月に及ぶ。また当然に核の使用は、あらゆる生きとし生けるものの営みを消滅させ破壊し尽くす。
だが実際には、私たち一人ひとりの心中では、毎日の生活のなかで、核時代の想像力を持つことと持たぬことは、常にせめぎ合っていると思える。"まさか核など使わないだろう、いや使えないだろう!""だが待てよ、痴れ者は使うかもしれない。そしたら人類は滅亡だ!"、こんな思いは、いまのウクライナ・ロシアを見聞していても脳裡をよぎる。
まして為政者がよく口にする「核抑止力」ということばは、ひるがえせば"オマエたちを皆殺しにする準備はできているぞ!"という脅し合いを、互いに声高に張り合っているならず者の所業に他ならないと思えてくる。
その結果戦場ではなく、ヒロシマ・ナガサキのような普通の人間生活が営まれる都市の上に投下されてしまう。それは何よりも気の遠くなるような犠牲者を生み出し、建物
や財産を大量に消滅させるだけでなく、人々の心の支えであった人間関係と生活の場を一挙に壊滅させてしまうことを意味する。
この書のなかにも、筆者のこんな主張がある。
「時の流れに伴う人間の忘却作用が、大事件や戦争を繰り返させる方向をつくっていきます。とくに戦争の経験を忘れまいとする努力は、勇気のいることです。いやなことは早く忘れたいという各人の思いに加えて、国家が次の戦争を準備するときは、民衆がもつ過去の記憶を忘れさせようと操作するからです。」
そして「‘敵を倒すためには手段を選ばず、国家のためには戦争も残虐行為も新兵器の開発もすべて許される’という古くからある考え方は、現在も依然として世界中で生き続けています。人間は大きな集団の一員になると、自己陣営優先の意識に埋没し、安心して非道徳的・非人間的になる傾向があります。私たちは今、国家という価値を絶対視しない新しい考え方の創造も含めて、このような非人間的考え方や生き方を早急に改めてなければならない状況にきているのです。」
戦後、アインシュタインら科学者が深い悔恨の末に発した、ラッセル・アインシュタイン宣言の骨子、「全面軍縮の第一歩としての核兵器の廃棄、運命共同体としての人類という考え方を深めること、人間性への信頼を回復すること」、いまこそこれらの再認識と再創造が求められていると感じます。
ノーベル平和賞受賞スピーチでの、ICAN代表ローサー節子氏のことばも忘れられません!
「核は人類と共存できない。これからが核廃絶の終わりの始まりである。
」
なおこの本は、絶版のようなのですが古本などでは入手可能です。
【 シベリア抑留者 】
車外に出された途端、氷のような風が頬に突き刺さりました。冬になると零下40度は当たり前、時には零下60度を下回りました。
夜、床につくと15分もしないうちに猛烈な痒みに襲われました。南京虫のせいで一晩中、ほとんど寝られませんでした。
支給された服や靴は零下30度までしか耐えられないものでしたが、零下40度まで作業をやらされました。零下40度になるとすべての水分が凍結し、金属に触ったら最後、手から離れなくなります。表皮や肉がちぎれるのを覚悟で引き剥がすしかありません。
地面が凍っていたら大変です。丸太と一緒に滑って落ちて下敷きになって死にますから。実際、そんな事故がよく発生していました。
隊列を乱したり遅れたりすると監視兵がやってきて蹴り飛ばしたり銃床で殴ったりされるし、現場監督にムチを振るわれました。当たるとこれがものすごく痛い。あれはこたえました。
栄養不足のため、皆どんどん痩せ細っていき、命を落とす者が続出しました。
東京城で武装解除になった。収容所に移動するため、雨に降られながら歩いた。3日目に編上靴の底皮がはがれ、素足で砂利道を歩いた。道の両側にはソ連軍の戦車に踏みつぶされた友軍のしかばねが多数散乱していた。落伍するとコーリャン畑に捨てられ、射殺される。収容所に入った。500人ほどいた。窓にはガラスがなく菰を下げた。寝台は乾草を敷き、上は毛布。シラミが多発し、南京虫も出てよく眠れない。日中の作業を休むと食事も粗末になり、生の小麦に水を加えただけの食事のときもあった。零下20度の寒さと栄養失調で、食事にも起きられなくなり、死ぬ人もいた。赤痢が流行した。1日8回以上トイレに行く人は助からなかった。脳症になって大声でどなる人は半日で死んだ。1946年春になっても入所者の半数くらいは内地に帰れなかった。私は栄養失調で言語障害となり、声が出なくなった。それでも作業に出かけた。途中で5~6回転倒した。厳しい冬を3度過ごした。48年5月30日に我が家に帰った。4年2か月が経っていた。
※ソ連のスターリンは終戦後の1945年8月23日、武装解除され投降した日本軍兵士の捕虜57万人を国際法に違反してソ連各地の収容所へ移送隔離し、強制労働させる命令を下しました。2~11年の抑留の間に5万8千人が寒さや飢えや銃殺で死亡したといわれています。
『杉田二郎』そして『ジローズ』
1970年 大阪万博で歌われた「戦争を知らない子供たち」はあまりにも有名。この歌でジローズは、日本レコード大賞新人賞。作詞の北山修氏は作詞賞を受賞。 しかし大ヒットの裏で、、、
「戦争も行ってないくせに生意気な❗」
「戦争を知らないで済ますのか❗」
「そんな甘い歌を歌ってる場合か❗」等々
批判も飛び交った😅
当時はまだ、ベトナム戦争の真っ最中💣
世界の平和を願う✌️ ただそれだけなのに。。。
アメリカ🇺🇸から返還されたばかりの沖縄でのコンサート会場で、杉田二郎氏は「戦争を知らない子供達」を歌うことができなかった。
ところが
客席からのアンコールで「戦争を知らない子供達」の大合唱が沸き起こり、二郎さん『この歌を一生歌っていこう‼️』と決めたのだとか、、、
もう一人のジローさん「森下悦伸」(よしのぶ)さんは、学生時代に1年限定で、「森下次郎」としてジローズに参加。その後は“ラジオ関西”に就職し、取締役まで勤め上げ、既に定年退職されています。(森下悦伸さんの愛称“ジンタン”は、森下仁丹から)
余談ですが
オフ・コースは杉田二郎さんが立ち上げた音楽事務所の所属アーティストで、当初は杉田二郎さんのバックバンド&バックコーラスでした。
杉田二郎ソロ2作目
「人力ヒコーキのバラード」はオフ・コースの
“小田さんの声が聞ける最も古いヒット曲”と言われております😁
1960年現在の上皇后両陛下が、憧れの団地から
手を振られたご様子が伺える写真です❣️
訪問前年の1959年に竣工したばかりの
ひばりヶ丘団地は、180棟、全2714戸におよぶマンモス団地で、日本住宅公団が手掛けた物件としては当時、最大規模。依然として都市部は深刻な住宅難がつづいていた時代。家はあっても木造賃貸アパート(モクチン)住まいが多かった。そんななか、鉄筋コンクリート造で住戸面積も広く、風呂や水洗トイレ等の設備も充実した公団住宅は輝いて見える代物でした。1958年には「ダンチ族」が流行語となるなど、当時の団地は庶民のあこがれの的でした❣️
下の階、洗濯物の干し方が~The昭和デスネ❣️
「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」加藤陽子著 2016年朝日出版社刊
著者は東大の日本近現代史専門の教授であり、2013年成立の特定秘密保護法に反対し、2020年には、日本学術会議の新会員候補に推薦されるが、他の5名の候補とともに、当時の菅首相によって任命拒否されると云う経歴の持ち主です。
この本は中高生向けに行われた講義を元に構成されており、私のように歴史学を専門としなかった者にも大変わかりやすく読み進める事ができます。
興味深かったのが太平洋戦争直前の1941年に行われた日米交渉の様子です。近衞首相をはじめ海軍首脳らは、国力の違う英米との戦争は国の破滅をもたらすとして、必死の交渉を試みます。8月には日米首脳会談をハワイ辺りで行う提案までしていました。しかしこの事が日本より先にアメリカの新聞で報道されると、日本の国家主義団体が強く反発し、それに呼応して国民の間の反英米的気分が更に高まってしまったとありました。
著者は日本が最終的に無謀な戦争に突き進んでしまったのは国民が受けていた「教育」のせいだとします。当時は人口の半分を占める女子に男子と同じ教育はなされなかった。現在の教育を受けた者であれば、当時の日本が取った道のりはクレイジー以外の物ではないと、誰もが思う事でしょう。そう思う国民が大多数を占めるような「教育」がこれからも大切だと考えました。
占領下の日本
奈良市 屈辱的な写真ですが
戦争に負けると、こう言うこと。
横井庄一さん
(1915年3月31日-1997年9月22日)
陸軍軍人、評論家。
最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。
大東亜戦争終結から28年目、
アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された
残留日本兵として知られます。
愛知県海部郡佐織村(現:愛西市)にて洋服屋を営む
父:山田庄七と、母:大鹿つる(1889年 - 1958年)の間に長男として誕生。
しかし、
生後半年で両親が離婚したため姓が母の旧姓に。
生後3か月から小学校5年生まで母親の里(海部郡神守村、現:津島市)で
大鹿庄一として育てられ、
1926年(大正15年)に母・つるが再婚し横井姓に。
旧制小学校卒業後は愛知珠算学校を経て、
1930年に軍服を作る愛知県豊橋市の花井洋品店に奉公に出て約5年間勤務。
1935年(昭和10年)、
満20歳のため徴兵検査を受け第一補充兵役(補充兵)に編入。
1938年5月に召集され帝国陸軍に入営して中国戦線へ送られ、
翌1939年3月に解除。
軍務の後に洋服の仕立て屋を開きました。
1941年(昭和16年)8月には再召集され、
中国の満州に送られました。
1944年(昭和19年)からはグアム島の歩兵第38連隊に陸軍軍曹として配属。
同年7月にはアメリカ軍が上陸し(グアムの戦い)、
島での米軍との戦いにより日本軍は壊滅状態となり、
横井が所属する中隊は同年8月10日に解散。
8月に同島で戦死したとされ、
戦死公報が届けられています。
1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって
日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされず。
グアム島では残留日本兵の投降を呼びかける放送が鳴り響きましたが、
横井は
「その放送を聞いても私たちは敗戦を信じられず、
相変わらず敵の襲撃を恐れてジャングルの中をさまよい続けたのです。
長くとも十年待っておれば、
必ず日本軍は力を盛りかえしてこのグアム島へも攻め寄せてくると固く信じておりました」
と著書に記しています。
横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活。
1946年に5人組のうち二人が投降し、
その後1964年に残りの二人が(一部では、台風に巻き込まれたとされる)力尽きました。
独りになった横井は
「島に眠る数限りない友軍の魂が私を助けてくれる」
と信じて生き続けました。
1965年(昭和40年)10月30日の第19回戦没者叙勲では、
戦没者として戦前受けていた勲八等から
勲七等青色桐葉章への昇叙者として官報掲載。
グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日の夕暮れ時、
エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、
鹿の猟をしていた現地住民たちに取り囲まれ、確保。
同年2月2日に横井は満57歳で日本に帰還し、
28年間に及ぶジャングル生活が終了。
1964年の台風により亡くなったとされる
2人の部下の遺骨も横井帰国の際に一緒に帰国。
軍事教育を受け育った横井は、
「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとありました。
このため帰国の際、
羽田空港で空港に出迎えに来た斎藤邦吉厚生大臣に、
「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰って参りました」、
「グアム島敗戦の状況をつぶさにみなさんに知ってもらいたくて恥ずかしいけれども帰って参りました」
と伝えました。
またその後の記者会見では
「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と発言。
これらの言葉をとらえて「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となり、
また、当時、
高度経済成長や東京オリンピック、
大阪万博に沸いていた日本国民は、
横井の帰国によって「まだ戦争は終わっていなかった」
という現実を突きつけられました。
同年2月2日14時から60分間にわたり、
NHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、
41.2%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の高視聴率を記録。
また、
愛知県の実家に帰る横井を撮ろうと取材陣が殺到し、
既に故人となっていた母の墓前で思わず泣き崩れる彼の様子も撮影されました。
その後、
体調や病気の有無を調べるため国立病院医療センターに入院。
退院後、
母の親族が暮らす愛知県名古屋市中川区富田町にある家に居住。
ほどなくして全国から今後の生活費を心配する人たちの善意により寄付金が殺到しましたが、
横井は「人寄せパンダのようだ」と感じて一時人間不信に陥ります。
そんな苦境を救ったのが
1972年8月に見合いをした12歳年下の京都の女性・幡新美保子の存在でした。
同年11月、2人は熱田神宮で結婚式を挙げ、
翌1973年2月に名古屋市内に新居を完成させてそこで暮らし始めます。
世間から横井は戦後の日本の変化に適応できるかを心配されましたが、
驚くほど素直に戦後の日本に馴染みました。
ただし、
戦前と帰国後でインフレーションから円の貨幣価値が大きく変わっていたため、
上記の寄付金や横井の財産の管理は全て妻の美保子が行いました。
また、
帰国からしばらくは日本列島に「軍人ブーム」が到来し、
地域によっては「軍歌バー」なるものもできました。
横井自身も様々なイベントに引っ張りだことなり、
歌番組「夜のヒットスタジオ」へのゲスト出演など芸能活動も行い、
その“浦島太郎ぶり”で人気に。
1973年には、
春頃の小松左京の小説「日本沈没」のブームや、
秋に起きた日本でのオイルショックが影響し、
横井のもとに全国から講演依頼が殺到。
横井は日本でただ一人の「耐乏生活評論家」(あるいは生活評論家とも)として、
全国各地でグアム時の節約生活について自らの経験を語ったり、
雑誌等でも災害時のサバイバル術についてインタビューを受けました。
1974年2月には、
初の著書となる戦時中にグアムのジャングルで生き延びた話を綴った
「明日への道」を出版しベストセラーに。
横井は28年に及ぶジャングル生活の影響で
「火を通さない生魚の刺身」に対して警戒心があり、
帰国後も食べられない訳ではないがあまり喜ばなかったといいます。
1974年(昭和49年)7月、
第10回参議院議員通常選挙(全国区)に無所属で立候補するも落選。
横井による軍人ブームは、
同年3月に同じく残留日本兵としてフィリピン・ルバング島から帰国した
小野田寛郎旧陸軍少尉へと大衆の関心が移り、
横井に対するマスコミの扱いも次第に終息。
ようやく生活が落ち着いた横井はほどなくして陶芸に開眼。
自宅を改装して「六十路窯」を作り、
制作した陶器で銀座三越を始め全国で個展を開き、
1982年には7人の美女と共に様々なサバイバルを繰り広げる
バラエティ番組『ザ・サバイバル』(テレビ朝日系列)が始まり、
人気を博しました(横井は1984年まで出演)。
その後はヘルニアや、
1985年に胃がんの手術を受け、
1991年(平成3年)に春の園遊会に招待され、
当時の天皇と皇后からお言葉を賜りました。
1997年(平成9年)9月22日、
心臓発作を起こし死去。
満82歳没。
(横井庄一)
1945年9月26日、 この日、
最初の復員船・高砂丸が、
中部太平洋メレヨン島からの復員兵1,628人を乗せて別府港に入港。
「メレヨン島の日本軍」
メレヨン島は日本軍の基地となり、
小規模の監視所が設置されていました。
絶対国防圏の防御力強化、およびマリアナ諸島での戦いに備え、
1944年(昭和19年)2月29日、
第68警備隊・第49防空隊・第4施設部が「新興丸」でメレヨン島に到着、
飛行場建設を開始。
3月1日附で
第68警備隊・第49防空対は海軍第44警備隊(司令:宮田嘉信海軍中佐)に改編。
当時の残留島民120名は南西端のフラリス島に集められ、隔離。
サイパン島の日本軍守備隊が玉砕して
サイパン島の戦いは終結、
米軍はメレヨン島の日本軍守備隊を放置。
補給量は限定的でした。
メレヨン島は、
島全体が標高の殆どない珊瑚礁であるため農耕には向かず(2m掘ると水が湧き出す)、
火薬を用いた漁による成果も部隊全体に行き渡る量はなく、
食糧生産もはかどりませんでした。
小魚、ネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニは貴重な蛋白源であったといいます。
潜水艦による4度の補給はあったものの、
深刻な飢餓が発生し、
終戦までに多数の餓死病死者を出しています。
自殺して戦病死扱いになった兵も少なくありません。
農作物窃盗による処刑や制裁、同士討ちによる死者もありました。
終戦後の1945年(昭和20年)9月17日、
アメリカ軍と病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、
武装解除が行われ、
9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港。
9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、
26日に全員が下船。
陸軍786名・海軍約840名が復員し、
10月17日に残務処理が完了。
・配備将兵6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、
死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、
生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)。
「高砂丸」
大阪商船の貨客船。
太平洋戦争では特設病院船、戦争終結後は引揚船として運用。
総トン数:9,347トン、9,315トン
純トン数:4,989トン
載貨重量:5,997トン
全長:142.09m
垂線間長:139.99m
幅:18.50m
型深さ:11.60m
高さ:10.6m(水面からデリックポスト最上端まで)
8月15日に終戦を迎えて間もない9月1日、
東京港を出港してメレヨン島に急行。
餓死寸前に陥っていたメレヨン島の陸軍独立混成第五〇旅団を収容し、
10月2日に別府に帰着。
終戦後、
GHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)により
SCAJAP-T014の管理番号を与えられました。
その後は第二復員省の復員輸送艦に指定され、
上海方面からの引揚輸送に任じました。
1949年(昭和24年)からは、
ナホトカからのシベリア抑留兵士輸送に転じ、
ナホトカと舞鶴との間を往復。
1952年(昭和27年)からの中華人民共和国からの引揚輸送にも
「興安丸」(東洋郵船、7,079トン)とともに従事。
なお、
特設病院船としては昭和20年10月5日付で除籍、
1946年(昭和21年)8月20日付で解傭。
その後、
一連の引揚輸送に目処がついた後に因島に係留され、
1956年(昭和31年)3月23日に解体のため名村造船所に売却、
大阪堺港にて解体。
(高砂丸)
1945年9月27日、
この日、
「昭和天皇・マッカーサー会見」第1回会見が行われました。
連合国軍占領下の日本において、
昭和天皇(第1回当時44歳)と
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官:ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(第1回当時65歳)により、
駐日アメリカ大使館で
1945年(昭和20年)9月から1951年(昭和26年)4月まで、
全11回にわたり行われました。
[第1回会見]
1945年(昭和20年) 9月27日、
昭和天皇は在日アメリカ大使館に行幸し、
マッカーサー陸軍元帥と初の会見に臨みました。
会見に同席したのは、
通訳である奥村勝蔵ひとりのみ。
『マッカーサー回想記』によれば、
会見の冒頭で天皇はマッカーサーに勧められた米国製煙草を吸う屈辱と緊張の中、
次のように発言したとされます。
「私は、
国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、
私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」
このような発言をした天皇に対し、
マッカーサーは次のような感想を抱きました。
「私は大きい感動にゆさぶられた。
死をともなうほどの責任、
それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、
この勇気に満ちた態度は、
私の骨のズイまでもゆり動かした。」
天皇発言に感動したマッカーサーは、
天皇への呼びかけを
「You(あなた)」から「Your Majesty(陛下)」に改めました。
国外での反応として、
10月2日付『ボンベイ・タイムズ・オブ・インディア』紙が戦争責任に対する発言を伝え、
「天皇がマッカーサーよりも大きな力を持っている印象を与える」と指摘し、
日本人が占領軍を「天皇の賓客」として受け止めるのではないかと論評。
また同紙は、
連合国側の検閲が機能している中で、
この内容が打電されたことを指摘しており、
公表内容についてマッカーサーが
承認または黙認していたと考えられています。
国内では、
英BBCの報道を逆輸入する形で、
10月3日に各紙が
「聖上、マ元帥を御訪問の模様」と一斉に報じました。
しかし、
戦争責任や答礼訪問のくだりが抜け落ちており、
当時の検閲体制が反映されています。
こうしたことから、
マッカーサーは天皇の戦争責任問題を棚上げしつつ、
円滑な占領のために天皇を「政治利用」することを狙っていたと考えられています。
[第1回会見における昭和天皇(右、165cm)と
マッカーサー陸軍元帥(左、183cm)]
1952年10月10日、 この日、
昭和天皇の第四皇女・順宮厚子内親王と池田隆政が結婚。
皇居前広場にはバスツアーの観光客をはじめ5000人が、
高輪の光輪閣前には3000人が詰めかけて厚子内親王を祝福する熱狂ぶりでした。
婚礼には、鷹司和子の時と同じく、
天皇・皇后が揃って参列する予定でしたが、
父天皇は風邪のため出席を断念。
また、
このとき皇后は初めて公の場で和服を着用し、
慶事の話題に花を添えました。
夫妻は婚礼から5日後に寝台列車で岡山に向かいましたが、
東京駅でも盛大な見送りがあり
「もみくちゃにされた」と報じられました。
※池田隆政(1926年10月21日-2012年7月21日)
旧岡山藩主池田侯爵家の第16代当主。
池田牧場を経営。
家畜の改良などを行ないました。
1953年(昭和28年)2月に有限会社池田産業動植物園を経て、
1960年(昭和35年)5月に株式会社池田動物園となり、園長に就任。
池田動物園の園長の他、
日本動物園水族館協会会長、全日本卵価安定基金理事長・全国鶏卵販売農業協同組合連合会会長・日本狆クラブ会長などを務めました。
2012年7月21日13時47分、
肺炎のため岡山県倉敷市内の病院で死去。
85歳没。
※ 池田厚子(1931年3月7日-)
元皇族。神社本庁総裁。
昭和天皇と香淳皇后の第4皇女子。
第125代天皇・明仁(上皇)、常陸宮正仁親王の姉。
第126代天皇・徳仁(今上天皇)、秋篠宮文仁親王の伯母。
(結婚式を終えた直後の池田夫妻。1952年10月10日)
名古屋大学准教授の河西秀哉氏が月刊「 文藝春秋 」11月号に寄稿し、ネット上にあふれている上皇・上皇后両陛下への誹謗中傷の知られざる実態について指摘した。 【写真】ネットで深刻な誹謗中傷を受けている美智子さま 〈ネットを見ていないような世代ではなく、見ているような若い人たちでも、意外にそれに気がついていない。(中略)それはかなり深刻な問題を含んでいて、しかも最近では目立って一定の影響力を持ちつつあり、このまま放置しておけば、より大きくなって象徴天皇制・皇室の危機に繋がるのではないかと私は思う〉
では、どのような誹謗中傷があるのか。「紹介するのも正直憚られるのではあるが」としながら、河西氏が挙げたのが、次のコメントだ。2023年8月22日から4年ぶりに夏の軽井沢で静養したことを伝えるフジテレビ配信のヤフーの記事に対して付けられた“ヤフコメ”である。
600件の「いいね」がついた投稿
《静かにお忍びで行こうと思えば行けるのに報道陣をわざわざ呼んで記事にさせるのは何故なの? テニスコートのお話も古過ぎて老人しか知りませんし時代遅れのロマンスは興味もないです 軽井沢は東京と大して変わらず暑くなりました。せっかく豪華な隠居先を建てたのだからご自宅でゆっくり静養して下さい》
これに対して、600件ほどの「いいね」が付けられ、コメント欄のトップに上がっているという。言うまでもなく、上皇・上皇后両陛下が「報道陣をわざわざ呼んで」記事にさせているといったことはない。「メディアはニュースバリューがあるから取りあげているのである」。そしてSNS上はもっと酷い状況だと河西氏は指摘する。
「爺」「婆」「皿婆」などと
〈X(旧Twitter)では、上皇・上皇后へのさらに根拠のない批判や誹謗中傷があふれている。しかも彼ら彼女らを「爺」や「婆」と呼び、高齢であること自体をバカにするなど、人として礼儀を欠くような表現が見受けられる。(中略)
なかには、上皇后を「皿婆」なる隠語で呼んでいるケースもある。彼女が外出するときにかぶる帽子が、小皿のように見えると揶揄する言葉だが、そこには「衣装代に多額の税金をつぎ込んでいる」という印象付けをしようとする意図も感じられる〉
こうした誹謗中傷は、退位前後から始まっていた。また小室眞子さんの結婚、そして小室圭さんの母親の金銭問題の浮上で、税金と皇室がいっそう強く結びつけられてしまったことがその背景にあるという。
なぜこうした現象が起きているのか、河西氏はその要因を分析。第一に、人々が公的な問題に対して眼を厳しくしたこと、第二に「私」より「公」を重視するイメージを広げて支持を集めてきた“象徴天皇制のあゆみ”をあげる。
秋篠宮家に「裏切られた」
〈(上皇・上皇后両陛下の被災地などでの活動により平成の皇室は)「私」よりも「公」を重視するイメージが広がっていくことになった。そして、そうしたイメージが、空前とも言えるほどの象徴天皇制・皇室像への支持を生み出していく。だからこそ、(小室圭さんと眞子さんの結婚、金銭問題の浮上などの騒動などの)秋篠宮家の動きは「裏切られた」と見られたのだろう〉
〈「私」を重視する秋篠宮家、そしてそれを認めてきた「爺」と「婆」。彼らを批判しなければならない。そうした思考がネット上のコメントから見えてくる〉 こうした根拠のない批判や誹謗中傷が、「最終的には象徴天皇制・皇室全体を傷つけることにも繋がる」と河西氏は強く主張した。 河西氏による10ページにわたる論考「 美智子さまが狙われている
」は、10月10日(火)発売の「文藝春秋」11月号、および「 文藝春秋 電子版 」(10月9日公開)に掲載される。
「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2023年11月号
皇太子殿下ご成婚
正田美智子様と皇太子殿下ご成婚パレード
昭和34年4月10日
日本中1500万人が世紀のパレードを見守りました
私は当時小学生
小市民の我が家もご成婚パレードを見る為に
小さな白黒テレビを買いました
美しい美智子様
ミッチーブーム
憧れました
品があって慈愛に満ちた微笑み
エレガントなファッション
今も上皇美智子様は日本の誇りですね
1943年10月13日、
この日、
昭和天皇の長女成子内親王(1925年12月6日-1961年7月23日)と
東久邇宮稔彦王の長男盛厚王(1916年5月6日-1969年2月1日、当時は陸軍少佐)が結婚。
第二次世界大戦中であり、
皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われ、
伊勢神宮への参拝のみで新婚旅行もありませんでした。
着用した十二単は、母・香淳皇后のもの。
やがて互いに愛情が湧き、円満な家庭を築き、
1945年(昭和20年)3月10日、
初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産。
盛厚王との間には、
信彦王、
文子女王、
基博(前名、秀彦。壬生家養子。)、
真彦、
優子の5人の子女を儲けました。
5月25日の空襲で鳥居坂の邸宅が焼失したため、
伊香保に疎開。
8月15日の玉音放送に際しては、
涙にくれる東久邇宮家の中で
「さあ、これからですよ」と第1声を発し、
また、今生の別れになると覚悟して、
車で東京に向かい、天皇・皇后と面会。
結婚相手が皇族であったため、
成子内親王もまた皇族のままでしたが、
1947年(昭和22年)10月14日、
東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、
皇室典範第13条の規定により、
自身も夫・盛厚王と同時に皇族の身分を離れ、
以後は、「東久邇成子」と名乗りました。
(結婚式)
円谷特撮戦争映画
昭和19年3月公開の加藤隼戦闘隊
陸軍省が全面協力したプロパガンダ映画で、賛否があると思いますが、円谷の特撮が光ってます。
圧巻はラングーン爆撃シーン
ブルーバックを使用して、逃げ回る人物に爆弾が落ちるシーンは圧巻です
米英から捕獲した戦闘機も使用していて、現役の日米英の実機による空中戦シーンは、現代では実現不可能ですね
実際に加藤建夫隊長の部下からの聞き取り調査から、その実像に迫る内容で、戦闘シーンが中心となった半記録的な映画です
士官搭乗員が宿泊したホテルにクリスマスツリー🎄の飾りがあったり、英語を使った隊長を部下が茶化すシーンもあったりで、戦後の戦争映画とは全くイメージが違います
演じた藤田進さんも、本物の加藤建夫(最後の写真)にそっくりでした
1958年11月27日、
この日、
宮内庁が皇太子・明仁親王と正田美智子の婚約を発表。
ミッチー・ブームが到来。
『ミッチー・ブーム』
正田美智子(当時)が1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて、
日本の皇太子・明仁親王(当時)と婚約して結婚することにより生じた社会現象。
民間出身の女性として初めて、
皇太子との「テニスコートでの自由恋愛」により結婚に至ったこと、
美智子様がカトリックのミッション系大学出身者であったことなどをマスメディアが報道し、
大きな話題に。
これを契機にテレビが普及するなど、
第二次世界大戦後の日本の経済、ファッション、マスメディアなどの領域で、
社会に大きな影響を与え、
女性たちの憧れの的となりました。
(婚約直後の正田美智子)