“すぐにあの約束を思い出せていれば、母にもう一度会えたかもしれない”
戦後になっても、父や兄には言い出せませんでした。
なぜ、あんなに大切なことを思い出せなかったのだろう。
悔やんでも悔やみきれず、被爆の記憶とともに長年胸の奥にしまってきました。
今話さなければと、危機感を覚えたのは10年余り前のこと。
次の世代に同じ思いをさせまいと、94歳の女性は語りはじめました。
(広島放送局 記者 牧裕美子)
最後の別れ
「母の心尽くしのお弁当を持って家を出たあの日の朝が、最後の別れになるとは、思いもしませんでした」
去年の広島原爆の日、平和宣言の冒頭で読み上げられた被爆体験記の一節です。
上田桂子さん
この体験記を書いたのは、94歳の上田桂子さん。
16歳の時に、爆心地から約1.5キロの場所で被爆しました。
上田さんは、現在の広島市中区で母の時子さんと2人で暮らしていました。
4人家族でしたが父と兄は県外に出ていて、美容室を営む母が家計を支えていました。
左から兄・父・上田さん・母
上田さんは広島市中心部にある広島女学院に通っていましたが、当時は勤労奉仕として毎日のように軍服や軍靴を製造していた陸軍被服支廠などで作業にあたり、ほとんど授業はなかったといいます。
8月6日の朝。
母は少ない配給から2人の1週間分の肉を炊いて、とっておきの弁当を作ってくれていました。
いつものように母と朝食をとったあと、弁当を持って迎えに来た友人とともに家を出ました。
家の前の路地に出る前に、ふと振り返って、軒先を掃除していた母に声をかけました。
「お母さん行ってくるね」
母は、ずっと見送ってくれました。
それが、母の姿を見た最後になるとは、このときは思いもしませんでした。
1945年 8月6日 午前8時15分
この日の勤労奉仕先の会社は、自宅から約3.5キロのところにある東洋工業、現在のマツダでした。
ここで銃の製造などを担っていたのです。
東洋工業に向かうため、友人とともに広島駅まで歩いていたときのことでした。
上田桂子さん
「目の前がね、ピカーって光ったんですよ。その光いうたらね。何とも言えん光がパーっと光ってね、ドーンていうたらね、後ろからドォーンと押されたような気がしてね、真っ暗になった」
気が付くと、上田さんは建物の下敷きになっていました。
なんとか抜け出し、無事だった友人とともに必死で奉仕先の東洋工業を目指しました。
母のことが頭をよぎりましたが、子どもでも厳しく指導されていた戦時中の空気の中で、引き返すことは考えられませんでした。
火の海になった広島
線路沿いに進んでやっとのことで東洋工業に到着すると、今度は担任の先生から「広島は大変なことになっているから、帰りなさい」と言われました。
そのことばに従い、他の生徒たちと一緒に戻ろうとしたときには、広島はすでに火の海になっていました。
猛烈な熱さでとても広島市中心部に入ることはできません。
やむなく引き返して、母を案じながら東洋工業の寮で一晩過ごしました。
上田桂子さん
「もう広島に帰るどころじゃない。広島は東洋工業から見ても大煙が出て、すぐそこで焼けよるんですよ。晩になって、お母さんがこしらえてくれた弁当をいただきましたね」
翌朝、まだ火の手が収まらない中心部ではなく、現在の広島市郊外にあった祖母などの親戚が住む疎開先を目指しました。
自分より先に、母が元気でたどりついていますように。
ひたすらに歩きながら、母の無事を祈りました。
一日がかりで到着して、上田さんは真っ先に母が居ないか確認しましたが、母の姿はありません。
不安で胸が押しつぶされそうでした。
地獄の中、母を探して
原爆投下から2日たって、母を探しに中心部へ入りました。
そこで改めて見た広島は、まさに地獄絵図でした。
立ったまま黒焦げになった牛車を引く男性の死体。
川に浮かぶ膨れた死体。
水を求めて貯水槽に倒れ込んだ死体。
連日、その中を母を探して歩きました。
ひどい臭いもしたはずなのに、不思議なことに覚えていません。
凄惨(せいさん)な状況に居続けるうち、どこか頭がおかしくなってしまったようでした。
そのときはただ、母をあてもなく探すばかりでした。
思い出せなかった約束
母を見つけられないまま、1週間ほどたった頃のこと。
疎開先に母の美容室の客の知り合いがやってきて、「東練兵場の近くに時子さんがいたので迎えに行ってあげてほしい」と伝言がありました。
そのとき、桂子さんはあることを思い出しました。
“いざというときには饒津神社で会おう”
原爆投下の前から、母と交わしていた約束があったのです。
東練兵場は、約束していた饒津神社の近くにありました。
上田桂子さん
「頭の中で思い出せなかったと言うてええかね。はぁ、まあこんな大事なことを忘れとったってね。母が何べんも言いよったのに、なんで思い出せなかったのか」
母がいたという東練兵場に急いで向かうと、避難した人の名簿に『伊勢村時子』と母の名前が記されていました。
被爆後の東練兵場
ここに母がいると、喜んだのもつかの間。
横たわっている一人一人顔を確認しても、母は見つかりません。
その脇では、亡くなったそばから遺体が次から次へと焼かれていきました。
その炎を見ながら上田さんは、ここで母も焼かれたに違いないと思ったといいます。
上田桂子さん
「もういっとき早う行けばよかった、会えたんじゃないかと思うて、本当に悔やみましたね」
上田さんの母 伊勢村時子さん
その後、広島に戻ってきた父や兄とともに母を探しましたが、しばらくして遺体もないまま母の葬式をあげました。
“すぐにあの約束を思い出せていれば、母にもう一度会えたかもしれない”
戦後になっても、父や兄には言い出せませんでした。
なぜ、あんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
時子さんの行方は、今も分からないままです。
上田桂子さん
「私の頭が混乱して、思い出せなかったのがとにかくわびる思いで生きてきました。そのことを考えたらね、もう涙が出ます。すぐにでもあの世に行って母に謝りたい気持ちがあります」
原爆投下から78年。
上田さんはずっと悔やみ続けています。
戦後も続く被爆の影響
原爆で相次いで広島の親戚を亡くした上田さんは戦後、父方の親戚を頼って県東部の神石高原町に移り住みました。
しかし、戦争から戻ってきた親族と結婚してからも、被爆の影響はつきまとったといいます。
上田桂子さん
「甲状腺も患いましたからね。胃がんも切っとるしね。いろいろな病気してね。原爆受けとったしね、体がちゃんと整ってなかったんだろうと思いますよ」
結婚してはじめの5年間は流産を繰り返しましたが、4人の子どもに恵まれました。
広島の中心部で都会暮らしだった上田さんにとって、神石高原町での暮らしは農作業など慣れないことばかりでしたが、懸命に取り組みながら暮らしてきました。
上田さんと子どもたち
それでも母のことを思うたび、気分が落ち込み、眠れない日もありました。
被爆者に対する周囲の目も気になり、子どもたちにさえ、自身の経験は話す気になれませんでした。
戦争は、怖い
転機が訪れたのは、10年余り前のこと。
町役場に講演を頼まれたことがきっかけでした。
地元の小学校で証言活動をする上田さん
被爆体験を語れる人々が減っていく中で、「つらいことも苦しいこともすべて、自分たちが包み隠さず言うしかない」。
そう思うようになりました。
それ以来、地元の小学校などで証言活動を続けてきました。
上田桂子さん
「今はもうウクライナの戦争でもあるでしょ。私ら体験者が言わにゃ、いま言わにゃ、もう絶えてしまうんじゃなと思うてね。私ら戦争前のことも知っとりますよね。戦争って怖いですよ。戦争中って怖いんですよ。二度とこういうことがあってはならないからね」
2時間近くに及ぶ取材も終わりにさしかかり、上田さんに若者たちに伝えたいメッセージを書いてもらった時のことでした。
上田さんがインタビュー中で最も語気を強めて訴えたのは、平和は皆で維持していくものだということでした。
意識が戻ると、体は崩れた建物の下。
さっきまで、すぐ隣でおしゃべりしていた親友の声は聞こえません。
「生きなきゃいけない。死んじゃいけない」
がれきの隙間からかすかに差し込む光に向かって、もがきました。
つらい記憶に「蓋」をして生きた戦後。
ところが、テレビで見るウクライナの様子は、あの日、広島で見た光景と重なります。
95歳になった女性は、語り始めました。
(広島放送局 記者 石川拳太朗)
慰霊碑に刻まれた親友の名
ことし8月。
広島市の病院のそばに建てられた、ある慰霊碑の前に1人の女性の姿がありました。
鈴木郁江さん
はじめて見る十字架の形をした慰霊碑。
そこには、親友の名前が刻まれていました。
鈴木郁江さん
「そうそう、これ。東シズヱ。ああ、つらい。当時のことをぱっと思い出す。体が埋まって、どんなにもがいたかわからない。私もここで焼け死んでいたかもしれない」
77年前 広島で
77年前のあの日、8月6日。鈴木さんはこの場所にいました。
当時は18歳の看護学生。
看護学生時代の鈴木さん
戦争で人手が足りなくなると、病院では学生までもが医療の現場にかり出されました。
鈴木さんもこの場所、いまの広島赤十字・原爆病院で看護にあたる日々を送っていました。
隣町が空襲を受けたときには、すぐに駆けつけ救護活動。
並べられた遺体を見て、そのときはじめて戦争の恐ろしさを実感しました。
鈴木さんがいた広島市は当時、それまでほとんど空襲を受けたことがなかったからです。
日本が戦争に負けるなんて、考えたこともありませんでした。
死の光
1945年8月6日。
いつものように朝食を済ませ、宿舎にいました。
同じ部屋には、同じ看護学生の大の親友、東シズヱさん。
鈴木郁江さん(左)と東シズヱさん(右)
疎開で広島に来ていた東さんとはよく一緒に外出し、東さんとそのお父さんと、食事をしたこともありました。
午前8時15分。
すぐ隣の東さんと、いつものようにたあいもないおしゃべりをしていたときでした。
鈴木郁江さん
「ピカッしかわかりませんでした。マグネシウムを炊いたような光。爆音のほうは意識がもうなくって」
“人間の世界じゃない”
どのくらいの時間が経ったかはわかりません。
意識を取り戻すと、体は崩れた建物のがれきの下。
いったいなにが起きたのか。
さっきまで横にいた東さんは無事なのか。
自分が置かれている状況はまったく理解できず、とにかくがむしゃらにもがきました。
すると、がれきの隙間から一筋の光が見えました。
生きたい。生きなきゃいけない。ここで死んじゃいけないー。
その光に向かって、がれきをかきわけ必死に進み、命からがら、なんとかはい出ることができました。
しかし、目に飛び込んできたのは、見たことがない、まるで地獄のような光景でした。
鈴木郁江さん
「爆風でやられてぼろぼろに焼けてしまった着物を着た人が来るんですよ。それがばたばた倒れていって。水をくれー、水をくれーっていうあの声が頭から離れないんです。あっちでもこっちでも死体が山積み。これは人間の世界じゃない」
けがの痛みをこらえながら、夜まで東さんを探しましたが見つからず、その後、亡くなっていたと知らされました。
すぐ隣にいた東さんは亡くなり、自分は生き残った。
何が起きたのかもわからなかったあの日。
東さんを含め看護学生22人がこの場所で亡くなりました。
蓋をした記憶 長い年月を経て
戦後は、家族や仕事の都合で広島を離れました。
被爆後は体が衰弱し、目指していた看護師の道も断念しました。
そして、いつしかあの日の記憶には蓋をしていました。
思い出すのもつらいあの悲惨な光景。
多くの人の死を目の当たりにしながら、無力だった自分に自責の念を抱いてきました。
家族にも、自分から体験を話すことは長年ありませんでした。
ビデオで話す鈴木さん
しかし、3年前に転機がおとずれます。
神奈川県の自宅の近くに住む小学校の教員から、被爆の体験を聞かせてほしいと依頼を受けたのです。
すでに92歳になっていた鈴木さん。
丁寧な質問に対し、つたなくも、ぽつりぽつりと話をしてみました。
その証言は、ビデオに収められました。
後日、鈴木さんのもとに、その映像を見た小学生からたくさんの感想文が届きました。
「戦争はとても恐ろしいものなんだと改めて感じました」
「こわい思いをされたのがわかります」
「私たちが次の世代にも伝えていきたい」
子どもたちの文章には、感想だけでなく、鈴木さんに共感しようとする気持ちや、自分も伝えていくという意志を示す言葉もありました。
鈴木さんは少しずつ、あの日のことを伝えたいと思うようになっていきました。
鈴木郁江さん
「子どもたちの言葉には本当に感動したんです。私も、日頃、心に思っていることがあったんでしょうね。多くの同級生を亡くし、自分は100歳近くまで生きて、不思議だなと思ってきましたが、考える時間が持てるようになりました。1度話し始めるともっと聞いてもらいたいなと思ってね。今頃になってすごくそういう意識が心に残るようになりました。いま、自分が生きていることの意味が少し見えてきたのかもしれない」
ウクライナ情勢 重なる広島で見た光景
そうした中、ロシア軍がウクライナに侵攻を開始。
がれきだらけとなった街、放置されたままの遺体。
テレビに映し出される現地の様子は、あの日、広島で見た光景と重なって見えました。
何より、核兵器の使用をちらつかせるプーチン大統領の発言に、鈴木さんは“被爆者”として危機感を強く持ちました。
鈴木郁江さん
「核廃絶は絶対にやらなければ、あんなものを持っていたら、また戦争になるという不安に襲われます。若い方もよく認識したうえで、戦争の怖さを分かってほしい」
“もう立ち止まっていてはいけない”
77年前のあの悲劇を、二度と繰り返してはならない。
被爆者として、もう立ち止まっていてはいけない。
鈴木さんは、近所の子どもたちを自宅に招いて、自らの被爆体験を直接伝える活動を始めました。
女子中学生
「テレビでウクライナの戦争のニュースを見て、日本も昔はこうだったのかなと思いました」
鈴木郁江さん
「私は日本でやっているんじゃないかと錯覚を起こすほどでした。あれから77年もたって、まだこんなことをやっている。犠牲者がいっぱい出て、当時の日本を思い出します」
鈴木郁江さん
「とにかく平和じゃないとだめ。日本だけじゃだめなの。戦争はあっちゃならないと、若い方にも特に意識してもらいたいです。それが私たちの平和につながるんですから。原爆、核兵器だけじゃなくて戦争のこわさも私たちの時代はよく知っていますからどんどん伝えて、どんどん広めていって。私も、足を引きずりながらでも、まだ闘っていこうと思っています」
取材後記
ことしで95歳になった鈴木さん。
話の途中で少し休んだり、話し終わると疲れた表情をしたりすることもありました。
それでも、身振り手振り懸命に話をする姿からは「体力の許すかぎり伝えないといけない」という強い決意を感じました。
戦争のない世の中になってほしい。
核兵器がなくなってほしい。
そう願い、声を上げ続けてきた被爆者たちから直接話を聞ける機会はますます少なくなっています。
長年閉ざしていた悲惨な記憶と向き合い、次の世代のためにも伝える決心をした鈴木さんの言葉を、私自身が受け止め、伝えていかなければいけないと感じました。
広島放送局記者
石川拳太朗
2018年入局
さまざまな角度から戦争や被爆者の取材を担当
かつて太平洋戦争を敵として戦った2人。
1人は旧日本海軍の潜水艦の元乗組員。
そして、もう1人はその潜水艦に沈められたアメリカの軍艦の元乗組員です。
戦後、長い月日が流れ、今や2隻の船の生存者はそれぞれ1人だけとなりました。
いくつかの偶然が重なり2人は手紙を交換するようになります。
78年の月日を経て、海を越えて届けられた手紙には、どのような思いがつづられていたのでしょうか。
(松山放送局 記者 木村京)
78年前、船は沈んだ
アメリカ中西部のインディアナポリス市で開かれた追悼の集会です。
追悼の集会に集まった「インディアナポリス」の元乗組員の遺族や関係者
7月30日。
集まったのは78年前のこの日、フィリピン沖に沈んだ「インディアナポリス」の元乗組員の遺族や関係者。
およそ900人の犠牲者に祈りがささげられました。
上:インディアナポリス 下:伊58
アメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」。
当時、後に広島に投下された原子爆弾の部品を太平洋のテニアン島に運び終え、フィリピンのレイテ島に向かっていました。
極秘任務のため単独で航行していたところ魚雷攻撃を受けたのです。
攻撃したのは旧日本海軍の大型潜水艦「伊58」。
太平洋戦争末期、人間魚雷・回天を載せ特攻作戦に参加したことでも知られています。
「伊58」“最後の生存者”
愛媛県松前町に住む「伊58」の元乗組員、清積勲四郎さん(95)です。
10人きょうだいの6番目として育ちました。
軍国少年だったと言います。
清積勲四郎さん
「当時アメリカは日本を苦しめる悪い国だと学校でも教え込まれて信じていましたね。10人きょうだいだったから家庭のことも考えて、学校を出たら軍隊へ入るかよそへ働きに出るかだった」
海軍の学校の卒業写真
尋常小学校を卒業後、陸軍を経て海軍に入隊した清積さん。
船員としての技能を学ぶ海軍の学校で優秀な成績を修め、終戦の年に「伊58」の乗組員に抜てきされました。
清積さんは当時のことをこう振り返ります。
清積勲四郎さん
「学校にいたときに母から『兄が乗った船がグアム島の近くでアメリカの潜水艦に沈められて亡くなった』と連絡がありました。先生には『お兄さんの敵をとるために、潜水艦に乗って頑張りなさい』と言われました。敵の船を1隻でも2隻でも沈めるぞという気持ちでした」
当時16歳。「伊58」の100人近くいた乗組員のうち最年少だったと言います。
艦内では食事の支度などの任務を担当。
人間魚雷の「回天」が出撃したあとには、用意する食事が1人分少なくなったことを今でも覚えている清積さん。
何とも言えない気持ちになったものの、死と隣り合わせだった当時、それ以上の感情はなかったと話します。
そうした中迎えた運命の夜。
「伊58」はフィリピン沖の海上で「インディアナポリス」の艦影を確認。
戦後、清積さんは愛媛に帰り民間企業で定年まで働きました。
この夜のことも含めて、これまで戦争について家族に話すことはほとんどなかったと言います。
当時は年若く命じられるがまま任務に当たっていた清積さん。
戦後、報道などを通じて自分が戦った戦争の実態を知るようになるにつれ、むなしさを感じるようになりました。
ともに「伊58」に乗った戦友たちはすでに亡くなり、今では「最後の生存者」とみられています。
もう1人の“最後の生存者”
ことし6月、清積さんの元を1人の女性が訪ねてきました。
アメリカの大学教員、ハリス田川泉さんです。
大学があるインディアナ州のインディアナポリス市は町名が軍艦の名前に使われた縁から乗組員の遺族などの集まりも開かれています。
左:ハリス田川泉さん
田川さんは偶然目にした新聞記事で清積さんのことを知りました。
記事は愛媛県今治市の図書館で開かれた「伊58」や「インディアナポリス」について紹介する展示会を取り上げたものでした。
「インディアナポリス」の家族会とも交流がある田川さんは、彼らからのメッセージを託され来日することになりました。
この日、図書館で初めて対面した2人。
清積さんは手紙を受け取ると、しばらくじっと見つめていました。
そして田川さんが添えた日本語訳をゆっくり読み上げました。
親愛なる清積さんへ
私の名前はハロルド・ブレイ。
USSインディアナポリス最後の生存者です。
あなたは潜水艦伊58の最後の生存者であると聞いています。
私はあなたに友情の手を差し伸べ、あなたやあなたの同胞に恨みはないと伝えたいのです。
私たちはともに国のために戦いました。
そして戦争が終わった今は癒しの時です。
戦争に勝者はいません。
船員、家族、友人など双方が多くを失うのです。
(中略)
よりよい、より安全な世界を築くために共に努力していきましょう。
真心を込めてハロルド・J・ブレイ
清積勲四郎さん
「ありがとうございます、ブレイさん。私もあなたに恨みはありません。お互い殺し合う戦争は決して許されないことだし、平和のために努力することが大切だと私と同じように思ってくれていてそれがいちばんうれしい」
ハロルド・ブレイさん
手紙を書いたハロルド・ブレイさん(96)です。
沈む船から救出され、一命をとりとめました。
清積さんと同じく「インディアナポリス」の「最後の生存者」です。
かつては敵として、国のために命をかけて戦った2人。
78年の年月を経て、思いが通じ合った瞬間でした。
その様子を見届けた田川さんも平和への思いを新たにしていました。
ハリス田川泉さん
「大事なミッションだったので手紙を気持ちよく受け取っていただいて、私は肩の荷がおりてほっとしています。私たちが歴史を学び、伝えていくことで、平和な世界を作っていきたいです」
田川さんが届けた手紙は合わせて5通。
ハロルドさん以外にも戦死した元乗組員の家族が書いたものもあります。
そのうちの1通をご紹介します。
親愛なる清積勲四郎様
本日はお手紙を差し上げることができ、大変光栄に存じます。
私の祖父は、1945年7月30日の運命の夜に亡くなりました。
私を含めて私たち家族は、あなたやあなたの仲間の乗組員に対して恨みの気持ちを持っておりません。
第二次世界大戦は戦ったすべての人にとって困難な時代でしたが今は許しと平和を求める時です。
私の祖父も同じように感じていることでしょう。
私はあなたの心も平和であるよう祈っています。
敬意を込めて
ドーン・オト・ボルヘッファー セオドア・G・オットの孫娘
78年たって伝える思い
この数日後、清積さんはハロルドさんたちに返事を書きました。
返事を書く清積さん
一文字一文字、自分の思いを丁寧に書きつづった清積さん。
平和な世界で手紙のやりとりができることに感謝の気持ちを口にしていました。
親愛なるハロルド・ブレイ様 (※一部抜粋)
戦争は不幸な出来事ではありましたが、今日こうしてお互い幸せに平和に暮らし、友として語り合える日を迎えたことに感動を覚えます。
今は亡き戦友たちの霊にあなたの心を届けたいと思います。
ありがとうございました。
清積勲四郎
海を越えて届けられた手紙
清積さんの手紙は田川さんがアメリカに持ち帰り、追悼の集会で読み上げられました。
ハロルドさんは高齢のため出席はかないませんでしたが、返事が届いたことをとても喜び、「こうして2人がつながれたことはすばらしいことだ」と話していたということです。
追悼集会で読み上げられた清積さんの手紙
集会には元乗組員の家族も多く出席しました。
そのうちのひとり、マイケル・ウィリアム・エモリーさんです。
犠牲となった元乗組員のおいに当たります。
清積さんがマイケルさんに向けて書いた手紙も読み上げられました。
貴方の様な若い方が平和を願いながら遠い異国に住む一老人に心をかけて下さる事に感謝しております。
(中略)
貴方様も元気で幸せに平和な世界を築く日々を目ざして生きていかれる様祈っております。
マイケル・ウィリアム・エモリーさん
「きょうは78年前に沈んだインディアナポリスの乗組員たちに敬意をもって追悼するために集まりました。そんな日に『伊58』の最後の生存者の清積さんからの手紙が届き、私たちにとって歴史的な一日となりました。2隻の船の乗組員たちのことを決して忘れません。私たちの物語はまだ始まったばかりです」
出席者から現地の映像を提供してもらい、私は集会の様子や出席者の反応を清積さんに伝えました。
清積さんは無事に手紙がアメリカに届いて「大仕事を終えた気分で、ホッとしました」と安心した様子でした。
清積勲四郎さん
「自分の気持ちがアメリカの人たちにも伝わってうれしいです。手紙のやりとりができる平和な時代で本当にありがたいなと思います。悲しみを生む戦争は二度と起こってほしくない」
“美談で終わらせてはいけない”生存者どうしの交流
取材を通じて、ハロルドさんの写真を優しい目で見つめる一方で「戦争は絶対にしてはいけない」と繰り返し話す清積さんの意志の強いまなざしが印象的でした。
記憶をたどりながら真剣に話してくださる姿に、改めて壮絶な時代を生き抜いた強さと優しさを見た気がします。
78年の時を経て始まった最後の生存者どうしの交流ですが、これを決して美談で終わらせてはいけません。
戦争がなければ憎み合うこともなかった2人。
今回、奇跡的な偶然が重なって、海を越え心の交流が実現しましたが、ここにたどりつくまでの人々の悲しみや苦しみ、そして失われた多くの尊い命にも目を向け、戦争の愚かさを改めて胸に刻みたいと感じた取材でした。
当時のことを知る人が年々少なくなる中、私たちは戦争体験者から直接話を聞ける最後の世代かもしれません。
これからも記者として、体験者の話に耳を傾け、記録し伝え残すことを続けていきます。
松山放送局 記者
木村 京
2020年入局
2022年夏から今治支局
今回、初めて戦争取材を経験
20万人を超える人たちが亡くなった沖縄戦。
鉄血勤皇隊の元少年兵だった男性は日本が勝つことを信じて疑わず、戦場に身を投じました。
「自分は本当にだまされてないか。もっと本質を見極める必要があった」
多くの仲間を亡くし、みずからも銃撃を受けて大けがを負った男性はあれから77年がたち、今の思いを語り始めました。
(沖縄放送局記者 安座間マナ)
元少年兵の濱崎清昌さん
「腹の中に破片が2つ入っているよ。何十年もケロイドが残っていた」
沖縄本島中部・北谷町に暮らす濱崎清昌さん(92)。
右の脇腹には沖縄戦で受けた銃弾の破片が今も残ったままです。
太平洋戦争中の昭和19年4月。
14歳だった濱崎さんは教員を夢見て那覇市内の師範学校に入学しました。
ところが戦況の悪化に伴い、夏休みが終わるとほぼ授業はなくなり、ごう掘りや飛行場の整備など戦争の準備に駆り出されるようになりました。
昭和20年3月26日。アメリカ軍は沖縄本島の西およそ40キロにある慶良間諸島に上陸を開始します。
5日後の31日。濱崎さんは当時の学生たちで構成された「鉄血勤皇隊」と呼ばれる部隊に動員され、旧日本軍を指揮した第32軍司令部の管理下に置かれることになりました。
その日、校長先生から「日本国民として、天皇の赤子として、天皇のために忠義を尽くそう」と呼びかけられたといいます。
濱崎清昌さん
「将来は国のために命をささげようと考える軍国少年だった。天皇の赤子として教え込まれてるから、それに対する違和感というのは全然なかったんだよな。日本国民という誇りを持って、日本は戦争しても強いもんだと、世界一強い軍隊を持っていると、そういうふうなものしか頭になかった」
しかし、濱崎さんはその後、圧倒的な戦力の差があることを思い知ることになります。
沖縄での地上戦の様子
4月1日。アメリカ軍は沖縄本島中部に上陸し、本格的な地上戦が始まりました。
「野戦築城隊」に配属された濱崎さん。
首里城の地下に造られた「第32軍司令部壕」の入り口付近にあった大きな岩陰で寝泊まりしながら、ごうを堀ったりアメリカ軍の攻撃で壊された橋を修繕したりする作業にあたったといいます。
作業はアメリカ軍の攻撃の合間に行い、直してもまた壊される“いたちごっこ”が続き、体力的にも精神的にも追い詰められていきました。
濱崎清昌さん
「これは危険極まりないですよ。朝から晩まで飛行機はずっと空襲するわ、海の方から艦砲射撃を落としてくるわ。アメリカが戦争に使える物資はどれだけあったかというのを思い知らされたんだけどね」