「平和とは人間の生命を 尊ぶことです。この家には 人間の生命を虫けらのように 粗末にした戦争の数々の 遺品と二度と再び人間の生命が粗末にされない為に 生命を大切にした人 また生命の尊さを求めて やまない人々の願いも 展示してあります。」
そう入口に書かれた反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を訪れた。沖縄島北部の本部(もとぶ)港からフェリーで西へ30分の伊江島(いえじま)にある。それは、白い蝶々が舞う美しい静かな島の片隅に建っていた。

入口を入ると「ゲンバクを落とした国より 落とさせた国の罪は重い」と、人間の背丈ほどもある大きな文字の看板が目に入る。
壁高く、「広島を忘れるな 長崎を忘れるな 沖縄を忘れるな 伊江島を忘れるな 過去を忘れる物はもう一度それを繰り返す」と死者の数が書き付けられている。
「広島・長崎に原爆を落とした米軍の爆撃機もここから飛び立ったんです」と、ここに辿り着く前に島の「戦跡」を案内してくれたタクシー運転手が語っていたことを思い出した。
沖縄県立公文書館が収集した米国の公文書によれば、伊江島での犠牲は、米陸軍が1945年1月6日に作成した「アイスバーグ作戦」によるものだ。次の3つが目的だった。(1)(沖縄に)軍事基地を確立すること、(2)東シナ海から中国沿岸及び揚子江流域にわたる海路および空路の安全性を確保すること、(3)日本に対して間断ない圧力をかけること。
日本軍が伊江島に作った東洋一(当時)の飛行場を奪うことはその手段だった。米軍は同年4月1日に沖縄本島に、同16日に伊江島に上陸した。伊江島では21日までのわずか6日間の闘いで、村民1500人、日本軍2000人、米軍800人が命を失った。

その爪痕は今もクッキリと残っている。上空から見ると3本の滑走路が並ぶ。真ん中の滑走路は、もとは日本軍が建設したもの。米軍に奪われることを恐れて破壊したが、米軍が島を占領。生き残った全島民を追い出して新たに建設した。今でも米軍用地だ。西(左)が、米海兵隊基地「伊江島補助飛行場」の使用中の滑走路。東(右)が、日本の地方管理空港として建設され沖縄海洋博などで利用されたが、現在は使われていない。

それら3本の滑走路を含めて、伊江島の面積約23km2のうち、8km2(約34%)は米軍用地(ピンクの部分)だ。敗戦当時、生き残った島民は捉えられて慶良間などへ収容され、帰島が許されたのは終戦から2年(1947年)だった。島民が生き残る闘いはそこから再び始まった。
「戦争は人災だ。だから人災を防ぐには教育が大切だ」
後に反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を後に設立することとなった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんは、戦前、農民学校を設立する夢があった。原野を買い集めて汗水を垂らして「耕地整備の阿波根」と異名を取るようになり、学校を作る準備が整ったところで戦争になった。上の写真と下写真の右下を見比べると分かるように、学校予定地(ピンク)は今でも軍用地だ。

本土の終戦は1945年で、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効して占領は終結した。ところが、沖縄では「占領」の始まりはその後だった。

終戦から10年も経った1955年、300名の米軍が伊江島に上陸し、「農民に銃剣を突きつけて、ブルドーザーで家を壊し始めた」ので、阿波根さんは那覇に駆けつけ、アメリカ民政府に中止の陳情を行った。その間に、自分の家も焼き払われ、土地も奪われた。島民はテント生活を強いられた。
2002年に101歳で阿波根さんが亡くなるまで、その土地は返ってこなかった。阿波根さんにとって、反戦・平和運動は、夢を叶えるための闘いだったとも言える。資料館の外には、阿波根さんの遺志を伝えるために「わしの夢のこと」として書き付けられている。
「眞謝のわしの土地は高地ではなく、低い所にあったからか、基地になったけれども 幸いに表土は剥がされてなく、戦前の土地そのままが残っておる。解放されたら すぐ生産をはじめられる。ただ海岸だから防風林、防潮林を植えておかないといけないから 十年前、アメリカ軍の演習がないとき、その自分の土地に入って防風林とするために苗木を植えておいた。基地開放後に眞謝の地に、わしの考える農民学校をつくりたい、これがわしの夢であります
この伊江島はね、海も動いているし、生きておる。こうして木を見ていますとね、風は三味線ですよ。静かな三味線をひくと、木の枝はみ、クミウルイ(組み踊り)する(略)戦争がない平和な島を、どうしても作っていかなければならないわしはそう強く思っております 阿波根昌鴻」(改行など筆者改変)
「戦争は戦場で終わるけど、犠牲は永遠だね」
そのやり方は、粘り強いものだった。阿波根さんを支えた「ヌチドゥタカラの家」館長の謝花悦子(じゃはな・えつこ)さんは言う。

「阿波根昌鴻は、戦前に教育されたことが、戦争が始まってウソとわかった。知らなかった愚かさが悔しいと言った。戦争は人災だ。だから人災を防ぐには教育が大切だ。平和の武器は教育だと言って、この資料館を81歳で始めた。でも101歳で死ぬまで結局、戦争を終わらせることができなかった。それから13年になるが、まだ平和は訪れませんね。だんだん悪くなってきた。私は戦後だと思ったことは一度もありません」
謝花さん自身も生き証人だ。彼女は杖や車椅子に頼らなければ歩けない身体である。発病した子どものころに病院に行ったが処置なしと追い返された。戦後、見かねた阿波根さんが医師を探し出して謝花さんを診せると、医師が驚きの声をあげた。「発病後すぐなら飲み薬で治ったのに」と。「その時、私は戦争がどういうものかが分かりました。戦時中、医師は戦争に取られていた。戦争は戦場で終わるけど、犠牲は永遠だね」
「おろかさ」と「たくましさ」を学ぶ資料

資料館には、阿波根さんが島へ帰って拾い集めた戦争の「証拠」がところ狭しと並んでいる。「”がらくたの山”が人間の「おろかさ」と「たくましさ」を学ぶ資料」であると資料館の中に「設立のこころ」として書かれている。軍用地はもとは70%を超えていた。34%になるまで、土地は自動的に返還されたわけではない。血と汗で返還させた、その「証拠」も並べてある。
土地の返還運動を起こすにあたっては、「陳情規定」が作成されていた。「反米的にならないこと」「怒ったり悪口を言わないこと」「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること」と尊厳に満ちていた。「これから鬼畜とたたかうには、こちらは人間になる」とギクリとする言葉も書かれている。
1954年10月に作成した「心得」には、「この不幸な土地問題が起きたのは、日本が仕掛けた戦争の結果であり、我々にもその責任があることを忘れず、米国民を不幸にするようなことはつつしむこと」とある。ツケを払わせられ続けた沖縄人が同朋人として崇高な反省を掲げている。

また、「餓死者が出るところまで追い詰められた農民はふたたび演習地内での耕作を始めた。すると米軍はガソリンをまいて放火した」と一つひとつの出来事を写真で証拠に残している。すべては現在や未来への教訓として残してある。

子どもたちの視界に届きやすい台には、ボロボロな衣服と共に「戦争はだれがつくるのか。勉強しましょう」のメッセージが置いてある。その隣には「戦争を必要とし戦争を作り出す人々にもこの服を着てもらいたい」と為政者達に問いかけている。
そこには本土の人間が想像もつかない戦後70年が刻まれている。謝花さんが「反省もない、理解もない」と為政者たちの有様を嘆く。安倍晋三首相が辺野古で進めようとしている新基地建設は、「鬼畜」の行為に等しいことが分かる。
ガジュマルの樹上に2年隠れ住んだ兵士
この島には「沖縄」が凝縮されている。戦争が終わったのを知らず、ガジュマルの樹上に2年も隠れ住んだ日本兵が2人もいた。どこにどう隠れていたのかと尋ねると「今は剪定されていますが、当時はもっと枝葉が茂って隠れやすかったようです。夜になると降りてきて畑に残っていた作物を採ったり、基地のゴミを漁っていたらしい」と、これは「戦跡」案内のタクシー運転手が教えてくれた。

島民が隠れた「1000人ガマ」と呼ばれている「ニヤティア洞窟」は海岸端の絶景スポットにあった。「アハシャガマ」では、捕虜になることを許さなかった防衛隊が持ち込んだ爆雷で集団自決させられ、150人が犠牲になった。島民が追い出されていた2年の間に放置されていたすべての犠牲者の遺骨と共に、今では海を見下ろす丘の上にある芳魂之塔(ほうこんのとう)に合祀されている。

島には日本軍の弾で亡くなった米国軍通信員のアーニー・パイルの記念碑もある。欧州での戦場の兵士達を書いて1944年にピューリッツァー賞を受賞。翌年4月18日に伊江島に上陸し、日本軍の弾で殺された。
こうした「戦跡」だけでも車で2時間はかけないとすべては巡れない。恥ずかしながら、不勉強なままこの島を訪れて、見ること聞くこと、驚くことばかりだった。
最後にもう一つ、「ヌチドゥタカラの家」に展示された「証拠品」を紹介する。入口を入って右側にある血の跡が残る穴だらけの小さな着物である。「日本軍は『泣く子は利敵行為だ!』と母親の腕に抱かれていた赤ちゃんを銃剣で刺し殺しました」と、その服の由来が説明してある。敵ではない味方であるはずの軍隊が、最も守るべき子どもを真っ先に殺すのが戦争だった。わたしたちは、その狂気を忘れてはならない。
「農業学校」ではない、「農民学校」を作って貧しい農民が豊かに暮らす英知を学ぶ場所づくりを夢見た阿波根昌鴻さんのメッセージ「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」「平和とは人間の生命を尊ぶこと」、これは、今、私たちが必要なメッセージのすべてではないか。沖縄を訪れたら、是非、この島を訪れ、この資料館のメッセージを受け取りに行って欲しい。

参考
■張ヶ谷弘司 写真集『天国へのパスポート ある日の阿波根昌鴻さん』(2015年)
関係報道
■NHK 戦後史証言アーカイブス 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ