Apex product 【世界の平和】人類はみんな家族!!

Apex product 【 世界の平和 project 】①

争いは、やめましょう。世界の平和を願います!!

何故、今だに世界の至る所で揉め事や争いごとが絶えないのでしょう。政治や宗教での自国間の争い、差別、派閥、どうして起こるのですか。アジアの仲間同士どうして普通に暮らせないのですか。誰が、考えても平和な社会が良いに決まっています。小さな子供でも理解出来る事を分別のある大人や政治家が、何故、争うのでしょう。人は何故争わなければいけないのでしょう。欲を捨て本来の裸で生まれた人間同士うまくやっていけないのでしょうか。それぞれ、己が正義と思い事を成すでしょうが、少しだけ立ち止まり、力を抜いて音楽を聴いてみてはいかがですか。きっと心に響く1曲があるはずです。そして貴方の幼い頃。そうです。純粋だったあの頃。思い出して下さい。人前に出るのもおどおどして、母親の影に隠れていた優しい子。正義の旗の元、どんな理由があっても人殺しです。無差別に殺しあう戦争が、どんなに愚かな事でしょう。本来のあなたに戻って下さい。きっと戻れます。先人がどれだけ血を流し我々に生きて伝えたかった事でしょう。だからだから、お願い致します。下記に、あげる資料・画像を見て一人でも多くの人に伝えて下さい。いかに、平和が大切で、人の命が尊いのか。本気で考えて下さい。弊社は、真剣に取り組みます。誰に非難されても、私達は訴え続けます。一生を掛けて取り組む問題だからです。是非ご賛同頂き、少しでも悲しい人を作らないようにしましょう。

平和ほど、尊いものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、
根本の第一歩であらねばならない。

 

  • 【あたりまえ】

    あたりまえの幸せが
    ほんとはあたりまえなんかじゃなく
    生きてることさえ、あたりまえじゃない!

    明日があることがどんなに幸せなことか

    だいすきな仕事ができる身体と心も
    環境があることがどんなに幸せなことか

    ちょっと疲れたら横になれる
    ふかふかなベッドがあることがどんなに幸せなことか

    朝起きたら、心臓が動いてて
    伸びをして、深呼吸して
    朝日を浴びることが
    どんなに幸せなことか

    何をするにも、必ず誰かの助けや支えがあることが
    どーんなに幸せなことなのか。

    とっくに気づいてるはずなのに
    いちばん大切なことはおろそかにしがちなんだよね。

    ほんとは
    世界は地球は
    もっともっと、愛にあふれてるんじゃないのかな

- 青空と向日葵の会  Apex product 代表 柳 -

■音楽交流で異文化との共生を推進致します。- Apex product 代表 柳 -

音楽の力で世界平和!!

青空と向日葵の会 代表 柳

世直し桃太郎&鼠小僧zero吉


【衝撃】アメリカ軍30年以上隠蔽した原爆被害者の映像

この衝撃的な画像は「アメリカ陸軍航空隊が撮影したとされる原爆被害者の映像の一部」だ。

日本人だけでなく、世界中の誰もが決して忘れてはならない広島・長崎への原爆投下。

しかし、この映像は戦後直後に撮影されたにも関わらず、30年以上に渡ってアメリカ軍によって隠蔽され、1980年代初頭まで一切公開されることはなかったという。

思わず目を覆いたくなる痛ましい原爆被害者の映像に、海外のユーザーらから「原子爆弾は無くさなければいけない」「本当に間違っている」とさまざまなコメントが寄せられている。

二度とこの惨劇を繰り返さぬよう、原爆被害者の姿をこの目にしっかりと焼き付けておきたい。

【平和な世界で・・・妻の涙】

あなたへ

あなたが、...戦地にお向かいになってからもう、

何度目の夜でしょう。

娘も、こんなに大きくなって。あなた、見ててくれていますか?あのとき、私はあなたに言いました。

「お国のために、立派に死んで来てください。」

と。私はあなたの小さくなっていく背中に、いつまでも手を振り続けました。幾度となくくれた、戦地からのお便り、何よりの私の心の支えだったんですよ。不思議とあなたは、いつも私のそばに居てくれている。そう思ってましたから。私は今でも後悔しています。あの時、非国民と言われようが・・・・・

【特攻隊員の手紙~三歳の娘に送った手紙】

両陛下、来月広島へ=8月の土砂災害見舞いで―宮内庁

 宮内庁は19日、天皇、皇后両陛下が広島市北部で8月に発生し74人が亡くなった豪雨による土砂災害被災者の見舞いなどのため、12月3、4両日に広島県を訪問されると発表した。
 同庁によると、両陛下は3日、空路で同県入りし、被害が大きかった広島市安佐南区八木地区を訪問後、現在避難所となっている公民館で被災者を見舞う。4日は、同市の平和記念公園内にある原爆死没者慰霊碑に供花した後、原爆養護ホームで入所者と懇談し、同日午後に帰京する。 

【勤労感謝の日の真実】11/23日

『勤労感謝の日の真実』

11/23日は、「勤労感謝の日」という祝日ですが、働く人たちに感謝をし、休息の日とするものでは本来ありません。

今上陛下が国家、国民の為に五穀豊穣を感謝し祭事を執り行われる、「新嘗祭」が執り行われる日です。

...

23日の深夜から翌日未明にかけ、天皇陛下が天照大神をはじめとする神々に新しくとれた米や粟(あわ)のご飯や酒などをお供えし、自らも召し上がりになる祭祀なのです。

この日は祭日で、全国の農山漁村ではもちろんのこと、それぞれの地方で神社に新穀を捧げ、その年の収穫を神々に感謝してお祝いをしてきました。

古来から日本は、この日を最も大切な日として来ました。

そして日本人は、「食べる」という行為を、神聖なものと捉え、大切にしてきました。

神道の祭式は、突き詰めれば、食事を儀礼化したものです。食事を通じて、神の存在を感じ、その恵みに感謝し、命の大切さを思い、生かされているという謙虚な気持ちを確認してきました。

伝統的に、日本人が食事の前に言う「いただきます」という言葉には、そうした意味が込められています。

更に、古来から命の源である米を作る事が一番の仕事とされ、それを最も尊ぶのは当たり前の事です。

その最も原点であり、喜びを、天皇陛下を中心に感謝を祈り続けて来たのです。

しかし終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から新憲法を一方的に押しつけられたことはその最たるものだったが、「祝日」が全面改定されたのです。

戦前の日本には、国の祝日と大祭日とからなる12の「祝祭日」があった。そのほとんどは紀元節、天長節など皇室の祭祀(さいし)を国民がともに祝う性質のものだった。

しかし昭和20年12月、GHQはいわゆる「神道指令」で、そうした祭祀を皇室の「私的な行事」として祝日から排除した。

代わりに昭和23年7月に制定されたのが、9つの「国民の祝日」である。このうち「春分の日」「文化の日」など6つの祝日は、それまでの祝祭日とおなじ日で、名称や意義を変えたものだった。

新しい祝日が何を、何のために祝うのか極めてわかりにくくなった。

こうして天皇陛下の存在を国民の意識から遠ざけ、意味も知らない事に疑問も持たず、決まり事には無意識に従うという一種の洗脳に見事にはまってしまっている。

戦後、民主主義とはアメリカがもたらしてくれた、歴史上もっとも高度な社会的価値観と私たちは思い込んでいる。

しかし彼らが弱り切った日本に土足で上がり込み、好き放題する以前の日本は、世界でもっとも自由と平和を愛する国の姿があったのです。

そう言った「真実」は戦後教育や情報操作で見事に隠されてきたのです。

天皇陛下を毎日毎日国民の平和と繁栄を祈り、国民もまた天皇陛下の御存在に感謝をし、神様の姿を重ねて来た。

無私の愛である親と子が、互いに祀り合いながら生きて来たのです。

これを失った私たちは、「今だけ・金だけ・自分だけ」。

そして自然の摂理すら支配しようとする「科学」と言う偏った常識に閉じ込められ、本当の自由と愛を失いつつある。

その結果、物質的には豊かになれど、精神的な充足は遠のくばかりとなってしまっています。

本当の幸せを求め、調和的な社会を望むのであれば、私たちが失った「真実」を取り戻す事が何よりも大切なのです。

そして日本が守り続けて来たものを取り戻す事が必要とされているのです。

その大きな一つが、この「国民の祝日」にあり、それを取り戻す事が日本の本当の在り方の始まりでもあるのです。

【「南京大虐殺」はどのように仕立てられたか】

東京裁判とは、すべて日本が悪いことを前提に
勝者の都合のみによって構築されたものである。
有無を言わさず無理矢理日本を戦争犯罪国に仕立
てるための、大掛りな演出による芝居であった。...
白人こそ侵略者、加害者、植民地支配の張本人で
あるにもかかわらず、それには一切触れず、その
悪業をすべて敗者にすりかえ、自分たちの罪を日
本に転嫁するための仕掛けが東京裁判であった。
 
 いまだに議論の絶えない「南京大虐殺」も、東
京裁判ではじめて生まれた。
 
 アメリカは広島、長崎で30万余の非戦闘員を
虐殺した自らの犯罪行為を隠すため、日本軍によ
る残虐行為を血眼になって探した。だが、見つか
らなかった。そこで昭和十二年までさかのぼって、
わずかな言い伝えをもとに作り出したのが「南京」
である。

 当初アメリカの言い分は死者20万人だったが、
この数字は広島の死者数にあわせて定められた。
(現在中国は30万と言っている)。白人や大陸
の人間にとって、戦争で一般大衆を大虐殺する
ことはごく普通のことなので、彼らにしてみれば、
さほど不自然な数字とは思わなかったのであろう。

 南京大虐殺の虚構は、蒋介石の戦後処理でも明
白だ。彼は終戦直後に在支日本人、軍属民間人計
210万人を無傷で日本に送り返してくれた。も
し、南京大虐殺のようなことが本当なら、蒋介石
が日本人をただで返すといっても、被害を受けた
民衆が承知せず、在支日本人への略奪、殺人、暴
行がおこったはずである。
 
 明治以来、日本軍は起立田悪しい統制のとれた
模範の軍隊として、世界的に定評があった。軍人
勅諭と戦陣訓の下、厳粛な軍律があって、占領地
で略奪、強姦などありえない。発見されれば軍法
会議で重営倉入り(監禁処分)である。

 ところが外国の軍隊では、白人もそうだが、支
那の馬賊もまた、侵略先の町村を破壊し、泥棒や
強姦はやり放題だった。とくに馬賊の場合、これ
が唯一の給料、ボーナスだから、この時とばかり
の悪事は当然であった。
 支那事変で日本は支那大陸の民衆に多大の迷惑
をかけたというが、それは日本軍によるものでな
く、ゲリラ的支那兵が敗戦、逃亡する際、自国民
に対する略奪、暴行の限りをつくした結果なので
ある。

 支那の自国の兵がやった乱暴狼藉を、すべて日
本軍にすりかえたのが東京裁判であった。

「侵略の世界史」清水馨八郎著 詳伝社黄金文庫抜粋

フィリピンで戦後29年間戦いつづけた男、
世界中で「真のラストサムライ」とたたえられる小野田寛郎さん。

2014年1月16日、心不全のため東京都内の病院で死去。
91歳だった。

小野田さんの死をアメリカ、ロシア、オランダなどで大きく報道されました。

ニューヨーク・タイムズ紙は、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」

 

ワシントン・ポスト紙は、「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」

 

ロシアでは、兵士としての義務に忠誠を誓う姿勢は、つねに最も重要度の高い美徳とされ、小野田の行動がソ連時代の小学校図書の『誠実な言葉』の中の少年と重なる。

その少年は戦争ごっこをしている時、少佐から自分の持ち場から離れないと誓い、その少佐が帰ったのを知らずその場にいつづけるという話である。

ロシア語のあるサイトに載せられた一文に
「小野田さんはおそらく日本人兵士としては世界で一番名の知れた人物だっただろう。勇敢さ、兵士としての忍耐強さの手本だった。この人は百年たっても語り継がれるだろう。」とある。


このように各国は「真のラストサムライ」小野田寛郎少尉の死を惜しんでいる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★そんな小野田さんは、どのような少年であったのであろうか。


子供のころは、手のつけられない暴れん坊だったそうです。
小学校のとき、こんな事件が起こりました。

<小学校に入学してすぐ、ささいなことから同級生と喧嘩になった
ことがある。

同級生がナイフで鉛筆を削っているのを見て、
「僕も削りたいから、ちょっと貸して」と話しかけると、

「貸さない」と語気荒く突っぱねられた。

私はカチンときて「このシブチン(けち)」と言い返したら、
相手がナイフを振り上げたので、たまたま近くの机の上にあった
ナイフで応戦したら、相手は手から血を流してナイフを捨てた。>

 

この事件は学校から親に知らされた。

家に帰ると、母から「風呂に入れ」と命じられ、紋付と袴に着替え
させられた。

そして仏壇の前に座らされると、母はこう言った。

 

 

 

 

母の言葉は・・・・・・


 


「お前を生かしていてはご先祖様に申し開きできません。

生んだお母さんにも責任があります。

一緒に死んであげるから、先に腹を切りなさい」


と短刀を渡された。

 


これには、さすがの私も肝をつぶして
「二度といたしませんから、どうかお許しください」
とご先祖様に謝って、ようやく許してもらった。

私が謝ったのは、それが最初で最後である。

 

 

派遣海賊対処行動支援隊(第2次隊)の出国行事(厚木基地)

派遣海賊対処行動支援隊(第2次隊)の出国行事(厚木基地)

 平成26年10月1日(水)、海上自衛隊厚木地区において原田防衛大臣政務官出席のもと、派遣海賊対処行動航空隊(第17次隊)及び派遣海賊対処行動支援隊(第2次隊)の出国行事が行われ、派遣隊員は自衛艦隊司令に対し出国報告を行った後、部隊の隊員及びご家族に見送られ出国しました。
 派遣海賊対処行動支援隊(第2次隊)は、ジブチの拠点において活動する司令部要員及び警衛隊要員等で構成される陸上自衛隊の要員78名を含む113名で編成されています。

核全廃声明155カ国 賛同!!

我が国も賛同しております。それなのに川内原発を再稼働させようとしております。

◆核全廃声明155カ国賛同
◆国連委、過去最多

...

2014年10月21日 東京新聞 夕刊

 <特攻70年>「神風」犠牲4000人 9機に1機だった命


70年前の1944年10月25日、日本海軍の「神風特別攻撃隊」がフィリピン沖海戦で米海軍艦艇に初めて突入した。生還を許さない航空特攻の始まりで、終戦までの戦死者は約4000人ともされる。この体当たり攻撃の効果を、大本営は「9機に1機の命中率」と冷徹に試算。「大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できない」との査定も下していた。ノンフィクション作家の保阪正康さん(74)は「特攻は日本の恥部。美化することは、それを命じた軍当局と変わらない」と指弾する。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

 旧防衛庁防衛研修所戦史室が編さんした「戦史叢書」によると、沖縄戦(1945年3~6月)での戦果を基に、海軍は終戦間近に特攻機の予期命中率を算出。対機動部隊で9分の1(約11%)、対上陸船団で6分の1(約17%)と見積もったという。特攻作戦が始まったフィリピン沖海戦時は約27%としており、実際の命中率は大幅に低下していた。

 このことは▽搭乗員の練度の低下▽航空機材の品質低下▽米海軍の対策向上--などが影響している。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめとする日本機の弱点は防弾性能の低さにあり、生還率に直結した。開戦当初のベテラン搭乗員の半数以上は44年前半までに戦死。45年3月時点で、主力航空部隊の搭乗員(偵察員を含む)計2661人のうち、技量未熟で錬成が必要な「技量D」の搭乗員は4割超にものぼった。

 最高速500キロを超えるゼロ戦であっても、特攻用に爆装をすれば性能低下は避けられない。最高速200~300キロ程度の練習機や偵察機となれば、なおさらだった。米軍艦艇の警戒レーダーに探知され、米艦載機の統制された迎撃を受け、未熟な搭乗員と劣悪な機材では被撃墜率が高まるのは当然だった。命中しても、上部構造物の破壊だけでは大型軍艦は通常沈没しない。大本営海軍参謀部が「現有特攻機の装備と攻撃法では貫徹力不十分」と認識しながらも、特攻出撃は終戦の日まで繰り返された。

 航空特攻で撃沈された連合軍の正規空母、戦艦、巡洋艦はゼロ。「『海軍のバカヤロー』と叫び、突入した隊員もいる」。保阪さんは自身の取材に基づいた秘話を明かす。隊員を思うと涙を禁じ得ず、軍司令官や参謀らには怒りを感じるという。「エリートは前線に行かず、戦争を美化する。十分な検証が無くては、同じような過ちを繰り返してしまう」と警鐘を鳴らす。

【天皇とは何か!?】


「ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。 
私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、 
イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。

殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。

だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。 
だからすでにこの世におられないと思っていた。

ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。 
天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。

しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、 
国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、 
無防備のままで巡っておられる。

平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、 
厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。

それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、 
焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。 
いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。                

しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。 
こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、 
これはどこにも見られないことである。

われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。」

~ オットー・カロン = ドイツ人。 ボン大学教授 ~

戦後日本の奇跡の復興と繁栄は、昭和天皇大巡幸に始まりました。

日本中が失意に見舞われる中、その心の支えは天皇陛下のご存在だったのです。

『昭和天皇大巡幸』①はこちら↓↓↓
http://kousyoku.doorblog.jp/archives/40509605.html

『昭和天皇大巡幸』②はこちら↓↓↓
http://kousyoku.doorblog.jp/archives/40524698.html

そして昭和天皇は晩年、このような事を仰った。

昭和天皇は病床で「もう、駄目か」。

医師たちはご自分の命の事かと思いましたが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのです。

戦後沖縄はアメリカ領土なっており、難しい問題がありました。

それに対し陛下は、沖縄訪問が出来ない事を最後の最後まで悔やまれたと言う。

最後の最後まで、国民を御思いになられる陛下でした。

その昭和天皇の御心は、平成5年に今上陛下によって果たされます。

今上陛下は、歴代天皇初の沖縄ご訪問をなさいました。

その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語りかけられました。

そのお言葉に、険しい表情であった遺族も、

「長い間ご苦労様でした、というお言葉をもらったので満足しています。
お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。
陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」

「なぜか泣けて言葉にならなかった。沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきた」

天皇陛下のこのようなご存在と思いが、私たちに多くを教えてくれます。

そして混沌としたこの時代においても、天皇陛下及びご皇室の存在とあり方こそが、世界の希望でもあるのです。

『皇后美智子さま』

皇后さまは20日、傘寿(さんじゅ)となる80歳の誕生日を迎えた。これに先立ち、宮内記者会の質問に文書で回答し、55年余りとなる天皇陛下との生活について、「陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり、また子どもたちや私を、時に厳しく、しかしどのような時にも寛容に導いて下さり、私が今日まで来られたのは、このお蔭(...かげ)であったと思います」と述べた。

今上天皇は、これまでの伝統を守りつつも、時代の流れに合わせて柔軟に対応される姿が数多く見受けられ、歴代の天皇の中でも偉大な天皇陛下との呼ぶ声も高い。

陛下を影に日向に支えてきた皇后さま。

心から陛下に文字通り身を以って尽くすエピソードがあります。

**日本愛ページより転載**

平成4年(1992年)に山形県で行われた第47回国民体育大会(山形べにばな国体)、開会式でのことです。開会のお言葉を述べられる今上陛下、その隣には皇后陛下がお立ちになられています。

そこへ突然、競技場内のトラックから男が駆け寄り、「天皇訪中反対」「天皇は帰れ」などと叫びながら両陛下のいらっしゃるロイヤルボックスに向かって発煙筒を投げつける事件が発生しました。(当月に両陛下には中国ご訪問のご予定がありました)

男が動き始めたそのとき、皇后陛下はすぐさま異変を察知されます。

そして一瞬のご判断で、皇后陛下は一切の躊躇なく右手を今上陛下の前へ伸ばして、陛下を庇われたのです。

幸いなことに発煙筒が両陛下の近くまで届くことはなく、今上陛下のお言葉が中断することはありませんでした。
事態が大事に至らないとご判断された皇后陛下は、すぐにお手を下ろし、何事もなかったかのように元のご姿勢に戻られます。

皇后陛下が異変にお気づきになってから、右手をお伸ばしになり、元のご姿勢に戻られるまでの時間はなんとわずか4秒。一瞬での的確なご判断と、それを実際に行動に移すご瞬発さ、さらには開会式の場を騒動にしてしまうことなく、すぐに平時の微笑をお湛えになる平常心、どれをとってみても感服の極みです。

今上陛下もまた、お手元の文面をお読みになりつつも、視線を前方へ向けたりされていたので、暴漢の登場にはお気づきになっていたのかもしれません。しかし、何ら動揺されたご様子をお見せになることもなく、粛々とお述べになり続けておられました。

    
あとにもさきにも、このようなことはこのとき限りと思いきや、実はさらに時を遡り、今上陛下が皇太子だったころにも、命を狙われる事件があったのです。

昭和50年(1975年)、沖縄でのことです。この年に開催された沖縄海洋博覧会にご出席のため、皇太子殿下と妃殿下(当時)沖縄県に初めてお入りになります。これは終戦後初の皇族による沖縄行幸啓ということもあり、来沖に反対する過激派による抗議活動が懸念されていました。

糸満市にあるひめゆりの塔に慰霊に向かわれた両殿下。献花台に花を手向け、案内役のひめゆり同窓会の源ゆき子氏の説明を熱心にお聞きになっていたそのとき…
「ひめゆりの壕」内に潜んでいた過激派が至近距離の殿下へ向けて火炎瓶を投擲。幸いにも殿下に直撃することはなく、献花台に当たり炎上しました。

当時の警備責任者であった警察庁警備局警備課長佐々淳行(さっさあつゆき)氏は現場で全てを見ていたうちのひとり。火炎瓶が投げられた瞬間、妃殿下が皇太子殿下の前にサッと半歩お進みになり、やはり片手を殿下の前に伸ばし、身を挺して守ろうとされたのを目撃されていました。そのあとすぐ警護の警官に囲まれて両殿下は避難されますが、妃殿下はその際に打撲を負ってしまわれます。

この沖縄行啓は妃殿下のご不例(体調不良)の身をおして実現したものでした。炎天下の沖縄で芳しくないご体調のなか、それでも6か所の戦跡をお巡りになられ、暴漢に襲われる事態にまで及んだにもかかわらず、妃殿下はひとことの不平をもお漏らしになることすらなかったといいます。

**終了**

私たちは世界最高権威であり、祭祀王である天皇陛下のご存在があるからこそ日本人であるのです。

何千年もの長き間に渡り、脈々と続く皇室の伝統を守り、その根底とも言える国民の幸せを何より願い、毎日祈り続けてくれています。

その陛下を支える皇后さまもまた、私たちの国母であるのです。

天皇皇后両陛下を目の前にした多くの人が、感無量と感じ、涙を自然と流す事もあります。

私たちが皇室を守り、天皇皇后両陛下を支えているのではなく、そのご存在に私たち日本国民が支えられ、生かされているのです。

すめらみこと 弥栄。

心からお祈り申し上げます。

*画像三枚目は、第47回国民体育大会山形大会の開会式で右手を伸ばされ今上陛下をお庇いになられた瞬間のお写真。

【愛国心とは何か!!】


愛国心と言えば右翼とか、軍国主義とか、暴力主義的なイメージがいまだに根強く残ります。


そこには戦後日本人が二度と立ち上がらないようにしようと、アメリカ占領軍のGHQによる、日本を愛する事は悪い事だ思い込ませる戦略によるものです。

その日本人劣化作戦により、愛国者を装った右翼団体を作り、反日勢力を育て、反日活動を暴力的に行う在日外国人を大量に流入させたのです。

日本が好きだと言えば、散々悪い事をしてきたのが日本人だと言われ、街宣右翼が活動すればするほど愛国心のイメージは悪くなり、右翼的な人だというレッテルを貼られて来ました。

しかしそもそも愛国心とは心の働きです。

そこに主義主張など関係ありません。国家に忠誠を誓えという高圧的なものでもありません。

自分が誰かを好きになるように、そこに理屈などありません。自然と心から溢れる感情です。

家族の幸せを願わない人はいないと思います。

親を、兄弟を、または伴侶を、そして子どもを、理屈で愛している人もいないと思います。

その家族愛が発展して、地域の安心が家族の幸せに繋がり、それを願うようになる。

郷土の心地よい居場所を大切にしたいと願う。

その延長線上に、日本の繁栄が自分や家族、または郷土を守る事に繋がり、自然と日本というものを意識する事になります。

しかし歪んだ個人主義が戦後日本には植えつけられ、自分さえ良ければ良い、自分の家族さえ良ければ幸せだと洗脳されて来ました。

本来は自然と思う気持ちすら、様々な誘惑や悪のレッテルを貼り、私達から取り上げられたのです。

もう一つ、愛国心を意識する時があります。

幼い時に、病気や怪我で自分が弱った時、また心細くなった時、お母さんやお父さん、家族がいてくれる事がどれだけ安心できるのかという経験がある人も少なくないと思います。

海外に行った時、海外で日本の日本丸を見た時に、何か言いようの無い安心を覚える事があります。嬉しい気持ちを覚える人もたくさんいます。

海外で日本人に出会った時、とても親しみを感じるものです。

スポーツでも、ほとんど例外も無く日本人選手を応援します。

相手国の選手の健闘は称えても、やはり心から日本人選手の活躍に思いを寄せます。

それは神様と約束をして日本人として生まれてきた日本人だからです。

そもそも人は、愛国心を心に持っているものです。

誰もが幸せを願えば、国を愛する気持ちに繋がるからです。

日の丸を掲揚し、君が代を歌う事に議論があります。

しかし様々な洗脳から解き放たれれば、それは議論で決め、強制するものではなく、自然に日の丸に愛着を持ち、脈々と続く国歌に誇りが生まれるものです。

その為に私達は、日本の本当の歴史や、先人達がどれだけ未来の私達の為に生きてくれたのか。そう言った事をしっかり受け止めて知っていく必要があります。

日本の全てに誇張して、美化するわけではありません。

美化も卑下もする事無く、日本の真実を知れば、私達には自然と愛国心が生まれてきます。
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いざという時の日本人がどれだけ節度高く、素晴らしい民族なのかを知れば、ますます日本の素晴らしさに気づきます。

その延長線上にあるのが愛国心であり、世界で一番長い歴史を持つ日本は、その愛国心を持った先人達が名も無く一隅を照らしながら築き上げてきてくれたものなのです。

それを思い出し、取り戻す事が、今を生きる私達の使命・役割であると思うのです。

天皇陛下がおわします、日いづる国日本に生きれる事を、心から感謝しています。
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『塚本幼稚園幼児教育学園』

『塚本幼稚園幼児教育学園』

「21世紀の立派な人づくり」をテーマに、子ども達の無限の可能性を引き出すお手伝いをし、強くやさしく思いやりに溢れた子ども達がたくさん育っている塚本幼稚園。

まずは基本の健康。

...

①伝統の味付(長い歴史を通じて培い伝えて来た、古来の調味)
②素材の味わい(素となる材料、原料の食物の旨味を味わえる)
③咀嚼による味覚(かみくだいて味わうことにより味や旨みが感じられる)
この三味の大切さを知ることのできる 「三味一体」の食育給食を心掛ける。

この食育を基本とした塚本幼稚園は、今の日本人が失ってしまった大切な事を教えてくれます。

教育方針
先人から伝承された日本人としての礼節を尊び、それに裏打ちされた愛国心と誇りを育て、すべての子供が持っているたくましい生命力と包容力を指導者が明るい表情と態度と言葉で引き伸ばしていく教育を誠実に心を込めて実践しています。子供と父母共に人間力が高まります。

教育内容
毎朝の朝礼において、教育勅語の朗唱、国家“君が代”を斉唱します。
剣道、ラグビー、スイミング、リズム合奏、そして日本の伝統文化である論語、将棋、そろばん、大正琴、日本太鼓、毎月良書選定して読み書き・読み聞かせに力を入れています。姉妹園開成幼稚園との交流、遊びを実施。ベースキャンパスが2ヶ所あることから、より一層の人間力を高めています。

4つのテーマで心を育む
塚本幼稚園幼児教育学園では、「21世紀の立派な人づくり」をコンセプトに歴史と伝統を要に幼児教育を行っています。「立派な人」とは、「けじめ・しつけができている」「善悪の区別がつく」「親孝行である」「初志貫徹する実行力がある」そして「社会のために役立つことをしたいと願う気持ちがある」ことだと考えています。そのコンセプトを達成するために必要なのが下の4つのテーマ。このテーマにそって、多彩なカリキュラムを用意しました。これらのカリキュラムを通じて世界的視野を身につけ、日本のことを想い、21世紀を創造的に生きていく人材を育てること。そんな教育を実践していきたいと思います。

塚本幼稚園では、年一回「伊勢神宮」へ参拝をしています。
二見興玉神社・外宮・内宮の参拝、宿泊研修によって日本人としての意識を高め、人として成長を促しています。

塚本幼稚園の教育は、国を愛し人を愛する心を育て、小さな頃より心身ともに鍛え、躾を実践します。皇室を尊び、日本の歴史と伝統文化を重視しています。教育の根底は下記の12の徳目を根幹とし、子供を21世紀の社会に通用する、すばらしい大人へと導くよう教育をしております。


一.親や先祖を大切にしましょう。

一.兄弟姉妹は仲良くしましょう。
  
一.夫婦はいつも仲睦まじくしましょう。
  
一.友達はお互いに信じ合いましょう。
  
一.自分の言動をつつしみましょう。
  
一.広くすべての人に愛の手を差しのべましょう。
  
一.勉学に励み職業を身につけましょう。
  
一.知識を高め才能を伸ばしましょう。
  
一.人格の向上につとめましょう。
  
一.広く世の人々や社会のためにつくしましょう。
  
一.規則に従い社会の秩序を守りましょう。
  
一.正しい勇気を持って世のため国のためにつくしましょう。


また、「国破れて山河あり」国家があってこその国民であり、家族であり、個人であるという思いから、自衛隊や警察などに、応援のエールを送る課外実習なども行っています。

このような教育から、多くの思いやりあふれる子ども達が巣立っています。

相手を思いやり感謝すること。

そして日本の先人達が築き上げた高度な精神性社会に感謝する。

戦後日本はGHQを始めとした日教組などの反日勢力によって、こういった教育が悪だとされてきました。

その結果70年経った今はどうなったでしょうか?

今だけ・金だけ・自分だけ。社会全体の事や難しい話は良くわからない。

幼くしての生活習慣病は増え、心の病は増える一方。

そして今問題になっている無気力や無関心。

詰め込みや暗記ばかりの学問。人としてはあまり意味のない学歴偏重。

終いにはゆとり教育を行い、闘魂教育は全て悪。

命の教育なるもので猟奇殺人は増える一方です。

こんなバカな事を反日勢力に洗脳された親と、日本人を劣化させる為の教育会が一生懸命作り上げた間違った教育の結果なのです。

いい加減謂れのない過去にとらわれず、大切な事を取り戻さなければなりません。

この塚本幼稚園の教育方針こそ、戦前まで世界の希望であった日本人を創り上げてきた教育です。

真実の歴史と、愛国心のない国に未来はありません。

強くやさしい日本人が失われている今こそ、こういった教育を取り戻さなければならないと思うのです。

*一部ひふみ塾 世回りブログより転載

大戦100年の祈り

時事通信 10月17日(金)9時6分配信

16日、第1次世界大戦勃発から100年を記念し、ロンドン塔の敷地に展示された陶器製のケシの造花。大戦での英軍の戦死者と同数の80万以上が飾られる。英国では赤いケシの造花は戦没者追悼の象徴となっている。

シリア内戦で亡くなった3歳の少年が、最後に残した言葉!

シリア内戦で傷付き、その後死亡した3歳の少年が最後に
残したとされる言葉が、現在インターネット上を駆け巡り、
世界中に大きな反響を呼んでいる。


3歳の子供の言葉に込められた思いは・・・・

 

私は、その言葉を読みながら深い悲しみに襲われた。
あなたは、その短い言葉の中に何を感じるのであろうか。

シリア内戦で亡くなった3歳の少年が、最後に残した言葉!

 

 


混迷の度を深めるシリア情勢。

「アラブの春」がこの歴史ある国へと波及したのは2011年のこと、
その後1年と待たずに、シリアは政府軍と反体制組織による内戦
状態へと突入する。

それから現在に至るまでの間、戦局は日々激しさを増し、多くの
死者を出す最悪の事態へと進展してしまった。

戦闘員のみならず、子どもや女性たちも含めた民間人までもが多
数犠牲となっており、現時点で死者は13万人を超え、数百万人に
上る難民も発生していると伝えられる。

そのような中、シリア内戦で傷付き、その後死亡した3歳の少年
が最後に残したとされる言葉が、現在インターネット上を駆け
巡り、世界中に大きな反響を呼んでいる。

 

”سأخبر الله بكل شيء“

「ぜんぶかみさまにいいつけてやるんだから……」

 

この印象的な言葉を残した直後に息を引き取った3歳の少年は、
暮らしていた場所や名前は判明していない。

しかし彼の言葉は、この内戦が引き起こす痛みと苦しみ、人々
の悲しみと怒り、さらには背景にある不条理と矛盾までも想起
させる強力な言葉だ。


今こうしている間にも、シリアでは多くの人が戦火の中で命を
落としている。

3歳の少年が残した衝撃的な言葉は、シリアの現状を世界中に
向けて訴えている。

 

『 小笠原を襲う中国漁船の大船団』

世界自然遺産に登録されている小笠原諸島(東京都)沖に中国船とみられる不審船が押し寄せている。目的は高級サンゴの密漁とみられ、その数は日を追うごとに増加。夜間には水平線に不審船の明かりが並び、島の近くまで接近する船もある。「自分たちの領土で好き勝手にされているのに、見ていることしかでき...ない」。傍若無人な振る舞いに地元漁業にも影響が出ており、国境の島では不安が広がっている。

サンゴは貴重な資源であると同時に、海底の形状にも影響する。サンゴの乱獲は生態系を壊すことにもつながり、それについてもかなり深刻な状況と謂わざるを得ません。

しかし現実的に、鉄製で巨大な中国船との衝突を恐れ、出漁を控えるなど地元漁業にも影響が出始めていのです。

地元の方々からは、「いつ上陸されてもおかしくないが、私たちには守るすべがない」と嘆く声が出ている。

40隻以上の大船団も確認されており、事実上海上保安庁でも対応がきかない。

当然あらゆる武力行使も行ってくるのです。

自衛隊の知人から聞くと、毎日何度も尖閣諸島では中国漁船が進入し、警戒網の対処が追いつかないほどです。

沖縄の米軍が、中国漁船のあまりにも圧倒的な数と傍若無人さに恐怖を感じているし、本当に戦争が起きるのではと心配しています。

こういった漁船は当然ただの漁師などではなく、中国政府と内通して行っているもので、プロの戦闘員も少なくないという。

潜水艦の進入も著しいという。

沖縄は反日勢力が最も盛んに活動しており、政治やメディアにまで驚異的な力を持っています。

米軍を追い出し、何も対処が出来ない日本政府をいいことに、沖縄を独立させ、中国の人民解放軍を誘致しようとしています。

全国七箇所にある中国大使館は、その多くが土地ごと所有され、今も新潟の土地取得でもめにもめている。

大使館は治外法権であり、日本の監視の目は届きません。たった数十人の職員が在中しているだけなのに、5000坪以上の土地が買われているのです。

その中に武器・弾薬などを含め、軍事中継所としてしようされても何も出来ないのです。

さらに国内では移民政策が進められ、中国人の大量動員が進められています。

これは情報戦を含め、合法・非合法の戦争状態だと言えます。

反日勢力がこぞって「平和憲法」などと呼び、憲法改正を徹底して批判しています。

先日憲法9条をノーベル平和賞にすると騒いでいましたが、今回は受賞しなかったようです。

しかしこの活動をしているのは中国や韓国の支援を受けている反日勢力です。

『「 憲法9条にノーベル賞を 」 鷹巣直美の正体』はこちら↓↓↓
http://kousyoku.doorblog.jp/archives/39735557.html

日本の軍国化は絶対にダメだと言い、二度と戦争はしてはいけないという。

戦争は誰もがするべきではないという事など、言わずともわかることです。

そして日本が戦争を仕掛け、残虐な事を行ったという。

しかしそれは全て嘘だと言う事が証明されています。

なのに憲法をとにかく死守するというのは、日本が何も出来ない状態にしておきたいからです。

現に「平和憲法」がある事により、今回のような事件に何も対処出来ないでいる。

尖閣諸島は攻め込まれ、竹島は実効支配されている。

拉致被害者を取り戻す事も、それを守る事も出来なかったのは、あの「平和憲法」なるものの存在により、正当な対処すら出来ない事が原因です。

せめてそれほど嫌ならば、自衛行為の正当な権利は補足する必要があります。

領土の侵略や日本人の生命と財産を守る。

こんな事すらやってはいけないという声がどれほど異常な事なのか。

そしてこんな危機的で日本の根幹が揺らぐ問題にも、難しい問題だとし、目を逸らす事ももういい加減にしなければならない所まで来ています。

誰かがいつの間にか解決してくれる問題などありません。

私達一人一人が問題意識を持つことで解決が図られるのです。

今ある幸せは、過去の先人達が命を懸けて守ってくれた日本があるからこそであり、今もこう言った問題に人生を懸けてくれている人達がいるからこそなのです。

しかし今、それも限界を迎えつつある以上、もっと多くの人たちと日本を守って行かなくてはならないし、私達にはその義務が本当はあるのです。

与えられる事ばかり求めず、出来る事を与えるのが日本人らしさでもあるのです。

しつこいようですが、大好きな日本を守る為に、私達が真実を知る事から始めなければなりません。

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幸食研究所サイト
http://www.kousyoku.net/

幸食関連ブログ<ひふみ塾 世回りブログ>
http://ameblo.jp/hifumijuku/

千葉ひふみ農園 ~大地の恵みから~
http://ameblo.jp/hifuminouen/
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日 時 平成26年11月2日(日)
受付AM10:00 開会10:30~12:10終了予定
集合場所 靖国神社・遊就館2階映像ホール TEL03-3261-0998
東西線/半蔵門線/都営新宿線「九段下駅(出口1)」より徒歩5分
講 師 門田 隆将先生(ノンフィクション作家)...
演 題「大東亜戦争を戦った日本人の気概」
参加費 1,000円
主 催 日本協議会・日本文化研究所・全日本学生文化会議
後 援 日本会議東京都本部・日本会議神奈川
連絡先 TEL:03-3476-5711 FAX : 03-3476-5710 Email:info@seikyou.org
〒153-0042 東京都目黒区青葉台3-10-1-602
※参加ご希望の方は、下記ご記入の上、10月26日(日)までに事務局へFAXいただければ幸いです。
※講演会の後、昼食、昇殿参拝、遊就館拝観、境内散策などのコースもあります(参加費5,000円)。
※本研修は、2泊3日で開催する第28回歴史体験セミナーの研修の一部を公開行事としたものです。前日には、勝岡寛次講師「昭和天皇の祈りと大東亜戦争」などの研修もあります。関心のある方は事務局まで。


三島由紀夫「1970年11月25日割腹自殺」

日本非核宣言自治体協議会

 日本非核宣言自治体協議会は1984年(昭和59年)に広島県府中町で設立されました。
 設立の趣旨は「核戦争による人類絶滅の危機から、住民一人ひとりの生命とくらしを守り、現在および将来の国民のために、世界恒久平和の実現に寄与することが自治体に課せられた重大な使命である。宣言自治体が互いに手を結びあい、この地球上から核兵器が姿を消す日まで、核兵器の廃絶と恒久平和の実現を世界の自治体に呼びかけ、その輪を広げるために努力する」というものでした。
 長崎市の田上富久市長が協議会の会長を務め、長崎市が事務局を運営しています。 現在、当協議会は全国の290を超える自治体により組織され、総会、研修会のほか、親子記者事業や巡回原爆展など、さまざまな平和事業などを通して設立の趣旨の実現に努力しています。

 


     
 

平和首長会議

 広島市と長崎市が共同で平和事業に取り組むためのヒロシマ・ナガサキ平和推進アピール委員会。その一環として平和市長会議に取り組んでいます。
 平和市長会議は、世界の都市が緊密な連携を築くことによって、核兵器廃絶の市民意識を国際的な規模で喚起し、核兵器廃絶を実現させるとともに、人類の共存を脅かす飢餓、貧困、難民、人権などの諸問題の解決、さらには環境保護のために努力することによって世界恒久平和の実現に寄与することを目的としています。 2009年には、長崎市で第7回平和市長会議総会を開催いたしました。また、2011年9月には加盟都市が5,000都市を突破しています。
 2013年には、広島市で第8回平和市長会議総会が開催され、日本語の名称を、「平和市長会議」から「平和首長会議」に変更することや、地域グループ化の推進と地域活動の活発化を図るためにリーダー都市を選定することなどが決定されました。

 


     
 

(公財)長崎平和推進協会

 長崎平和推進協会は、行政の実施する平和推進事業は種々の困難があることから、昭和58年2月、広く市民の参加を求め、官民が一体となった「長崎平和推進協会」として発足しました。 核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを理念とし、これまで、修学旅行生等を対象とした被爆体験講話による平和学習の実施をはじめ、アジア青年との平和交流や被爆遺構などを案内する平和案内人、講演会など、様々な平和推進事業に取り組んでいます。

 


     
 

核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ

 国際社会において、核兵器廃絶に向けたNGOの活動の重要性は高まってきています。
 平成12年、長崎市は、長崎県、市民・NGO、長崎平和推進協会と共同で、「核兵器廃絶地球市民集会実行委員会」を設立し、国内外のNGOの参加のもと、平成12年、15年、18年、22年と4回にわたり「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」を開催しました。
 集会では、長崎アピールを採択し、日本政府、国連、核保有国などへ送付し核兵器廃絶のアピールを行いました。また、平成22年には、核不拡散条約(NPT)再検討会議へ、代表団を派遣しています。

 
設立趣旨
 
  日本非核宣言自治体協議会は1984年に広島県府中町で設立されました。設立の趣旨は「核戦争による人類絶滅の危機から、住民一人ひとりの生命とくらしを守り、現在および将来の国民のために、世界恒久平和の実現に寄与することが自治体に課せられた重大な使命である。宣言自治体が互いに手を結びあい、この地球上から核兵器が姿を消す日まで、核兵器の廃絶と恒久平和の実現を世界の自治体に呼びかけ、その輪を広げるために努力する」というものでした。
当協議会は全国の300近くの自治体により組織され、総会、研修会のほか、さまざまな平和事業などを通して設立の趣旨の実現に努力しています。

 
     
 
活動理念
 
  会則の第2条に「この協議会は、非人道的核兵器の使用が、人類と地球の破滅をもたらすことにかんがみ、生命の尊厳を保ち、人間らしく生活できる真の平和実現に寄与するため、全国の自治体、さらには全世界のすべての自治体に核兵器廃絶、平和宣言を呼びかけるとともに、非核宣言を実施した自治体間の協力体制を確立することを目的とする」とうたっています。協議会の事業としては、非核都市宣言に関する情報・資料の収集、調査・研究、非核都市宣言呼びかけのための活動、各自治体の平和事業推進などを行っています。
 
     
Peace to World
戦後50周年記念モニュメント(高槻市)
大東市総合文化センター

1945年8月6日8時15分 広島に原爆投下

原爆被害の概要


   昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
   深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
    この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
   「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。

   昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
   人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。

   原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
   爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
 原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

死者数について

被爆当時、広島には約35万人の市民や軍人がいたと考えられています。これは、住民、軍関係者、建物疎開作業に動員された周辺町村からの人々などを合わせた数字です。当時日本の植民地だった朝鮮、台湾や、中国大陸からの人々が含まれ、その中には強制的に徴用された人々もいました。また、少数の、中国や東南アジアからの留学生や、アメリカ軍捕虜などの外国人も、含まれていました。

原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。また、即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、近距離で被爆し、傷害の重い人ほど、その後の死亡率が高かったようです。 

熱線による被害

   爆発と同時に爆発点の温度は摂氏100万度を超え、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなりました。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達しました。(鉄の溶ける温度は摂氏1,536度)
   強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなりました。火傷は熱線に直接面していた部分にのみ生じており、爆心地から3.5キロメートル離れたところでも、素肌の部分は火傷を負いました。また、爆心地から600メートル以内の屋根瓦は、表面が溶けてぶつぶつの泡状になりました。樹木への着火も多く、約3キロメートル以内では、電柱、樹木、木材などが黒焦げになりました。

放射線による被害

    原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では発生しない大量の放射線が放出され、それによって人体に深刻な障害が及ぼされたことです。
    放射線は、人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変質させるとともに、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こしました。
  放射線による障害は、爆心地からの距離やさえぎる物の有無によって、その程度が大きく異なっています。爆発後1分以内に放射された初期放射線によって、爆心地から約1キロメートル以内にいた人は、致命的な影響を受け、その多くは数日のうちに死亡しました。また、外傷がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後、月日が経過してから発病し、死亡した例も多くあります。
    さらに原爆は、爆発後、長時間にわたって残留放射線を地上に残しました。このため、肉親や同僚などを捜して、また救護活動のため被爆後に入市した人たちの中には、直接被爆した人と同じように発病したり、死亡する人もいました。

 被爆直後から短期間に現れた熱線、爆風や放射線による一連の症状を急性障害といい、吐き気や食欲不振、下痢、頭痛、不眠、脱毛、倦怠感、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、発熱、口内炎、白血球・赤血球の減少、月経異常などのさまざまな症状を示しました。
 これらは全く新しい病気ではなく、放射線の影響や食糧事情などにより、外傷がさらに悪化したり、病原菌への抵抗力が減退して発病したものや、また、外傷がなくても、脱毛や出血症状、白血球の減少といった症状が現れ、多くの人が死亡していきました。
 急性障害は、約5か月後の12月末にはほぼ終息し、原爆の影響はこれでおさまったと考えられました。しかし、放射線の影響はこれで終わるものではありませんでした。 

後障害について

 原子爆弾による放射線は、被爆直後の急性障害(発熱、はきけ、下痢など)だけでなく、その後も長期にわたってさまざまな障害を引き起こし、被爆者の健康を現在もなお脅かし続けています。
 昭和21年(1946年)初めころから、火傷が治ったあとが盛り上がる、いわゆるケロイド症状が現れました。また、胎内被爆児は出生後も死亡率が高く、死を免れても小頭症などの症状が現れることもありました。さらに被爆後5、6年が経過した昭和25年(1950年)ごろから白血病患者が増加し、昭和30年(1955年)頃からは甲状腺ガン、乳ガン、肺ガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなり始めました。
 放射線が年月を経て引き起こす影響については、未だ十分に解明されておらず、調査や研究が現在も続けられています。

 また、原爆は、人や物に大きな被害を与えただけではなく、人々の社会生活そのものを破壊しました。
 その徹底的な破壊力は、家族から親兄弟や親戚、知人などを奪い、あらゆる施設はもちろん、さまざまな社会的機能をも一瞬にして消滅させました。それは、かつて人々が経験したことのないものであり、生き残った人々の生活に、言葉ではとても表現できない数多くの困難をもたらしました。
 原爆によって心身に及ぼされた傷害は、時が経過しても癒えることがなく、特に放射線の恐ろしさが目立ちました。
 連合国による占領期に制限を受けていた日本の原爆症研究は、昭和26年(1951年)の独立後ようやく進み始め、後障害に苦しむ多くの被爆者の姿が次第に明らかになっていきました。

高熱火災による被害

   原子爆弾の炸裂と同時に、放射された高温の熱線により市内中心部の家屋が自然発火し、続いて市内のいたるところで、倒れた家屋の台所で使われていた火気などを原因とする火の手があがり、午前10時頃から午後2~3時頃を頂点に、終日、天を焦がす勢いで燃え続けました。爆心地から半径2キロメートル以内の地域はことごとく焼失し、焼け跡は、すべてのものが異常な高熱火災により溶けて、まるで溶岩のようにあたりを埋め尽くしました。
   倒壊した建物の下敷きになって、生きながら焼かれ、亡くなった人も数知れません。

爆風による被害

 原子爆弾の爆発の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、まわりの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風が吹き抜けました。
   衝撃波は、爆発の約10秒後には約3.7キロメートル先まで達し、その圧力は爆心地で1平方メートルあたり35トン、最大風速は秒速440メートルに達するという強大なものでした。爆風がおさまると、中心部の空気が希薄になり、周辺部から爆発点に向かって強烈な吹き戻しがありました。
   爆心地から半径2キロメートルまでの地域では、爆風により木造家屋はほとんどが倒壊し、鉄筋コンクリート造の建物も、崩壊はしないものの、窓は全部吹き飛ばされ、内部はことごとく焼失するなどの大きな被害が生じました。
   爆風により人々は吹き飛ばされ、即死した人、負傷した人、倒壊した建物の下敷きになって圧死した人が相次ぎました。

建物の被害

   原爆の強烈な爆風と熱線は、爆心地から2キロメートル以内の建物をほとんどすべて破壊し、焼き尽くしました。2キロメートルを超える地域でも、木造の建物は大破以上の被害を受け、当時の広島市内の建物の9割が壊滅的な被害を受けました。昭和21年(1946年)度市勢要覧によると、被爆前の建物7万6,327件のうち、原爆により5万1,787件が全壊または全焼し、「一部損傷以下」の建物は6,180件にすぎませんでした。

   さらに被爆後、使用に耐えない建物が取り除かれ、その後、応急修復してしばらく使用されていた建物も取り壊されていき、復興後も新たに求められる建物機能に応えられなくなった建物が、建て替えなどにより次々と姿を消していくようになりました。

    このため、市民から被爆建物の保存などを求める要望が出され、市議会でも「この歴史的財産を後世の広島市民に伝承すべきである」との決議が行われました。そこで、広島市では平成5年(1993年)に被爆建物等保存・継承実施要綱を定め、爆心地から5キロメートル以内に現存する建物などを被爆建物台帳に登録し、所有者に保存・継承の協力を呼びかけ、保存工事の際に費用助成を行っています。

   現在、爆心地から半径5キロメートル以内には、原爆ドームをはじめ86件(公共所有20件・民間所有66件、平成25年4月1日現在)の被爆建物が残り、被爆の痕跡を今に伝えています。

   また、被爆したとき、広島市内には50を超える橋が架かっていましたが、その多くは爆心地から2.5キロメートル以内に集中しており、多大な被害を受けました。かろうじて焼失や壊滅を免れた橋も、翌9月の枕崎台風や10月の風水害でその多くが流出しました。
   その後も老朽化した橋や新たな交通需要や安全基準に応えられなくなった橋は架け替えられ、現在、爆心地から半径5キロメートル以内に残る被爆橋梁は6橋のみです。

ひろしま平和の歌

広島市を世界平和の原点にしようという願いから、昭和22年8月に「平和祭」を挙行しました。それにあたり、同年7月、主催団体である広島平和祭協会(会長 広島市長浜井信三)が公募し、山本秀氏(広島教育音楽連盟)が作曲しました。8月6日、敬けんな祈りの中、厳粛に行われた第1回広島平和祭で、高らかに合唱されました。以後、昭和25年を除いて、毎年の平和記念式典で歌い継がれている清らかな歌です。



ひろしま平和の歌

  作詞:重園贇雄(しげぞの よしお)
  作曲:山本 秀(やまもと みのる)

1 雲白く たなびくところ
  空のはて 東に西に
  おお高く こだまひびけと
  鐘は鳴る 平和の鐘に
  いまわれら 雄々しく起ちて
  その栄え ここに興さん

2 波青く たゆとおところ
  海のはて 南に北に
  おお遠く 祈りとどけと
  鐘は鳴る 平和の鐘に
  いまわれら 試練を越えて
  その行手 ここに仰がん

3 風清く かがやくところ
  国のはて 世界の友に
  おお熱く 想いかよえと
  鐘は鳴る 平和の鐘に
  いまわれら 手をさし伸べて
  その睦み ここに歌わん

1945年8月9日11時2分 長崎に原爆投下

原爆の開発

原爆投下への道

 1938年(昭和13年)にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。 1942年(昭和17年)、アメリカはマンハッタン計画を発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18か所が候補に上がったが、結局、1945年(昭和20年)8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。

原爆投下の指令

 広島に原爆が投下された3日後の1945年(昭和20年)8月9日、長崎に第2の原爆が落とされた。原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられ、8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空隊司令部作戦命令17号において、小倉を第1目標、長崎を第2目標として翌9日に投下することが指令された。

 この日、ソ連が日本に宣戦布告した。9日、B29ボックス・カーは小倉上空に達したが焼夷弾による煙のため投下を断念、第2目標の長崎に向かい、同日11時02分、原爆を投下した。 

 

原爆搭載機の進入経路と投弾

十一時二分 テニアン出発から

原爆搭載機ボックス・カーに同乗の原爆取扱責任者アツシュワースの記録の引用に従えば、ボックス・カーの行動時間は次のようになっている。ただし他の資料や電文類と比較すると時刻に多少の差が見られるようである。(時刻は日本時間に直したもの)

 9日の午前2時47分にテニアン北飛行場を離陸
8時15分に会合点屋久島に到着、5分後にボック機グレート・アーティストと会合、しかしホプキンス機が発見できなかった。8時50分に2機だけで屋久島出発、第1目標小倉に向う。
9時44分に攻撃始点に到着、3回の爆撃航程を試みるが目視できず、小倉上空で45分を費やしたのち長崎に向う。
10時50分長崎に到着、レーダー接近し、雲の穴を見つける。
10時58分に目視でF31(ファットマン)を投下。
11時05分に沖縄に向う。
12時51分に沖縄の読谷飛行場に着陸。
午後9時45分にテニアンに着陸。



8月9日

その時―
前夜から連続する警報・・・・・・その中で、9日朝は、快晴無風であけた。
軍需工場の多い浦上に、戦闘帽、巻脚はん、防空ずきんを肩にした人たち、女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に鈴なりとなって続々と終結し、刻一刻、緊迫感が渦巻いてゆく。
空襲警報発令!
多くの市民は、これを「定期便」と呼び、また「時報」とささやき合っていた。やがて、警報が解除となり、いったん付近の防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、家庭の主婦たちも昼食準備に取りかかっていたところー
突如、ラジオが、“B29,島原半島上空を北進中”を伝え、市民の中には、飛行機の爆音を耳にし、東方上空に「ギラギラ光るB29」、浮遊する落下傘を眺めているものもあった。
香焼島(爆心地から南約10キロ)に駐留する高射砲隊は、眼鏡の中にB29の機影を捉えて追跡し、金比羅山(爆心地から南東約1.7キロ)高射砲隊もまたいっせいに砲身を向けた。だが、90式測高機が測定した高度は、9500~10000メートル。射程圏外。やむなく「戦闘態勢乙」・・・・・・なかには、浮遊する落下傘を目標にして射撃訓練を行う分隊もあったという。兵員は、鉄帽をはずし、上着を脱ぎ、上半身裸の者も多かった。
午前11時2分!!
異様な閃光が走り、すさまじい爆風、爆風が大気を裂いて来襲。山野にどよめくごう音、地軸をゆるがす衝撃波、熱線が照射し、火事嵐が荒れ狂った。

 

11時2分

市内の記録

昭和20年8月9日午前11時2分。
 原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空から第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。すでに燃料は沖縄基地までようやくという状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒。そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)にかけての中間地帯だった。爆弾の投下は目視爆撃で行えということが示された重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。
 爆発は、目標地帯からおよそ5~600メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。(通称爆心地公園の上空)
 爆発時の諸状況は、次の通りであった。

 
爆発点
 爆発点の高度についてはいくつかの推定値があるが、現時点では503メートル~±10メートルが信頼度の高い数値と考えられている。
 ちなみに、昭和20年10月、木村一治(もとはる)、田島英三理化学研究所員が、井樋ノ口交番所の庇の影、浦上天主堂の石碑の影、長崎医科大学附属病院の焼け跡で見つけた影の三方の影から爆心を測定し、そのときは爆心点高度を490メートル~±25メートルとしていた。
火球と熱線
<特攻70年>「神風」犠牲4000人 9機に1機だった命
 爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度ともいわれる火球が発生、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間にその直径は約30メートル、温度は摂氏およそ30万度になり、さらに火球は百分の一秒から一秒の間に直径100~280メートルに達した。
 火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間にわたって外部に強い影響を与えたと考えられている。
 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの間においての赤外線であった。一説では地上物質の表面温度は、原爆の直下では恐らく3,000~4,000度にも達したと推定されている。
衝撃波と爆風

 爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。またそれと同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。

 

爆風
爆心地からの距離 最大風速(秒速)
0 キロメートル 440メートル
0.3キロメートル 330メートル
0.5キロメートル 280メートル
0.8キロメートル 200メートル
1.0キロメートル 160メートル
1.2キロメートル 130メートル
1.5キロメートル 94メートル
1.8キロメートル 72メートル
2.0キロメートル 60メートル
2.5キロメートル 38メートル
3.0キロメートル 30メートル
3.5キロメートル 26メートル
原子雲(きのこ雲)


 爆発時の巨大なエネルギーは、地上のものを吸い上げ、吹きあげ、巻き上げて原子雲を立ち昇らせた。この原子雲は刻々と色と形を変えながら、ぐんぐんと上昇した。その上昇速度は次のようにみられている。

約0分30秒 3,000メートル
約1分30秒 4,500メートル
約2分30秒 6,000メートル
約4分30秒 7,000メートル
約8分30秒 9,000メートル

 原爆投下機の機長・スウィーニーは「垂直の雲は驚異的なスピードで上昇を続けており、その色はつねに変化していた」「上昇してきた雲が、7,500メートルの高度で白くきのこ状に膨らみ、さらに加速しながら上へ噴出を続け、9,000メートルにいた我々を追い越して、少なくとも14,000メートルにまで達した」とその手記に記している。

 このきのこ雲は、近郊はもちろん遠く県外でも望見されたが、意外にも、爆心地に比較的に近い距離に居た者には、きのこ雲は見えなかったと証言する者が多い。

 立ち昇ったきのこ雲の雲頂はやがて崩れ、次第に東方へ流れていった。雲の移動速度は時速約12キロメートルと推定されている。

 原子爆弾の炸裂時の状況について、長崎県は『8月9日長崎市空襲災害概要報告書』に次のように記している。

 『原子爆弾ノ炸裂ニ際シテハ先ズ強烈ナ一大閃光ガ迸バシリマシタ。ソレハ恰モ強烈ナ「マグネシウム」ヲ焚イタト同ジ様ナ感ジデ、アタリ一面ガ白茶ケテボンヤリ霞ンデ仕舞イマシタ。ソシテ爆発ノ中心部デハソレト同時ニ、又多少距離ノアル所デハ夫激ヨリ瞬時ノ後、猛烈ナ轟音ト共ニ強烈ナ爆風ト熱気トガ襲ウテ来タノデアリマス』

原爆の威力 原爆災害報告

 原爆の炸裂後、長崎県防空本部はその威力についてただちに調査を開始し、当日(8月9日)判明した部分は『原爆災害報告』第四報で報告した。しかしその後長崎市防衛本部とともにさらに調査を進め、次のような総合報告をおこなった。

一 中心点より500メートルの圏内

1


中心部と推定される場所付近の電柱および樹木の倒壊および傾斜は少ない。
2 同圏内の民家は粉砕されている。
3 同圏内においては屋内屋外ともに生存するものを認めなかった。

4



同圏内の屋内退避壕の状況は不明であるが、屋外退避壕(掩蓋(えんがい))および極めて不完全と認められる横穴式防空壕の崩壊したものはかった。
5 コンクリート道路は数ヵ所亀裂を生じた。

6


鉄筋・電柱・樹木は中心点より各外方に向い放射線状に倒壊していた。

7


城山国民学校は鉄筋コンクリート三階建であったが、一部は地階まで原型を認めえないまでに崩壊。

8


城山町川ぞいのコンクリート塀(高さ1メートル・厚さ5センチ)は、長さ約100メートルを約3メートル道路上に吹き飛ばされた。

9


松山町より城山町に通ずる鉄筋コンクリート橋は、西側に亀裂を生じ、川岸は約10センチ位後退し、欄干は45度位西側に傾斜していた。

10




城山国民学校の改良便所汲取口は約5センチぐらい圧搾せられ、かつ厚さ2分の1センチ位の鋳鉄汲取口蓋は破壊されていた。なおここから爆風が入ったもようで、便池のコンクリートは吹上げられた形跡がある。

11


城山国民学校の周辺の樹木は、最大直径2尺(約60センチ)位まで根こそぎとなっていた。

12



城山国民学校校舎は鉄筋コンクリートの堅牢な建築物であったが、下

層よりも上層(2階3階)において破壊箇所が多く、かつ損傷が著しかった。

13


城山国民学校舗装道路(コンクリート・厚さ約30センチ)の路面は粉砕されていた。

14



鎮西学院の鉄筋コンクリート四階建は、地階において窓わくが屈曲し、三階においては周壁に亀裂を生じ、屋上は一部三階に陥没していた。

15



浦上刑務支所の木造建は粉砕され、コンクリート塀は倒壊したが、同所前方の半地下式掩蓋(土の掩蓋)壕は内外部ともに異状を認めなかった。
二 中心点より半径1,000メートルの圏内
1 県立瓊浦中学校(木造)は粉砕され原型を認められなかった。
2 木造建民家は全く原型を認められなかった。

3


直径3尺(約91センチ)位の樹木は根元より切断、または根こそぎに倒れていた。

4



農作物(甘藷・水稲等)は地上に露出した部分は全部燻焦していたが、地中の部分は燻焦をまぬがれた。水稲は水辺部分および上部のみが燻焦していた。

5


山里国民学校運動場周辺の横穴式防空壕(それぞれ簡単な爆風除けを構築)は内外ともに異常を認めなかった。

6


長崎医大附属病院は窓ガラスが全部破壊し、煙突1本(コンクリート)は東南に向け中部より約10度位傾斜した。

7



大橋町所在のガスタンク(鉄骨および鉄板をもって築造)は地上より3分の1程度の箇所より大破し、鉄骨は原型を認めない程度に屈曲したものもあった。
三 中心点より半径1,500メートルの圏内

1



竹ノ久保変電所は直接爆風に当ったものと認められ、北部の鉄柱・鉄わくは南部または西部に向い倒壊していたが、鉄筋コンクリートの建物はガラスが破損したほか内外ともに異常はなかった。

2


三菱製鋼所の鉄骨は全部南方に向い傾斜し、屋根は全部吹き飛ばされ、同工場北端部の鉄骨は屈曲し原型を認められなかった。
四 中心点より半径2,000メートルの圏内

1




淵神社境内は最大直径3尺(約91センチ)位の椎の木は根元から倒れ、同神社は原型をとどめぬ程度に粉砕された。
なお同境内において遊戯中の15~6歳の男児2人(学生服上下着用)は焼死した模様。

2


稲佐国民学校の鉄骨建雨天体操場は、直接爆風を受けた北側はいちじるしく屈曲し、南側は南部に向い倒壊していた。

3


稲佐国民学校鉄筋コンクリート3階建の窓ガラスは全部破損、鉄製窓わくは内部に向い屈曲したが建物自体に異状はなかった。
4 この圏内の木造家屋はすべて倒壊。
5 横穴式防空壕は内外ともに異状なし。
五 中心点より半径2,000メートル以上の区域

1


大波止の日本通運株式会社長崎支店倉庫の西側鉄扉(厚さ約3分の1センチ位)は中央より屈曲し、約5メートル内部に吹き飛ばされていた。

2


長崎港内の船舶の内部において作業中の船員は無事であったが、甲板上にいた船員は軽度の火傷を負った。

3


民家は中心部より約2,000メートルの程度より逐次破壊力が減少していた。

4



半径3,000メートル以上の区域の民家は、直接爆風に当らぬものは建具および瓦の破壊の程度にとどまっていたが、壁の崩落、湾曲、亀裂なども見られたところもあった。

5


山林の樹木は岩屋山中腹より女神崎山林に至る間において、内部に面する部分はことごとく燻焦し、なお直接爆風に当らぬ背面には異状なし。
六 その他

1



大橋町所在のガスタンクは3分の1程度より爆風の進行方向に向って倒壊していたが、その陰にあたる雑草は点々と燻焦の程度にとどまり、なお疎開廃材の積み重ねたものはそのまま残っていた。

2


爆風は山峡等を通過する際きわめて強烈なようで、竹ノ久保町上方の山林杉林約100本は根元より同一方向に押しつけられた型で倒れていた。

3



爆風は中心点より半径約40キロに及んだようで、西彼杵郡亀岳村(現在西海市)および脇岬村(現在長崎市)において農耕中、爆風圧を感じた者もあった。

4



熱風は部分的には相当の広範囲におよび、川南香焼島造船所(中心点より約9キロ)にて稼動中の従業員1人は閃光を認めた際、顔面に軽度の火傷を負った。


 また、被害現場に残存する建物、草木の残骸、被害程度の濃淡等の調査によって、総括的に次のように判断された。


一 爆心地よりの距離による被害状況
1キロ以内の区域
 人畜は強力な爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕し、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より強力に火災を発生す。墓石の倒壊続出す。草木は大小にかかわらず爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。
2キロ以内の区域
 人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負う。家屋その他の建物、木柱は約80パーセント倒壊し、かつ各所より次第に火災を発生し大部分が焼失した。   コンクリート柱、鉄柱の倒壊なし。草木は一部炎上枯死。
2キロ~4キロ以内の区域
 人畜は強力な爆風にともなう飛散物によって一部重軽傷を負い、輻射熱線により一部は火傷をこうむる。   黒色の物質は引火を来し、家屋その他の建物はおおむね半壊、木柱の焼失せるものあり、一部の建物は焼失した。木柱表面には爆心に向い、黒い焼痕を生ず。
4キロ~8キロ以内の区域
 人畜は爆風にともなう飛散物によって一部重軽傷を負い、家屋は半壊または一部損壊。  15キロ以内   相当強力な爆風を感じ、家屋の窓ガラス・扉・障子などを破壊。
二 爆風
 爆心より放出した爆風は放射状に地上の物体を傾け倒し、爆心より1キロまでは立木はことごとく爆風の方向へ薙ぎ倒され、2キロの鉄筋コンクリート建物は屈曲した。
三 地域および地形との関係
 市中央を縦走する金比羅山稜および市東部に起伏する風頭・愛宕山丘陵地等の爆心地反対斜面および東部凹部の地上施設は、比較的近距離(爆心地より2~5キロ)であるが、被害は軽少である。これに比し、西浦上方面は爆心地より5キロ以上のへだてた山上まで一部焼失している


被害状況
死者 73,884人
重軽傷者 74,909人
  合計 148,793人
罹災人員 120,820人 (半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)
罹災戸数 18,409戸 (半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)
全焼 11,574戸 (半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)
全壊 1,326戸 (半径1キロ以内を全壊と見なしたもの)
半壊 5,509戸 (全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)
 この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものだが、これが今日の通説となっている。
 ちなみに、昭和20年(1945)9月1日現在の長崎県知事の報告書(第11報)には、屍体検視済のもの19,743人とあり、この検視はほとんどが原爆直後の混乱期に、被災地現場で行われたもので、即死状態の氏名不詳、性別不詳といった、いわゆる身元が判明しない死体も約2,000体に及んでいる。累々たる死体の群れ、黒焦げや、ひどく損傷した遺体を目前にしては、身元確認の術もなかったことが、この数字からもうかがえよう。
 またこのほか行方不明として届出のあった者が、1,927名あり、何れも死亡したものと思われるともある。

原子爆弾とは

原子爆弾の特徴

 原爆は従来の火薬による爆弾とは違った特徴をもっている。

 その第一は原爆は従来の最も強力な爆弾に較べても何千倍、何万倍という桁違いに強力な爆発力を持っていることである。一時に発生する強大なエネルギーにより、非常に高い温度が出現し、広範囲に熱線を放出し、火災や人体に火傷をおこさせる。また、空気は異常な高圧となり、これが急速に膨張するため、特にその前面が衝撃波となり、その強い爆風が大きな破壊力を発揮する。

 第2の特徴は、火薬による爆弾と異なり、爆発と同時に透過力の強い放射線(ガンマ線や中性子線)を放出すること、また中性子線によって爆心地付近の大地が一面に放射性物質と化したり、いわゆる“死の灰”と呼ばれる核分裂生成物により、広い範囲にわたって、長期間放射線の被曝にさらされることになる。

長崎・広島の原爆


 長崎・広島の原爆の原理は、長崎ではプルトニウム239(239Pu)、広島ではウラン235(235U)に、中性子を衝突させると、それぞれの原子核が2個の原子核に分裂し、その際平均2.5個の中性子が飛び出すと共に、高いエネルギーが発生するという現象を利用したものである。

 こうして飛び出した中性子が別のプルトニウム239またはウラン235に衝突するとそれが核分裂をおこし、また平均2.5個の中性子を放出する。

 この反応がネズミ算式に拡大し、いわゆる核分裂反応をひきおこす。



若者が、自分の為に、いかに生きていくかではなく、お国の為に、いかに死ぬかを考えていた時代!!遠い昔の話では有りません。

私たち先人達は、ささやかな幸せを夢見て

ただただ愛する人々の未来を守りたかっただけなんです。

東京大空襲 【とうきょうだいくうしゅう】

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町を中心に行われたアメリカ軍による大規模な空襲。東京への空襲は、44年11月24日から、サイパン島などのマリアナ諸島を基地とするB29爆撃機によって100回以上繰り返されていたが、いずれも日中に1万メートル以上の上空から軍需工場を目標とするものだった。しかし3月10日の大空襲は、深夜午前0時8分から2時間半にわたって、B29約300機(基地を出撃したのは325機、東京まで来襲したのは279機)が高度2千メートルという低空から侵入し、町工場と住宅地がひしめく市街地に爆撃を敢行。アメリカ側の公式見解では、「日本の中心部に集中している工業的および戦略的な目標を破壊すること」が目的とあるが、一般民衆への無差別爆撃で戦意を喪失させる意図は明らかだった。B29は、長時間燃焼するナパーム弾を江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に投下し、火の壁で住民の逃げ道をふさいでから、その内側に1665トンの焼夷(しょうい)弾を投下。市街地は完全に炎の海と化し、26万8358戸が焼失。100万8005名が罹災し、死者は8万3793名、負傷者4万918名とされるが(警視庁調査)、実際の死者は10万名を超えると言われている。3月18日に焼け跡を視察した昭和天皇は、「これでとうとう東京も焦土となったね」と感想をもらしたという(加瀬英明天皇家の戦い』)。
太平洋戦争中における日本側の死者数が東京大空襲に匹敵するのは、沖縄戦(45年4月1日の米軍上陸から6月23日の戦闘終了まで)の軍・義勇軍の死者10万人、県民の死者15万人(総人口の3分の1)、広島原爆投下による12万人、長崎の原爆投下による7万人だけである。非戦闘員の一般市民を標的に大量殺傷を行う行為戦争法規違反であるが、空襲から19年後の64年、日本政府は、爆撃計画立案指揮したカーチス・E・ルメイ司令官に航空自衛隊育成の功で勲一等旭日大綬章授与している。毎年3月10日には東京都主催追悼行事が東京都慰霊堂で行われているが、東京大空襲の記録を残すための施設は、国立にも都立にもなく、民間の「東京大空襲・戦災資料センターがあるだけである。    

建物外観

東京都江東区北砂1丁目5-4
〒136-0073
TEL 03-5857-5631
FAX 03-5683-3326

      

東京大空襲・戦災資料センターとは

東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。さらに2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、増築を実現しました。

 

戦争の悲惨さを  平和の尊さを  生命の重さを


毒ガス資料館

大久野島毒ガス資料館

【所在地】
広島県竹原市忠海町大久野島5491番地
         


 
【大久野島の過去】 
 大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合い3kmに位置し,数戸の農家が耕作を続ける島でした。昭和2年には,島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となりました。昭和4年には,東京第二陸軍造兵廠火工敞忠海兵器製造所による毒ガスの製造が始まり,昭和20年まで続けられていました。
 日本軍が毒ガスを製造していたということは,昭和59年(1984年)まで日本ではほとんど知られていませんでした。化学戦の実態は慎重に秘匿され,旧軍関係者以外の日本人はほとんど事実を知らなかったのです。昭和59年(1984年)に日本の化学戦実施に関する報道がされて以来,日本の毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍化学研究所(東京),大量製造したのは大久野島(広島県竹原市),充填は曽根(福岡県北九州市),化学戦の運用、訓練には旧陸軍習志野学校,といった日本の化学兵器の構図(陸軍習志野学校史)が明らかにされています。

【大久野島の現在】
 大久野島は休暇村として開発され国民の保養地となり,往時を偲ばせるものはわずかに砲台跡・発電場・毒ガス貯蔵庫など数少なくなっています。この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至ったこと,この痛ましい事実を今に伝えるため,関係各位からよせられた当時の資料を展示して毒ガス製造の悲惨さを訴え,毒ガス兵器をこの地から絶滅させ,平和な世界の確立を希求しています。
大久野島毒ガス資料館は,広島県,関係市町並びに障害者団体のご理解とご協力により昭和63年に建設されたものです。近くには,大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑が昭和60年(1985年)に建立され,安らかな永眠を祈願すると共に,恒久平和を念願しています。

電話番号 0846−26−3036(FAX兼用)
交通案内

広島空港から忠海港まで車で約45分・山陽自動車道河内

ICから車で約40分・JR呉線忠海駅から徒歩約5分,

忠海港から船で約15分。大三島から船で約20分。

開館時間 午前9時〜午後4時30分(入館は4時まで)
休館日

年末年始(12月29日〜1月3日)※そのほか、

臨時に休館することがあります。

資料館館内

展示室 (工員手帳,男子・女子用作業服,

液体毒ガス製造装置

(冷却器部分),大あか筒の外筒,パネル写真外)
研修室 (DVD映像 1.証言でつづる大野島

 2.おおくのしまは語る外)

料 金 19歳以上一般100円,団体(20名以上)80円
19歳未満一般 50円,団体(20名以上)40円


1 大久野島はどんな歴史をもつ島なのですか。

・大久野島は周囲約4kmの島です。もともとは、瀬戸内海を拠点に南北朝頃から台頭してきた村上水軍の末裔が住みついていた過疎の島でした。            

(注)村上水軍は因島村上・能島村上・来島村上とあわせて三島村上と称せられる。
 
日清戦争後、日露戦争の前、軍都広島と軍港呉を守るために要塞地帯法がつくられ瀬戸内海の島々や岬に砲台が設置され芸予要塞が構築されました。大久野島にも1902年、北部・中部・南部と3つの砲台が置かれ、あわせて16門が設置されました。それ以降大久野島と忠海町は軍隊と深いつながりをもつ島と町としてその歴史を刻んできました。

「大久野島はもともと、島には松の木が多くて松茸がよく取れ、潮が引くとサザエや貝がよく取れるし、漁師さんから獲りたての魚は買えるし、米や野菜は自分で作って食べられ、食べ物の豊富な住みよい島でした。昭和初期には4世帯が住み着いていました。」と住んでいた人は話しています。

・大久野島に毒ガス工場が設置されたのは1929年でそれから1945年の敗戦まで16年間、陸軍兵器工場が置かれていました。ここでつくられた毒ガスは、北九州の曽根というところに運ばれ、そこで、迫撃砲弾や航空機からの投下爆弾に装填され、戦場へと送られていきました。
長崎に投下された原爆がはじめは小倉を標的にしていたのは、米軍がこの毒ガス工場の存在を重視したからだという説もあります。

・毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたので、戦争中はこの島は地図からも消されていました。

・このように大久野島は、明治以降軍事的な要地として利用されてきた島です。今でも日露戦争前に造られた北部・中部・南部砲台の建造物が残されています。

2 なぜ大久野島に毒ガス工場がつくられたのですか。

・陸軍は,関東大震災(1921)のことがあり,化学兵器施設は,天災や不測の災害の危険防止のため関東から地方へ移したい。という考えをもっていた。
そのため・秘密が保たれるところ、・比較的居住地域に近く、労働力・資材の供給がしやすいところ ・毒ガスが漏れても回りに被害が少ないところ・ 中国大陸に近いところと考えていた。
危険な施設は東京ではなく、地方へという考え方は、産業廃棄物処理場・原子力発電所の設置によく似ています。

・一方、忠海町では芸予要塞が廃止され施設が引き揚げたあと、不況もあって町が沈滞していた。軍隊の施設なら不況に強いということもあり町は誘致に力を入れた。折から、忠海の望月忠吉町長は時の実力者政友会の望月圭介の子どもだったこともあり、政治的力を背景に誘致に成功したとも言われている。

3 日本軍の毒ガス製造と毒ガス使用について教えてください。

1929年陸軍造兵廠火工廠忠海製造所完成、毒ガスの製造始まる。最初は毒ガスの生産は需要の少ないこともあってサイローム(特殊赤土に青酸を吸収させる。)生産。ミカンの木に着く貝殻虫を駆除する農薬なども生産していました。

1937年日中戦争が始まると毒ガスの生産量が急増、中国各地で実戦に使われるようになりました。しかし、日本軍は国際法上禁止された毒ガス製造と毒ガス使用をひた隠しにしながら、日中戦争で使用し、多くの中国人を殺傷しました。

日本軍が毒ガスを製造したのは、陸軍の毒ガス製造工場である大久野島と海軍の毒ガス製造工場の神奈川県の相模海軍工廠の2カ所だけです。

相模海軍工廠は製造が始まったのも1943年で日中戦争末期であり、生産した毒ガスの総量は760トンで本土決戦に備えて国内各地の海軍の貯蔵庫に配備されたが使用されませんでした。

大久野島の毒ガス生産総量は6616トン、その約半分が国外に持ち出され戦争に使用され、日中戦争では約1万の死者が出たといわれています。日本軍が戦争で使用した毒ガスは大久野島で製造されたものでした。日本政府は赤筒の使用は認めていますが、致死性毒ガスの使用は公式に認めていません。しかし、たくさんの致死性毒ガスが中国に運ばれたのは事実ですし、使用したという証言もあります。

4 敗戦時、中国に持っていった毒ガスはどうなったのでしょうか。

敗戦時、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、中国の畑の中や川の中などあちこちに毒ガスを棄てて帰りました。そのために戦後、2000人以上の中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいます。掘り出された毒ガス缶が何か解らないので調べているとき被害を受けたり、工事中壊れた毒ガス弾の毒液が水の中に漏れ出ていて知らずにその中に足を入れたり毒液をかぶったりして被害を受けました。戦争が終わっても平和に暮れしている人を傷つけ生活を破壊しているのです。

1993年に発効した化学兵器禁止条約によって日本政府は中国に棄ててきた毒ガス弾を処理する国際的義務を負っています。2003年までに約70万発(中国側の資料では約200万発)を掘り出し処理しなければなりません。これをなすには莫大な費用と時間がかかると予想されます。2000年9月13日黒竜江省の北安市でその処理作業が始まりました。

5 大久野島に残されたていた毒ガスの戦後処理はどのようにおこなわれたのでしょうか

(1)敗戦直後、大久野島周辺に毒ガスがどのくら残されていたのだろうか。

敗戦時、大久野島とその周辺には約3000トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。これは世界中の人間を殺戮できる量です。国際条約で禁止されていた毒ガスはどのように処理されたのでしょうか。その方法を探っていけば、現在の大久野島の砒素汚染の原因も明らかになってきます。

大久野島の毒ガス処理を請け負って実施した帝国人絹三原工場の社史によると敗戦時の毒ガス貯蔵量は約3000トン、その内訳は以下のようでした。

(種類)              (貯蔵量)
イペリットガス(致死濃度)   1,451 トン
ルイサイトガス(致死濃度)    824 トン
クシャミガス(呼吸困難)      958 トン
催涙ガス(涙が激しく出る)      7 トン
         合計       3,240トン

周辺地域(忠海。阿波島・大三島)におかれていた毒ガスも大久野島に集められ1946年5月より毒ガス処理がおこなわれました。処理作業はイペリット・ルイサイトのような猛毒を処理するので非常に危険を伴うもので、製造するよりもむしろ危険でした。

(2)敗戦後大久野島に残された毒ガスはどのように処理されたのだろうか。                

①敗戦~進駐軍大久野島上陸までの毒ガス処理

致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。問題化するのを恐れた日本軍部は「証拠隠滅」を命じました。進駐軍が来るまでに処理しようと機帆船に積んで近くの海に大量に遺棄しました。毒ガス容器や毒ガス製造設備が1メ-トル四方に切り刻まれ海に投げ込まれたという広島大学の生物学者の研究論文、「貝の告発」によると戦後、約数年間、投げ込まれた海域の海底には生物が生息しなかったという。島周辺の海域からは戦後多数の毒ガス容器などが漁業者の魚網にかかって引き揚げられた。

②占領軍による毒ガス処理

戦後の毒ガス処理は英連邦軍(オ-ストラリア軍)によって行われました。本来なら化学兵器の専門部隊で行われるべき危険な作業を毒ガスの危険を知らない民間人が行ったために作業に従事した多くの人が毒ガス障害で悩まされることになりました。

【処理は三つの方法でおこなわれました】
海洋投棄・焼却・島内埋没による処理である。帝人三原工場の社史「帝人の歩み」によるとそれぞれの方法で処理された毒ガスの数値は次の通りです。

海洋投棄・・・毒液1,845トン、毒液缶7447缶、クシャミ剤9,901缶
       催涙剤131缶、60キロガス弾13,272個、10キロガス弾3,036個

焼却・・・・・毒物56トン、催涙棒2,820箱、催涙筒1,980箱

島内埋没・・・クシャミ剤(大赤筒) 65,933個
       クシャミ剤(中赤筒)123,990個
       クシャミ剤(小赤筒) 44,650個
       発射筒 421,980個

(A)海洋投棄による処理

イペリット・ルイサイトなど死に至らせる猛毒の毒ガスが船によって高知県の土佐沖まで運ばれ船ごと海底に沈められたり、また、別の船からは海洋に投げ込まれて遺棄された。積み込み作業は極めて危険にもかかわらず、作業に従事した民間人は、十分にその危険性を知らされていませんでした。
危険性を十分認識していなかったため、裸で作業している人たちもいます。

(B)焼却による処理
一部の毒ガスと毒ガス製造設備が焼却処理されました。毒性を消すため工場の建物の内部も火炎放射器で焼却されました。北部海岸にあった焼却場で働いていた業員はその後毒ガス障害に悩まされ早く亡くなったそうです。焼却した時、砒素などの毒物が飛散した可能性もあり、大久野島はかなりの範囲が汚染されていると考えらます。

(C)島内埋没による処理
毒性の弱い毒ガスである赤筒や発煙筒などが島内の防空壕などに埋没処理されました。

帝人社史には次の方法で毒ガスを埋没処理したと記述してあります。「クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、コンクリ-トで堰堤を造って密閉し、海水とさらし粉の混合物を注入してその処理を終わった。」赤筒や発煙筒を壕内の奥に入れ、入口をコンクリ-トで密閉、毒の中和のためにさらし粉と海水を壕内に大量に注ぎ込んだのです。このような簡単な方法で砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)が処理されました。

このような簡単な埋没処理によってもう、島内の毒ガスは処理済みであり、従って安全である。というのが今の環境庁の見解です。

海水とさらし粉で満たされた砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)は50年も経過すれば容器は腐食し原料が流れ出る可能性は高いといえます。砒素は元素であり永遠に分解されることはない、それが大久野島の地下水系に流れ込んだら大変なことになることは考えれば容易に予測できます。

1995年から環境庁がおこなった砒素濃度検査でも、地表よりも地層4m~5mのところから高濃度の砒素が検出されている場所もあります。これは地層深く砒素がしみこんでいるからだとも考えられます。このように、大久野島の毒ガスと毒ガス製造施設の戦後処理は、その後の大久野島の環境汚染につながる可能性を持った戦後処理であったのです。

6 大久野島でヒ素汚染が問題になっていますが毒ガスと関係あるのですか。

【考えられる砒素汚染】
戦後の毒ガス処理で現在の大久野島の環境汚染に影響を及ぼしていると考えられる点は三つ考えられます。
①毒ガス及び毒ガス施設を焼却したとき砒素などの毒物が飛散し環境を汚染している可能性がある。
②島内の防空壕やトンネルに埋没した大量の赤筒などが腐食し土壌汚染を引き起こしさらには地下水脈に砒素など有害なものが流れ込んでいる可能性がある。
③敗戦時、進駐軍が大久野島に来る前に日本軍の命令で証拠隠滅のため急いで、大久野島の周辺の海に投棄した毒ガス弾や毒ガス施設の残骸が海底に埋没し海底の土壌汚染 を引き起こしている可能性がある。

このように戦後の毒ガス処理の時、現在の環境汚染の原因となる可能性が残されたと考えられます。
現在も島内に埋没されていると考えられる約65万個の大・中・小の赤筒はその原料に砒素が含まれています。大量の赤筒を島内の防空壕に埋没させたままにしていて本当に安全と言えるでしょうか。埋没された時の様子などから考えても将来、さらに砒素による環境汚染の問題が生ずる可能性はきわめて高いといえます。


NBC兵器

■ NBC(ABC)兵器とは

NBCとはNuclear(核) Biological(生物) Chemical(化学)の力を使った兵器の事です。 つまり、核ミサイル、ウィルスや細菌などをばら撒く生物兵器や毒ガスのことです。
核ミサイルは世界の国の中でもあまり作ることが出来ていませんが、細菌や毒ガスは核ミサイルと比べて簡単かつ大量に生産できるので、保有しやすいのです。

 

■ 核兵器

核反応を利用した爆弾です。火薬と比べてあまりに強力なのでご禁制品です。まあ、どこからどこまでが良いのか悪いのかと言う問題はありますけど・・・。
つまり破壊力が大きい物はダメと言っても、爆弾だってより強力にするために性能を上げているのだから、どこまでならOKなんだという事です。

いわゆる、核ミサイルとは原爆を小さくし、ミサイルにのせて敵国へ飛ばすという兵器です。ただ、爆発した後に放射能で汚染されるため占領は無理です。まさに虐殺を行なう兵器です。それ以外の目的には使用できません。

中東で想定される事態として、例えばどこかの国がイスラエルへ核ミサイルを撃ちこみます。すると、イスラエル人は全滅するのですが、放射能が風に乗り隣国まで飛んできて、アラブ人まで殺してしまうのです。

これでは、意味がありません。そのため、持っている事ではったりをかます事は出来ますが、実際に使用する事は出来ないのです。まあ、核は使ってはいけないので、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下以後は使われていません。

ちなみにイスラエルは核を持っています・・・。

 

■ 生物兵器

生物兵器とは細菌やウィルスを敵国にばら撒き、国民を死滅させる兵器です。殺人ウィルス(バイオハザード・レベル4)をのせたミサイルを敵国に落とします。
すると、殺人ウィルスは瞬く間に広まり、その国の人間を殺していきます。ただ、人間の力で抑制できないのでどこまで広まるか分かりません。もしかしたら世界中に広まっていくかもしれないので、すごく危険です。
このため、核より危険かもしれません。しかも、開発技術は必要なく、ウィルスや細菌を集めるだけなのです。

今まで使われた事は無いと信じますが、WWⅠが終結した理由のひとつにスペイン風邪の流行で戦争どころではなくなったという話があります。風邪は敵味方関係なくウィルスが運びます。

ちなみに、ウィルスを退治する薬はありません。予防するワクチンは開発されていますが、天然痘とポリオ(小児麻痺)くらいで、殺人ウィルスのワクチンはまだ開発されていません。

 

■ 化学兵器

■ 毒ガス
化学兵器とは、科学ではなく化学によって生み出された兵器です。筆頭が”毒ガス”です。

毒ガスは大砲の弾に仕込んで敵に撃ちこんだり、敵に向けて噴霧したりします。これはあくまで自軍が風上にいないと自分自身も被害をうけてしまいます。原始的と言えば原始的です。
ただ放射能やウィルスのように後を引かないので、戦場で使う事が出来ます。噴霧して敵を倒した後へ中和剤を持った兵士が突入すればいいのです。

そして、毒ガスは製造も核爆弾ほど大掛かりではなく、生物兵器と同様、弱国の核兵器と呼ばれます。そう、いち民間企業のオウム真理教でも作る事が出来たのですから・・・。

中東ではイエメン内戦でエジプトが使用したのが最初で、イラクもイランや国内の反政府勢力に対して使用しています。それはマスタードガス(イペリット)というWWⅠで開発され、毒ガスの一応の完成を見た記念すべきガスです。皮膚に触れただけで効果があります。

2007年、イラクではアル・カイダ系ゲリラが自爆攻撃時に爆薬と共に塩素ガスを使用しました。被害者はイラク人多数とアメリカ兵でした。これは明確な毒ガス攻撃です。過去、アメリカはなかなか毒ガス禁止条約に批准しませんでしたが、なんと100年近く経って毒ガス攻撃を受ける事になってしまったのでした。

塩素ガスは第一次世界大戦で一番最初に使用された、(催涙ガスなどとは別の)敵を殺すための毒ガスです。この毒ガスを大量に吸い込むと、息ができなくなって死亡します。当時、この毒ガスを作ったのはドイツ人のハーバー博士(ユダヤ人で戦後ノーベル賞受賞)でした。

■ 無能力化ガス
無能力化とは読んで字のごとく、ガスを浴びる事で何も出来なくなる事です。これは毒ガスと暴徒鎮圧用に使うガスとを区別するためにある言葉です。
そう、催涙ガスは毒ガスではないのかと言う話は毒ガスが開発されてから現在までずーっと議論が続いています。なんせ、催涙ガスは大量に吸うと死んじゃうので、危険なのです。

イスラエルは暴動鎮圧にしょっちゅう使っています。

■ 毒 兵器(毒素兵器)
自然界にある毒を使用する兵器も開発されています。これは、化学兵器とは呼べないのですが、同じ事です。自然界にある毒は人間が作り出した化学物質よりはるかに強力なのです。もちろん国際条約で禁止です。

VXガスと言うサリンより強力な毒ガスでも実際はふぐ毒の三分の一なので、ふぐの肝を食べる人は勇気があると思う・・・。

ハーグ陸戦条約
1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規とも言われる。
交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。

第一章 害敵手段、攻囲、砲撃
第23条:特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り。
毒、または毒を施した兵器の使用。
敵の国民、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。
兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。
助命しないことを宣言すること。
不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。
軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服またはジュネーヴ条約の特殊徽章を濫りに使用すること。
戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。
相手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止または裁判上不受理を宣言すること。
ジュネーブ議定書
1925年にジュネーヴで作成され、1928年に発効した、戦争における化学兵器や生物兵器などの使用禁止を定めた国際条約である。正式名称は、「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」
第一次世界大戦においてドイツ軍により初めて近代的な化学兵器が使用されたことを受け、1919年のヴェルサイユ条約では、ドイツの化学兵器の保有禁止が盛り込まれた。ジュネーブ議定書は、この制限を国際的なものとし、化学兵器の使用禁止を定めたものである。フランスにより提唱され、ポーランドによって生物兵器を対象に加えることが提案された。
ただし、この議定書において制限されたのは使用のみで、開発、生産、保有が制限されない点で化学兵器・生物兵器の包括的禁止の観点からは不充分なものであった。これらの点を含めた包括的な制限は、1972年作成の生物兵器禁止条約と、1993年に作成された化学兵器禁止条約を待たなければならなかった。

陸軍中野学校

陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、諜報防諜宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校(実施学校)。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号は東部第33部隊。

沿革

創設の動きは1937年(昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊福本亀治各中佐を中心として1938年(昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より特種勤務要員(第一期学生19名)の教育を開始した。1939年(昭和14年)年5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、7月には第一期学生の卒業を迎える。1940年(昭和15年)には「陸軍中野学校」と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた。

創立当初は東京九段愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年(昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町疎開富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、太平洋戦争大東亜戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍特殊戦スクールに相当)へと変貌する。1938年の開校まで統合された教育機関がなかった為、日本軍にとっては有意義であったが、遅きに失した観はある。

1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として「陸軍中野学校二俣分校」が設立された(1974年(昭和49年)、ルバング島から帰国した小野田寛郎や、インドシナ戦争中にベトミンクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男が同校の卒業生であった[1])。

学生陸軍士官学校陸軍予備士官学校陸軍教導学校(1943年8月廃止)出身者から選抜された。その大半は一般大学卒等の学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生(陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。

1945年1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学出身者が最も多く、次いで拓殖大学東京外事専門学校、そして早稲田大学慶應義塾大学明治大学等が続いた。一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点が求められていたためである。職業軍人たる陸士卒の現役将校の場合、軍人としての規律や高度な軍事知識は身に付いているものの、その知識は偏っていることから判断を誤るおそれがあり、態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまう為、商社マンや新聞社通信員等の民間人を装って諜報活動を行う際に妨げとなるから避けられたのである。

校風

学生は軍服を着用せず、普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されていた。そのため、里帰り時には親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われる。また、軍刀を佩用し長靴を履き将校軍服を着る陸軍将校に憧れ陸軍を志した手前、入校当初には落胆する者も存在した。

八紘一宇大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。また、天皇に対する見方も自由であり学生や教官の間で天皇制の是非が討論される事もしばしばだったという。敵性語たる英語使用の自粛も全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から話すことを推奨された。

教育

午前中は諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、午後は自習となっていた。ここでいう「諜報」とは、情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても素早く的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し偽の情報を流して敵を混乱させることである。いわゆるスパイの特殊技能そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。

中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。

講義では、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した明石元二郎大佐が何度も紹介され、彼が学生の英雄となっていた。教官は、中野学校の一期生や、参謀本部、陸軍省の中堅将校などであった。

2012年(平成24年)に発見された1期生の卒業報告書『後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育報告』によると、1,361単位中1,290単位が実施された。科目は、軍事学兵器築城航空学など)、外国語英語ロシア語中国語)、武術剣術柔術忍術)、細菌学薬物学法医学、実習(通信・自動車など)、その他(気象学交通学心理学統計学など)など多岐にわたっている。また1938年(昭和13年)7月に入所した1期生19人の内訳は、大卒3人、専門学校卒11人、中卒4人、中退1人となっている。

このような教育は1945年3月まで行われたが、同年3月10日の東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県富岡町に移設されることとなり、これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われた。

卒業生の動向

各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争中も活発に活動した。 参謀本部勤務などの他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動に任じたが、戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいた。沖縄戦においても義烈空挺隊に数名が要員として参加している。

1941年12月8日にはじまるマレー作戦では、中野学校出身者らで構成された藤原岩市少佐(中野学校教官)率いるF機関(藤原機関)が、英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開し、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や軍事施設破壊などに活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて樹立されることになる。

ビルマの戦いでは、1940年より、中野学校出身者らで構成された南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させた。

蘭印作戦では、第1挺進団によるパレンバン空挺作戦に出身者が随行し空挺降下、また第16軍上陸部隊によるジャワ攻略戦においては、オランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流し、オランダ軍を混乱させた謀略放送に中野学校出身者が深く関与していた。

沖縄の戦い波照間島)では、1945年2月、山下虎雄(偽名、中野6期戊種)は小学校の代用教員として潜伏。全校生徒250名の4年生の担任となり、青年学校の柔剣道教師を兼任した。その後、石垣島司令部より波照間島に米軍の上陸が予想されたため、「全島民を西表島に疎開させ、その後建造物一切を焼却し、井戸を埋没して使用不能にせよ」との命令が出されたが、山下は西表島への疎開は困難であることなどを何度も司令部に訴えたが、司令部に聞き入れてもらえなかったため、疎開を受け入れない一部の住民には軍刀で脅すなどして、全島民を西表島へ強制疎開させた。その際、西表島に連れていけなかった住民の所有する2,000頭あまりの牛馬、羊や豚や鶏などを住民とともに殺処分し、処分された家畜は日本軍の食料とした。住民はマラリアの流行る南部地域に移住したため、由布島に移住したもの以外はマラリアにかかることとなり多数が亡くなった。戦争マラリアの項も参照。

至誠を重んじ、本気でアジア国家の独立を願った中野学校出身者は、戦況の悪化からアジア諸国の独立を迅速に達成できない軍首脳と衝突することも多かった。

二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である(一説に2,131名とされる)。公式には1945年8月15日の敗戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事田中徹雄大尉など)、GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争(谷本喜久男少尉など)を始めとする戦後の東南アジア独立戦争に携わった卒業者も多くいた。

施設用地の変遷

  • 中野学校の用地は戦後、警察大学校警視庁警察学校などの警察施設地へと転用されたが、これらの施設は2001年(平成13年)に府中市へ転出し、2008年(平成20年)4月1日に東京警察病院千代田区から移転した。跡地には福本亀治揮毫の「陸軍中野学校趾」の石碑が建てられている。
  • 富岡校として使用された富岡中学校は現在、群馬県立富岡高等学校となっており、校内に「陸軍中野学校終焉之地」の碑などが建てられている。
  • 二俣分校跡地は現在、浜松市保健所天竜支所となっており、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建てられている。
  • 2012年現在、再開発プロジェクト「中野四季の都市(まち)」が進められている。敷地には先述の東京警察病院の他、中野四季の森公園、中野セントラルパークが竣工し、明治大学中野キャンパス、帝京平成大学中野キャンパス、早稲田大学中野キャンパスが2013年の開校に向けて建設中である。

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