【 優しさをありがとう 】Apex product

【 優しさをありがとう 】
 
二度の脳梗塞(のうこうそく)で重度の障害が残った夫は、
狭心症(きょうしんしょう)の発作をくり返しながら自宅療養を続けている。
そして、人との接触を求めて、ときおり外出もする。
冬の一日、急に思い立って遊園地に行った。広場の隅に車椅子を止め、
私は傍(かたわ)らに立って元気に走り回る子どもたちを見ていた。
思ったより寒く、早く帰らねばと思った。そのとき、広場に歓声があがった、
ドナルド・ダックが現れ、子どもたちがどっとかけ寄ったのだ。
ところが、そのあひるさんは子どもたちをかき分けて、どんどんかけて
こちらへ近づいてくる。広場の隅にいる私たちのほうへ...
そして、車椅子に乗った夫の前に来ると、大きく一礼して、
大きな手で夫の背中を撫(な)でてくれた。二度、三度。
突然のできごとに、私たちも周りの人も驚いた。夫の背中を撫でて、
今度は私の腕をさすり、両手で包み込んでくれる。大きな白い温かい手で...
優しさが老いたふたりを包み、その温かさが周りに広がって
見ていた人たちのあいだから拍手が起こった。
夫の顔を見ると、涙がほろほろ頬(ほほ)に伝わっている。
風の冷たさを忘れた。「優しさをありがとう」
と言うのが、精一杯の感謝の言葉。あひるさんはウンウンとうなずいて、
もう一度夫の背中を撫でて、子どもたちのほうへかけていった。
 
出典:涙が出るほどいい話
 
出版:河出文庫