はだしのゲンが削除されたのは、小銭稼ぎや鯉泥棒とかの些細な事象じゃないんじゃないのかな。
話の中にも出てくる日本軍の中国での蛮行の話や戦後の朝鮮人の無法なおこないを六才の子供に理解されているけれどどうなんだろうね。日本軍の蛮行の話で思い浮かんだのは真逆な通州事件の話。
そして戦後朝鮮人の無法なおこないは止めにはいった民間の日本人が虐殺されている。今でも、TVで朝鮮人の犯罪行為は殺人や強姦などは歴史的にも些細なことと言い切る自称ジャーナリストと同じ何だよね。
それ以上に学校教育で日教祖の教師たちが事実をすり替えて教えていた内容そのもの。
それは、お隣さんの慰安婦アニメと同じ何だよね。確かにはだしのゲンの描写の断片は見せるに正しいだろうけれどもっていく方向が志位体制の共産党とかぶるんだよね。
自分には、先代江戸家猫八師匠の兵隊として見てきた体験記の話のほうが心に来るんだよね。加齢なる親父より
広島市の市立小学校で、平和教育の教材として使われている漫画『はだしのゲン』。しかし、4月から使われる教材では削除されることが、広島市の教育委員会で決まった。 『はだしのゲン』は、2012年に亡くなった漫画家・中沢啓治さんの被爆体験をもとにした作品。広島を舞台に、戦中・戦後の激動の時代を生き抜く主人公の姿を通して、被爆の悲惨さ、戦争の不条理や愚かさなどが描かれている。
教育委員会で問題とされたのは、主人公が街角で浪曲のまねごとをして小銭を稼ぐ場面と、栄養失調の母親に食べさせるために、池の鯉を盗む場面。なぜこういう状況になったのか、じっくりと理解して考えさせるためには時間が足りない――として、削除することになったという。SNSには 《『漫画』だからという理由だけで、大人の身勝手な理由で削除。広島市民として恥ずかしいし情けない》
《戦時中の話が現代の実態と合わないの当たり前じゃん。なぜ子供がそうせざるを得なかったかを事実から学ぶんやろ…》 と嘆く声があふれている。なかには 《核の廃絶を訴えて平和外交ができるのに、岸田首相の出身であり、かつ、被爆都市の広島がこのような選択をするのは愚の骨頂》 《広島サミットがあるからアメリカ様に忖度してるの?原爆落とされたことも無かったことにしたいのか》
と、広島を選挙区とする岸田文雄首相や、5月に開催されるG7広島サミットへの忖度ではないかという批判もある。 その一方で、削除に理解を示す意見も少なくない。 《この作品は作者が6歳の時の体験を元にしたノンフィクションの側面と、作者が傾倒した共産主義のプロパガンダ的な側面が有ります。政治的に偏った考えに基づいた作品を公立学校の副教材から外すのは致し方ないかなと私は思います》
《「はだしのゲンで被爆の実態に迫りにくい」は事実やろ。3巻からあと残り全部ヤクザ漫画やぞ》 《自分も少し読みましたけど、原爆の漫画と言う印象より戦後のハチャメチャな日本の描写と言う印象しか残っていません。原爆についてなら「黒い雨」を読んでもらうほうがよほど良くわかるのではと思います》
広島市教育委員会は、今回の決定について「作品自体を否定することではない」としているが、この作品に関しては、以前からさまざまな論争が起きている。 2012年には、島根県松江市で「間違った歴史認識を植えつける」として、学校の図書館に置かないよう求める陳情があった。松江市内の小中学校では閲覧制限がかけられたが、翌2013年、日本図書協会の要望もあり制限は撤廃された。
2013年には「差別的表現が多すぎる」として、大阪・泉佐野市長が学校の図書館から回収を要請。2014年には同市の校長会が「読むことさえできなくするのは子どもたちへの著しい人権侵害」として、回収撤回を要望。これを受け、図書は返却された。
多くの国で翻訳され、原爆の悲惨さを世界中で伝えてきた『はだしのゲン』。教材としての是非は別として、あの時代の「リアル」を伝える、唯一無二の存在ではないか――。
原爆をテーマに、勇気と感動を与え続けているロングセラー
「はだしのゲン」は、先生ご自身の被爆体験をもとに描かれた、中沢先生の代表作です。当初、週刊少年ジャンプ(集英社)上で連載が始まり、その後、刊行誌を変えながら連載は続きました。最初に単行本として発売したのが汐文社で、当時は、4巻までの発売でした。
中沢先生は、その後、東京へ来てからのゲンの活躍を描く予定でしたが、2009年正式に執筆を断念。最終的には10巻まで刊行されています。
最初に刊行された単行本である、オレンジの背表紙の「コミック版」と呼ばれるシリーズは、とくに公共図書館や学校図書館で広く普及し、多くの子どもたちに、核兵器の恐ろしさや平和のすばらしさを伝えました。
「お笑い三人組」の八ちゃん役で俳優としても全国的な人気を誇った。「江戸八丁荒らし」と呼ばれた初代江戸家猫八の6男に生まれ、初舞台は8歳だったという。戦前は、古川ロッパ一座で俳優修行を積んだが、後に兵隊として広島に駐屯し被爆した。戦後 江戸家猫八を襲名し、父親の墓の前で練習を重ねてやっとうぐいすが鳴けるようになったという。波乱万丈の人生が語られる。
1921‐2001年、東京都出身。初代江戸屋猫八をはじめとした、動物の声帯模写を得意とする物真似師。戦後、父の弟子であった二代目から父の芸を受け継ぐように勧められ、芸を学び、寄席修行を始めた。その後50年には三代目猫八を襲名。明るい人柄と、見事な声帯模写で幅広い世代の心をつかんだ。テレビでは、演芸番組で人気を博したほか、俳優として連続テレビ小説『マー姉ちゃん』などで好演。息子は四代目江戸家猫八、孫は二代目小猫を継承。
著者が亡くなったのは2003年、これが遺著となった。記者となって演芸関係の文筆に携わるようになるまで、漫画家、力士としての経歴を持つ。
力士時代には安芸ノ海の付け人として、双葉山の連勝ストップの歴史的取組を間近に見た。慰問で満州に渡った志ん生と圓生が行方不明と楽屋の噂に聞き、甘粕理事の死に立ち会った芸人の実話を聞き、先々代の小さん(人間国宝になった五代目の前)が亡くなる場面に寄席で立会い、正岡容・安藤鶴夫・玉川一郎、三者三様の先輩芸評家と交流しながら、戦後のヒロポン禍、歌笑の爆発的人気、etc.を目撃した。
この著者ならではの興味ぶかいエピソードが綴られています。
八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃ころ
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜ぬけ落ち、
白血球は減へり続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏
*広島平和記念資料館のサイトより
三代目江戸家猫八と原爆。
8月6日、広島に原爆が投下されて69年になる。
芸人の中にも、あの時、あの場所にいた人がいる。
小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)
小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』は以前にも、“わらわし隊”のことや、バシー海峡、昔々亭桃太郎のことなどについてこの本から紹介したことがある。
昭和二十年八月六日に日本軍の一兵士として広島にいた芸人について、本書から紹介したい。
猫八と原爆
落語家ではないが、声色の江戸家猫八(三代目・岡田六郎)も出征芸人であった。
それもヒロシマで原爆に遭っている。
父が初代の猫八だから根っからの芸人であるが、二代目ではなく三代目。中に一人、二代目がいるのである。あとで書く。
昭和十六年に古川ロッパ一座に入り、役者を演っているとき、赤紙が来る。骨と皮の体だから、召集など無縁と思っているところへ来たのだから、本人もおどろいたが、ロッパもあわてた。
当時、満二十歳になる男子は、徴兵検査の義務があった。検査は甲種、第一乙、第二乙、丙種とあり、甲種は文句なしの壮丁だった。戦争末期には丙種だった歌笑にまで赤紙が来たのだから、仲間たちは「歌笑が兵隊じゃァ、日本も勝てないよな」と、小さな声でつぶやき合った。猫八はその第二乙だった。
新潟の部隊に入り、南方だ北方だとあちこちを引っ張り廻されるうち、ようやく兵隊らしい体格になる。そして広島県宇品で終戦を迎える。
根が芸能人だけに、部隊では重宝がられ、演芸大会にはいつも主役をつとめ、ロッパからの手紙も励みになる。東京大空襲(二十年三月十日)のあと、許可が出て東京に帰り、浜町の自宅の焼け跡を呆然と見る。
あのヒロシマの日(二十年八月六日)のことは、猫八が自伝の中で書いている。その一冊『兵隊ぐらしとピカドン』(ポプラ社刊)によると、
(中略)市内にはいると死体が横たわっている。トラックに何台ものせて
太田川の土手へはこぶ。路上には、電信柱をささえるワイヤーロープに
つかまったままで死んでいる人、川の中から上半身を水の上にだして
虚空をつかむようにしてこう直している死者。水死体となって、川にういて
いる男、女、そのなかには、牛や馬もまじっていた。
キノコ雲はまだきえない。
広島の上空のはんぶんに大雨がふったかと思えば、その反対側が
晴れてお日さまが見える青空。気象の変化もともなった、まるで、
キツネの嫁入りのアレである。
そして、広島市内を歩く。
その朝、猫八は宇品の兵舎にいた。爆音が響き、小さな落下傘が降った瞬間、ピカーッと光ってドーン。すぐ防空壕に飛び込み、五体満足を確認する。
「街の様子を見てこい!」
という班長命令で飛び出したのが、前記のスケッチである。
これがのち猫八の売りものの「原爆体験記」になる。芸術祭公演にも、テレビの演芸にもなり、多くの人に感動を与えた。
猫八の原爆体験のことは、他の媒体でも知ることができる。前日八月五日の夜、猫八は演芸大会で優勝していたことなどを含め「ヒロシマ新聞」に掲載されている。「ヒロシマ新聞」の該当記事
「ヒロシマ新聞」とは何か。同サイトから引用。
このサイトは被爆五十年目の年に制作されたヒロシマ新聞に、二〇〇五年に新たな情報を加え再構成したものです。ヒロシマ新聞とは、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付けの新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。一日も早い核兵器廃絶を願って…。
同サイトには、文章・写真の無断転載禁止と書かれているので転載はしないが、ぜひご覧のほどを。八月五日の演芸大会の優勝賞品の酒を抱えた猫八の写真もある。
演芸大会の賞品の酒に酔って点呼に遅れたことが、もしかすると原爆の被害を少しは抑えることになったのかもしれないが、放射能が残る市内を歩いたことで、猫八は原爆症になっている。
そして、あの日、ラバウルや北千島での恐怖体験をも上回る原爆被害の地獄絵を猫八は目の当たりにしたのだ。
三代目猫八は当代の父で、初代の六男(だから本名が六郎)。私と同世代以上の方は、「お笑い三人組」の八ちゃんを思い出すだろうし、「鬼平犯科帳」の相模の彦十役の渋い演技に思いが至る方もいるだろう。
大正十(1921)年十月一日生まれの岡田六郎は、あの時、宇品に駐屯する暁部隊の兵長として軍務に従事していた。満23歳の時だ。なお、暁部隊には丸山真男も所属していた。
岡田六郎は戦後、原爆症に苦しんだ。そして、原爆投下直後の広島の惨状の記憶が、猫八のトラウマになっていたようだ。
彼が意を決して戦争のこと原爆体験のことを語り出した(正式には「従軍被曝体験記」)のは昭和五十六(1981)年のことであり、『兵隊ぐらしとピカドン』が上梓されたのは昭和五十八年になってからである。
四年前2010年8月のNHKの戦争特集の中で放送された「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いたことがあるが、あの映像の中で戦争の悲惨さを語っていた森光子さん、玉川スミさん、喜味こいしさんは、みな旅立った。
先代猫八、かつての岡田六郎兵長も平成十三(2001)年に八十歳の生涯を閉じた。
広島平和記念資料館のサイトに、以前に開催された企画展の紹介ページが残っており、昭和二十一年頃の猫八が奥さんと一緒に移っている写真が掲載されている。このページには、喜味こいしさんの戦争体験も掲載されている。
広島平和記念資料館サイトの該当ページ
明治、大正生れの方から戦争体験をお聴きする機会が次第に失われていく。
先月下旬、広島に原爆を投下したB29爆撃機“エノラ・ゲイ”の12人の搭乗者のうち最後の生存者が亡くなったというニュースを目にした。93歳だったようだから、原爆投下時点で、猫八とほぼ同じ年齢だったことになる。
二十代前半の若者が、一人は空から原爆を投下する役目を持ち、もう一人は投下後の悲惨な光景を目にすることになったわけだ。
広島では、核兵器のない世界を訴えても戦争について語らない首相が式典に並んでいた。
本当に核兵器のない世界を望むなら、その材料となるプルトニウムを算出する原発の存在も否定すべきだろうと思うが、日本の首相にはそのような想像力はないようだ。彼の信条は一つ。アメリカが喜ぶことをすること。広島と長崎に原爆を投下したアメリカにヨイショする幇間なのである。原爆を含む戦争の被害者の方々は、今の日本の首相をどう見ているだろうか。
“わらわし隊”の人気者であったミス・ワナカは、敗戦の翌年に心臓発作で三十六歳の若さで亡くなった。ヒロポンで命を縮めたと言われる。私は、戦時中の大陸慰問の際にワカナの漫才で大笑いしていた数多くの兵士が、戦争の犠牲者になったことと、ワカナの戦後の早逝を、分けて考えることができない。
戦争で亡くなった方も、肉体は生き残ったものの心の病に悩んだ人も、同じ戦争の犠牲者だと思う。
イラク戦争に関連して中東に配備されていた自衛官の自殺者が非常に多いという統計がある。湾岸戦争、イラク戦争から帰還した米兵に自殺者が多いのは周知の事実である。私は、それらの人も広義の戦争犠牲者だと思っている。
猫八は、貴重な映像を遺してくれた。昭和六十三年、六十七歳の時に収録されたものだ。
広島平和資料館サイトの「平和データベース」の「被爆者証言ビデオ」で“岡田六郎”と検索してもらえれば、猫八の証言ビデオを見ることができる。
広島平和記念資料館・平和データベース
三代目の江戸家猫八は、芸人として通常の高座やテレビで戦争の影を一切見せることはなかった。しかし、原爆症での苦しみは後々の人生まで残ったらしい。映像にあるように、ほんのちょっとの運命のすれ違いで、あの時に広島にはいなかったかもしれない。それでも、幸運にも芸人として生き残る道を歩むことができたことに感謝の思いがあったからこそ、敗戦後三十年以上も過ぎてから、戦争体験を伝えようとしたのだと思う。被爆者手帳を受けとったのは、昭和五十九年のことだった。
戦争への記憶が薄れることを利用するかのように、日本が戦争のできる国になる準備を進める為政者がいる今だからこそ、反戦、非戦の声を絶やしてはならないだろう。猫八が伝えようとした記録も、貴重なものだと思う。
著者の早坂隆氏自身が「プロローグ」の冒頭で記している、「これから記そうとしているのは、日中戦争にまつわる、ちょっと変わった類の物語だ。
『ちょっと変わっている』といっても、それは虚構や作り話ではない。あくまでも、本当にあった事実だけを扱ったノンフィクションである」という言葉どおり、
本書は当時のお笑い芸人が中心になって結成された、戦時慰問団「わらわし隊」の記録であるため、戦前・戦中の本でありながら、大いに楽しく
読める本でした。それでいて、当時の重要な事件・事柄にもしっかりと触れている大変重厚な本です。
まさに、「戦争の主役は、政治家や高級軍人ではなく、一般の庶民である。彼らの等身大の表情を淡々と描くことが、戦争の臭いや感触を理解するための
最良の方法であると思っている。これから紡ぎたいのは、人間味のある戦争の話だ。日中戦争における一種の異観と言ってもいい。戦中の日本人を
『天皇に洗脳されていた』『好戦的な軍国主義者』としか捉えきれていないような人にも、じっくり読んでいただけたら嬉しい。約70年も昔の日本人も、
平成を生きる私たちと大して変わらない社会集団だったという一側面を、感覚の受け皿として共有したい」とあるように、本書は生々しい話ばかりです。
「わらわし隊」の活躍については、本書の「柱」とも言うべき内容なので、何を紹介しても興味深い話ばかりなのですが、個人的に注目したいのが、
先述したように当時の事件や事柄にもしっかりとページを割いていたこと。とくに「南京なんたら」と呼ばれるものについては、当時の南京での
公演記録などがちゃんと残っていたので、「わらわし隊」の活躍を追いながら、当時の南京の真の「景色」がありありと浮かび上がる素晴らしい内容でした。
たとえば、国際安全区幹事でYMCA書記長のジョージ・フィッチが言う、「一日に1000件も強姦が続発」、「昼も夜も日本軍の暴行が続いた」などの証言。
早坂氏によれば、
「改めてわらわし隊の南京公演に関する複数の資料を点検していこう。わらわし隊の公演に主として使われたのは国民大会堂であり、収容人員は
中国側の資料によれば『2500人』である。この大会堂が連日、満員となっていた。この当時、南京にいた日本兵の数は約4000人。南京陥落戦の後、
つまり昭和12年の年末から昭和13年正月にかけて、既に多くの部隊が南京から他の戦場へと転進していた。その後も南京に留まっていたのは、
奈良の38連隊、津の33連隊が中心で、各連隊それぞれ約2000人、合わせて約4000人という人員である」
「南京で警備にあたっていた約4000人のうち、わらわし隊の舞台に約2500人が集まっていたことになる。実に駐留部隊の約62・5パーセントの
兵力が一ヵ所に集まり、しかも演芸を観て腹をよじって笑っていた。それが昭和13年1月23日~27日にあった南京の本当の光景だ。
これが『何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした』最中の景色と言えるだろうか」と
検証を進めてゆきます。
また、早坂氏は南京攻略戦の前後に起こったと言われる「ダイギャクサツ」についても、多くの犠牲者が出たことは、いくつもの文献を調べて
「明らかである」と断りを入れたうえで、
「ただ、それにしても、それらが『虐殺』と言われる行為に相当するものなのかどうかについては、極めて冷静な議論が必要である。一般的に
『虐殺』とは『一般市民、子女といった非戦闘員、武器や戦闘服を捨て戦闘の意志を放棄した人々を殺害する行為』と定義される。通常の戦闘行為の
結果によって発生した戦闘員の犠牲者については、通常『虐殺』とは言わない」
「さらに、南京での『捕虜の虐殺』が問題視されることも多いが、軍服を脱ぎ捨てた所謂『便衣兵』の処刑については、便衣兵自体が国際法違反であり、
ハーグ陸戦法規(1907年)の保護を受ける資格がないという議論も無視することができない」
「道徳的には『<戦死体>も<虐殺死体>も、同じ死体だ』ということになろう。それは道徳や倫理の世界でならそれで正解だ。私も感情的には
そう思う部分もある。しかし、南京陥落を巡る歴史認識が、既に政治的、外交的意味合いを有している現在、この問題はあくまで『当時の戦時国際法に
違反するか否か』という文脈でとらえていく必要がある。通常、二国間の軍隊による戦闘は、それがいくら大規模な犠牲者を出したとしても、
それだけでは戦時国際法の違反にはならない。戦争そのものを犯罪とする法規もない」と、詳細に解説します。
本書で早坂氏が使用している資料は、検閲される必要もない「わらわし隊」の記録が中心なので(中には中国側の資料もある)、芸人の彼ら彼女たちが
実際に見た南京の「景色」、戦争の「景色」というものは、早坂氏が「プロローグ」で語っていた暗黒史観に囚われているヒトたちの主観的な「景色」とは
真逆の、すがすがしさすら感じる生の「景色」でした(囚われているというか耽溺しているんでしょうね)。
さらに、巻末の麻木久仁子の解説も ъ(゚Д゚)グッジョブ!! 本書に収められている、早坂氏が中国で体験した「お約束」とも言うべきエピソードを
引き合いに出して、
「この時、日本人の一青年として早坂さんはどうしたか。親の世代でさえ戦後生まれ、団塊ジュニアの早坂さんが、歴史とどう向き合うべきかという
問いと真摯に向き合う姿に好感が持てる。歴史を現代の価値観で判断したり断罪すべきではないという信念がよく分かるエピソードだ」と、
惜しみない賞賛を送っています。
さすがはこの人、かつてはTBSラジオ「バトルトークレディオ・アクセス」の金曜日担当として、相方の日刊ゲンダイ元・編集長の二木啓孝を、
毎週あやしていただけはあります。この解説のお言葉、後継番組をやっているチキチキバンバンに是非とも聞かせてやりたいものです。
本書は、本当に一風変わった前線と銃後のノンフィクションです。この手の本、それなりに読んできましたが、「お笑い芸人」の視点から見た
「戦争」という、大変面白いテーマなので、知らなかったエピソードが山のようにありました。近代以降の我が国の歴史(文化史とともに)を深く、
そして面白く知ることができるので、死んでもオススメの一冊。
政府は昨年12月、今後5年間の防衛費を計43兆円とする防衛力整備計画を閣議決定しました。こうした状況を受けてのものかどうかはわかりませんが、タレントのタモリが発言した「新しい戦前」という言葉も話題になっています。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏はこの発言について「鋭く、時代のポイントをついていた」と評価し、「『新しい戦前』が『本当の戦前』にならないようにコントロールすること」が大切だと指摘します。若山氏が独自の視点で語ります。
タモリの発言「新しい戦前」が話題に
1月13日(日本時間1月14日)に日米首脳が会談。日米同盟を一層強化していく方針で一致した(写真:ロイター/アフロ)
昨年末に放送されたテレビ番組「徹子の部屋」(テレビ朝日系)にゲスト出演したタモリが、2023年について問われ「新しい戦前になるんじゃないですかね」と発言したことがネットで話題になっている。
タモリ本人が詳しく説明したわけではないが、この国が戦後の平和主義から一転して、戦前の軍国主義に似た状況になりつつあることを危惧したものと受け止められたようだ。 たしかに現在、国外では、ロシアのウクライナ侵攻、台湾や情報技術をめぐる米中間の緊張の高まり、国内では、防衛費の急増、反撃(敵基地攻撃)能力の整備など、戦争の匂いがこの国の内外に満ち満ちてきた。
これから日本は、ロシアなどを抜いて、アメリカ、中国に次ぐ、世界3位の軍事費をもとうとしているようだが、軍備というものは拡大の一途をたどる傾向があって歯止めがむずかしい。また最近、テレビ番組などにおいて政府批判の発言が抑圧される(自主規制も含め)傾向にあるという意見も少なくない。 タモリは「ブラタモリ」といった番組でも知られるように、単なるお笑い芸人におさまらない知識をもつ人物であるから、おそらく本人も、そういったことに対する警鐘の意味で発言したのだろう。
とはいえもちろん、現在と、本当の戦前との違いも大きい。 まず現在は、太平洋戦争に対する猛烈な反省のあとの戦後を通過している。情報技術、特に一般市民からの発信のツール(SNS)が格段に発達して言論を統制することが困難になっている。あらゆるところでグローバリゼーションが進み、日本文化そのものが変質している。つまり「新しい戦前」は本当の戦前と同じではない。
しかしこと軍事に関しては、突然のように戦前と似た様相が出現しつつあることもたしかなのだ。
「新しい中世」という言葉
従来「新しい中世」という言葉が存在する。タモリの発言もそれを踏まえたものだろう。 これは主として国際政治学的な用語で、単純にいえば近代化以後の世界情勢が中世に似てくるということであり、少し踏み込めば、世界を構成する主体が、近代的な主権国家だけでなく、多様化し複合化するということだ。
近代国家が成立する前の中世(特にヨーロッパ)は、宗教、王家、領主、都市民、あるいは帝国など、世界を構成する主体が多様で複合的であった。そして現代は、グローバリゼーションが進み、経済的にはEUやTPP、軍事的にはNATOやQUADといったブロック化が進み、主要な企業はほとんどが多国籍化し、映画や音楽などの文化も瞬時に国際流通する時代である。「国境」よりも、経済、情報、思想、政治体制、軍事同盟など、多様で複合的な「文化境界」の重要性が増している。
またかつて、文化人類学や記号学や建築学などの分野で、ポストモダンという言葉が流行した。これは近代以後という意味であるから新しい中世とは逆であるが、硬直した近代的価値観を否定するという意味で似た様相をもっていた。逆にいえば、それほど「近代=モダン」という概念が、われわれの生活と感覚を強く規定していたし、今も規定しているのである。
「新しい戦前」という言葉にも、「新しい中世」と同様、歴史の歯車が逆行するニュアンスがある。
「新しい江戸」かもしれない
駿府城公園内の本丸跡にある徳川家康の銅像。家康の幕府樹立に始まる江戸時代は約260年続いた(写真:アフロ)
実は僕は、少し前から「新しい江戸」という言葉を考えていた。 日本は島国であり、永いあいだ国内とせいぜい東アジアのことを考えて生きてきたのであるが、明治以来一転して、日本人は常に海の外(主として西洋)を目指すようになった。優秀で意欲ある多くの若者が、狭い島国の枠組みに飽きたらず、広い海の向こうへと旅立ち、海外で学び、海外で仕事をし、海外を旅行してきた。 福沢諭吉はその旗振り役で、漱石も鴎外も海外留学後に小説家となったのだ。軍事進出もあり、経済進出もあった。トヨタも、ホンダも、ソニーも、パナソニックも、ニコンも、セイコーも、日本の工業技術は世界で評価され、日本文化そのものが評価された。
しかし最近の日本人は、パック旅行や簡易な語学留学はともかく、本格的な留学にも海外出張にも消極的だという。昔は海外を飛びまわれることが魅力だった商社員でさえ、海外赴任を嫌がるという。
たしかに、今の日本は比較的安全で、食べ物のバリエーションも豊富、公共施設が整い、シャワートイレやコンビニなど、生活の利便性がきわめて高い。また他国に比べて海外の情報や商品に対する制限が少なく、テレビでは外国の街並みや自然の景勝を映し出し、海外の映画や音楽その他の商品もすぐに手に入る。
そう考えれば今の若い人が、できることなら外国で苦労するより国内で安穏と暮らしたいと、内向的になる気持ちも理解できる。僕自身は世界に挑戦する意欲を期待したいのだが、明治以来の「外向きの力」が「内向きの力」に転換しているような気がしてならない。 それに加えて最近再び、江戸時代を評価する傾向がある。
これまでは「身分制度に縛られた閉鎖的で封建的な社会」というイメージが強かったが、鎖国とはいえ、オランダをつうじてヨーロッパの情報が入ってきていたし、士農工商という身分制度もタテマエで、実際には商人や職人など町人が豊かな文化を享受していた。浮世絵はそのヴィジュアルな証拠である。都市生活を支えるインフラとして街道、飛脚、早馬などの整備とともに、上水、下水、農業などの用水の管理が進んだエコ社会であり、武士は藩校、庶民は寺子屋で勉強して識字率は世界一であったといわれる。
またこの時代に200年以上も平和が続いたのは世界でも稀で、パックス・ロマーナ(ローマによる平和)にならって「パックス・トクガワーナ」(徳川家による平和)と呼ばれるほど、海外でも江戸社会に関心が高まっている。外国人観光客が関心を示すのも、もはや先端的な技術ではなく伝統的な技術であることが多い。
しかも現在は、地球温暖化による異常気象が激化して産業革命以来の工業文明が壁にぶつかっている。そう考えれば日本は、明治以来の海外熱、産業熱が冷めて、江戸時代に似た社会すなわち「新しい江戸」が来ると考えても不思議はないのだ。
歴史には相似の状況が現れる
こういった「新しい戦前」「新しい中世」「新しい江戸」といった表現には、歴史が逆行しているような印象がある。
近代社会は科学技術の発展が著しいので歴史は常に進歩すると考えられがちだが、実際には、特に社会状況というものは、振り子のように左右に揺れながら、あるいは波のように上下しながら、あるいは螺旋状にまわりながら進むのであって、必ずしも直線的に進歩するというわけでない。厳密にいえば過去と現在は条件が異なり、歴史が繰り返すということはない。しかし部分的、短期的には、過去と相似の社会状況が現れるものだ。
そこに「新しい何々」という表現の含蓄がある。そしてそういう言葉が現れるだけ、閉塞感の強い時代だということだろう。 近代文明と近代社会を批判的に見れば「新しい中世」も「新しい江戸」も、必ずしも否定的な意味ではない。しかし「新しい戦前」は、戦争につながるのであるから否定的な意味が強いのだ。
今われわれにできることは、CO2による地球温暖化など近代工業文明の弊害を直視して、「新しい中世」や「新しい江戸」に、人間として生きていく上でそれなりのメリットと幸福があることを認識し、近代一辺倒の価値観の転換を図ることだ。 また一方で、否応なくグローバル化が進む時代の日本人として、社会の内向化は認めつつも、海外に向かって挑戦する精神的なエネルギーを維持することだ。
そして「新しい戦前」が「本当の戦前」にならないようにコントロールすることだ。 昨年末に公開した記事(「防衛費増に走る日本政府が本来重視すべきは? 『コミュニケーション問題』としてのウクライナ戦争」)で書いたように、内部のコミュニケーションを成熟させ、他国とのコミュニケーションを深めることだ。防衛費急増の中でも、国際的軍縮(特に核兵器に関する)への姿勢を示すことだ。
それにしても、一人のお笑いタレント(とされる人物)の一言は、凡百のもっともらしい論説家より、鋭く、時代のポイントをついていた。