(テレビ朝日アナウンサー)
「被災地・被災者の“今”」
岩手朝日テレビ企画 「次の津波への備え」東日本放送企画 「被災者の“心の復興“」
福島放送企画 「原発処理水の海洋放出」
外出中に雷に打たれる
確率400万分の1。
飛行機が墜落する
確率100万分の1。
誰かに殺される
確率 20万分の1。
交通事故で死ぬ
確率 1万分の1。
宝くじ当選確率
1000万分の1。
私とあなたが出会う確率 65億分の1。
外出中に雷に打たれる
確率400万分の1。
飛行機が墜落する
確率100万分の1。
誰かに殺される
確率 20万分の1。
交通事故で死ぬ
確率 1万分の1。
宝くじ当選確率
1000万分の1。
私とあなたが出会う確率 65億分の1。
人との喜びは
思い出をつくり
人との悲しみは
教訓となって
人との苦しみが
試練となる。
人との会話は
学びとなって
人との歌は
心をつなぎ
人との触れ合いが
絆をふかめる
人とのつながりは
宝物です。
ありがとうございます。
今日、知り合った友は「新友」となり、
互いに思いやりがもてれば「親友」となり、間違いを指摘しあえれば「信友」となり、どんなに離れても心はつながっているその人は、あなたの「心友」です。
「感謝」
感謝をするようになると、毎日が楽しくなります。
自分だけではなく、
周りの人も幸せにする力を持っています。感謝のあるところに、人の信頼関係が生まれます。
「感動」
感動すると、人は動きます。それは、感動が理性ではなく魂に響くからです。
感動の多い人は、人に好かれます。感動は、感じたままに動く人によく起こります。
「涙」
涙は、どんな苦しみや悲しみも浄化してくれます。
涙を流すと、心が晴れてきます。感情は、形にすると解消されます。涙は、もっとも純粋で高貴なストレス解消法です。
「喜び」
喜びこそが、エネルギーです。本当の喜びとは、
一人で味わうものではありません。みなと共感する時、大きな喜びが生じます。その為には、人を喜ばして下さい。人を喜ばす喜びを知った人は、幸せな人です。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
“あなたの幸せが、
ずっと、ずっと、
つづきますように。
小さな砂粒があつまって、大きな岩になるほどに。
その大きな岩の表面にコケが生えるほどまでに。”
子供や高齢者が
安心して暮らせる
地域の創造、その源泉が
「助け合い」であり
「無償の愛」である
と思います
「がんばろう!千葉」応援隊の趣旨に賛同し、団体隊員として千葉を応援して行きます。
私は、千葉を元気に千葉から日本を元気に致します。
主な活動内容
■地域コミュニティの推進の
理念に共感する人達と
全国レベルで繋がり交流
できる 情報と
『地域の絆づくり』
の普及・啓発活動。
■音楽交流で異文化との共生を推進する。
■動物の愛護及び適正な
飼養の普及啓発。
(いのちの尊さを学ぶ)
■健康・福祉・災害救済活動
■大規模フォーラム、
講演会、勉強会、セミナー参加と
募集活動
■(セカンドリーグ千葉)会員
※多様なサークル活動を
通したふれあいの機会を
提供しています。
※友達が
「寒さに震えて
かわいそうだな」
と思うだけなら、
指を指して笑っている
野次馬と一緒です。
今、出来ることから
始めましょう。
【命の使い方5つの誓い 】
「口」は人を励ます言葉や、感謝の言葉を言うために使おう。
「耳」は人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう。
「目」は人のよいところを見るために使おう。
「手足」は人を助けるために使おう。
「心」は人の痛みがわかるために使おう。
僕の前に道はない。
僕の後ろに道は出来る。
ああ、自然よ父よ。
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ。常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
DOUTEI Takamura Koutarou
boku no mae ni michi wa nai
boku no ushiro ni michi wa dekiru
aa shizen yo
chichi yo
boku o hitoridachi ni saseta koudai na chichi yo
boku kara me o hanasanaide mamoru koto o seyo
tsuneni chichi no kihaku o boku ni mitaseyo
kono tooi doutei no tame
kono tooi doutei no tame
『金よりも大事なものに評判というものがある。世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるさ。』
(坂本龍馬)
人生はひとつのチャンス
人生からなにかをつかみなさい
人生はひとつの美
人生を大事にしなさい
人生はひとつの喜び
人生をうんと味わいなさい
人生はひとつの挑戦
人生を受けてたちなさい
人生はひとつの責任
人生をまっとうしなさい
人生はひとつのゲーム
人生を楽しみなさい
人生は富
簡単に失わないように
人生は神秘
そのことを知りなさい
人生は悲しみ
それを乗り越えなさい
人生は冒険
大胆に挑みなさい
人生は幸運
その幸運をほんものにしなさい
人生はかけがえのないもの
こわしてしまわないように
人生は人生
立ち向かいなさい
- マザー・テレサ -
あ、は愛
い、は命
う、は運
え、は縁
お、は恩
愛と命と縁と恩を
大事にしたら、運は必ず開けてくる。
それは
Curiosity(好奇心)
Confidence(自信)
Courage(勇気)Constancy(継続)である。
人生で経験したすべての逆境、トラブル、障害が、自分を強くしてくれる。
夢を掴むことというのは一気には出来ませんが、小さなことを積み重ねることで
いつの日か信じられないような力が出せるようになっていくのです。
ウォルト・ディズニー
【人間はまじめに生きている限り】
人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが
降りかかってくるものである。しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。ベートーヴェン
津波で破壊された街を猛火が襲い、残された黒焦げの遺体…「どうやって救助すればいいのか」自衛隊元隊長“12年目の告白” から続く 東日本大震災の被災地には多くの自衛隊の部隊が派遣された。中でも第9高射特科大隊(岩手県滝沢市)が向かった岩手県大槌町の現場は悲惨だった。 当時の人口約1万5300人のうち、発災当初は半数の安否が分からなくなったほどだ。犠牲者数は一つの町だけで1286人を数えた。 #1 に続き、派遣部隊を率いた元大隊長、中武裕嚴さん(60)の記憶をたどる。 2011年3月13日、大槌町での活動開始から2日目の朝を迎えた。 また捜索を開始したが、午前中に師団司令部から連絡が入った。 「大槌町には青森県から別の部隊が入る。第9高射特科大隊は明日から釜石市の鵜住居地区へ回れ」という内容だった。 そもそも釜石市には第9高射特科大隊が向かう予定だった。進路を大槌町へ変更したのは、役場と連絡がつかなくなっただけでなく、街が炎に覆われていたからだ。釜石市で代わりに活動したのは秋田県から派遣された連隊だった。だが、釜石市の津波被害も甚大で、しかも浦という浦が被災していた。当然、秋田の連隊だけでは捜索に手が回らない。 このため、大槌町と同じ大槌湾に面する鵜住居には、第9高射特科大隊が移ることになったのだ。
釜石市の中心部からだと、釜石湾の北に両石湾があり、さらにもう一つ北に大槌湾がある。 第9高射特科大隊を指揮した中武さんは、翌日から活動するにしても、どのような状態か分からなければ態勢も整えられないと考えた。そもそも鵜住居にまとまった部隊が入るのは初めてだったのである。 そこで13日は大槌町内で捜索に当たる3個中隊を現場に残し、午後から大隊本部の要員約10人を連れて鵜住居へ偵察に向かった。 現場に到着すると、大槌町の惨状に勝るとも劣らない酷さだった。 街は完全に破壊されていた。瓦礫は身の丈以上に堆積していて、郵便局などかろうじて形だけ残った建物が見えた。釘などを踏まないよう足元に注意しながら瓦礫に足を踏み入れる。堆積物があまりに多すぎて人が隠れてしまいそうだった。 現地に到着して30分もしないうちに、遺体を発見した。 車の中で1歳半の女の子が亡くなっていたのだ。 「顔が真っ白で、お人形さんのようでした。まるで眠っているかのように見えました」 近くでは、タクシーの中で運転手が倒れるようにして息を引き取っていた。 2階建ての市施設「鵜住居地区防災センター」の屋上には、塔のような出っ張りに引っ掛かったままの遺体もあった。
「下ろしてあげたい。でも機材がない。要員も足りませんでした。『ごめんなさい。明日、必ず来ますから』と心の中で言って引き揚げました。大人も運べる状況にはなかったので、タクシーの運転手にも謝って、そのままにさせてもらいました。ただ、1歳半の小さな女の子だけは連れて帰りました」 女の子の車は母親が運転し、被災時は2人で乗っていたと見られる。車内に母親の姿はなかったが、3日後に遺体で見つかった。
女の子を発見した時、車内には兄のものと見られるカバンがあり、住所と名前が書いてあった。これを頼りにカバンを届けると、後に「お母さんと妹をかえしてくれてありがとう」という手紙が届いた。 中武さんは今も大事に持っている。 翌日、現地派遣されてから3日目の3月14日午前7時40分、鵜住居へ向かった大隊はかろうじて瓦礫が取り除かれた場所に集結した。ここで中武さんは派遣後初めての訓示を行った。それまでは全隊員に声を掛ける余裕さえなかったのだ。 赤いメガホンを持ち、並んだ隊員の前に立つ。 「俺達は歴史に残る活動をしている。恥ずかしいことは絶対にしないでおこう。トイレがしたくなったら車を使っていいから、少なくとも山の見えない場所に行ってからやれ。被災者の前で食事はするな。津波警報が出たら、とりあえず山へ逃げろ」 隊員も人だ。食事をしないわけにはいかない。しかも救助する側に体力がないと役に立たない。だが、十分な食料がない被災者の前で食べるのは御法度だった。このため車両の中など、見えない場所で食べるようにした。無法地帯のようになっている被災現場であっても「紳士たれ」と隊員達には徹底したのだった。 訓示が終わると、「あなたが隊長ですか」と声を掛けてきた男性がいた。重機のオペレーターだった。「私は国交省の依頼で国道を通しに来ています。あそこの道路に、津波に流された家屋が乗っかっているのが見えるでしょう。取り除かないと国道を通せませんが、私には家を壊す権限がありません。隊長さんが『いい』と言ったら壊しますから」と指をさす。 確かに道路の真ん中に壊れた家があった。もとは2階建てだったようだが、1階は津波に破壊されて潰れてしまい、2階だけが道路を通せんぼする形になっていた。
家を壊す権限は自衛隊にもない。だが、そのままにしていては道路が通れず、捜索も何もかも進まない。中武さんは腹を決め、「分かりました。家の残骸を取り除いてください」と告げた。 ただ、壊す前に約5人の隊員に命じて家の中を捜索させた。取り残された人を探すのはもとより、「金品、写真、ご先祖の遺影……、大事だと思う物は全て外に持ち出して、道路脇に集めろ」と指示した。
国道上には他にも多くの家が折り重なっていた。このため、約5人の隊員にはこれらの家を次々と捜索させ、大事な物を道路脇に持ち出させた。集めた物は、なくならないよう中武さんが見張った。 こうした「超法規的」な対応を取ったので、国道は片側だけだったが、その日のうちに通れるようになった。 最初の家を壊してから約2時間後、車で夫婦らしい男女が現場を訪れた。道路が通れるようになったので、入って来たようだった。 「ここに家があったと思うのですが、どうなったのでしょう」。そう尋ねられた中武さんはドキッとした。正直に話すしかない。「道路を通さなければならなかったので、やむを得ず壊させていただきました。これは壊す前に私達が外に出した物です」と説明すると、男女は隊員が持ち出した物を大事そうに抱き抱えて泣いた。そして「ありがとうございました」と頭を下げて去って行った。 鵜住居で特筆される捜索現場は、屋上の塔のような出っ張りに遺体が引っ掛かっていた鵜住居地区防災センターだ。
発災の約1年前に建てられたコミュニティ施設で、1階には市役所の窓口のほか、消防署の出張所もあった。津波の避難場所ではないのに、「防災センター」と名付けられていたのは、「防災」を名目にした施設だと建設費の借金がしやすくなる制度があったからだ。正式な避難所ではないのに、避難訓練では“避難所”として扱われ、誤った印象も与えていた。このため同センターが避難所だと思い込んでいた市民もいて、被災後に市がまとめた報告書によると、ここへ避難するよう指示した消防団員もいたほどだった。津波の来襲時には多くの人が身を寄せていたが、数は正確に分かっていない。市の報告書では2014年の時点で241人とされている。 津波は2階建てのセンターの天井付近にまで達し、2階のホールでは多くの人が亡くなった。建物内部からは69体もの遺体が収容された。 そうした捜索と収容を行ったのは中武さんの大隊だ。 「泥がたまり、備品が散乱した中から、突き出した手や足が見えました」と語る。 機械を使って捜索するわけにはいかず、全て隊員の手作業で遺体を収容した。 安置所は山側の林業関係施設に急ごしらえで設けられた。そこまで、救急車として使う自衛隊車両4台でピストン輸送したが、あまりに数が多くて丸2日間もかかった。 この現場は数々の災害に派遣されてきた隊員にとっても過酷だった。心配した師団長が現場に足を運び、心理カウンセラーの隊員も投入された。 だが、「派遣期間中、精神面の問題を抱えた隊員はいませんでした。気が張っていたからでしょうか、使命感もありました。むしろ、駐屯地に残した隊員に多くの作業が集中してしまい、体調を崩した人がいました」と中武さんは話す。
鵜住居では2日間で約80人の遺体を収容した。 大隊はそこから道路が通れるようになった箱崎半島方面に捜索範囲を広げ、さらに20~30人を収容する。 この段階で派遣から1週間が経過し、一度駐屯地に引き揚げて休むよう指令が出た。 「隊員には家族に会ってくるように伝えました」。凄惨な現場で活動を続けていた隊員達にとって、ホッとする一瞬になっただろう。心と体を休ませて、次への活動につなげる重要なポイントになった。 ただ、こうした「安息」は国家機関だから取れる。市町村には逃げ場がなく、5月の連休になって初めて休めたという声を被災地では多く聞いた。そしてこぼれ落ちるように休職したり、退職したりする職員が増えていった。市町村でも自衛隊のように心と体を休ませられる仕組みが導入できないものか。多くの市町村職員は被災者でもあるのだ。 第9高射特科大隊はまるまる2日休んで3日目に集合し、改めて現場に入る準備をした。 それから大槌町へ戻り、捜索に加わった。
「驚くような現場もありました。津波に後ろから後ろから押し潰されたのでしょう。どれくらいか分からないほどの軒数が1カ所に固まった場所がありました。その頃には陸上自衛隊でも重機を扱う施設科の隊員が全国から到着していたので、一緒になって瓦礫の残骸を取り除きながら捜索を行いました」 この1カ所に押し潰された場所の捜索は難航し、1カ月ほどかかった。 遺体が潰されるようにして埋もれていて、瓦礫を慎重に取り除かなければならなかったからだ。一見してもう遺体はないだろうと思えるような場所でも、「鼻の利く」隊員が「ここに機械を入れて下さい」と言うと、発見されることもあった。 さらに漁網とレールという障害物が邪魔をした。 漁網は被災した漁船や漁業倉庫から流れ出したのか、それとも海中に仕掛けていた定置網が陸に押し上げられたのかは分からないが、瓦礫と化した家々に絡みついていた。これを取り除かなければ捜索が進まず、「非常にやっかいで、手間が掛かりました」と中武さんは語る。 レールは三陸沿岸を走っていたJR山田線(現在は第3セクターの三陸鉄道に移管)のものだが、津波にさらわれてくねくねになり、これも瓦礫となった家々に絡みついていた。工具を使って切断しないと、その奥に掘り進められなかった。 こうした活動を続けながらも、中武さんはある町民のことが頭を離れなかった。 中武さんの部隊にいた60代半ばのOBだ。退職後は大槌町に住み、一緒に飲んだこともあった。「豪快で楽しい人でした」と語る。
震災の前年はちょうどチリ地震津波(1960年)の発生から50年だった。大槌町はこの津波でも被災した歴史があり、記念行事が行われた。当初は講演する予定がなかった中武さんだが、催しの間に時間が取れ、100人ほどの聴衆を前に「地震で津波が予想される時は、とにかく逃げてください」と訴えた。その時、OBは聴衆の中にいて、ニコニコしながら聞いていたのを覚えている。終わってから、「大隊長、ありがとうね」と声を掛けられた。 「無事だろうか」。中武さんは気になっていたが、現場で指揮を執らなければならず、避難所などを回る余裕はない。
発災から1カ月半ほどした頃だったろうか。大隊の幹部から「OBは津波の犠牲になったそうです」と伝えられた。 現場経験が豊富な元隊員だ。チリ地震津波の催しに参加していたぐらいだから防災意識は高い。地震が起きた直後には当然、高台へ逃げた。 だが、「逃げ遅れて取り残された人がいる」と聞き、津波が引いた一瞬に瓦礫の中へ向かったのだという。「一度は数人を連れて戻ったそうです。そしてまた瓦礫の中に入って行きました。まだ、救わなければならない人が残っていたのでしょう。しかし、それっきり帰って来なかったと聞きました。おそらく次に来襲した波に呑まれたのだと思います」。中武さんは寂しそうにうつむく。 それにしても、東日本大震災による津波では、どうして取り残された人が多かったのだろう。 中武さんは「大津波警報が出ていたのに、逃げなかった人がいたせいではないか」と疑問に思っている。それぞれ事情はあったのかもしれない。「でも、だからこそ1万8000人を超える死者・行方不明者が出てしまいました。助かる命がもっとあったのではないか」と悔しがる。“逃げ遅れ”がなければ、OBも命を落とさずに済んだかもしれない。 災害の犠牲者は決して美しく死ねるわけではない。激しく損壊される場合もある。事実、東日本大震災の犠牲者はDNA鑑定せざるを得なかった人が多くいた。 「母の首と胴体が別の場所で見つかった。大きな心の傷が残り、今も夢に見る」「遺留品から母の遺体かもしれないという写真を見せられた時、あまりの状態に『違う』と言ってしまった。実際にはDNA鑑定で母だったと分かり、『違う』と言ってしまった自分が許せないでいる」などという話を私も多く聞いてきた。 数々の遺体を捜索し、収容してきた中武さんは、そうした生々しい事実をもっと知ってもらうべきだと考えている。 「だからこそ、逃げなければならないのです。とにかく逃げてほしい」。強く訴える。 その気持ちが自衛隊を退職後、次なる仕事に向かわせた。
コメントをお書きください
名無し (月曜日, 06 3月 2023 19:56)
そのあと千葉のコンビナートが燃えてるの見てこれまじでヤバいんちゃうか?って気づいた
んで夜に気仙沼の街が火の海になってるの見て悲しくなったわ
名無し (月曜日, 06 3月 2023 19:58)
原発が爆発したときはもう終わりやねって思ってた
名無し (月曜日, 06 3月 2023 19:58)
次の日の深夜にはアニメ流してたテレ東
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:01)
地震から20分後くらいやったかな?港のLIVE映像で建物の屋根まで海面が来て箱?みたいなのが大量にどんぶらこしてたの見て初めて相当ヤバイやつやと思ったわ
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:03)
東京では停電により電車が全て止まり大量の帰宅難民が発生した
歩いて帰ったところ海に近いところがところどころ水没していた(液状化)
ただちに健康に影響は無いと言った1時間後に避難指示
メルトダウンを指摘した保安院がテレビから消えた
総理がヘリで原発に向かったので安全は確保されたかと思ったらそんなことは無かったぜ
原発が止まると輪番停電になるらしい
原発には爆破弁と言うものが搭載されているらしい
静岡のお茶からも基準値を超えるセシウム
甲状腺がんが多発しても原発事故のせいではないらしい
DASH村村長が白血病で急死するも原発事故のせいだけはないらしい
千葉では水道水に基準値を含むヨウ素が検出されたが
はかるのも発表するのも遅かった
きのこや山菜はまだセシウムが検出される
読売・日経・産経=原発推進
朝日・毎日・東京=原発反対
原発事故が起きたら、電力会社は賠償を払わず、
国民が賠償金を払うことになる
ついでに責任をとったものは誰もいない
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:04)
サンドウィッチマンが釜石?で辛うじて津波被害から逃れた、という本人達からのレポートが生々しかった。
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:06)
電力は足りてるのに、原発は必要だと市民に刷り込む為の「計画停電」を行った。
これ、知られてるようで知られていない。当時特に関東の人達はノせられて積極的に節電に協力した。「ヤシマ作戦」と命名された節電協力。
結果、信号機がキチンと機能せず死人まで出た。
言っておくけど、もはやこういう事実は殆ど誰も教えない。
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:07)
関東南部住み
あの時までは防災用品も備蓄もまともに用意してなかった
幸運だったのは計画停電の対象地域ではなかったから停電は初日と翌日くらいで済んだのと、上下水道が止まらなかったこと
それでも数日程度は食い物は不足したし、最寄りの鉄道も丸2週間動かなかった
都内まで片道30kmくらいを自転車通勤したけど、ライト用の電池が手に入らなかった
停電は無かったが節電で街中が暗かったな
今は次の首都直下型地震に万全に備えている
なんと言ってもトイレ対策
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:08)
当時断水した仙台市で給水車は全く足りなかったが
公園の水道は使えたので、みんな地域の公園に並んで水を確保したが
公園の水道が使えることについて市から何の説明もなかったな
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:10)
今回のコロナでの補助金もそうだけれど、必要ない人まで「もらえるものはもらう」ってメンタルになるのが良く分かった
あの時も、ガソリンが入って来なくなって、車社会だから切らす訳にいかない人もいる中、不要な人たちまでもがガソリンスタンドに列を作ってガソリンを買い集めていた
中には戦利品をコレクトするように、どれくらい集められたかを自慢気に話す人もいた
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:13)
陸前高田は人口の1割を失ったからな
マジでやばい
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:15)
車の教習中に津波にながされた大学生の娘の遺体を瓦礫の中にみつけて
その両サイドでひざまずいて土下座みたいな格好で泣いてる両親の写真は直視できなかったわ
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:16)
自分の目で見た光景で一番ヤバかったのは
しなって地面につきそうになっていた信号機
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:18)
あれから、12年かぁ
本当に生きていて良かった。
これが、奇跡と言わないで何が奇跡だ
名無し (月曜日, 06 3月 2023 20:19)
絶対に忘れない。忘れられないよ!
あの時は、ご支援ありがとうございました♪