16歳で極道入りし、恐喝で刑務所に入ったことも……かつて極道の世界で、組長にまでのし上がった“ハシケン”さんこと肥村健二さん。彼が西成の街で、多くの住民から慕われる実業家として再スタートできた理由とは?
西成で暮らす人々をインタビューした、フリーライター・花田庚彦氏の新刊『西成で生きる この街に生きる14人の素顔』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
西成の実業家・“ハシケン”さんこと肥村健二氏さんが運営する立ち飲み屋「けんちゃん」。彼がヤクザから更生できた理由とは? ©花田庚彦
この項で取り上げるのは、元ヤクザの組長という経歴がありながらも、更生を果たし、現在は西成で介護事業を始め、不動産や立ち呑み屋などを経営する“ハシケン”さんこと肥村健二氏だ。
西成で“ハシケン”さんの名前を知らない人間はいないと言っても過言ではない。それは悪名としてではなく、西成の住人に好かれているのだ。
組長から介護事業者へ
――最後に懲役を終えて出て来たのは何年ですか?
「平成25年に出てきたのかな。パクられたのが平成22年」
――罪名はなんですか?
「恐喝です。組からは形式上破門という形で。そこでうちのオヤジ、つまり親分ですね。その人からもう一度戻ってこいという話をしていただいたんですが、オヤジがついて行った先が個人的にあんまり好きじゃなかったんで。そんならもうカタギになると断言しました。オヤジとはこれまで通り付き合いはさせてもらうということで」
――苗字が変わっているのは、親分の養子になったからですか?
「そうです、養子ですね」
――じゃあ時代が違えばそこの組の跡目だったんですね。
「いや、そういう気持ちは全然無いですよ。それはオヤジにも言っています。オヤジがどこの組に行こうが、それは無理やと。やっぱり、いま介護事業やってますんで。ヘルパーとかお年寄りとか、障がいがある方とかの就労支援をしているんですよね、その子らが僕を頼ってきてくれてますんで。その方たちを裏切って今更元に戻れないですよね」
――役所と絡んでいるわけですからね。もう何年くらい西成にいらっしゃるんですか?
「僕はね、刑務所から出てきてすぐ西成に来ました。元々は堺なんですがね。ヤクザとしての事務所が堺でしたから」
意外と知られていないが堺もヤクザの激戦区であり、多くの組が事務所を構えている。その気性の荒さは、だんじり祭りで有名な岸和田などが隣接している泉州という地域で分かるであろう。
――西成で介護の事業もですけど、立ち呑み屋を開業されたじゃないですか。それはどういった目的ですか?
「僕自体がね、若い子がご飯食べれてなんとかやっていけたらいいかなと。あと、僕の名前を入れてますんで、ハシケンさんが、あっここでやっているんだなと分かってくれればいいかなと」
ハシケンさんは西成の三角公園の前で「たまりば けんちゃん」という名前の立ち呑み屋をやっている。筆者も何回も立ち寄っているが、いつも満席で客のほとんどは西成の住人だ。
ハシケンさんも、たまに店に顔を出すが、そこでのお客さんとの会話を聞いていると、ハシケンさんがいかに街の人間に慕われているかが分かる。
――若い子を食わせるというのは任侠道の世界ですね。そこは抜けないですか。
「まあ、ここが一応みんなの学校みたいなもんなんで。ここから独り立ちして自分でご飯食べれるようになっていくことができるようにすることも、僕らの役目だと思っています。それで立ち呑み屋を作ったんですわ。
元々は不動産なんですよ。このちょうど裏に“クローバー”いうのがあるんですけど、そこの会社を一番最初に立ち上げたんですよ。不動産やりながら介護もちょっとかじろうかっていうのがスタートなんですね。この店は、まあ他の者に任せてね。出資は僕ですが。ここの裏っていうかだいぶ先ですね。病院あるでしょ。あの3軒隣ですね。生活保護者、年金で困った方々や生活弱者の方の部屋を紹介するということで」
「死ぬ前にちょっと良いことしたいなって」
これはハシケンさんの本心なのだろうか。意地の悪い質問をストレートにいくつかぶつけた。ここで取材が打ち切られてもいい、という覚悟である。
――ぶっちゃけ行政とやれば手堅いから始められたんですか?
「正直それもあるけど。でもね、部屋を段取りする障がい者が多くなってきたんで。この人らを助けたいなと。僕もヤクザやって良いことしてきてなかったんで、死ぬ前にちょっと良いことしたいなって」
――その転機はなんだったんでしょうか? いきなりですか。例えば子供が生まれたとか。
「いえいえ、全然。ここの会社に、おじいちゃんとか精神を病んだ方とか、色々頼って来られたんでね。それならちょっとでも良いことしてあげたい、助けたいなと思ったんですね。最初は本当にお手伝いしていただけなんですが、そこの社長がハシケンさんなら自分でできるから、ということで融資をしていただいて、それでここを立ち上げたんですね、それがきっかけです」
――正直、私なんかは人を助けようという気持ちが生まれないので、ハシケンさんは弱きを助け強きをくじく任侠道の世界を実践してきたからなのかと思うのですが……。この介護事業やられて何年ですか?
「2年と4ヶ月ですね。不動産をやっている会社は4年やね。いや、今年の8月で5年ですね」
――なんでそんな良い人になっちゃったんですか? 過去取材した人はみんなこれから介護がおいしいと言っていた人は何人もいたのですが。
「国からこの事業者は何人でナンボっていうのが決められているんですよ。正直事業は赤字です。毎月赤字です。僕の財布から毎月50万出ています。始めた時は100万出ていました」
ハシケンさんの過去
――ヤクザは何年やられていたんですか?
「16からです」
――今おいくつですか?
「54です」
――16からやっていてカタギになることに抵抗はなかったんですか?
「いやもう、ヤクザやっている時、僕は一生この道で行こう、と決めていたんですね。破門されてうちのオヤジが、たまたま僕のソリの合わないところに行ったんですね。ヤクザとしてどうかな、と思う人の下でヤクザやれんでしょ。これは無理や、ということで自分の気持ちに蓋をしたんですね」
――懲役は2回ですか? 僕は今ライターしているんですけど、絶対いい人ではないんですよ。ハシケンさんはよくそういう心境になられましたね。
「元々からやね、自分で言うのもあれやけど極道背負っていても、自分より立場の弱い人間はいじめてきてないんですよ。全て助けてやる。大阪でハシケン言うて、ああハシケンさんね。あの人ね、と言うてくれる」
実際にハシケンさんの名前は売れていた。大阪でヤクザの看板を背負っていれば、その名前を聞いたことのない人はいないであろう。そのくらい現役当時は暴れていたのだ。
――ヤクザはカタギに好かれて同業に嫌われてナンボですもんね。
「僕はね、頼ってくるもんは面倒見てやると。それは仕方ない。よその道で飯食えるように頑張りやと。
でも嫌なもんは嫌やからね。親分に、おいハシケンこうやないか言われても、自分ができないもんは、どつかれても蹴られても、オヤジそれはできまへんと。そこを曲げてまでヤクザやろうとは思わんかったからね」
――最盛期には若い人間は何人くらいいたんですか?
「元々はね、山口組系の橋本興業と言う事務所だったんです。そん時15人いました。先代が亡くなられて2代目になったんですが、その2代目とワシが合わんと。俺は俺で勝手にするぞと、破門するなりなんなり、どないでもせえ。言うて、若い衆連れて離れたんですよ。その時、今のオヤジがワシを養子縁組に。元々山口組系の若頭だったんですよ」
――平成25年にカタギになれば、暴力団排除条例にも触れないですもんね。
「今はまだ府警本部と掛け合っているんやけど、ちょっと待てと言われますね。会社の役員なんかはまだアカンと。僕んとこは介護事業やからね、僕が役員に入るとここを閉めなあかんことになるんで、いまは息子が代表者なんですよ。
ここの立ち呑み屋のお店も僕が大事にしていた若い子がやっています。売り上げの吸い上げは一切していません。ここの売上の何割かもってこいということはね。昔はしましたよ、ヤクザだからしゃあないでしょ。シノギかけたら“お前、こうせい、こんだけ持って来い”いうのはね。今はカタギになりましたんでね」
吸い上げとは、ヤクザ用語で“カスリ”ということである。儲けた金を運べ、という意味だ。それを一切していない、とハシケンさんは語る。
今はヤクザとは一線を引いている
――ヤクザの考え方が根付いていたわけじゃないですか。よく変わりましたね。
「これは僕の周りに今いて頂いている社長連中、オーナーさん、いろんな方がおられるんで。僕自体が変わらんと、そこのパイプがダメになってしまいますから。いま、あいさつ程度のヤクザとの付き合いはいくつかさせてもらっていますが、それ以上の深い付き合いいうのはしていません」
――組織ではなく、人との付き合いですからいいと思うんですが、確かに府警本部から見ればあいつは密接交際じゃないかということは言われますよね。
「そういう場面にはもう出て行かれへんぞ、それは無理やぞ、ということは言ってます。それはどなたさんにもビシッと線引いているつもりです」
――それが出来ていれば問題はありませんよね。
「実際ヤクザで現役の方もいっぱいいますから。この裏にもありますからね。ひとつ付き合いすれば、あっちもこっちも、となりますから。だからそこは丁重にすんまへんと。ここにいる人らは僕が現役やった時も知ってくれていますからね。あんま変なことで突っつかれることありませんし、いま介護事業もやっていますから、僕も変なことで出て行きませんから。あと人夫出しも、一応やっています」
「僕は1円も抜いてない」
――人夫出しはあいりんセンターの近くでですか?
「ちょっと違いますね。うちはセンターのとこに立たせてるんでなしに、僕の周りにはほんまいろんな人がいるんで、その中でこの子は仕事できるな、と思う人間だけを面接させてどっか連れてったれ、ということでやっています。
僕は1円も抜いてないし、紹介料も貰っていませんよ。後のトラブルも大変ですからね、紹介ですよ。余計なことしてもしょうがないしね」
――ここの作業場の営業時間は何時ですか?
「朝の9時から3時まで」
――ハシケンさんは9時から来るんですか?
「いやもっと早いです、8時前には来てますよ」
――ヤクザやっている時とは昼夜逆転ですね。元々率先して自分がやるタイプですか。抗争の時にも自分で行くタイプですか?
「若いもんにあれやれ、これやれ、言うより自分で行くタイプですね。掛け合いみたいなもんは、思うようなもんが出てこなかったら自分で行って掛け合いした方がね」
――それはそうですよね。同じ10万でも、頭下げて貰うより自分で威張って取って来た方が価値ありますもんね。
花田庚彦 西成で生きる この街に生きる14人の素顔
「人が最後に流れ着く街」と称されることが多い西成。
西成とは大阪市西成区の北部にある萩之茶屋、太子、山王、天下茶屋北、花園北を中心とした小さい地域のことを指し、本書ではそのなかで生きる代表的な人たちを取り上げている。
この地域には行政が把握しているだけで2万5000人という人間がいまも生活をしており、その中の多くが簡易宿舎である“ドヤ”や生活保護受給者専用の福祉アパートに居住しているという特徴のある街である。住民登録していない人間も数多いので、実際の人口は行政も把握できてはいない。
それらの人たちを陰で支えているのが本書に登場する14人であり、その人たちの素顔と本音をそれぞれ取り上げている。
(はじめにより)
著者について
東京都生まれ。週刊誌記者を経て、フリーライターに。独自のルートを活かし、事件や違法薬物などアンダーグラウンドの現場を精力的に取材。現在は実話誌やwebメディアに記事を寄稿している。三代目山口組組長代行補佐・一和会理事長、加茂田重政『烈侠』(彩図社刊)では聞き手を務める。
「覚醒剤以外の楽しみもあると伝えたい」かつて“シャブ極道”として名を馳せた元ヤクザが「薬物の更生支援」を始めた理由 『西成で生きる』 #2 花田 庚彦
かつて覚醒剤の売人として、ヤクザ業界で名を売った木佐貫真照氏。覚醒剤の酸いも甘いも知る氏が、日本で最もクスリを買いやすい街・西成で更生支援活動を始めた理由とは?
西成で暮らす人々をインタビューした、フリーライター・花田庚彦氏の新刊『西成で生きる この街に生きる14人の素顔』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
西成といえば覚醒剤と、その道を通った人間なら誰しもが答えるほど、西成と覚醒剤は表裏一体である。
なぜ、西成が覚醒剤を24時間買えるような街になったのか。それは鉄火場と呼ばれる博打が夜通し行われている常設の博打場が数多くあったのと、労働者が朝早くから働き、働く時間の前に覚醒剤を体内に入れて元気を付けていったのも大きな理由であろう。
映画では、博打をする場所の別部屋に覚醒剤が山積みになっている描写をよく目にする。実際はそんな部屋は無いが、覚醒剤が用意されていたのは事実である。それは西成に博打場を持っていたある人間が過去に筆者に語ったからだ。
この項で取り上げるのは、西成に在住し“シャブ屋”としての経験から本を何冊も上梓し、現在は薬物更生支援“日本達磨塾”を主宰している木佐貫真照氏である。
ヤクザをやるつもりで大阪に出てきた
――今まで本は何冊出されていますか?
「6冊とコミックを2冊。計8冊です」
最近では、漫画配信サイトである“めちゃコミック”で、過去に発売された『実録シャブ屋』の漫画版『実録シャブ屋 覚醒剤の虜になったオトコとオンナ』を配信し、大きな話題となっている。
――経歴を教えてもらえますか?
「小学校卒業。中学校は2年まで。初等佐世保少年院、福岡中等少年院、佐賀少年刑務所、それで20歳で鹿児島刑務所。それから立て続けに計12回入っています」
――全部シャブですか?
「いや、最初は恐喝、窃盗。それから傷害、暴行とあって、大阪に来てからは覚醒剤ばっかりです」
――シャブ屋として有名じゃないですか。そのきっかけは?
「ワシは鹿児島でヤクザしとって、22で大阪に来たんですよ。最初からヤクザするつもりで来ましたからね。その中で自分がどうしたら一番生き残れるかということを考えた時に、普通の人ならミナミなどに大きな兄貴分つくったりするんでしょうけど、ワシはせえへんかったんです。尼崎に関西護国団という組があって、そこの谷田哲雄と私が知り合って。それが縁で組には属さず、兄・弟の関係に。俗にいう出先の舎弟となりました」
――それから山口組系の太田興業に移籍したんですね?
「ワシが舎弟になった谷田という親分と太田の親分が兄弟分だったんですよ。それで揉めた時に谷田が太田に行くというときに護国団は手を出すなちゅうことで、それで谷田は相談役で行ったんですよ」
本を書いたことで山口組を破門に
――太田興業では何年くらいヤクザやったんですか?
「短いですよ。すぐ舎弟になりましたからね。親分自体は昔から知っていたんですよ。頭で舎弟やっとったから。舎弟で推薦されたんですわ。太田の枝の若い衆から舎弟になることはまずなかったですから。そんな聞かないですわ」
――それから懲役に行くわけですよね。カタギになったきっかけっていうのは?
「『実録シャブ屋』という本を書いたということでね。私が50人くらい人を増やしたし、本も出したし名前も売れて。だけどそれで破門されたんですよ。山口組はマスコミに出たらいかんという名目で。いまはけっこう出てるやないですか」
――さすがに現役は匿名ですけど、ヤクザを辞めた人間はけっこう出ていますよね。
「私は本名で出ていましたからね。辞めてそれから栃木に行ったんですよ。破門になったチラシも回っているし、もうヤクザではないということで仮釈はもらえていたんでね。
栃木県に別れた女房がいたので、彼女が身元引き受け人になってくれて。それで栃木に行きました」
――それからカタギですか。
「ヤクザしましたよ。どこの街でもしたらあかん、だけど最後は自ら看板下して所払いという形で栃木は出ましたね」
――そのときの木佐貫さんの肩書きは何なんですか。太田興業じゃないですよね?
「隠しとったんです。谷田が出身母体でしょ。太田興業を破門になったあとは谷田哲雄の代貸しやったかな。相談役という名目で関西護国団にはおったんです。会費をもらうために入れとったんです、ワシを。条件は“組解散せよ”と。それはできない。解散してカタギになったけど、でも“この街は出ていかない”と。それで3年居座ったんです。子供も嫁もおるのになんで出て行かなあかんのやって。条件なんか飲まれへんと。
相手が“問題になりますよ”と言っても、いや問題にしろと。オレ殺したらお前ら10年20年行くぞと。行けばええやんかって。そしたら向こうの地元の組織の代行が来て、“ここで住むなら住んでもけっこうです。そのかわり静かに住んでください”と。それで3年栃木には居座りましたね」
――そこは最後の意地を見せたんですね。
「そのあと捕まったんです。刑務所に5年。それでもう完全に大阪に戻ろうと。それで考えたのがいまの達磨塾なんです」
シャブを一掃できるとは思っていない
――それで西成で覚醒剤の更生支援とか活動しよう、と。
「ほんまはね、ワシ西成に住んだ事ないんですよ。大阪に出て半年だけ。事務所は西成の脇にある浪速区の大国町に事務所を出して。あとは住んでないけど稼げるとこが西成。ここで集金してミナミやキタで飲んどった。だから西成は知り合いはおるけど、ご飯を食べたり飲んだりはないです。西成の人には悪いけど、食べれるもんじゃない、と思っていましたから。
いまは違いまっせ、西成はいい街やと思ってます。西成の人間には、住んではいないけど毎日いるから、ここの人間だと思っていると言われました。どうせ達磨塾やるなら大阪で一番覚醒剤の多い西成でやろう、そう思ったんです」
――そのときはまだ覚醒剤止めてなかったんですか?
「キッパリ止めていましたよ」
――では、なぜ覚醒剤の多い場所にいこうと思ったんですか?
「多いほうが止めさせるという活動にインパクトあるじゃないですか。知り合いも多いし、もう止めやと」
―いま達磨塾は何人くらいいるんですか?
「50人くらいです。いまは組織改編中ですね、立て直し。塾は会費取ってやっていたんですけど。全国にあったんですけど、インターネットで大騒ぎされたでしょ。ちょっと待ってと。うちの幹部も何人かはずしたし。本も顔出しして少し大きくなりすぎたからもう少しきちんとした形でやろうと」
――西成から覚醒剤をなくそうというのは木佐貫さんのテーマなんでしょうか?
「ちゃいます」
即答で否定の返事が返ってきたが、果たして木佐貫さんの行きつくテーマはどこにあるのだろうか。
――いまの達磨塾のテーマはなんですか?
「西成からシャブを一掃することはできません。無理。自分が生きてきた道やから、どうやれば金になるかは知っています。だからそこまでは言わへんのやけど、ただワシのスローガンはやりたい人はやったらええ。ただホンマに止めたい人のためにワシがあれになっとるだけで。
“ワシと一緒に人間やりなおそう”と。それがテーマやから。だからワシはテレビに出てもなんでも、ワシにヤクザの話はふらんといてくれと。否定はできへんから」
「そんな大層なことは考えていませんよ。覚醒剤の楽しさを知っている人間に、ほかの楽しさもあるよ、ということを教えたい、そう思っているんですよ。酒飲んでいたら楽しいやないですか。覚醒剤は女と博打ばかり。刑務所で人生を送るよりも、いいじゃないですか。生活保護もらったとしてもね。そういうことを教えたい。
覚醒剤をやっていいことはひとつもありませんもん。みんなに言うもん、友達は選べよって。
それにやっと気づきましたね。知り合いから連絡あっても何でワシに覚醒剤のことを聞くんやって。それで終わりですよ。もうワシは覚醒剤に絡んだ人に会いたくもないんで、電話せんとってくれと。会いたい人とだけ会えればいいんじゃないですか。
みんな心が寂しいから、覚醒剤売っていると分かっていても行ってしまうんですね。ちょっと考える時間をあければ、ほかにもいい人がたくさんおる。そういうことを伝えたい運動なんですよね」
「夢は、居酒屋」
――確かに巷では芸能界も含め薬物は蔓延していますよね。
「芸能の人がなんぼでもやっているのも分かりますよ。止められんからね。リスクがワシらとは桁違いやけどね。私らは捕まっても懲役に何年か行くだけやけど、あの人らは人生終わりですもんね。何年も芸能活動を自粛して活動できませんもんね。3年も芸能活動できへんかったら、月収何千万もある人がゼロになる。リスクが大きすぎる。
達磨塾はだからそういう大きいことは考えてないんですよ。自分の人生をどうするか、ということを考えるのが基本ですよ。ワシがやめた方がええで、というのは達磨塾という覚醒剤をやめようという会をやっているから理由があることでね。そういう理由付けのためにやっているんですよ。夢は、いつになるかわかりませんけど居酒屋をしたいと」
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