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ヤンキー全盛期、ボンタンを年間2万本売った衣服店の現在 新たな主力は“ボンタンジャージ”

黄色が目立つド派手な外観に「めざせいい男」のキャッチコピー。長野県小諸市の国道18号沿いに建つ「メンズショップ・タカノ」は、かつてはボンタンや短ラン、長ランといった変形学生服をメインに販売していた衣料品店だ。変形学生服のブームは1970年代~90年代前半まで続き、経営者の高野弘夫さんは「最盛期は変形学生ズボンを年間2万本売った」と懐かしむ。しかし、ブームが去った今、メンズショップ・タカノの店内に変形学生服はない。その代わりに「新しいファッション」としてジャージ生地の「ボンタンジャージ」を推している。 

ボンタンジャージは、高野さんの共同経営者で息子の光弘さんが店舗裏の工場で作るオリジナル商品。普段着でボンタンのデザインを楽しめるようにと、10年ほど前に売り出した。中高生でボンタンをはいていた世代が懐かしがって買っていく他、「東京リベンジャーズ」や「今日から俺は!!」の影響でヤンキーファッションに興味を持った若者も買っていく。高野さんは「5年ほど前から生産が追いつかない人気」と話す。ワタリ幅(もも幅)は40センチ、50センチ、60センチがあり、色は学生服をほうふつさせる黒の他に紫や赤、白、ピンクもある。

変形学生服は「俺が仕掛け人」 20年にわたり新デザインを提案

 ヤンキー文化の全盛期には、変形学生服やヤンキーグッズを求める中高生で店内はごった返したという。変形学生服を取り扱い始めた理由を高野さんに聞くと、「そもそも俺が変形学生服を作った仕掛け人」とニヤリ。高野さんによると、きっかけは1973年で、学生ズボンのデザインにスリムとストレートしかない時代。高野さんは「太めのバキータイプの学生ズボンがあれば売れる」と考え、岡山県内のメーカーにデザインを提案して発注した。すると、400本ものバギータイプの学生ズボンが送られてきた。「さすがに400本は売れない」と肩を落として店に出すと、「大ヒットで、あっと言う間に売り切れた」。  それ以来、メーカーに変形学生服のデザインを提案しては作ってもらい、店で販売するというサイクルを「20年ほど続けた」。3ヶ月に一度は新作を出す方針で、「ファイブタックのボンタンとか、学ランの襟の長さを変えるとか、存在しない物を作ってきた」と胸を張る。しかし、1990年代に入り、校則の厳格化やブレザータイプの制服導入などで変形学生服の需要は急減。高野さんはブレザー制服の生地でボンタンを作って販売するなど工夫したが、時代の流れにはあがらえなかった。高野さんは「世の中にない、変わった物を作ることが大事。その気持ちは今も変わらない」と話す。


チェーン付き裏ボタン

 44歳の記者の中学生時代(1990年代前半)はすでにヤンキーブームは下火。ボンタンや短ランを着る人はクラスに数人いるかどうかだった。そんな記者でも黒色のボンタンジャージを試着すると「ああ、懐かしい」と懐古厨になり、ワタリ幅50センチのボンタンジャージの購入を決定。そして店内を見渡すと、レジカウンター前に懐かしいヤンキーグッズがずらりと並んでいることに気付いた。なんと「チェーン付き裏ボタン」ではないか! 高野さんによると、メーカーが生産停止を決めた際に在庫を一括購入。「残っている分だけ」を販売しているといい、記者は迷わずこれも購入した。

中学生の息子用にヤンキーグッズを購入 息子の反応は…


チェーン付き裏ボタンを付けた学ランを着た記者。学ランは同僚の息子の私物を借りました。

 店内には、記者と同じように食い入るように「チェーン付き裏ボタン」を見つめるお客さんの姿が。「国道を通るたびにずっと気になっていた。やっと来店できた」と話してくれたのは、民宿と飲食店を経営する男性(52)。約100キロ離れた長野県野沢温泉村から自動車で来たという。男性は長野県松本市出身で、中学時代はセミ短ランと細めのボンタンでキメていた。「友達も先輩、後輩もみんな変形学生服。私はヤンキー(不良)ではなかったけど、みんなと同じファッションとして変形学生服を着ていた」。クラスのほぼ全員が変形学生服を着る。男性を含めた「ビー・バップ・ハイスクール」世代では、それが当たり前だったという。  男性は「昭和グッズが懐かしいですね」と話しながら、「夜露死苦」や「仏恥義理」「暴走天使」の文字がプリントされたTシャツも熱心に物色。そして、チェーン付き裏ボタンを「中学生の息子用に」と購入した。中学1年生の次男(12)は、藤原ヒロシさんを崇拝するファッションとおしゃれ好きで、「東京リベンジャーズ」などの影響でヤンキーファッションにも興味があるのだという。「気に入ってくれると思います」。男性は商品を手にうれしそうに店を去った。  取材を終えた日の夜。男性から記者の元にメールが届いた。そこには「プレゼントしたら学ランにさっそく装着」の文字とともに、自分の学ランにチェーン付き裏ボタンを着けてうれしそうに微笑む少年の写真が添えられていた。12歳の無垢な笑顔からは、ヤンキーは不良、古いといった概念などなく、純粋にかっこいいファッションとして接している様子が伝わってきた。昭和のヤンキーのセンス、まだまだ捨てたもんじゃない。(半田茂久)

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コメント: 23
  • #1

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:48)

    自分も履いてました、ボンタン。でも時代は渋カジ、アメカジ全盛となり、リーバイスにレッドウィング。となると、制服もダボいボンタンより標準のストレート。で、靴もかかとを踏むのもダサいのでちゃんと履いて、裾だけは長めという理想のスタイルへ。結局、プライベート服に金がかかるので、わざわざ変形学生服に回す金が無くなったのかな、と思います。バイクを売ってまでリーバイスを買ってた友達がいたなぁ。ファッション熱ってすごい。

  • #2

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:49)

    私は今年で47才なのですが
    中学の頃はリーゼントに短ラン ボンタン姿のヤンキーばかりでした。
    通学してた中学もヤンキーの多い学校だったのでバイクできてる生徒もいました
    当時はそんなヤンキーがかっこよく見えて憧れてました。
    後 レディースも多くて彼女達は真っ赤なルージュにロング茶髪に長いプリーツスカートでした。ヤンキ座りをしていつも何処かを睨んでいるのが印象的な時代でした。
    そして公園のあちこちには彼等彼女達がつけたであろう落書きなど本当の、懐かしいですね。
    私もボンタンジャージほしいのでかいたいですね。

  • #3

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:50)

    地元も加工制服屋がありました。本業は学校指定の制服屋だったそうですが屋号を変えて別な場所に出店も学校指定から外されたようです。ボンタン、ボンスト、スリータック、グッズもなめ猫等が全盛世代でしたがその頃から子供が減少してきて本業だけでは食べていけなくなったようです。時代の変化に柔軟に対応できなければ我々も淘汰される本当に厳しい時代になったと思います。

  • #4

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:51)

    自分はヤンキー世代ではないのですが、中学生のとき、校則違反していないかチェックするシートが昇降口に貼ってあって、「裏ボタンをつけていないか?」という項目がありました。「裏ボタンってなんだろう?」と不思議だったけれど、これだったのですね。そういえば、歳の離れたお兄さんがいるちょっとやんちゃな同級生の男子が、学ランの裏に龍の刺繍をしていました。あまり話す子じゃなかったけれど、たまたま日直が同じとき、刺繍を褒めたらすごく嬉しそうに返事してくれたのが、いい思い出です。

  • #5

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:52)

    福岡県北九州市の小倉北区には魚町銀天街に三国屋、小倉駅裏にマックスラガーとその手の店舗が2店舗あった。
    刺繍入りの長ラン、中ラン、短ランの長さ違いの学生服や学生ズボンであるボンタンはワタリ幅とスソ幅のセンチ幅違いの組み合わせバリエーションが豊富な品揃えだった。古き良き昭和の思い出です。

  • #6

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:53)

    うわぁ、懐かしい。
    自分はヤンキーではなかったけど(第一ボタンまでちゃんと留める真面目な中学生でした)、通っていた中学がいわゆるヤンキー校でした。
    授業中にバイクが数台校庭に入ってきたと思ったら、昇降口に隠れていたヤンキーの女の先輩たちがバイクに向かって走っていって、バイクの後ろに乗って走り去って行った光景をありありと思い出します。
    男子はボンタンに短ラン、女子はズルズルとひきずるほどの長いスカートにエナメルシューズ。ひらひらと風になびくボンタンと長いスカート。自分ができないからこそちょっと憧れでした。

  • #7

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:53)

    私の中学校は幾分厳しくもなく、いわゆる普通の子でも変形服を着てましたね。

    ズボンはあからさまなボンタンよりもワタリは36~38あたりで裾幅は細くても19まで、21あたりなら、割と当時のイタリヤファッション(笑)にも通ずるシルエットになり、好まれたように思います。

    学ランもちょっとだけ脇を絞ったシルエットが人気やったかな?短ランと純ランの間くらいを狙うのが、ヤンキーではない普通の子の感覚でしたね

    レパートリーもたくさんありましたからね。カタログを見るのが楽しかったなあ。

  • #8

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:55)

    私は40代後半ですが、私の中学生時代から『ボンタンジャージ』と呼ばれる商品は既に販売されていましたよ。
    当時、セーラー服も裾を短くして両腕を上げるとおへそが見えてしまう感じだった友人も多かったです。
    私はヤンキーでもなかったし勇気もなくそこまで出来ませんでしたが、高校生の頃はボンタンジャージを購入してよく普段着として着用していました。
    今は確かに東京リベンジャーズの影響もあって購入者も増えているんでしょうね。
    息子はまだ小学生なのでそこまで興味は持っていませんが中学生になったらやはり興味を持ったら面白いかも…とは思ってしまっています。

  • #9

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:56)

    ボンタンやドカン等々主流の中、田舎ではベンクーガーマックスラガーを販売している店にその手の面々が集まっていた記憶。
    ボンタンの流れでバナナというのがあり、気に入って履いていた。
    先輩からはハイウェストのドカン等頂いたが、時代的に履く事は無かった。
    ボタンも表も裏も変えて、短ランでカラーを詰めて短めに。
    刺繍はダサイと感じ、紫系のラメ調が高級感も合って良かった。
    財布もマックスラガーやクリームソーダとかだったかな?
    クシやブラシ、鏡等々も揃えて居たな、良いか悪いかは別にして思い出の一つ。

  • #10

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:57)

    60代のボンタンが高校時代に流行り始めた頃の世代でです。18号の小諸をたまに走行するたび店の変化を高校時代を思い出しながら見ていました。ドンドン派手になりましたね。高校時代は場所柄、時代柄、単車で友人たちと買い物に行きました。タカノでしか買えない物ばかりでしたからね。ツッパリ御用達の店でした。でも卒業時には後輩にリサイクルで譲れ貰ってもらえるので良かったです。まだ実家のクローゼットには長さ調節出来る裏全刺しゅうの学ランが眠ってます。先を見ない毎日が楽しかった高校時代の1ページを思い出しました。今と違って大型免許の区別もなく750ccの単車で皆で自由に高校1年から遠くまで走り回れたのは今の人生にとてもプラスになってると思います。

  • #11

    名無し (火曜日, 23 5月 2023)

    懐かしいね。私は50代で中学時代はまさにビーバップ全盛期。街中は長ラン、中ラン、短ラン、ボンタン族で溢れかえっていた。 当時、ボンタン、ドカンを売ってくれる店は商店街に二店舗あり、店主のおばちゃん、おじちゃんと仲良くなると『うーん、38【ワタリセンチ】やったらいいんじゃない』とアドバイスをしてもらえる。
    この【いい】というのは、生活指導の先生に見せて校章をもらえるサイズ感を見極めてくれた。 先生も、これだけ溢れかえり別にヤンキーじゃなくてもみんな持ってくるので、よほど規格外のサイズじゃない限りは許してくれた。

    ボンタンジャージも当時から売ってました。
    学校指定体操服を改造して、ボンタンにしましたね。アイロン台を無理やりねじ込んで、二人がかりで引っ張ると伸び切って面白かったな。

  • #12

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:58)

    めっちゃ懐かしい!自分も変形制服着ていました。当時、新大阪にキング・オーナーという店があり、そこで中ラン(忍者)という制服を買いました(^_^;)この制服、サイドベンツ、センターベンツ、龍と虎の刺繍、その名のとおりこの刺繍、チャックで内ポケットに隠れる仕様になっていました。(^_^;)勿論カラーも替えて写真のような裏ボタンも替えて……当時、めちゃくちゃ気に入ってました。ズボンは、確かゴクスト履いていました。あの時代は、ほんまに流行ってましたね。懐かしい限りです。

  • #13

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 17:59)

    通っていた高校は市販の学生服でした、生徒手帳には制服の規定が書いてありましたがスボンの裾幅は17〜27センチでしたね、部活の関係で太もも周りが70センチくらいのもザラにいましたのでタックの制限はありませんでした、上着は腕を下ろしたときに指先を超えないこととありズボンのベルトがぎりぎり隠れるくらいに短いのを着てる生徒もいました、詰襟のカラーの高さも規定なしで低いのは1センチからめちゃくちゃ高いのまでいましたね、 女子のスカートは丈の規定が無く、とくに吹奏楽部の女子はステージ演奏で見上げられたときに下着が見えないように椅子にかけて足首が隠れるくらいの長さにしてて結構長かったですねw
    私の上着は外観がノーマルですが裏には虎と龍の刺繍がありましたw、特注でもなく普通に入ってましたね

  • #14

    名無し (火曜日, 23 5月 2023)

    タカノは小諸が本店だけど、昔は上田にもあったね。
    タカノに出入りするのは自分たちより少し上の世代だったけど、中学生になると中央一番街のオギノや天神町のクラニシで、最初はセミ短ランと少しだけ太いボンタン、学年が上がるにつれて短ラン、5タックくらいされていて、渡りが広くて裾が狭いボンタンを買って着ていた。
    もっと太くとか細くしたい!と頼むと、縫い直して作ってもくれた。
    学ランの裏が刺繍されていたり、チェーン付き裏ボとか、ガラスのボタン、エナメルベルトとか懐かしい。
    昭和の最後の頃が一番盛り上がった時代だね。

  • #15

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:00)

    昭和54年頃中学時代、兵庫県西宮市の今津という所に桝屋商事というお店がありました。買った金額に応じてステッカーがもらえました。確か超長ラン(洋ラン)長ラン、中ラン、小ラン、標準(学校指定より少し長かった)ドカン、エントツ、ゴクスト、バギー、ストレート(学校指定より少し太かった)長さと太さとタックの数が悪さの物差しでした。お店周辺では他校とのケンカは絶対してはいけないという暗黙のルールがありました。他にも別売りの龍や虎の絵のハイカラー、玉虫色の裏地、ハイウエスト、隠しポケット、サイドベント、後ろのベルト通しだけ✕。懐かしいですね。

  • #16

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:02)

    最近信毎の記事がヤフーニュースに出てきて嬉しい元県民です。
    私アラフォー女性ですが、記者さんは中学時代ヤンキーブームは下火と書いてありますが、上京してびっくりしたくらい、当時はまだ田舎は遅れていて、バリバリヤンキーブームでした。
    好きな男の子の第2ボタンならぬ裏ボタン貰うのが流行って、あと先輩の潰したカバンとかね、そうそう短ラン裏地紫とか龍とかね、かっこよかったし今思うとかわいい。
    しかし懐かしい、チャンプロード回し読みして全国のヤンキーファッションを羨望の眼差しで見つつ、とても自分達にはできないので&ギャルも流行り始めてスカートは先輩は長い人と短い人両方いたけど私達世代から短くなってきたかな、ヤンギャル世代になるのかな。
    今の子達はおもしろくファッションとして取り入れたりしていて楽しそう、情報も選択も幅があって大変だろうけど、頭の良い子達が多いんだろうな、今を楽しんでほしい。

  • #17

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:03)

    変形学生服、昭和世代には懐かしいですね。
    大阪だとセンイシティとかにお店がありました。私はヤンキーではなかったけどボンタンではなくエントツ(ドカンではない)と言う胴から足まで太いズボンと、中ランと言うやや長めの学ラン(短ランが流行る前)を、中学、高校(公立)で着てましたね。それがかっこいいと言うか普通だったし、何より純正品の半額以下で、お小遣いでも何とか買えたんですね。さすがにチェーンや龍の刺繍はなかったけど…。
    何年か前に、デニムのボンタンが今も売られているのを知り、懐かしくて通販で買いました。カミさんには白い目で見られますが、楽しくて、とっくにおっさんですが今もたまに履いて出かけています。今は普通に懐かしファッションのアイテムになりましたね。

  • #18

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:03)

    私は62歳で大阪府寝屋川市のヤンキー本場の中学校に通っていましたが、当時の長ランやボンタンの不良は本当に怖かったです。
    ベルトの代わりにバイクのチェーンをお腹に巻いて、ケンカするならこれでと見せびらかす不良に、対抗する不良は長ランの下はハダカ、お腹にサラシ、ベルトがわりにわら縄を巻いてました。武器はウオーキングデッドみたいな有刺鉄線をグルグル巻きにしたバット。みんな頭は茶髪でパンチやリーゼント。本当に怖い人たちで私ら一般学生は近づかない、目線をおとす、そーっと逃げるが日常で、先生らもボコボコにされるので注意もしませんでした。ボスは番台にしまう銭湯のお金を毎晩盗んでついに現行犯で捕まり少年院へ。マンガみたいな本当の話です。
    ビーバップや銀蝿はその時代をモデルにしています。

  • #19

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:04)

    沖縄ですが、自分の先輩に、少年院に入って中学の入学式に出れなくて、初めての登校日に金髪のパンチパーマできた人がいました。自分が入学した時も、正門にはタバコを吸ってる先輩がいたし、入学して何日後かには先輩に、目立っている同級生が20人ぐらい呼び出されて、殴られたり蹴られたり、バットで殴られたり、厳しい上下関係を教えられましたね。あまりにも荒れすぎて、生徒指導も他校から何人もきてたし、それでも止めれませんでしたね。喧嘩も自分らの代は弱かったですが、先輩達は色んな中学にどっちが強いかって、喧嘩売りまくってました。卒業式は、沖縄独特の小麦粉投げがありましたね。先輩達は、刺繍ラン着て校内に入れて小麦粉を投げまくってましたが、自分らはPTAや警察や先生のガードが厳しくて、小麦粉を担いで皆んなで突っ込みましたが、校内には入れなくてダメでした。でも、なんだかんだで楽しい中学時代だったな。

  • #20

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:05)

    60代後半です。 懐かしい変型ズボンですが私達の時代、大阪には変型ズボンを販売してるショップはまだ無く、全てオーダーメイドでした。 学生服専門の仕立て屋が数件有り、皆んなそこでオリジナルの変型ズボンを作っていました。 修学旅行で関東の学生達が「そのボンタン何号?」って聞かれて「ハァ~?」となったのを覚えています、私達の時代はボンタンなんて言葉は無く太いズボンはゴクドウで裾を絞ったのをゴクヤンと呼んでいました。
    その後、ビー・バップ・ハイスクールの影響なのか専門店も出来一般化したように思います。
    余談ですが今でも大学の応援団が変型学生服を着ているのには理由が在ります、頭だけ下げて挨拶しない為のハイカラー、確り腰を曲げて挨拶した時にお尻やベルトが見えない為の長ラン、腰を落とし団旗を掲げた時にズボンのお尻が破れない為の太いズボン等です。

  • #21

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:07)

    小学生の頃、革ジャンにドカンの横浜銀蝿とか金髪の長髪に化粧した44マグナムとか好きになり、中学入学後の数日だけだったかな標準服着てたの。電車で2駅行った街まで行かないと変形を買えなくて、友達の兄貴が中学の代表的なヤンキーだったので初の変形服を見立ててもらった(笑) もう自分の頃は上は短ランでした。
    今じゃそんなことはもうないだろうけど、ビーバップのように別の中学とケンカになったりとか日常茶飯事でしたね。中学の時に色々やりすぎて高校になったらあまりバカをしなくなったけど変形服はそのままでした。今、高校生の息子が昔の父ちゃんの写真見て「うわっダッセー!」って言ってました(笑) けど、自分にとっては忘れられない青春ですね。時代は回るっていうけど、またいつか中高生がこのような制服着る時代が来るのかな?当時、女子のソックスは短かったから今の女子は当時へ戻ってますよね

  • #22

    名無し (火曜日, 23 5月 2023)

    ドカン、ボンスリ、ボンタン、クジラとかあった
    私はボンスリを履いてました
    ベルトは幅1センチくらいのコードパンか編みバン
    別に不良ってわけではなかったが野球部の同級生とそういう学生服が売ってる店に買いに行ったことを覚えてる
    革靴の踵に鉄板つけてもらって歩くたびにカチャカチャ鳴る
    ペパーミントとクリームソーダの財布も流行りましたね
    最近、知り合った女性と学生時代のことを話してたのでまさか記事になってるとは
    会う前に電話で話してたときに、その方は世代が下でガングロギャルだったと言ってました
    ガングロギャルはブーか美人かどちらかはっきりしていると言う勝手な思い込みがあったが、いざ会ってみると美人さんでした

    今でも昭和が引き継がれてる傾向はありますけど旧車會とか族とか他人に迷惑をかける事で目立とうとするのは令和に必要ない

  • #23

    名無し (火曜日, 23 5月 2023 18:08)

    兄がこの世代だったので、とんでもない太さのボンタン履いてました。
    この型がドカンだとかバナナだとか、これがチェンボとか説明を受けたような…。
    裏側刺繍も入ってました。
    自分の頃はほぼ標準学生服のみだったのですが、まさかの大学の部活で
    『主将に代々引き継がれている長ラン』
    と言うものがあって、他校との合同練習や会合があるとそれを着て行っていました。
    当時でも大分浮いていましたが、若かったしノッていたので、渋谷でもその格好で練り歩いたりしていたな~。
    どこかのタイミングで何代目かの主将がコッソリ処分されていると思いますが、いい思い出です。